2022年11月6日礼拝 音声有 説教 「アブラハムとサラの『笑う』信仰」

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礼拝式順

前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」
開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。

賛美 Praise 教会福音讃美歌391番「主と主のことばに」

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記 Genesis 17:15~18:15
聖書の話  「アブラハムとサラの『笑う』信仰」
マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌184番「朝日が昇り」 1~3節

聖晩餐式 Communion   マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷        マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちに想像してほしいことがあります。あるところに2軒の農家がありました。その農家のあった地域では、25年間、雨が一回も降ったことがなく、二人の農夫たちは非常に困っていました。しかし、神様が二人の農夫にこうおっしゃいました。「あなた方を大いに祝福します。そして、来年の今頃、あなた方が蒔いた種によって、あなた方の畑は今までなかった収穫が与えられます。」一人の農夫が堂々とこう言いました。「神様、何て素晴らしい約束でしょう!あなたはすべての事がおできになる方です!あなたの御名を褒めたたえます!そして、あなたの約束を信じます」。しかし、その農夫は、一粒の種も蒔きませんでした。むしろ、違う仕事をして、お金を稼ぎました。もう一人の農夫は神様の約束を聞いて、笑ってしまいました。「神様、そんなことはありえないでしょう。25年もあなたの祝福を待ってました。何回も種を蒔きました。もう、種は一にぎりしか残っていません。もう勘弁してください。私たちに違う祝福を与えてください。野菜の収穫よりも、直接お金をもらったほうが正直助かります。」と、ブーブー文句を言い続けます。しかし、神様は「いいえ。私は約束します。来年の今頃、あなたが蒔いた種によって、あなたの畑には今までなかった収穫が与えられます。」とおっしゃいました。その農夫は文句を言いながら、「しょうがないな、もう。絶対に雨なんか降らないでしょ。ああ、もう本当に面倒くさいな」とぶつぶつ言いながらも、畑を耕し、最後の一握りの種を蒔きました。

それでは、子どもたちに質問です。どっちの農夫さんに祝福が与えられたと思いますか?どっちの農夫さんに信仰があったでしょうか?文句は言わなかったけど、種を蒔かなかった一人目の農夫さんか、ブーブー文句を言いながらも種を蒔いた二人目の農夫さんか?どちらでしょうか?実は、それは二人目の農夫さんなんですよ。今日の話は、アブラハムとサラの信仰についてですが、実は、アブラハムとサラの信仰は、2人目の農夫みたいな信仰でした。アブラハムとサラは神様に対していろいろ文句を言いました。神様に対して、人に対して、いろんな罪を犯します。アブラハムとサラのことばと行動から見ても、2人は神様の約束を確信していなかったことがわかります。しかし、アブラハムとサラに、確信はありませんでしたが、からし種のような信仰がありました。いろいろとブーブー文句を言ってはいましたが、神様の約束に自分たちのすべてをかけたのです。しかし、彼らを救ったのは、彼らの信仰ではありませんでしたし、彼らの行動でもありませんでした。彼らを救ったのは、約束通りに、雨を与え、祝福を与えてくださった神様なのです。今日の話をゆっくり確認しながら、三つのポイントから、アブラハムとサラの信仰と、神様の約束の力強さを見ていきたいと思います。

 

アブラハムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様はアブラハム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラハム家を「王家」にすること、②アブラハム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラハム家を永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住まわせること、でした。そして、それらの祝福は、アブラハムとサラの間に生まれる子孫を通して与えられると約束されていました。しかし、10年以上も待っていたアブラハムとサラでしたが、子どもは与えられませんでした。そのため、二人は神様の約束の成就を待ちくたびれてしまい、自分たちの手で約束の成就を早めようとしたのです。サラは、自分の女奴隷ハガルを差し出し、アブラハムに後継者を与えようとしました。そして、アブラハムとハガルの間にイシュマエルという息子が与えられました。アブラハムは喜んでいましたが、前回の話では、喜んでいたアブラハムに、神様が再び現れ、アブラハムを注意し、約束の内容を確認し、その約束を忘れないように二つのことをアブラハム家に与えられました。一つは、アブラハムに新しい名前を与え、もう一つは「契約のしるし」としてアブラハム家に割礼をお与えになったのです。

