2022年10月16日礼拝 音声有 説教「わたしは彼らの神となる。」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 黙示録 Revelation 11:15~17
さ ん び Opening Praise 「マジェスティ Majesty」
さ ん び Praise 「詩篇73:21-24」(教会福音讃美歌194番)
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 412番「主とともに歩む」
聖書朗読 Scripture Reading 創世記Genesis 17:1~14
聖書の話 Sermon 「わたしは彼らの神となる。」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 122番「主イエスの死なれた」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

説教「わたしは彼らの神となる。」

 

子どもたち、ちょっとこんな事を想像してみてください。例えば、もし今日の司会者が「本日の説教は黒田雅裕牧師に取り次いでいただきます」といった後で、私が講壇にたったら、どうでしょうか?「え?!どういうこと?マークさん、名前変えたの?」と思いますよね?実は、もし私が日本人になろうとしたら、私の今の名前「Mark Stefan Bocanegra」を、日本人っぽい名前ー例えば、「黒田雅裕」(この名前はただの思いつきです)ーのような名前に変えることができます。そして、もし私が名前を漢字に変えたら、「あ!マークはもうアメリカ人ではなく、日本人になったんだ!」と思いますよね。このように名前というのは、自分を表すものであって、もし、名前を変えるとしたら、それは自分の中で何かが変わったということを意味していることでもあります。

 

今日の聖書の話は、アブラムの名前が変わる話です。子どもたち、自分が生まれたときからずっと使っている名前を、自分の親に急に変えられたら、どう思いますか?困っちゃうよね?実は、今日のお話の主人公のアブラムは99年も使っていた名前(アブラム)を、いきなり神様によって変えられて、新しい名前を与えられました。その名前は「アブラハム」です。なぜ神様はアブラムの名前を変えられたのでしょうか?それはアブラムが自分自身が「変わった」ということを忘れそうになったからです。神様はアブラムを「世界の王」にすることを約束されたのです。ですから、その約束を忘れないようにするために、「アブラハム」(=世界の王)という名前を与えられたのです。だから、みんなに覚えてほしいことは、私たちもアブラハムと同じ立場にいます。私たちはいつも自分が「神の子」であることを忘れてしまいます。しかし、みんなに覚えていただきたいことは、イエス様の救いによって、自分たちの名前が変わったかのように、自分自身も変わったこと、「神の子」になったことを忘れないようにしよう!ということです。では、本日の聖書箇所から、覚えていただきたい三つのポイントを分かち合いたいと思います。

 

アブラムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様がアブラム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラム家を永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住まわせること、でした。そして、アブラム家はその約束を信じ、信仰をもってカナンへ向かいました。しかし、約束の地であるカナンに着きはしましたが、彼らの信仰が試されるような厳しい試練が次々と起こりました。しかも、10年以上も待っているのに、アブラムとサライには子どもが与えられませんでした。

 

前回は、創世記16章から、アブラムとサライが神様の約束の成就を待ちくたびれてしまったというお話をしました。神様の約束が成就する気配もなかったので、アブラムとサライは自分たちの手で約束の成就を早めようとしました。サライは、自分の女奴隷ハガルを差し出し、アブラムに後継者を与えようとしました。そして、アブラムとハガルの間にイシュマエルという息子が与えれました。アブラムは喜んでいましたが、神様の約束とご計画に相反することでもあり、アブラムとサライが神様が定められた約束の成就をあきらめ始めたということを表していました。

 

本日の聖書箇所は、イシュマエルが生まれた時から13年後のことです。詳細はあまり書いてありませんが、神様はイシュマエルが誕生した時から、アブラムとサライに何も語られなかったようです。ですから、アブラムは「自分が選んだ手段を神様が許してくださった」と思いながら、イシュマエルが大人になるまで、心の中でいろんな期待を膨らませていたと思います。13年間、霊的に鈍感になって、神様の約束が成就することを期待するのもあきらめ、神様のみこころではなく自分の思うように信仰生活を送っていたアブラムに、神様は17章で、またみことばを直接アブラムに語ってくださいました。「さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。『私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ。』」(17:1)

 

