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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 107篇23~31節 |
さ ん び | Opening Praise | 「こころに感謝を持ちながら」 |
さ ん び | Praise | 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌438番「川のような平安が」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | ヨナ書 Jonah 1:1~17 |
聖書の話 | Sermon | 「主は嵐を用いて何をなさるのか」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イェスだけにある」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教 「主は嵐を用いて何をなさるのか」
「嵐」と聞くと、皆さんは何か思い出しますか。私は令和元年房総半島台風を思い出します。それが過ぎた後でも、新型コロナウィルス感染症の「嵐」が始まりました。他の激しい「波」や「嵐」と言える経験が多くあるかもしれません。仕事、家庭事情、受験勉強の「嵐」なども私たちを襲ってきているかもしれません。嵐は怖いですね。子どもも大人も恐れると思います。神様はそれをも用いることができるのでしょうか。
今日の話は文字通り、「嵐」と「波」が登場人物を取り巻くエピソードです。それはただの偶然や不幸ではなく、天地を創造された神様が用いられて、登場人物を取り扱うシーンです。私たちも、過去をどう受け止め、さらにこれからやってくることをどう受け止めるかは、神様をどう見るかによります。神様は非情な運命を下さる方なのか。「もしかしたら」答えてくださる、忙しい上司のような方なのか。悪意ある意地悪な方なのか。または、厳しい基準で審判し、祝福と刑罰を処する裁判官か。それとも、嵐をも用いて、私たちの必要また罪を明らかにしながら助けの道をも差し出す救い主なのか。
ヨナは預言者でありながら、人を救いたいという神様の愛の心を受け入れること、またそれを人に伝えることが嫌であった人物です。しかし、神様は彼を通して、多くの異邦人に働きかけてくださいます。ヨナ書1章の全体をまとめると、まず主がヨナを召し、ヨナが反応する場面(3節まで)、ヨナと船の水夫たちに対して神様が働きかけるやりとり(4~15節)、そして神様がそれぞれの人々を導かれた結果(16・17節)があります。この流れを見てから、聖書の神様が私たちを「嵐」の中に置かれる際のために、二つの適用の質問をしたいと思います。
ヨナ書がいつ、だれに向けて書かれたかについて、はっきりした答えが出ていません。しかし、イスラエル王国、あるいはユダヤ王国の人々のために最初に書かれたでしょう。また、寓話なのか歴史書なのか他のジャンルなのかも議論されますが、素晴らしく、面白く書かれた歴史書であると私は理解しています。このように話が始まります。まことの神様がヨナに命令を下さいます。1~2節「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
アミタイの子ヨナは列王記第二にも登場します。彼は後でガリラヤと呼ばれるようになったイスラエル王国北部からの預言者でした。有名な預言者エリシャの後の時代に生き、偶像礼拝まみれのイスラエル王国で神様のことばを伝えていたでしょう。列王記第二の14章23節によると、ヤロブアム二世がイスラエルを治めた時代に、イスラエル王国は大きく領土を広げると予言したのがこのヨナでした。彼はきっと、イスラエル愛国者、あるいは国粋主義者だったでしょう。
そのヨナに、「大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ」と主が命じられます。ニネベとは、古代アッシリア帝国の中心の都市でした。残酷な方法で多くの国を制覇した歴史のある国でした。ヨナはニネベに向かって、その「悪」を指摘し災いを警告する、という難しい召しを受けています。
しかし、3節でヨナは指示どおり「立って」から、どんどん神様を避けてニネベから逃げようとします。彼にとって、ニネベは憎い敵、神様の警告すら受けるに値しない人の町だったでしょう。イスラエルまたユダヤの人はもちろん、自分たちがまことの神に愛されているという特権を理解していました。しかし、神様の存在とすばらしさを世界に示すもう一つの責任をほとんど忘れ、あるいは無視してしまいました。ヨナもそうでした。彼は神様の導きと逆方向で、「主の御顔を避けて」、イスラエルの港町のヤッファへ「下り」ました。ちなみに、この1章の原文で3回、ヨナが下ったと言い、その残念さを強調します。「主の御顔を避けて…逃れようと」するのとは、なんと罪人らしい、惨めな行為でしょうか。自分たちを創造され支えてくださる主の愛を受けられる、祝福のところ(民数記6:22-24参照)から逃げ去ろうとすることは人間の疑いと反抗の深さを物語ります。
