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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヘブル人への手紙 Hebrews 4:14~16 |
さ ん び | Opening Praise | 「主の十字架に〜The Wonderful Cross」 |
さ ん び | Praise | 「見上げよう神の御座〜Behold Our God」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌「158番 小羊をばほめたたえよ!」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記 Genesis 18:16~33 |
聖書の話 | Sermon | 「全地をさばくお方との対話」マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)「全地をさばくお方との対話」
子供たちに質問です!イエス様のことをよく「主」または「王様」と呼びますが、「王様」のお仕事は何だと思いますか?私は経験したことがありませんが、アメリカやカナダでは、子どもたちが自分の親の仕事を見学できる日があるそうです。自分の親がどんな仕事をしているのか、また、どんなことが大変なのかを学んで、自分が将来何になりたいのかを考える日でもあるそうです。今日の聖書箇所は、アブラハムという人が、神様の「王様」としてのお仕事を詳しく見学しにいく日のようなお話と言えるかもしれません。
アブラハムは「王様」としての神様の仕事を見て、正義の味方になることと、敵を憐れむことを同時にすることは難しいということを学びました。人を助け守るためには、悪い人は、すぐに退治しないといけませんが、悪い人にも「ごめんなさい」と言うチャンスを与えなければなりません。しかし、悪い人をすぐ退治しなかったら、人を守ることはできません。けれども、もう少し時間をおいたら、悪い人も「ごめんなさい」と言うかもしれませんし、その人を助けることもできます。「こどものための信仰問答」はこのように「王様」のお仕事をまとめています。「Q.68.キリストはどうして王なのですか。A. キリストは私たちを支配し守ってくれるからです。」「Q.71.なぜ、あなたはキリストを王として必要なのですか。A. 私は弱いもので助けてくれる人がいないからです。」神の民であっても、悪い人であっても、人間は弱い者で、良い王様の助けが必要です。イエス様は、憐れみをもって正義を果たされる、完全なる良き王様なのです。もし弱い悪人がいれば、悪い人も守り、彼らに悔い改めるチャンスを与え、神の民になるチャンスを与えます。しかし、同時に神様は、弱い民を悪から守りながらも、最終的には悔い改めない悪人をやっつけ、ご自分の民を守られます。今日のアブラハムの聖書箇所を通して、皆さんに覚えていただきたいことを三つお話ししたいと思います。
アブラハムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様はアブラハム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラハム家を「王家」にすること、②アブラハム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラハム家を永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住まわせること、でした。そして、それらの祝福は、アブラハムとサラの間に生まれる子孫を通して与えられると約束されていました。そして、アブラハムとサラは約束の地へ行って、24年も待ったのですが、一人の子どもも、土地さえも与えられませんでした。しかし、17章では、神様が二人の御使いと共にアブラハムとサラの前に現れ、彼らのためにアブラム家がもてなしをしたことが書かれています。そして、神様はアブラハムに神様の約束に対して確信を持たせるために、アブラハム家があらゆる国々を治める「王家」になることを忘れないように、またみことばを彼らに語られました。
本日の聖書箇所はその話の続きです。神様と二人の御使いが「地上」に来られた主な理由は、アブラハムにみことばを語ることではありませんでした。「その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろした。」 (18:16)と書いてあります。 この「見下ろす」ということばのニュアンスは、「崖からソドムを見下ろす」ではなくて、全地をさばかれる全知全能の神様が、天の王座から見下ろして、「さばく」という意味が含まれています。詩篇102:19-20のことばの意味と似ています。「主は その聖なるいと高き所から見下ろし 天から地の上に目を注がれました。捕らわれ人のうめきを聞き 死に定められた者たちを解き放つために。」ですから、神様と二人の御使いが来られた理由は、全能の神が「正義と公正(さばき)」である「主の道」(創世記18:19)を果たすためです。「正義と公正(さばき)」は具体的に何でしょうか?詩篇103:6では、このような定義があります。「主は 義とさばきを すべての虐げられている人々のために行われる。 主は ご自分の道をモーセに そのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。」つまり、神様は、王として悪をさばかれるために天の御座から「立ち上がられ」、エジプトの奴隷であるイスラエル人のような圧制されている弱い人々を助け、守り、救うために、この世に下られたのです。そして、二人の御使いは―モーセのように―ファラオのような圧制者に神様の正義のさばきを果たす、弱者に自由を与える「神様の使者」とも言えます。そして、創世記18章で天から下られた神様は、神様の御名を持っておられる「人」のような(18:1参照)存在なので、新約時代にいる私たちには、そのお方が御父ではなく、御父の裁きを果たされる御子であるイエス様であると言えるのです。