神様がアブラムに最初に発せられことばは、ご自分の名ー「エル・シャダイ」「全能の神」ーでした。自分の神様の「永遠の力と神性」(ロマ1:20参照)を忘れて、好き勝手に信仰生活を歩んできたアブラムに、神様は「私はこの世をすべて創造し、あなたが持っているもの全部を与えたあなたのいのちの王であり、あなたのである。あなたは私のしもべであることを忘れたのか?」と語られました。そして、全能の神はアブラムに「私の前に歩み、全き者であれ。」(17:1)と命じられました。その意味は、人生の一部だけではなく、あなたのすべての面において、「全能の神」のみ前で、忠実に歩むことであり、また、中途半端な忠実さではなく、「全能の神」の完全さにふさわしい「全き者」として歩むことでした。要するに、神様はアブラムの一つの過ち(サライではなくハガルを身ごもらせたこと)について指摘されたのではなく、アブラムの人生全てにおける歩み方と日々の姿勢について指摘されたのです。「全能の神があなたの生涯の王であることを忘れてはいないか」と神様が間接的にアブラムに注意をされたのではないかと、私は思います。つまり、今までの自分勝手な人生を悔い、自分の歩みをすべての面において「神様に従う人生」へと改めるということです。しかし、アブラムの歩みには「悔い改め」のカラーが非常に薄まってしまっていました。

 

それゆえ、神様は、アブラムが今どういう立場に置かれているのかを思い出させるために、もう一度「契約」にかかわる儀式を執り行いました。当時の「契約」は、王と家来の間で結ばれたもので、家来が王に自分の忠誠を誓い、王は従順な家来に祝福と恵みを約束し、不従順な家来には、呪いと裁きについて警告しました。ですから、創世記17章の儀式では、アブラムの王は神様であり、神様のしもべはアブラムなのです。そして、しもべであるアブラムに求められているのは、自分の人生の主導権を「主」に委ね、主のみこころにそって忠実に歩むことでした。創世記17章の儀式は、12章で神様とアブラムが交わした「契約」の延長線上にあり、「王」である神様が、「契約」の内容を確認され、しもべのアブラムに「契約のしるし」を与えられる儀式なのです。

 

しかし、この契約の内容を聞くと、私たちが普通に考える「王としもべ」の関係とは少し違うように感じます。普通は、もしある王がある町を自分の支配下にしたら、その町の民から従順さと税金を求め、条件付きでその民を家来として守り、彼らの繁栄を約束するというのが典型的なパターンです。つまり、家来たちの将来の幸福は、家来の歩み方にかかっているのです。しかし、それとは違い、王である神様とアブラムの「契約」は、王である神様が、条件なしで一方的に想像を絶するような恵みをアブラムに約束され、神様ご自身が責任をもってその約束を果たされると宣言するのです。「わたしは、あなたを大いに増やす。」(17:2)「わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(17:5)「わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。」(17:6)「わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」(17:7)「わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。」(17:8)

 

そして、ここで約束されているのは、先ほど説明した創世記12:1-3の約束と全く同じような内容です。①アブラム家を「王家」にすること、②アブラム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラム家を永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住まわせること、でした。「世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられた」(ローマ4:13)と、新約聖書に要約されています。つまり、アブラムの子孫は多くの国民を支配する「世界の王」になり、アブラムはその子孫の「父」になるということです。何の肩書きもなく、一人の子どもしかおらず、田舎で天幕生活を送っていた99歳の遊牧民がそのようになるということは、想像を絶する恵みだと思います。

 

しかし、アブラムがこの約束をはじめて聞いたときから、もうすでに24年経っています。(私のクリスチャン歴の約2倍です!)約束を頂いたときからいろいろありましたが、自分の人生が神様の約束の成就に近づいたという証拠も、気配も、変化も全くありません。「またその話か。(ため息)」とアブラムは思ったかもしれません。神様はアブラムがそのような心境になっていたことをご存知だったと思います。当時の文化では、このような契約の儀式の際、家来が新しい王に忠誠を誓ったあと、王との新しい関係、自分の新しいアイデンティティーを記念するために、王が家来に新しい名前を与えるのです(2列王4:17参照)。ですから、神様はアブラムに新しい名前を与えられたのです。「あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。」(17:5)アブラハムは「多くの国民の父」という意味なのですが、神様が一方的に、たったの一言で、アブラムに新しい名前を与えられたように、アブラムを「多くの国民の父」(アブラハム)にすると約束されているのです。アブラム自身が変化を感じたかどうかは全く関係ありませんでした。神様の約束が変わらない限り、アブラムの名前が変えられたように、古いアブラムから、すでに世界の相続人であるアブラハムに変わったということを、神様が宣言されたのです。

 

アブラハムが神様の恵みを受けるために必要なことは、ただ信仰をもって受けるだけでした。しかし、神様の一方的な恵みを受けることによって、「エルシャダイ」である「全能の神」がアブラハムの「神様」、アブラハムの生涯の「王」となったのです。ですから、アブラハムは、そのような膨大な恵みを頂いたゆえに、「全能の神」を仰ぎ見て、自分の「主」としてすぐにひれ伏したのです(17:3)。

