2022年12月11日礼拝 説教「ヨナの道Vs.主の道」音声有

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ書 Isaiah 55:6~9
さ ん び Opening Praise 「感謝と喜びを」
さ ん び Praise 「偉大な方 How Great Is Our God」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 62番 「主の民久しく」
聖書朗読 Scripture Reading ヨナ書 Jonah 4:1~11
聖書の話 Sermon 「ヨナの道Vs.主の道」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 301番 「千歳の岩よ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

説教(聖書の話)「ヨナの道Vs.主の道」

 

ここにいる子どもたち、親や先生に言われることを嫌がることがありますか。したいことをさせてくれないと感じることがありますか。大人の考えていることが分からないとか、大人が自分のことを分かってくれない、と思うことがありますか。実は、大人もその気持ちが分かります。私たちは皆、いつも、誰かの権威の下に置かれていて、誰かの言うことやさせることによって動きます。自由に歩もうと思う人でも、仲間の考えやどうしようもない事情によって色んなことをするように動かされます。また、誰にも縛られないで生きていると思う人でも、創造主なる神様の絶対的な支配の下に置かれている現実にどうしてもぶつかってしまいます。

そして私たちは思いますね。「不公平だ!」とか「なんで」とか、よく思います。「なんでお母さんがあれをさせてくれないのか」「先生、えこひいきしている」「上司は本当に理不尽だ」「神様、こんな1日をどうして下さるのですか」など、思ったことがありませんか。「納得できない」と思うことがありますか。

預言者は「良い人」と連想されがちかもしれませんが、今日の話で終わるヨナ書のヨナは「不良預言者」であり、この書物の始まり以来、主である神様のみこころに素直になれない人でした。神様の考えがおかしい、納得できない、と思ったからです。

しかし、神様はヨナが何をしても、彼を追い込み、さらに、彼を通じて周りの異邦人に希望を与えました。1章では、ヨナが逃げ込んだ遠隔地行きの船の水夫たちが真の神様を礼拝するように導かれました。2章では、神様は海に投げ込まれたヨナの命を助けるために巨大な魚か鯨を用いて、ヨナが神様のあわれみを思い出して、祈ります。3章では、ヨナがイスラエルの敵国アッシリアの都市ニネベに行き、刑罰の警告を伝えると、聞き手はその暴力などをしばらく悔い改めて、滅びないで助かります。めでたし、めでたし、と終わりたいところですが、4章がヨナの心にずっとあった不満と自己中心を露わにする、話のクライマックスです。ヨナは私たちと同じように、自分の思いや「道」が神様の思いや「道」に優れるかどうかを、毎日聞かれます。特に、私たちは自分の物差し(基準)で自分と人を評価して扱いたいのか、神様の物差しを受け入れるかどうかで悩むのではないでしょうか。今日の話を通して、考えてみましょう。まず、聖書箇所のドラマを見てみましょう。その後、この箇所が教える現実を確認してから、主がヨナに伝え、私たちに宣言してくださる福音の生き方を考えたいと思います。

 

まずこの4章のドラマです。ヨナは紆余曲折の後、前回の3章でニネベの都市へ行きます。そこで、神様に命じられた預言を伝えます。しかし、神はうわべの行動だけを求めるお方ではありません。心からの愛の関係に招く方なので、私たちが神様と人を愛しているかどうかを気にされます。1章であからさまに逃げて、2章で少しすなおになって、3章でイヤイヤながら従ったヨナを、神が徹底的に追い込んで、ヨナに自分と神様の思いの違いを突き付けます。

神様が4章の終わりの通り、ニネベの住民の罪を赦して、彼らの都を滅ぼさないという状況でヨナの本心を示す反応を引き出します。その反応から見えてくるテーマは、1章と4章に出るキーワード「よい」と「悪い」です。日本語訳では、文脈によって4章3・8節で「まし」、4・9節で「当然である」と書かれていますが、これらは全て「よい」の語根に基づきます。4章1節「不愉快」、4章2節の「わざわい」、4章6節の「不機嫌」は1章でニネベの悪行についても使われる「悪い・悪」の語根に基づきます。この章の対話を読むと、ヨナによる「よい・悪い」の定義と神様による「よい・悪い」の定義のどちらが正しいかが議論されているのです。

4章1〜3節を読んでください。

ヨナは自分の預言の結果、ニネベ人が罰せられないのは「悪い」と思って、異議申し立てをする訳です。「神様はやっぱりあのニネベ人たちを赦してやりましたね。最初から嫌な予感がありました。だって、出エジプト記34章6節でモーセに言われた通り、『主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み…』だと分かっていました。もう、うんざりです。死なせてください。」神様が4節でこのヨナを突きます。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」ここと9節の原文は、「あなたが怒るのは、良いことか」です。ヨナ、あなたがこれを怒って正しいですか。ヨナは答えませんが、神様のあわれみを受ける価のない、邪悪なニネベ人は刑罰を受けるべきであり、生かしておいたのが不公平だと態度で示します。