ヤッファでヨナはタルシシュ行きの船に乗り込みます。タルシシュは地中海の西方、多分スペインにあったと考えられています。ちなみに、地中海の航海名人と言えば、海の神々を拝む異邦人のフェニキア人でした。何ヶ月間もの旅を覚悟して、異邦人に囲まれながらの生活を受け入れて、ヨナは高い船賃を払って、乗り込みます。
しかし、神様は、船に乗ったヨナの計画を覆し、さらに、異邦人の水夫たちに働きかけます。
4節 ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
主が大風を送られる結果、熟練した水夫たちが怯えるほどの嵐に巻き込まれます。お手上げの状態になって、5節で「恐れて、それぞれ自分の神に向かって叫」ぶが、助けが来ません。さらに必死になり、海に積荷を「投げ捨て」ます。ところが、嵐は止みません。ヨナはどうでしょうか。5~6節でヨナの行為と水夫の行為を比較してみてください。水夫たちは神々に助けを求めて、自分で何とかしようとしています。一方、ヨナは「船底に下りていて、横になってぐっすり寝入って」何も気にしていません!そこで船長がヨナを見つけると「お前、寝たりして…」と思って、苛立ちます。起こして、「もしかすると」乗客の神に助けてもらえるかもしれないと淡い希望を語ります。神様の慈しみへその期待を抱いて祈りを求めただけでも、皮肉なことに預言者のヨナに良い模範を示します。
しかし、波風が絶えません。そこで、水夫たちは言い合います。7節「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」水夫たちの場合、神々を怒らせた人を見つけて対処方法を知ろうと思って、くじを用います。おそらく、賽子(さいころ)のようなくじを投げたと考えられます。偶然のようなことは彼らにとって、神から情報を得る占いだったかもしれませんが、箴言16章33節に「くじは膝に投げられるが、 そのすべての決定は主から来る」とあります。偶然の嵐も、偶然のくじも、実はないのです。ヨナ書1章7節によると「そのくじはヨナに当たった。」
8節で水夫たちがヨナを問いただします。「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」さらに、9・10節では、
ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。」人々は非常に恐れて、彼に「何ということをしたのか」と言った。人々は、ヨナが彼らに告げたことによって、彼が主の御顔を避けて逃れようとしていることを知ったからである。
ヨナは自分の民族も言いますが、自分の神に焦点を当てながら自己紹介をします。「私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です」とは、もちろん、おもに海の神を拝んでいたフェニキア人と違って、全世界を創造された「天の神=ヤハウェ」を指します。ヨナの堂々とした偽善に、水夫たちも私たちも驚くかもしれません。「主を恐れる者です」と口で言いながら、主から逃げている、反抗的な者だと行動が伝えます。
水夫たちは5節で嵐の中で「恐れた」が、今度は「非常に」恐れるのです。真の神様を恐れることには至っていませんが、嵐が神様によって起こされたと知って、もっと深い恐怖を抱きます。11節によると、ヨナが嵐の鎮め方を教えてくれると期待します。本来、ここでヨナがイスラエルのヤハウェの恵みを信じて、悔い改め、とりなしの祈りをささげたら良かったでしょう。しかし、ヨナは皆と一緒に陸に戻り、ニネベへ行くより、死んだほうが好いと思っていることが、彼の指示から分かります。
12節「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」
他の人のために命を捨てる方法ですばらしいと一見思えるかもしれませんが、同時にこれはヨナが自分の考えを貫こうとして選んだ「諦め」です。自分は死んでもいいから神様の恵みを求めない、そしてニネベに行かない!と自分について諦めて、水夫たちにこの救済手段を教えます。神様に助けを求めるのは恥ずかしい、悔しいと思ったのでしょう。13節によると水夫たちは逆に奮い立って、もう一度、自力で助かろうと一生懸命に漕ぎます。しかし、ついに疲れ果てます。まことの神様の恵みにより頼むしかないと漸く認めざるを得ません。そして、異邦人の水夫たちは初めて、イスラエルの神に向かって叫んで、祈ってみます。
14〜15節 「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。咎なき者の血の報いを、私たちの上に下さないでください。主よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」 こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。
すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。
ヨナを海に投げ込むことは彼を殺すこと同然だと理解して、水夫たちが赦しを願い求めます。そして、ヤハウェの主権を告白して、ヨナを海に投げ込んで、答えを頂きます。主の力とあわれみが、凪によって明らかにされます。
このエピソードの終わりに、神様が水夫たちとヨナそれぞれをどのような結論に導かれるかを見ましょう。事実、最初から神様が彼らに働きかけて導いておられましたが、1章16と17節でその結果がはっきり見えます。