その話の続きが今日の聖書箇所です。神様の約束を忘れないように、神様はサライに新しい名前「サラ」を与えてくださいました。「サライ」と「サラ」の名前の意味は、全く同じで、「姫」という意味ですが、神様が新しく名前を与えられたことによって、非常に深い意味となりました。もともとサライはウルの貴族に生まれたので「姫」という名前を頂いたという説が多いです。つまり、人間の手段と富みによって「姫」になった「サライ」とも言えます。しかし、「サラ」は神様の御力と恵みによって「姫」になり、「国々の母となり、もろもろの民の王たち」(17:16)の母になるということでした。要するに、「世界の王」となるアブラハムとともに、サラは神様の約束によって「世界の王妃」になるという新しいアイデンティティーが与えられたのです。

しかし、この名前を聞いて、アブラハムはこう反応します。「アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。『百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。』」(創世記17:17)アブラハムの反応は理解できます。神様が偉大な力の持ち主であることを認めており、また、何回もその御力によって救われ支えられて来たからこそ、アブラハムは神様の前で敬虔にひれ伏すのです。しかし、25年前にこの約束をはじめて聞いたアブラハムと、25年間、何回も言われ続けてきたこの約束を聞いて、笑ってしまったアブラハムの「笑い」は違います。この笑いは、嬉しさと驚きだけではなく、25年の間に溜まってきた疲れ、疑問、不信仰、苦々しさ、怒りが入り混じった笑いだと言えます。それゆえ、「アブラハム」という新しい名前と「契約のしるし」がアブラハム家に与えられたにもかかわらず、神様がサラに約束の説明をしてくださっている途中で、アブラハムは神様の話をさえぎってしまいます。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」(創世記17:18)と。どういう思いでそう言ったかはわかりませんが、はっきり言えることは、アブラハムは、90歳のサラが産むかもしれない、まだ見ぬ子を待つよりも、目の前にいる13歳のイシュマエルに希望を置きたかったのだと思います。アブラハムの心の内では、神様のみことばと、この世の「現実主義」が戦っていたと思います。しかし、忍耐深い神様は、愛をもってアブラハムに真実を語り始められました。

まず、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ」(17:19)と神様はおっしゃいます。ハガルはあなたの「姫」でもなく、神様が選ばれた「世界の王妃」でもありません。世界の王になる「アブラハム」の妻は、姫である「サラ」なのです。ですから、あなたの王家を引き継ぐ息子は、女奴隷の子、イシュマエルではなく、あなたの妻サラの息子なのです。そして、神様はこうおっしゃいます。「あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」(17:19)「イサク」の意味は「彼は笑う」ですが、複数の意味が含まれています。大きく分けると、二つの意味があります。一つは、アブラハムが笑ったとしても、神様はご自分の約束を守られるということです。もう一つは、祝福を得るための人間の巧妙な策力(イシュマエル)に対して神様が笑われ、ハガルの子イシュマエルではなく、サラの子イサクの上に「祝福の笑い」を与えてくださるということです。しかし、神様はイシュマエルが神様の特別な祝福の対象ではなくても、地上での祝福を彼に与えられます。「必ず、わたしは彼を祝福し、子孫を富ませ、大いに増やす。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民とする。」(創世記17:20)イシュマエルに与えられる祝福とイサクに与えられる祝福は、同じように聞こえますが、その違いは、イシュマエルが単にこの世の王国を引き継ぐのに比べ、イサクは神様の契約に基づく天にある「神の王国」と「永遠のいのち」を引き継ぐと言うことです(17:21ガラテヤ3:9、ヘブル11:14-16参照)。そして、それだけではなく、具体的に、「わたしがわたしの契約を立てるのは、サラが来年の今ごろあなたに産むイサクとの間にである。」そう約束された神様は、アブラハムのもとから上って行かれました。

