2022年11月27日礼拝 説教「神様に立ち返る機会」 音声有

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロの手紙第一 I Peter 2:24~25
さ ん び Opening Praise 「主の十字架に〜The Wonderful Cross」
さ ん び Praise 「キリストがすべて〜All I Have Is Christ」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌14番「とうとき主のみ救いよ」
聖書朗読 Scripture Reading ヨナ書 Jonah 3:1~10
聖書の話 Sermon 「神様に立ち返る機会」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌319番「主イエスのみ声は罪ある者を」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)「神様に立ち返る機会」

 

あなたにとって、「悔い改め」(repentance)は難しそうですか。何かをただ止めなさいと、厳しい神様に言われているように感じやすいかもしれません。子どもに「楽しい泥団子遊びをやめなさい」とか、大人に「食べるのをやめなさい」と言うような、辛くて苦痛なことに聞こえるかもしれません。歯を食いしばって、後悔して、改善しなさいと言われている感じがするかもしれません。辛いから「ごめんね」と軽く済ませたい、あるいは、もう無視したい、スルーしたいと思うかもしれません。

しかし、聖書が教える悔い改めは、私たちが神様との交わりを楽しむために必須です。神様が悔い改めなさいと言われる際、私たちが「立ち返る」ことを求めておられます。 父なる神様は、有名な「放蕩息子」のたとえ話にあるように、親不孝で頑固な、自己中の子どもが家に帰って来るのを大喜びする父親です。今日の話で見ますように、悔い改めはいのちと助けに繋がるものです。

ヨナ書のシリーズの3回目になりますが、この箇所が悔い改めた人々の事例を示します。この箇所の流れを掴んでから、悔い改めの意味をもう少し掘り下げて、イエス・キリストにあって悔い改めがどんなに豊かなものになったかを考えたいと思います。

 

まず、3章1〜4節でヨナが主人公であり、神様の命令にやっと従います。1・2節にはこう書いてあります。「再びヨナに次のようなのことばがあった。『立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。』」(1〜2節)神様は3章初めで1章初めと同じ命令を下さいます。そして3節前半で、ヨナはちゃんと、「のことばのとおりに、立ってニネベに行った」のです。彼が地中海の海岸のどこかで魚によって吐き出されたと考えると、現代のイラク内陸にあったニネベまで長い道のりがありましたが、1章のあからさまな反抗と比べて、よい展開です。いちおう、ヨナはまともな「やり直し」をしています。

3節後半が古代アッシリア帝国の首都ニネベについて補足を挟みますので、ここで歴史的背景を補足します。アッシリア帝国はかつて、残酷な方法で周りの国を脅して征服し、記念碑で残酷さを自慢するような帝国でした。しかし、ヨナが活躍した時期は紀元前8世紀前半から半ばまでの頃、アッシリア帝国が危機に直面していた時期でした。飢饉、震災や紛争が起きる時期を通っていました。だから、ニネベの住民は、神々の裁きを経験していると思って、ヨナのメッセージを聞き入れるような姿勢がすでに与えられていたかもしれません。

3節はニネベが歩き回るのに三日かかる「非常に大きな都であった」と言っています。これが街の壁の外の郊外を含むかもしれませんが、とにかく当時の中近東にとっては大きな都市だったのです。そして、「非常に大きな都であった」は「神様にとって大きな・大切な都であった」とも訳すことができる、曖昧な表現です。神様はニネベの市民の罪の大きさだけでなく、その人の多さにも目を留めて、都を大切にして、あわれんでくださいました。だからこそ、ヨナを遣わしてくださっていました。

さて、4節でヨナは神様からの知らせを布告し始めます。「ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。『あと四十日すると、ニネベは滅びる。』」刑罰の宣言のようには聞こえたかもしれませんが、実は、この警告は希望をも差し出しました。具体的に、猶予を与え、方向転換をする機会を与えました。さらに、「滅びる」ということばはそもそも、曖昧なことばでした。原文では、新改訳聖書の注からも分かりますように、日本語の「覆される」に近い語の動詞が使われています。日本語の「覆す」には「国家や組織を打ち倒す」という意味合いは確かにありますが、「逆さまの状態に…する」や「意見や考え方などを根本から変える」という用い方もあります(『明鏡国語辞典 第二版』496-497頁)。ヨナが使ったことばはその同じ、二通りの意味合いのある表現でした。

それに気づいたのか、5節以降でニネベの人々が驚くべき反応をします。町全体で、熱心な悔い改めを始めます。なぜそんなに素早く、徹底的に応答したのか、想像する他はありません。ヨナが奇跡的に魚か鯨の中を数日の間を過ごした、ほぼ奇跡的な出来事からの跡があったかもしれません。例えば、吐き出された後の皮膚の状態、匂いを想像してみると、ニネベの人が彼を見て驚いて、超自然的な経験をしたと認めたかもしれません。そこまで、聖書は具体的に書いていません。