そして、アブラハムは、イエス様と二人の御使いをお見送りするために、彼らとソドムへ向かって一緒に行きましたが(18:16)、アブラハムは彼らのミッションの内容を全く知りませんでした。お父さんの仕事の内容を全く知らない子どもがお父さんの仕事場へ見学しに行くような場面ですね。ですから、イエス様はアブラハムが「正義とさばき」を果たす御父のミッションに加わることを考えて、王様の仕事の内容がアブラハムにもわかるようにされたのです。なぜなら、神様がアブラハムを「選び出された」理由は、アブラハムを「王家」にし、アブラハムを通して「強く大いなる国民」を建て、地のすべての国民を祝福し治める「王国」にすることだからでした(18:18)。しかし、これは「アブラハム王国」ではなく、「神の王国」であり、「主の道を守り、正義と公正を行う」(18:19)王国とすることでした。アブラハムが「神の王国」の人々の「父」として歩むのであれば、彼は「主の道」を学ぶ必要がありました。それ故、師匠であられるイエス様が、見習いであるアブラハムに、「主の道」を果たす王がどのようなことをするのかを教えられたのです。ソドムとゴモラの「さばき」は、アブラハムの最初のレッスンとも言えます。
ですから、主であるイエス様はソドムとゴモラの「ミッションファイル」を開いて、御父から頂いたミッションの詳細をはじめてアブラハムに分かち合われます。“主は言われた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重い。」”(創世記18:20)この1節を理解しないと、アブラハムの執り成しの意味もわからないと思います。「ソドムとゴモラの叫び」とは何でしょうか?「ソドムとゴモラの罪」とは具体的に何だったのでしょうか?
まず、「ソドムとゴモラの叫び」は、その町で虐げられた弱者達の悲鳴です。しかし、この叫びと嘆きは、普通の叫びと嘆きとは違い、「非常に大きい」悲鳴であり、神様が無視されることができないほど、ひどかったということでした。大洪水の前に、「地上に人の悪が増大」し、「暴虐で満ち」、人々が「自分の道を乱し」ていたことをご覧になった神様は人間の悪、そして、被害者の悲鳴を無視することがおできにならなかったと同じようなことでした(創世記6:5, 11-12)。
「ソドムとゴモラの罪」は具体的に何だったのでしょうか?創世記には具体的に書いてありませんが、エゼキエル16:49-50には、次のように書いてあります。
「だが、あなたの妹ソドムの咎はこのようだった。彼女とその娘たちは高慢で、飽食で、安逸を貪り、乏しい人や貧しい人に援助をしなかった。 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌み嫌うべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼女たちを取り除いた。」
冷酷に暴虐を犯し、弱者を圧制し、乏しい人や貧しい人を見殺しにするような人の根っこにあるのは、「傲慢」と「高ぶり」なのです。エジプトの王パロ、バビロンの王ネブカドネツァル、20世紀と21世紀の独裁者も同じです。なぜそのように高ぶることができるのでしょうか?「飽食(ほうしょく)をして、安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)っていた」からです。要するに、食べたいだけ食べることができたので、無意識に自分は「無敵」だと思い始めたのです。そして、自分と家族との気楽な生活だけを求めていたので、他人に与える痛みや害などはどうでもよく、考えもしませんでした。ですから、平気で恥ずかしげもなく、堂々と神様の前で忌み嫌うべきことを行っていたのです。19章でその様を具体的に見ることになりますが、忘れていけないのは、ソドムとゴモラの罪が現実離れした、ただの幻のケーススタディーではないということです。聖書の全体を読むと、ソドムとゴモラの罪は、この世の罪を表し、私たちの現状を表している「象徴」であることがわかります。
ソドムとゴモラがこのような罪を犯していたとしても、義なる神様はすぐにはさばかれません。「わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおり、彼らが滅ぼし尽くされるべきかどうかを、見て確かめたい」(18:21)とおっしゃいました。全知全能の神様は、ソドムとゴモラが犯したことをすべてご存知です。しかし、何の取り調べもなく、被告人の言い分を何も聞かず、悔い改めのチャンスも与えず、ソドムとゴモラに刑罰を与えるというなら、正義を果たす王としては失格です。ですから、神様は憐れみをもって、ソドムとゴモラまで下られ、ご自身でご覧になって確かめられたのです。
