礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。
For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.
礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記 Genesis 19:1~38
聖書の話 「ソドムによる福音」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)「ソドムによる福音」
子どもたち、今日の聖書箇所は少し難しいので、こんなたとえでお話しします。ある日、ロトという男の子がお友だちと楽しく公園で遊んでいました。すると、突然、神様の御使いが現れ、「この罪深い町を津波でさばきます!時間がありません。すぐに私と来なさい!そうでないと、あなたは津波に飲み込まれる!」それを聞いたロトは、どうしようかな〜とちょっと迷いました。「津波は怖いけど、まだやりたいことがいっぱいあるし、津波がくるまでまだ時間があるかもしれない。うーん、嫌だなー」と、ロトは思いました。公園で遊んでいたお友だちは皆、「え?津波?神のさばき?そんなバカバカしいこと信じるの?いいよそんなの。遊ぼう、遊ぼう。その方が楽しいし、もし違っていたら、時間の無駄じゃん。」と言います。しかし、一人のお友だちーアブラハムという名前にしましょうーがすぐに自分が持っているものを置いて、公園で遊び続けているお友だちの方を一回も振り返らず、神様の方へ走って行きました。ロトはアブラハムに「何でそんなに早くついて行けるの?」と聞きます。「え?砂場で泥団子つくるよりも、イエス様と一緒に過ごす方が楽しいんじゃない?今の自分の生活だけを考えて守ろうと頑張ってると、大変なことに神様の津波によって全部失ってしまうんだよ。僕はそのほうが怖いんだ。ロト!イエス様の箱舟が来た!さあ早く乗ろう!」アブラハムの神様に対する愛と希望に引っ張られながら、いろいろな疑いがあったけどロトも神様についていって救われたのです。今日の話はそんなお話です。私たちは神のさばきが来ることを現実として信じなければなりません。しかし、それを信じるきっかけは、頭で信じるか信じないかではないのです。この世界の楽しみよりもイエス様を愛しているか、愛してないか。それが決め手です。そのことを学ぶために、この箇所の流れを確認しながら、覚えていただきたい点を分かち合いたいと思います。
創世記18章では、神様は、いろんな疑問を抱いているアブラハムとサラがその約束を忘れないように、神様は彼らの前に現れ、彼らが強く信じ続けるように、愛を持って彼らを促されました。しかし、神様(イエス様)が地上に下られた主な理由は、アブラハムとサラを励ますためではなく、全地の「最高裁判官」として、ソドムとゴモラという町に対する嘆きの訴えを取り調べ、ソドムとゴモラの「きわめて重い」罪(18:20)に対してさばきを下すかどうかを判断されるためでした。ソドムとゴモラの罪は、様々ありましたが、根っこにあるのは、想像を絶するほどの、とんでもない「頑な傲慢さ」でした。それは、自分が欲っするものだけを貪り、他人に与える痛みや害などはどうでもよく、恥ずかしげもなく、平気で、堂々と神様の前で忌み嫌うべきことを行うという「頑な傲慢さ」です。本日の箇所は、イエス様が「正義とさばき」を果たされる御父のミッションの続きです。
最高裁判官のイエス様は、2人の御使いをソドムへ派遣されました。「主の検事」として御使いたちは取り調べを始めます。そして、ロトは「ソドムの門のところ」に座っていたので、「ロトは彼らを見ると、立ち上がって彼らを迎え、顔を地に付けて伏し拝んだ」(創世記19:1)。そして、そのあと、御使いたちを「ご主人がた」と呼び、すぐに自分の家に招き、彼らをもてなし、彼らのために御馳走を作りました(19:2-3)。この数節を見る限り、ロトは、アブラハムと同じように神様のご臨在を迎え(創世記18:1-8; ヘブル13:2)、アブラハムと同じ信仰を持っていて、同じ神様を拝んでいたことがわかります。