16節「人々は非常に主を恐れ…た」5節で嵐に恐れて、10節で「非常に恐れた」水夫たちは今度、「非常に主を恐れ」ます。神様が嵐を通して、彼らをご自分の方へ段階的に導いてくださいました。そして水夫たちは「主にいけにえを献げて誓願を立てた。」要するに、礼拝して、この後も礼拝を続けると誓いを立てます。こうして、神様は逃亡中のヨナが「たまたま」出会った異邦人を礼拝へ導いてくださいました。
また、17節がヨナの行方を伝えます。「主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」主はあわれみを持って、ヨナが溺れ死なないために魚を備えてくださいました。反抗的な偽善者のヨナを見捨てず、ヨナ書の最後まで、取り扱い続けてくださいます。
このように、神様は嵐を用いて、ヨナの反抗と偽善的な証しさえも用いて、神様と無縁のように思われた異邦人と巡り合わせて、彼らを信仰へ導いてくださいました。さらに、ヨナ自身も守ってくださり、続く話でも神様が導き続けられます。
さて、ヨナ書1章の皮肉と驚きの話を基に、二つの適用の質問をしたいと思います。
- 一つ目は、「自分の『嵐』の中で、あなたは神様にどう向いていますか」です。私たちは人生で悲しいこと、苦しいことを経験したことがあると思います。これからも経験するでしょう。そういう「嵐」の中で強くなって、喜びをもって忍耐できるのか、苦い思いで屈服してしまうのか、考えてみましょう。念のため言っておきますが、人生の「嵐」は必ずしも私たちの過ちに対する処罰や「祟り」とは限りません。人の罪の結果でもあるかもしれませんが、神様が良いことをももたらすと計画なさったことでもあります。私たちはそれをどう捉えて、反応するのでしょうか。
今日の話で見たように、人間が危険や辛いことに直面すると、色々な反応をします。水夫たちのように、他の人の助けを求めたり、必死に努力したり、「これはだれのせいだ!?」と問題を引き起こした人を責めたりすることがあります。ヨナのように、自分のせいだと分かっていることについて赦しを求めず、ただ傲慢に苦しみ通そうとすることもあります。
このどれも私は確かにしたことがあります。問題があると人の助けを拒んで自分で何とかしようとして、祈る前に頑張ることがあります。自分で直せるはずだと思い込んでいるからです。もし自分のせいで苦しみに会ったら、「ちゃんとできたはずなのに!」と悔しがります。言い換えると、自分が主人公かのように、「嵐」に反応する訳です。自分が自分を救えるはずかのように思ってしまいがちです。
しかし、神様は、恵みを受け入れない者には救いがないとおっしゃいます。ヤコブ4章6節でこう書いてあります。「神は高ぶる者には敵対し、/へりくだった者には恵みを与える。」そこで、へりくだって、自分が主人公ではないと認めて、神様を呼び求める必要があります。
②それは、二つ目の質問に繋がります。「あなたの『嵐』の中で、神様があなたにどう向いておられますか」です。ヨナ書1章の話の登場人物はそれぞれ興味深いのですが、主人公はヨナでも水夫でもありません。私たちの人生の主人公も、私たちではありません。私たちの人生と私たちの「嵐」の話の主人公は神様です。神様が全てを用いて、支配して、配剤してくださるのです。神様は愛を受けるはずのなさそうな人を、信仰と悔い改めへと導いてくださるお方です。水夫のような人でもヨナのような人でも、神様の取り扱いのみによって救われます。
そして、忘れてはいけないのは、人間にとって何よりも必要な取り扱いとは、ヨナが避けようとした「主の御顔」のみもとへ戻されることです。私たちがまことの神様と永遠の平和のうちにいられるために、私たちの神様に対する反抗への処罰の取り扱い、そして神様の近くに住む資格の保証がどうしても必要です。イエス・キリストがそれを備えてくださいました。イエス様は、父なる神様のみこころに従い、イスラエルから海へ、船の底へ、でなく、天から地へ、そしてさらに十字架の苦しみと死へ、と下ってくださいました。不誠実な預言者ヨナと違って、真っ直ぐに神様のことばをイスラエル人にも異邦人にも語ってくださいました。
もっと言うなら、ヨナと水夫たちを恵みの嵐で捕らえた神様がイエス様を刑罰の嵐の中へ遣わしてくださいました。イエス様は自分の罪のために死んだのではなく、私たちの罪のために、きよい身代わりとして、御神の裁きの嵐を十字架の上で鎮めてくださいました。それを基に、イエス・キリストに信頼を置く者は、イエス様とのその繋がりだけの故に、神様によって歓迎されて、御顔が輝くところで認められています。何も私たちをキリストの義と愛から引き離せません。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(ローマ8:31-33)
嵐を用いて、反抗的なイスラエル人と必死な異邦人とを取り扱われた主なる神様がイエス様を通して、私たちを同じように取り扱ってくださいます。あなたは最近、神様のほうに向いていますか。人生の大変な「波」がやってくるとき、神様に向いていますか。イエス様に信頼する者に対して、神様は恵みの御顔を向けておられます。まだ信じていない人にも働きかけ、招いておられます。主はあなたの人生にある嵐を用いて、何をなさるのでしょうか。主イエスを通して与えられる希望を持って、へりくだって、祈り求めましょう。