しかし、聖書は彼らの応答を具体的に描きます。「ニネベの人々は神を信じ…た。」イスラエルの神を自分の神として認めて、偶像を全て捨てたとは書かれていません。しかし、神から遣わされた外国の預言者ヨナのことばは天から、神から来たのだと真剣に受け止めました。

子どもたちは親の言うことばはもちろん、聞こえてきますね。ただ、聞いて分かっても「ごめんなさい。分かりました」と言えるかどうかは別の問題ですね。ニネベ人は、ヨナの警告を真摯に聞いて、神様からのことばとして受け入れました。そして「断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」すごい行動をとった訳です。1日の内の一食でも食べないと辛いです。わざわざ、粗布、やぎの毛からできた、着心地の悪い布の服を着るのは想像しにくいことです。でも、そこの住民たちは、「滅びたくないから、ヨナの神の前で惨めになって、恵みを乞いましょう」と考えていました。5節の反応を一言で言うなら、ニネベの住民は「悔い改め」を行なっていました。

さらに、王もヨナの警告を聞きました。6節で、彼は市民同様に反応します。「王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。」俺は王様だから平気だ、心配しなくてもいい、とは言いません。責任を取ります。立って、良い服を脱ぎ、格好悪く心地悪い服を着て、最後に王座でなく埃だらけの灰に座り込みます。そして、7〜9節で彼は大臣たちと一緒に、市民に布告を出します。

「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

都が生き延びるために、ヨナの神に謝りましょう、ということです。こうして、都は劇的な「悔い改め」を行いました。

最後に、ヨナ書3章10節で焦点はニネベ人から神様に移ります。「神は彼ら〈ニネベ人たち〉の行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」神様は予告していたわざわいを下さなかったのです。ニネベは「滅びないで」残ることができました。

神様が予告されたわざわいをなさらなかったから、預言が成就しなかったのかという疑問はあるかもしれません。実は、主は、エレミヤという預言者のエレミヤ書18章7~8節で、「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す」と仰います。神様は、驚かされて、人間の行動によって振り回されることがありません。神様のご計画の中に問題はありませんでした。人が悔い改めて、主が恵んで滅ぼさないというのは、神様の軌道修正ではなく、元々のご計画に含まれていたことです。人間の側からすると最終決断宣告のように聞こえる神のことばは、実は猶予を与えるあわれみの警告かもしれません。ニネベにとって、そうでした。「ニネベは滅びる」とヨナが思った(願った?)かもしれませんが、最終的にニネベの町が悪い過去の「逆さま」になり、良い方向へ移ろうという意味で「覆され」ました。そして神様は喜んで、わざわいを下されなかったのです。

 

さて、主がヨナを通して、罪深い異邦人のニネベを悔い改めへ導いてくださいました。歴史的に言えば、ニネベの悔い改めは長続きしません。数十年後、アッシリア帝国が再興して、紀元前722年にイスラエルを無情に滅ぼすことになります。考えてみれば、それは、神様がヨナを通してこの都市を救ってくださったから可能になりました。さらに110年ほどが経ち、預言者ナホムの書3章1節で宣告された通りに、ニネベは暴虐に満ちた「流血の町」のまま、滅ぼされました。不思議ですね。ヨナの警告のお陰で、ニネベはしばらく生き長らえ、イスラエルを滅ぼすことができました。そして、ニネベはヨナの警告以前と同じ横暴の罪に戻ってしまい、最終的に滅ぼされました。

ルカの福音書13章5節では、イエス様は「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と警告されました。旧約時代と同じように、現代の人間も悔い改めなければ、滅びます。神様は必ず、正しいことを行われます。先程のナホム書は、ニネベへの宣告の前に、このように始まります。

ナホム1:2~3 はご自分に逆らう者に復讐し、 /敵に対して怒る方。

は怒るのに遅く、力強い方。 決して罰せずにおかれることはない。

神様は刑罰と裁きを含めた、正義なる報酬をお与えになります。神様を拒み続ける者には、神様の怒りを受けて地獄で「滅ぶ」ことになると聖書が厳かに警告します。

しかし、もう一つの道があります。神様に対して悔い改めて、信頼をすると、神との敵対が「逆さま」になり、神様と永遠の平和といのちを楽しむことが可能です。

ニネベ人は限られた情報の警告しか受けなかったのに、また、不完全な悔い改めをしたのに、知識に見合った悔い改めをして、助かりました。そして、イエス・キリストはヨナ書3章の出来事を指して、ご自身の時代の人々の責任の大きさを指摘されました。

ルカ11:32「ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」

要するに、イエス様によると、ご自分の教えと恵みを拒み、イエス様を主として受け入れなかったイスラエル人は、暴力的なニネベと比べて悪かったのです。神様が送られた王なる「人の子」イエス様が、ヨナに勝る神の国を来たらせていたから、神様に立ち返るべきでしたが、そうしなかったからです。彼らに対して、異邦人のニネベ人の反応が模範です。悔い改めの大切な要素が幾つかあります。ニネベ人はヨナ書3章で…