しかし、アブラハムはソドムとゴモラの罪をよく知っています。自分の甥っ子、ロトが住んでいる町です。「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」(創13:10)町でしたから、ソドムとゴモラの「傲慢さ」と「高ぶり」をよく知っていました。アブラハムがソドム王国とソドム人を北同盟の支配から救ったにもかかわらず、ソドム王のベラはアブラハムの神様やアブラハムに感謝もしませんでした。それどころか、自分の権力を再建するために、お金で、アブラハムの忠誠を買おうとしたのです。アブラハムの神様の力が、自分たちの力やソドムの富み、ソドムの権力より勝っていることを自分たちの目で確認し、自分たちの身体で体験したにも関わらず、ソドムは神様の前で謙遜になりませんでした。「安逸(あんいつ)を貪(むさぼ)る」ことを止めませんでした。弱者を苦しめ、彼らの嘆きを無視し、自分勝手な歩みを悔い改めませんでした。ソドムの「人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりして」いて(ルカ17:28)、悔い改めようともしませんでした。アブラハムはソドム王国が裁かれるべき町であることと、裁かなければ暴虐と圧制が続いていくことを、否定できませんでした。
イエス様と二人の御使いは、ソドムの方へ進んで行きましたが、見習いのアブラハムはまだ主の前に立っいて、師匠にを怖れつつも、率直に質問をします。
「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。 もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。 正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」(創世記18:23-25)
現代の町と全く違って、古代の町は多くの人を支える技術やインフラなどがないのでので、古代の町の人口は百人ぐらいが平均であると言われているそうです(アモス5:3参照)。もし町の25%-50%が、「正しい者」―すなわち、神様の救いのみわざを見て、悔い改めた人―であれば、全ての人をさばいたら、それは「不義」なさばきになってしまいます。ですから、師匠であるイエス様は、もちろん、アブラハムの祈りを聞いて、それをお許しになりました。
しかし、そう聞いた、アブラハムはもう少し考えたと思います。「しかし、ソドムはソドムだ。私の甥っ子以外に、正しい者はいないし、50人もいないと思う。もし50人正しい者がいてソドムが救われるのなら、最低何人いればソドムは救われるのか?」と具体的に考え始めたのだと思います。そこが「主の道」を守る王の難しいところだとも言えます。神様であるイエス様とアブラハムの対話は、王様に「値引き交渉」を懇願するような対話だと捉える人も何人かいますが、先ほど、説明したように、これは師匠が見習いに対して、すぐに答えを言わないで、「主の道」を守る王がどのように考えるべきかを教える対話なのだと思います。
アブラハムは、謙遜さをもって、何回も聞きます。「45人はどうでしょうか?」「滅ぼしはしない。」「40人はどうですか?」「滅ぼしはしない。」「30人はどうでしょうか?」「そうはしない。」「20人はどうですか?」「そうはしない。」そして、「10人はどうですか?」「滅ぼしはしない」と神様は答えられますが、その後、「主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家へ帰って行った。」(18:33)と、聖書にあります。つまり、師匠が見習いに最終的な答えを下したのです。「10人以下はない」とはっきりとイエス様は答えられ、すでにご自分のお考えを前もって引いておられたことがわかります。つまり、義なる王様は憐れみ深い王様ではありますが、憐れみにも「限度」があるということです。正義を果たさない王とは、弱者の悲鳴を無視し、悔い改めない罪人の暴虐を黙認する王のことです。そして、その王は、憐れみのない王様です。アブラハムは、状況を把握していない中でも正義と不義の微妙のラインのギリギリまで近づいていたことをよく理解していたと、私は思います。ですから、アブラハムは「私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます。」「わが主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください」と何回も繰り返して、イエス様に謙虚に尋ねたのです。そして、19章からイエス様がどのように正義を果たされるのかが明らかになります。
この創世記18章の出来事は、古代の面白い物語のように思われがちですが、実は、ソドムとゴモラの話は、今までの創世記の話の中で、 最も私たちに「近い」話かもしれません。ですから、その三つの理由を今日覚えていただきたいです。
まず、「ソドムとゴモラの罪」は、私たちが思う以上に自分たちに最も近い罪かもしれないということです。