アブラハムは、神様のことばを聞いた後、ため息を吐いたかもしれません。「私とサラの状況が全く変わらない中で、神様はいつも同じ約束をされる…」と心の中でつぶやいたかもしれません。しかし、そのような不平が心の中にあったとしても、アブラハムは、99歳である自分やイシュマエルに、そして、アブラハム家の全ての男奴隷に「契約のしるし」である割礼を施したのです。つまり、不信仰を抱えながらも信仰をもって、イシュマエルに希望を置かずに、神様の約束に期待し、自分のいのち、イシュマエルのいのち、自分の家のものを神様に委ねたのです。冒頭のたとえ話の文句を言い続けた農夫さんと同じように、25年間も雨が降らなかった畑に最後の一握りの種を蒔いたのです。これがアブラハムの信仰でした。

18章の話は、サラの信仰の様子が創世記の中ではじめて表されます。神様と御使いたちがアブラハムに現れ、アブラハム家は速やかに、謙虚に、忠実に、惜しげもなく、「三人の人」をもてなします。「食べ物(パン)を少し持って参ります」(18:5)と言いながら、アブラハムは大騒ぎで、24リットルぐらいの上等な小麦粉でパン菓子を作り、凝乳(ぎょうにゅう)と牛乳を集め、羊かヤギ一頭で十分にも関わらわず、高価でおいしそうな子牛一頭を取って、神様と御使いたちのために料理したのです。もう大御馳走です。アブラハムとサラが自分の神様と隣を愛していた証拠でもあります(ヘブル13:1-2参照)。

しかし、神様を愛していたとしても、「人間」というものは、シンプルで純粋な生き物ではありません。御使いたちは、突然アブラハムにこう聞きました。「あなたの妻サラはどこにいますか。」アブラハムは、「天幕の中におります。」と答えます。「すると、そのうちの一人が『わたし(神様)は来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています』」と言いました。「サラは、その人のうしろの、天幕の入り口で聞いて」いました。(創世記18:10)

そして、ここで創世記の筆者が非常に重要な背景を読者に分かち合ってくれています。「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっていて、サラには女の月のものがもう止まっていた。」(創世記18:11)サラはこれまで子どもができなかったのですが、「女の月のもの」が止まってしまったというのです。つまり、0.01%の可能性で子どもが生まれるかもしれないということが、完全に0%になったということなのです。そして、サラの正直な気持ちもはっきりと書いてあります。私は久しぶりにこの一節を読んで、サラのいいツッコミに、私も笑ってしまいました。「サラは心の中で笑って、こう言った。『年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。』」(創世記18:12)つまり、身体的に子どもが産めないのは一つのことですが、「年老いてしまった100歳の主人と90歳の私が夫婦生活を「楽しめない」中で、どのように「妊活」するんですか?!30代の若々しい、エネルギッシュな体のように機能してませんよ!」とサラが素直に思って、御使いの発言にツッコミを入れて、心の中で笑ってしまうのです。もちろん、単なる照れ隠しのジョークだったかもしれませんし、喜びと驚きもあったかもしれませんが、アブラハムと同じように、25年間も溜まってた疲れ、疑問、不信仰、苦々しさ、怒り、不満も入り混じってただろうと思います。