 

そして、神様は17:9-14で、しもべであるアブラハムに「『契約のしるし』を自分の家族に与えなさい」と命じられました。その「契約のしるし」とは割礼のことでした。カナンの地域では、男の子が大人になるときの通過儀礼として、割礼を施していましたが、メソポタミアのウルで育ったアブラハムは無割礼でしたし、幼児に割礼を施すという儀式はそもそもありませんでした。なぜそのようなしるしを命じられたのでしょうか?割礼には、大きく言いますと、三つの意味があります。①神の民の印、②民の責任、③呪いの忠告です。この三つの意味を通して、神様は、アブラハム家に、彼らは「主のもの」であることを教えてくださいました。

 

まず、割礼は、「契約のしるし」であり、「見えない」契約または関係を、見える形にするものです。(割礼に似ている、新約の契約のしるしは、洗礼です。)例えば、結婚指輪は、見えない結婚の誓約または結婚関係を見える形にする「結婚の契約のしるし」とも言えます。割礼を受けた者は、目では見ることができない「主の恵みの契約」に入れられ、神様の愛と恵みと守りを受けることができ、自分は「主に愛されたもの」であることがわかります。そして、「契約のしるし」が子どもたちに与えられた意味は、アブラハムが頂く、想像を絶する恵と愛は、自分の子孫にも約束されるということです。

 

そして、神様が約束された恵みを受ける者が「主のもの」であるなら、自分の身体、家族、財産、人生「主のもの」なのです。ですから、神様から割礼という「契約のしるし」を自分と自分の子どもに施すという命令を受けたとき、アブラハムは拒むことができませんでした。なぜなら、神様の恵みを受けた者として、自分の身体、自分の息子、自分のいのちを主に捧げる責任があったからです。そして、要らない包皮を切り捨てるという行為は、「神様を忠実に従い愛することができるために、心のいらない頑なさや罪を切りすてる」という意味なのです(申命記10:16, 30:6参照)。ですから、割礼を行うということは、「主のもの」として、すべてを尽くして、すべて(身体、家族、財産など)をささげながら、家族とともに、忠実に神様のこと愛するということなのです。

 

最後に、割礼は、神様の呪いの忠告でもありました。「契約のしるし」を持たない人は、切り捨てられた包皮のように、「自分の民から断ち切られなければならない。」(17:14)という意味です。つまり、膨大な恵みを頂いた家族は、家族として「主のもの」、「神の民」として歩まなければなりません。しかし、「主のもの」としての「アイデンティティー」、「神の民」としての歩み方を拒むのなら、神様はその民を「神の民」から切り離し、「恵み」は与えないと忠告されます。

 

ですから、アブラハムに問われているのは、神様の膨大な恵みをいただいた「主のもの」として歩むか、歩まないかということなのです。21世紀の日本に生きるクリスチャンとして、覚えていただきたいことを三つに絞りました。

 

最初に覚えていただきたいのは、神様の恵みを受けた者は、たとえ変化が感じられなくても、新しい「名」が与えられているということです。

 

クリスチャンになるとき、または、イエス様を信じるとき、あまり変化を感じられないこともあります。成人したときや結婚したときと同じような感じかもしれません。18歳になったとき、または、結婚届を提出したとき、自分では変化を感じないかもしれませんが、その瞬間、あなたのアイデンティティーは大きく変わります。私たちが信仰を告白するとき、または、クリスチャンとして歩むとき、普段とあまり変わらないように感じるかもしれませんが、私たちはアブラハムと同じように、神様から「新しい名前」が与えられ、新しく造られた者となったのです。イエス様を信じるとき、私たちは、「神の子」、イエス様の「花嫁」、イエス様の「共同相続人」となります。私たちは、天の御座の右の座に座る「御国を受け継ぐ者」、アブラハムと同じように「世界の相続人」となるのです。私たちは、父、子、聖霊の御名によって、洗礼を受けて、三位一体の王家に入ることができるのです。クリスチャンになったばかりでも、幼児洗礼を受けただけでまだ何もわからない契約の子どもであっても、長い信仰生活を送って霊的に鈍感になっていたとしても、神様の御力によって、私たちに新しい「名」が与えられていることは変わりません。そして、自分の新しい名前と自分の現状にあまりのギャップを感じたとしても、神様はイエス様の十字架と復活によって、あなたの名前ゆえに約束されている恵みを必ず与えることを保証してくださいました。自分の名前が変わっているように感じられなくても、神様の恵みを受けた者として自分の人生が大きく変わったことを認め、そのことを覚える必要があります。