クリスチャンは「ソドムとゴモラ」と聞くと、聖書の中で神様に直接敵対した、最も罪深く、とんでもない罪を犯した民であり、「神様に最も裁かれるべき民」であるというイメージがあります。そして、それは、聖書的で正しい結論だと言えます。ネタバレになるかもしれませんが、19章は、ソドムとゴモラのすべての男性たちが、何の罪悪感も、恥ずかしさもなく、二人の御使いたちを強姦しようとする話です。ですから、ソドムとゴモラのあり方を聞くと、私とはほど遠いものだから、「自分は大丈夫」だと安心するかもしれません。しかし、神様が指摘された「ソドムとゴモラの罪」とは、強姦のことではありません。同性愛のことでもありません。暴虐でもありません。偶像崇拝でもありません。それはただの症状に過ぎないのです。「ソドムとゴモラの罪」は、自分の富みや飽食に酔ってしまい、人を傷つける罪を犯しつづけ、自分の犯した罪による被害者の悲鳴が天まで響いたとしても全く関心をもたず、自分が欲っすることだけを貪り、神様からいろんな恵みと助けを頂いているにもかかわらず感謝もせず、恥ずかしげもなく、堂々と、神様の御前で忌み嫌うべきことを犯したというものです。そして「俺を止めて見ろ。愛の神だろ。オレに手は出さないんだろ」と傲慢に挑発するのです。つまり、「ソドムとゴモラの罪」の本質は、想像を絶するほどのとんでもない「頑なさ」なのです。
そして、聖書を読んでいくと、「ソドムとゴモラの罪」は、いろんな人たちに適用されます。偶像崇拝するエジプト、アシリア、バビロンという残酷な王国に適用されますが、聖書の中で最もよく適用されるのは、毎週礼拝に行き、みことばに従う、道徳的な神の民たちでした。実は、イエス様は、イエス様の奇跡を見た町々をご覧になって、「あなたたちはソドムとゴモラ以上に罪深い!」とおっしゃいました(マタイ11:23参照)。それは、イエス様が神の民の前に現れても、民は「頑な」になって悔い改めなかったからです。しかし、この「ソドムとゴモラの罪」は、全人類、全世界の根本的な罪であり、関東に於いても罪でもあり、千葉市に於いても罪でもあり、「私」自身の罪でもあるのです。どんなにみことばを聞いて、色々な恵みを神様から頂いたとしても、私たちは、何の罪悪感も感じることなく堂々と罪を犯し続けるという頑なな「傲慢さ」を持っているのです。私たちは「ソドムとゴモラ」の罪と同じ罪を犯してきたことを認めますか?
もし、認めるなら、次に覚えていただきたい点は、全地をさばくお方は、私たちが思う以上に近くにおられるということです。
ソドムとゴモラが、「全地をさばかれるお方」が裁かれることを恐れていなかった理由は、正義を果たされる神様が相当憐れまれたからだとも言えます。そして、ロシアの侵入のゆえにウクライナが全世界に助けを求めているように、ソドムとゴモラの罪のゆえに、毎日弱者の悲鳴と訴えが天まで上っていました。しかし、神様の答えは、「あともう少し待つことにしよう。ソドムとゴモラが悔い改めるかもしれない。」全地を裁かれる神様が「私たちの悔い改め」を待たれるということは、聖なる神様にとっては、最も難しいことかもしれません。今までのソドムとゴモラの致命的な過ちは、ローマ2:3-4の問いかけに書いてあります。「あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。」神様の憐れみといつくしみ深さにも「限度」があります。それは、神様が「正義と公正」を果たされる神様だからです。そして、「主の道」を守るためにイエス様がソドムとゴモラに下られたように、最後の日には、イエス様ご自身がこの世に下られるのです。ですから、私たちは、その日が来るまで正義の王様の憐れみに甘えず、悔い改め続けましょう。アブラハムのように、「私はちりや灰にすぎません!どうかお怒りにならないでください!憐れんでください!」と、へりくだりましょう。
そして、聖書にはいつも良い知らせがあります。最後に覚えていただきたい点は、「全地を裁かれる」イエス様は、私たちが思う以上に、アブラハムに近い仲介者だということです。
アブラハムが熱心にソドムとゴモラのために執り成していた後、去って行かれたイエス様を見ると、御父の正義を果たす王様は非常に冷たく、愛のない裁判官のようだという印象を受けるかもしれません。しかし、「あなたはソドムとゴモラ以上に罪を犯している!」(マタイ11:21-24参照)とおっしゃるイエス様は、その後、群衆に何をおっしゃったと思いますか?「あなたたちは地獄行きだ!」とおっしゃったと思いますか?その箇所の続きは以下の通りです。
「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています… すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 (マタイ11:27–30)
イエス様は、アブラハム以上に熱心に私たちの救いを求めておられます!しかし、見習いのアブラハムと師匠のイエス様には大きな違いがあります。アブラハムは、ソドムとゴモラを助けることはできませんでした。なぜなら、彼らの罪の罰を取り除くことができないからです。ですから、私は「こどものための信仰問答」問71が大好きです。「Q.71.なぜ、あなたはキリストを王として必要なのですか。A. 私は弱いもので助けてくれる人がいないからです。」罪人である私たちの刑罰、という重荷を取り除ける人はいません。しかし、イエス様は、2000年前に、罪人を裁くためではなく、罪人を助けるためにこの世に下られた「正義の王様」です。イエス様は、私たちの代わりに、「ソドムとゴモラの罪」を犯した罪人として、神様の刑罰ー十字架という地獄ーを受けるためにこの世に下られたのです。正義を果たしながら、罪人を救える人は、「主の道」を守る正義の王様、イエス様だけです。自分達の弱さを認め、傲慢なソドムとゴモラの道を悔い改めて主であるイエス様により頼みましょう。お祈りします。