しかし、良い推理小説のように、最初のシーンでもうすでに微妙なヒントによって、何か怪しいことが起こっていることがすぐにわかります。ロトはアブラハムと同じ信仰を持っていましたが、彼は「ソドムの門のところ」に座っていました。それは、彼がソドムの「権力者」になっていたことを意味していました。つまり、ロトと彼の家族はどっぷりとソドムの文化、政治、社会、文明に根づいていたことが明らかで、彼らの霊的な状態を表していました。ソドムの文化、政治、社会、価値観がすべて悪い訳ではありませんが、ロトの罪の傾向が徐々に悪化していたことがわかります。神様の恵みによって、アブラハムもロトもエジプトの圧制から救われ非常に富んだ家族になりましたが、アブラハムとロトは違う道を選びました。アブラハムは、地上の恵みに惹かれてしまったことを悔い改め、自分の富みを手放し、荒野である約束の地で天幕生活を選びました。しかし、ロトは違いました。神様の「約束の地」から少し外れた、エジプトのように潤っているソドムを選び、神様が約束された恵みよりも、地上で味わえる恵を選んだのです。先ほど確認したように、ロトは自分の信仰を今まで保つことができましたが立場を聞くと、沼に少しずつ沈んで行くかのように、気づかないうちに、ロト家はソドムの罪に飲み込まれて行ったのかもしれないという疑問が沸いてきます。
もう一つ怪しいことは、ロトの非常に焦っている姿です。御使いたちはソドムの「広場」に泊ろうとしたのですが、ロトは、御使いたちに「しきりに勧め」、非常に焦って御馳走を作った印象を受けます(19:3)。ロトは御使いたちを何か危険なことから守ろうとしているようです。御使いたちにははっきり言っていませんが、読者は何かあるだろうなとすぐにわかります。彼らは御馳走を食べて、夜遅くまでいい時間を過ごしました。皆が寝ようとする時に、ドアをノックする音がし、ロトがドアを開けると、ソドムの「町の男たち、ソドムの男たちが若い者から年寄りまで」、ロトの家を取り囲んでいました。「すべての人が町の隅々からやって来た」のです(19:4)。そして、彼らはロトに向かって叫びます。「今夜おまえのところにやって来た、あの男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(19:5)「彼らをよく知る」という表現は、肉体関係を求めているということです。これが、ロトが焦っていた理由です。ソドムは「頑な傲慢さ」を持って、堂々と神様が忌み嫌うべきことをやってしまう民でした。そして、「すべての人」が集まっていたということは、ロト家以外にソドムの中に主を恐れる義人はいなかったということです。
そして、この場面を通して、ロトの霊的実態が明らかになります。ロトは神様を信じてはいましたが、ソドムの富み、権力、文化、文明も恋い慕っていたのです。ロトは最初から最後まで、優柔不断でした。最初は大丈夫だったかもしれませんが、最終的に無理がありました。なぜなら、ソドムの文明にはいろんな良いこともありましたが神様が忌み嫌われる頑なな傲慢さを持っていたからです。しかも、ロトはソドムの罪深い傾向を知っていたにもかかかわらず、それを主の御使いから隠そうとし、できるだけ神様とソドムの親しい関係を保とうとしました。けれども、この夜、神様とソドムは真正面からぶつかり合います。ロトにはもう逃げ場がありません。そして、ロトは選択を迫られました。主の御使いを守るべきか、ソドムのとんでもない願いを聞くべきか。白か黒か。グレーゾーンはありません。しかし、ロトは根本的には選びたくないのです。そのため、ロトは、残念ながら、最も愛するべき存在、最も聖く尊い存在である自分の二人の娘を犠牲にして、グレーゾーンにまた隠れようとしたのです。自分の娘の純潔といのちをささげるほどに、神様とソドムの両方を愛そうとしたのです。しかし、皮肉なことに、ロトがどちらも愛そうとしたことによって、ロトは、どちらをも裏切ることになったのです。
ロトが選ぶことができなくても、神様とソドムはロトのために選びます。ロトが何十年もソドムに住み、ソドムのために身をささげたのにもかかわらず、ソドムはロトを「よそ者」として見下し、ロトを裏切り、自分たちの欲を満たすために、2人の娘と2人の御使いたちも、そしてロトをも自分たちの思うようにし、皆殺しにすることを選びました。“しかし、彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そして言った。「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか。さあ、おまえを、あいつらよりもひどい目にあわせてやろう。」彼らはロトのからだに激しく迫り、戸を破ろうと近づいた。”(19:9)