しかし、そこで、御使いではなく、主ご自身がアブラハムに問いかけます。

「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:13)サラがこれを聞いたら、「え?!私は声に出してないのに?!」と思いながら、びっくり仰天したと思います。神様は御使いが語ったことを、全く同じように語ってくださいましたが、一文を加えられました。「主にとって不可能なことがあるだろうか。」(18:14)サラは自分の不信仰を素直に認めることなく、質問にもはっきり答えず、「私は笑っていません」と打ち消して言い訳をします。神様の前では、心の中で笑ったか、声に出して笑ったかなど全く関係ありません。神様にとっては、サラが不可能だと思って笑ったのかどうかが問題だったのです。ですから、「いや、確かにあなたは笑った」 と、サラの不信仰を愛もって指摘されました(創世記18:15)。

 

神様とアブラハム夫妻のやり取りから何を学べばいいでしょうか?ここから、三つのポイントを覚えていただきたいです。まず、一つ目に覚えていただきたいことは、「私たちは、神様の約束を聞いても、不信仰によって心の中で笑ってしまっていることに気づいていないかもしれない」ということです。

アブラハムとサラは、忠実に神様のみことばに沿って歩んできました。25年もたっても、エジプトやウルには戻りませんでしたし、何もないカナンで神様の約束の成就を待ち望んでいました。神様が現れた時に、神様のみことばに忠実に聞き従い、神様の御使いたちに惜しげもなく もてなしをしました。もちろん、「ハガル計画」という自分たちの策略で約束の成就を早めようとしたのですが、その裏には神様の約束に対する期待が大きかったからでした。しかし、年月が経つと、様々な試練や葛藤がある中で、アブラハムとサラの信仰の中に、カビのように、不満、疑い、苦々しさ、焦り、諦め、不信仰などが気づかないうちに生えてきたとも言えます。そして、自分たちがもう身体的に子どもが産めないと悟ったときから、神様の約束を成就できそうなイシュマエルにだけしか希望がないと、ちょっとずつ、徐々に、何年間もかけて、人間的に考えるようになっていました。サタンの最も効果的な誘惑の方法は、誘惑されていることをそもそも気づいていない誘惑です。そして、神様は相変わらず「わたしはサラを祝福し、サラによって必ずあなたに男の子を与える。」とおっしゃる時に、アブラハムとサラの心の中に蓄積してきた不信仰が、笑いを通して、ついに出てしまったのです。その「笑い」にはいろんなものが入り混じっていましたが、その根っこは神様が指摘されたた不信仰なのです。「主にとって不可能なことがあるだろうか。」(18:14)

イエス様の12人の弟子たちにも、同じような心の中に潜んでいる不信仰があったかもしれません。イエス様が何回も「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と、弟子たちに教えられたとき、弟子たちは忠実に聞いていたかもしれませんが、「先生がまた意味の分からない、現実味のない話をしている。十字架刑?よみがえり?いや、それはないでしょう」と聞き流していたと思います。そして、イエス様がまた同じように教えられていた時に、ペテロは、悪気なく、「イエスをわきにお連れして、いさめ始め」ました。しかし、神様はペテロに向かって、叱ってこう言われました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 (マルコ8:31-33)つまり、私たちは大声で言わないで、いろんな言い方をしますが、根本的には心の中で「なぜそのようにしたのですか?私だったらそうしません」と思ってしまいます。アブラハムとサラと同じように、私たちも、特に辛い試練のとき、全く希望のない時、心の中に潜んでいた不信仰が沸き上がり、人間の思いで神様のご計画を「愚か」として見なしてしまうときがあります。しかし、忘れていけないのは、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」ということです(1コリ1:25)。

 