 

次に覚えていただきたいのは、神様の恵みを受けた者の身体、生涯、家族は、自分のものではなく、主のものであるということです

 

イエス様を信じて、神様から新しい「アイデンティティー」を頂いたなら、そのアイデンティティーを与えてくださった神様が私たちの人生の主導権を持っておられるということです。アブラムが「私は『世界の王』になりたいから、自分の名前をアブラハムに変えよう」と自分で名前を決めたのではありません。神様もアブラハムに新しい名前を提案したわけでもありません。神様が「アブラハム、もし良かったら、都合のいい時に、ぜひ割礼してみてください。そして、難しくなければ、子どもにも」というふうにも命じられませんでした。そして、アブラハムも「神様、ごめんなさい。私、99歳だし、近くに病院とか痛み止めとかないし、割礼はちょっと…あ、それに、イシュマエルに割礼を押し付けたくないので、彼の判断に任せます。」とも答えませんでした。

 

感謝なことに、新約時代になって私たちは割礼を受ける必要はありませんが、私たちは、新約の「契約のしるし」である洗礼を受けた者であり、アブラハム以上に神様の恵みを受けた者たちです。ですから、私たちの身体、生涯、家族は、自分のものではなく、主のものであることはなおさらのことです。私たちは自分の身体、時間、お金、財産、教育、キャリア、友人関係、結婚関係、家族関係などを、「自分のもの」と「主のもの」と分けて考えるときはないでしょうか?残念ながら、アブラムとサライは分けて考えてしまいました。「救いは神様の領域なんだけど、プライベートは自由に決めてもいいでしょ」と思ってしまい、神様のみこころを聞かず、アブラムとサライはハガルとの姦淫を許してしまったのです。私たちにも、主の支配下に委ねていないものがないでしょうか?

 

この箇所で特に焦点が当てられているのは、私たちの子どもたちです。神様は「契約のしるしを自分の子どもたちに与えなさい」とはっきりと命令されました。なぜなら、自分の子どもは、のものだからです。神様は「わたしは彼らの神となる」と宣言されました。ですから、子どもの身体、魂、時間、お金、財産、教育、キャリア、友人関係、結婚関係、家族関係など、「主のもの」であるのはなおさらのことです。神様から見ると、信仰継承は、契約の子どもたちが自分たちで選べる「習い事」ではなく、「主のもの」として欠かせない「義務教育」なのです。私と妻にとって、また、子どもを持っているクリスチャンにとっても、このポイントは非常に難しいことだと思います。しかし、ここで私たちに問われているのは、自分の子どもも神様からの膨大な恵みを頂いていると信じているのであれば、自分の子どもも「主のもの」であると信じますか?

 

最後に覚えていただきたいのは、神様の恵みを受けた者は、無割礼のままで受けたということです。

 

割礼を施す究極の意味は、「神様に忠実に従い愛するために、心のいらない頑なさや罪を切りすてる」ということです。つまり、「霊的に割礼された歩み」とは、心を尽くし、いのちを尽くし、私たちの神様を愛し従う歩みのことです(申命30:6、ローマ2:25-29参照)。そのような歩み方をするために、私たちはいろんなことを犠牲にし、神様にささげなければなりません。

 

しかし、忘れていけないのは、アブラムも、私たちも、私たちの子どもたちも無割礼のままーつまり、神様を心を尽くして愛さないままー神様の恵みを頂きました。

(アブラハム)は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(ローマ4:11–12)

つまり、私たちもアブラハムと同じように、主に心を尽くして愛していなかったとき(ローマ4:4-5参照)、私たちも「新しい名前」、「契約のしるし」、神様の救いの恵みを受けました。それは、私たちが神様の恵みを受けるにふさわしい者であったからではなく、イエス様が私たちに必要な「義」を与えてくださり、神様がイエス様の義のゆえに、私たちに「霊的に割礼された完璧な義人」という名前をくださったのです。それだけではなく、罪人として私たちは切り捨てなければならなかったのですが、イエス様が私たちの代わりに十字架の上で、神様に切り捨てられ、私たちは赦しの恵みをいただくことができたのです(コロサイ2:11-12参照)。イエス様が私たちのためにすべてを尽くしてくださったからこそ、私たちは「主のもの」になれたのです。ですから、「主のもの」として私たちが犠牲とするものは、イエス様の命がけの犠牲と比べることはできません。感謝と平安をもって、自分の生涯と自分の家族を「主が贖われたイエス様のもの」として主に委ねましょう。