しかし、神様は、ロトに裏切られても彼を裁くことをせず、ロトを救うことを選ばれました。“すると、あの人たちが手を伸ばして、ロトを自分たちのいる家の中に引き入れて、戸を閉めた。 家の戸口にいた者たちは、小さい者から大きい者まで目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけようとする力も萎えた。”(19:10-11)この2節にはソドムの「頑な傲慢さ」がはっきりと書いてあります。もしある人にすべての男性を盲目にする力があると知ったら、普通、すぐに降参しますよね?しかし、ソドムの人たちは、目が見えなくなっても、力が萎えるまで戸口を見つけようとし、神様に敵対し、ロト家を殺そうとしました。ですから、主の検事である御使いたちによる取り調べは、12時間も経たずに、即終了しました。判決は「有罪」で、御使いたちはイエス様のさばきを執行する準備をします(19:13)。
しかし、神様は、驚くほどに、ご自分の約束を誠実に守られる方なので、罪深くとも主を恐れ、神様を信じていたロトを救うことにされました。ロトが、神様が忌み嫌うことを行うほどソドムを恋い慕っていたとしても、また、自分の2人の娘を差し出そうとする最低の父親であっても、神様はロトを憐れんでくださいました。ですから、御使いたちはロトに神様の裁きから逃れる道を用意し、「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄(いおう)が天から降って来て、すべての人を滅ぼしました。」(ルカ17:29)それは、神様の憐れみが足りなかったから、裁かれたのではありません。ノアの箱舟の大洪水と同じように(ルカ17:27-29)、最後の最後までに、頑なに、傲慢に、神様を無視し、人を傷つけ、自分たちの思うように振る舞っていたのです。正義の神様の憐れみにも「限度」があり、ソドムとゴモラの罪の被害者たちの「大きな叫び」(創世記19:13参照)を聞かれた神様は、正義をもってソドムとゴモラを裁かれたのです。
しかし、ロトは救われたので、「めでたし、めでたし」という終わり方ではありません。ロトには信仰はありましたが、ロトの「優柔不断」な罪の傾向と、それによる悲惨な結果はこの箇所にも明らかにされています。神様のさばきが来ると信じたロトは、自分の義理の息子たちを救おうとします。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」(19:14)しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われてしまいます。ロトは、「ソドム文明」を愛し、「ソドムの権力」に憧れ、自分の娘に立派な「ソドム人」という婿を与えましたが、婿たちはロトの信仰を受け継がず、最終的にロトの信仰を見下し、「全地の最高裁判官」であられる神様を嘲りました。そして、救いの手段が与えられたのに、彼らはソドムと滅んでしまいました。
御使いたちは「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘を連れて行きなさい。そうでないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまいます」と「ロトをせき立てて言った」のにもかかわらず(19:15)、ロトは残念そうな顔をしながらも、ためらいました。「やっぱり自分の家財を手放したくない。ひょっとすると、さばきは来ないかもしれない」と怖がって決断できなくなったかもしれません。しかし、神様の恵みによって、御使いたちは、「彼の手と彼の妻の手と、二人の娘の手をつかんで」(19:16)、ソドムから救い出したのです。