二つ目に覚えていただきたいことは、「神様がくださる笑いは、私たちの疑いの笑いを打ち消すほど、力強い救いである」ということです。アブラハムとサラに何回も笑われたり、疑われても、また、彼らが何回も違う方法で祝福を得ようとしても、神様は揺るぐことなく、怒らず、忍耐深く、笑い流されたと思います。そして、笑い流された結果、神様はアブラハムとサラの罪と不信仰、信仰の薄さ、不平とつぶやきをご覧にならないで、ご自分の約束されたことばだけを見られたのです。「わたしはアブラハムとサラを祝福する。わたしは2人にイサク(彼は笑う)という息子を与える。私はこの息子、イサクを通して、彼らに「笑い」を与える。アブラハムとサラが何を言おうが、私は約束した通りにそうする。」そして、1年後に、実際にサラは身ごもって、無事「笑いの子」イサクが与えられました。そして、サラは笑って、こう告白します。「神は私に笑い(イサク)を下さいました。」(創世記21:6)つまり、皮肉なことに、彼らが疑い拒んで、バカにしていた恵みが、彼らの救いになったのです。神様の約束が成就されることによって、アブラハムとサラの苦々しい笑いは、心を満たすような笑いに変えられたのです。

新約の時代にいる私たちも同じような立場にいると思います。私たちが弟子たちやこの世の者たちと同じように、イエス様の十字架、復活、そして、これから来る永遠のいのちについて聞いて笑ったとしても、神様は、私たちが発した言動や心の中の思いを一切見られず、全く揺るぐことなく、変わらずに、忍耐深く、ご自分の恵みのみによって、ご自分の約束を守って、救ってくださるのです。私たちの忠実さが私たちの救いではありません。神様が私たちの不忠実さをご覧になっても尚、誠実に、変わらずに、私たちに永遠のいのちを与える「笑いの子」―イエス様ーを与えてくださったこと、それが私たちの救いなのです。

 

最後に覚えていただきたいことは、「強い信仰」というのは聖く、美しいものではなく、泥臭く罪臭いものだということです。

私も含め多くの人は、神様とアブラハム夫妻、特にサラとのやりとりを見ると、彼らは、不信仰だと決めつけてしまいます。しかし、新約聖書を読んでいくと、彼らの信仰は非常に強いものであったと描かれています。例えば、ローマ4:19-21では、彼らの信仰はこのように描写されています。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした不信仰になって神の約束を疑うようなことはなくかえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

長年、私がこの箇所を読む度に、「神様の御前で笑ったアブラハムとサラの信仰が弱まらず、約束してくださった方を真実な方と考えたって?パウロは同じ創世記を読んだのかな?」と、いつも思っていましたが、今回やっと腑に落ちました。

アブラハムとサラに奇跡的に「イサク」が与えられましたが、皆さんもご存知のように、こどもは、雨のように空から降ってくる訳ではありません。身ごもるためには「種蒔き」をしなければなりません。25年も神様の約束の成就を待って、子どものために、種を蒔き続けてきたのに、1ミリも芽生えることはありませんでした。しかも、アブラハムとサラのからだは「すでに死んだも同然」(ローマ4:19)でした。サラが言ったように、100歳と90歳の身体には何の「楽しみ」もありませんでした。しかし、アブラハムとサラは不満や不安、苦々しさや不信仰から罪深くも笑ってしまったとしても、神様の約束を信じて、からし種のような信仰で、種蒔きをしたのです。そして、ヘブル書11:12に書いてあるように、「こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。」

私たちの信仰も、アブラハムとサラの信仰と同じです。私たちの歩みを見ると「死んだも同然」で罪によって腐っているのです。自分の犯し続けてきたとんでもない罪を振り返ったら、どう考えても私たちは、永遠のいのち、神の愛に値するものではありません。そして、神様に従うことは自分たちにとって楽しみばかりではなく、苦しみや痛みを覚えるときもあります。弟子たちと同じように、「だれが救われることができるでしょう」と疑うときがあります(マルコ10:26)。そして、イエスは私たちを「じっと見て言われ」ます。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(マルコ10:27)もし私たちがからし種のような信仰を持っていれば、私たちも、アブラハムとサラと同じように、イエス様に救われ、大きく祝福されるのです(ローマ4:22-25)。自分の罪や自分の信仰と行いを見ないで、神様の誠実さを見て、すべてを神様に委ねましょう。