一、神様のことばを預言者ヨナから聞いて理解して、自分たちは悪いことをしていると自覚しました(5節)。

二、神様に赦される希望を抱きました。だからこそ、心地よさを拒んでまで、神のあわれみを「ひたすら神に願い」求めました(5、8節)。半信半疑であっても、王は「神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない」と考えたのです(9節)。

三、思い当たる悪から離れようとしました。「それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ」と実際の改善を求めました(5、7節)。

 

現代を生きる私たちにも、悔い改めが必要です。イエス・キリストの福音には悔い改めを求めます(マルコ1:14~15参照)。しかし、ニネベ人の悔い改めより深く、後の滅びに終わってしまわない、希望と感謝に満ちた悔い改めが可能です。と言うのは、ヨナより偉大なキリストがそのような悔い改めを可能にしました。聖霊なる神様がそれを私たちの現実にしてくださいます。ウェストミンスター小教理問答の第87問目がクリスチャンの「悔い改め」をこのようにまとめます。

生命に至る悔い改めとは、救いの恵みであって、それによって罪人が、罪の自覚キリストにある神の恵みの理解とから、その罪を悲しみ、憎み新しい服従への充分な決意と努力とをもって、罪から神へ立ち帰るのである。(日本キリスト改革派教会訳)

ニネベ人の悔い改めには、この要素はある程度現れましたが、イエス・キリストによって、悔い改めの素晴らしさが新たにされ、大きくなりました。

一、「罪の自覚」が深められました。私たちはヨナの一言でなく、神様のことば(聖書、説教)全体を聞いて、受け入れるように招かれました。神様は王なるイエス様を通して、多くの約束と預言を守ってくださったという証明と保証があります(使徒3:18参照)。聖霊なる神様が罪人に罪深さを示し、感じさせてくださいます。

二、「神の恵みの理解」に革命が起きました。私たちはニネベ人と似たように神様にあわれみを願い求めるかもしれません。しかし、ただ罰を逃れるためではなく、神様の恵みの深さを示していただいた上で立ち返ることができるようにされました。なぜなら、神の子が人間のイエスとなられ、罪なく生きて、死んでくださいました。聖書が教えています。イエス様がその義のご生涯に対して受けるべき祝福が「覆され」、クリスチャンたちに与えられました。そして、クリスチャンたちの受けるべき刑罰が「覆され」、十字架の上でイエス様によって完全に背負われたのです。イエスの義が信じる者に転嫁され、信じる者の罪がイエス様に転嫁されました(第二コリント5:21)。神様が喜んで、イエスに信頼し悔い改める罪人を正しい、きよい者として愛して受け入れてくださるなら、私たちは何を恐れましょうか。

ローマ8:31~32 どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

ですから、クリスチャンは確実な恵みを受け入れて、感謝して悔い改めることができるのです。

三、私たちも、ニネベ人のように、彼ら以上に、罪に気づかされると「罪を…憎み、新しい服従への充分な決意と努力」しましょう。しかし、私たちは、キリストを仰ぎながら、します。主に対する罪の故に、イエス様が十字架上で死なれたと信じると、私たちの罪の醜さがはっきりします。罪を捨てることがますますしやすくなります。

今朝、子供たちに泥団子をやめさせ、大人に食事をやめさせることについて話しましたが、これらのたとえを悔い改めにもっと近いように、情報を補足します。富士山を見上げながら、あなたは泥団子で遊びたいですか。銀座の高級レストランの食卓に着いてから、鞄から家庭ごみを出して、それを食べたいと思いますか。いいえ、私たちは泥団子やごみを手から離して、目の前の絶景、舌鼓を打たせる味を堪能したいですね。イエス様を深く味わえば味わうほど、罪という泥団子やごみから離れたいと思えるように変えられます。

味わい 見つめよ。 /がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

イエス様が罪の赦しのために受けた刑罰の恐ろしさを知って、イエス様ご自身のいつくしみ深さに圧倒されて、罪から離れて、神様との交わりにもっと深く入ろうではありませんか。だからこそ、悔い改める行為の本質は、「罪から神へ立ち帰る」ことです。

 

最後になりますが、クリスチャンの悔い改めでさえも、ニネベ人同様、不十分なものであるかもしれません。例えば、自分について言うなら、聖書の教えを軽んじて、自分の罪を甘くみて楽しむこともあります。また、神様をただの厳しい主人と見做して、恵みを忘れて、立ち返ることをためらう疑い深さもときにあります。しかし、私たちの悔い改めに含まれる罪でさえ、イエス様がご存知です。主イエスはこの罪のためにも死んで、よみがえってくださったのです。そして、父なる神様が放蕩息子の父親のように、私たちの立ち返りを喜んでくださいます。

神様が私たちに、立ち返るようにと、招いておられます。イエス様が再臨される日まで、機会があります(第二ペテロ3:9参照)。ニネベ人は僅かな、裁きの情報しかなくても、期待を抱き、一時的に助かりました。私たちは確実な、永遠のいのちに至る救いの福音をいただいています! 悔い改めるのは嫌だなと思うときがあるかもしれませんが、十字架を覚えて、主イエス・キリストに対する希望と感謝をもって、大胆に悔い改めましょう。