ロトは神様から救いを受けましたが、この箇所の結論は、ロトの罪の結果です。ロトがここまでソドムを慕っていて、ロトがここまで優柔不断だったので、いろんな罪を赦してしまい、黙認してしまったために、ロトの家族の信仰生活にとんでもない悪影響を与えてしまったことが明らかになります。神様がソドムとゴモラを裁かれたときに、「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」(19:26)のです。ロトの妻が「振り返った」という動作が裁きの対象になったのではなく、振り返った理由がさばきの対象だったのです。ロトの妻も、神様とともに天幕の下で生きるよりも、ソドムの家財、心地いい生活、飲み食いが好きな民とともに裁かれるほうがましだと思ったのです(ルカ17:31-33参照)。彼女はロトと同じように、または、ロト以上にソドムを慕っていたので、振り返ってしまったのです。それで、神様はロトの妻の欲望に、彼女を引き渡されたのです。
そして、ロトの2人の娘も同じでした。ソドムが裁かれ、残念ながら、ロトと2人の娘はアブラハムのもとへ、神様の約束の地へ戻りませんでした(19:30)。神様のさばきを恐れ、神様の約束を確信できないまま、ロト家は洞窟に引きこもってしまいました。そして、自分の父に強制的に洞窟に閉じ込められた2人の娘は、何を求めたでしょうか?神様が約束された恵みでしょうか?いいえ。自分たちの父親が愛していた「富みと名誉」のことしか考えていませんでした。ですから、ソドムで育った2人の娘は、ソドムの乱暴なやり方を見倣って、とんでもない手段で自分たちの「富みと名誉」を確保するために、あの洞窟で、父親と自分たちの子を生んだのです。そして、その2人の娘の子孫は、ソドムの「頑な傲慢さで神に敵対する」傾向を持つモアブ人とアモン人になりました。要するに、ロトの妻、ロトの娘たち、ロトの子孫の運命は、ロトの罪の傾向によって堕落してしまったのです。
この創世記19章の悲惨で醜い話から何が学べるでしょうか?実は、この話には私たちが信じている「キリストにある福音」を信じることの必要性がはっきりと見られます。それを見るために、三つの比較を通して、皆さんに覚えていただきたいポイントを3つ挙げたいと思います。
まず、一つ目に比較したいのは、ソドム人とロトです。ソドム人とロトを比較すると、何が学べるでしょうか?「私たちは自分の義によって救われるのではなく、不敬虔な者を義と認める方を信じることによって義と認められる」ということです。
正直にいうと、3人の娘の父親として、ソドムとの関係を守るために自分の娘を差し出したロトを主にある兄弟として、ましてや「義人」として受け入れることは私にとって非常に難しいことです。しかし、新約聖書を読むと、ロトが「正しい人」ー義人でありーキリストにある兄弟であることが宣言されています(2ペテロ2:6-7参照)。私はペテロに訴えたいです。「ペテロ先生、私たちは同じ創世記を読んでいるのでしょうか?ロトは、本当に義人なんですか?」
しかし、忘れていけないのは、創世記では、神の民は自分の行いによって義と認められないということです。創世記15:6では、「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」新約聖書では、このようにその一節を解釈します。
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ 4:3–5)
ロトも私たちもソドムと同じように「不敬虔な者」です。ロトもソドムも「良い働きがない」者です。しかし、ロトはソドムと違って、アブラハムと同じ信仰を持っていました。「不敬虔な者を義と認める」神さまを信じていました。そのからし種のような信仰があったからこそ、ロトがなよなよした信仰生活を送っていたとしても、神様はしっかりと、力強く彼の手をつかんで、ソドムから引っ張り出してくださったのです。それは罪深い私たちに素晴らしい知らせです。なぜなら、感謝なことに、私たちに、もしロトとアブラハムと同じような信仰があるなら、私たちも救われるのです。
次に比較したい人物は、アブラハムとロトです。何が学べるでしょうか?「周りの人は、私たちが慕うものを慕い始める。そして、周りの人が慕っているものを私たちも慕い始める」ということです。
アブラハムもロトも同じ神様を信じていて、信仰によって「義と認められた」と言えますが、付け加えなければならないのは、ロトの信仰がアブラハムよりも未熟で、不健全で、非常に弱かったということです。なぜなら、ロトは神様が約束されていた恵みよりもこの社会が約束する恵みを慕っていたからです。「それでもいいじゃないか!ロトも天国へいけるじゃないか!」と思うかもしれませんが、ロトの家族の歩みと運命を見るなら、それは非常に悲しいことです。ロトがアブラハムのように、この世の「寄留者」として歩むことを選ばなかったのです。ロトは、「神の民」として市民権を持っていましたが、「ソドム人」を慕い、ソドム人と同じように歩もうとし、自分の家族にもソドムの恵みを与えたいから、ソドムに住むことを家長として選んでしまいました。その結果、ロトが家族に信仰を継承したのではなく、ロトが慕っていた「ソドム」を継承してしまったのです。ロトの妻は、最終的にロトの信仰よりも、ソドムが慕っていたものを選んでしまいました。ロトの娘たちも、ロトと同じ信仰を持っている男性ではなく、ロトが憧れていた立派なソドム人と結婚しようとし、ロトとソドムが惹かれたソドムの「富みと成功」を欲し、神様の約束を拒んだのです。最終的に自分の罪と神様のさばきを軽んじてしまったのです。
私たちもクリスチャンとして、残念ながら、物理的にソドムから逃れられません。なぜなら、「ソドム」は神様を拒む世界を表している象徴だからです。それでも、私たちは何を愛し、どこに希望を置くのかを決断しなければなりません。私たちはいのちがけで神様へ逃げるか、だらだらしながらソドムを慕い続けるか。アブラハムのように、世界に認められなくても天幕に住んで「天の都」を愛し待ち望み、この世を「寄留する」天国人として歩むか。ロトのように、世界の物事を慕いながら、「天の都」をあまり楽しみにしていない「天国人」として歩むのか。私たちの周りにいる人たちは、私たちの「ことば」や「教え」などではなく、私たちが最も慕っているものを一番に見て、それを感じ取って、それを見倣っているのです。そして、逆も言えます。私たちも周囲の人が無意識に慕っているものを慕い始めているかもしれません。ですから、私たちもロトの家族の悲惨な終わり方から学んで、自分自身の歩みと自分の環境について見つめ直してみましょう。子どもとして、兄弟姉妹として、夫婦として、親として、同僚として、家族として、友人として、キリストにある兄弟姉妹として、私が最も愛しているのはイエス様であるのか、また、周囲にいる人たちは何を慕い、自分もどのように影響を受けているのか、を確認する必要があります。
最後に比較したい人物は、アブラハムとイエス様です。何が学べるでしょうか?「アブラハムと違って、イエス様はソドムへ行かれ、ソドムで十字架にかかってくださったので、私たちは救われました。」
ロトはなぜ救われたのでしょうか?ロトの信仰でしょうか?ロトのイエス様に対する愛でしょうか?ロトの救いの根拠は、アブラハムにあったのです。
神が低地の町々を滅ぼしたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼしたとき、神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた。 (創世記19:29)
私たちも同じです。神様は私たちの愛と信仰を覚えて、私たちを救われたのではなく、イエス様の誠実さと愛を覚えて、私たちを救ってくださったのです。そして、アブラハムとイエス様には大きな違いがあります。アブラハムはソドムへは行きませんでした。主の御使いがソドムの罪の沼のどん底にまで入り、ソドム人に迫害を受けながら、ロトをソドムから救い出したのです。イエス様は、私たちのために究極の「主の御使い」として、この世界という大きな「ソドム」へ下られました。「神の国が近づいている!悔い改めなさい!」と私たちに語られましたが、弟子たちも、私たちも、ロトのようにためらいます。そして、エルサレムの人々、ローマ帝国、世界の人々は、強制的にイエス様を捕らえ、ソドム以上に彼「を認めず、彼に対して好き勝手なことをし」(マタイ17:12)、イエス様を十字架にかけたのです(黙示録11:8参照)。そして、十字架にかけられたイエス様は、イエス様を信じる私たちのようなソドム人のために身代りとなって、ソドムに対する「神の怒りの杯」、「神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたち…の前で火と硫黄によって苦しめられ」ました(黙示録14:10)。イエス様がそのように私たちというみじめなソドム人を命がけで愛し、救ってくださったのです。神様がそのイエス様を覚えてくださった故に、私たちは救われるのです。イエス様の犠牲的な愛と誠実さを覚えて、自分の愚かさを悔い改め、イエス様を信頼して、感謝しましょう。