4章5節からヨナが別シーンへ移動します。「ニネベはもしかしたら、その罪が大きいから、悔い改めても滅びるかもしれない」とヨナが嫌らしい希望を持って、町外で「仮小屋を作り」待ち構えます。さて、神様はこれから、ご自身とヨナの違いをヨナに突きつけるための「罠」を仕掛けます。「神であるは一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ」ます。この「唐胡麻」と訳されている植物の詳しい種別ははっきり言えませんが、それは1章17節とリンクされるキーワード、「主は…備えて」くださった被造物です。これを用いて、ヨナを猛烈な日照りの苦しみから助け出します。

次に、神様はヨナと真剣な対話をするために「罠」の中へ追い込みます。7〜8節で神様がもう二つの被造物を派遣します。

しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけた…。

ヨナが喜んだ植物を虫が取り去って、さらにメソポタミア・アラビア地方で炎暑を持ち込む「東風」と太陽がヨナを叩きつけます。私でしたら、野宿を諦めたり、神様に助けを求めたりしたかもしれませんが、ヨナはもっと強い信念を抱いていました。8・9節の反応は、「私は生きているより死んだほうがましだ」ということです。暑くて苦しいと覚悟の上でヨナは野宿を始めたはずですが、一時的に助けられたことを神様には感謝せず、もう死にたいとばかり神様に訴えます。

主はヨナに、ヨナのすねた態度を指摘します。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」4節でニネベについて聞かれた質問の繰り返しです。ヨナは9節で答えます。「私が死ぬほど怒るのは当然のこと〈よい〉です。」要するに、ヨナは自分が神様の思いより正しい思いを持っているという自負心があります。しかも、自分の心地よさに関わる植物が死んだことを怒るのは正しいことだとも言い張ります。かなり子供っぽい主張になってしまいました。

いよいよ、ヨナは神様の「罠」に入ったので、10・11節で神様がヨナの心の問題をズバッと指摘してくださいます。ヨナと主の対比を用いて、主ご自身の考えの高さを主張します。

「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

ヨナは、彼と関係なく成長して、またすぐに死んだ植物のことであわれな気持ちになりました。快適さを失って苦しんでいるから、目の前の植物を惜しみます。しかし、海も陸地も、海の魚も、異邦人もイスラエル人も、植物も虫も風も太陽も支配される創造主は被造物について権威があるのではないでしょうか。神様がそのように、指摘なさいます。そして、神様はニネベの人々を、おそらく道徳的に分別が足りないと言う意味で「右も左も分からない…人間」をあわれむと仰います。主は家畜をも大切にしてくださり、ニネベの悔い改めによって喜んで、生かしてくださいました。ヨナの基準と全く異なります。

言い換えると、神様が「あなたは当然であるかのように怒るのか」と「わたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか」と問いただすことによって、ヨナに突きつける質問は、「あなたは自分が神だとでも思うのか」です。ヨナは自分で正義の判断をして、恵みの対象を好き勝手に決めるほどの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」の持ち主(ウェストミンスター小教理問答問い4)ではないのです。ニネベについて口出しする資格がありません。神様があわれもうと思った通りに、ヨナにもニネベの都の住民と動物にも、価なしに命を下さるのに、ヨナが勝手な判断で「神様、納得できません。私の心がなりますように!」と行動で叫んでいました。

この話はここで終わって、ヨナの反応を記していません。絶妙な終わり方だと思います。ヨナの応答を知らない私たちは、自分たちの応答、そして私たちの心の現実について考えさせられます。

 

さて、この箇所から私たちが学ぶべき現実とは何でしょうか。神様と私たちがそれぞれ用いる基準・物差しがどんなに違うかを知ることができます。

人間は、自分が神かのように振る舞う罪の傾向があります。自分で作った基準によって生きようとして、それに合わないことに対して怒ったりさばいたりします。ヨナは、神様があわれむべき対象はイスラエルのみ!と勝手に決めて、残酷なアッシリア帝国の都ニネベ人は警告なしで滅びよ、死ね、と願っていました。さらに、神様に反抗して逃げ回って、自ら神の恵みを拒否しました(2:8-9と対比)。と言うのは、祈って恵みを求めても良いのに、1章で海の嵐、そして4章で砂漠の炎熱の中で死を選びます。要するに、ヨナは、自分もニネベ人も神様のあわれみを受けて助かるより、自分の罪を自分で償って死に、ニネベ人も死ぬのがよいことだと考えました。

私たちも自分の好みや決まりで世の中の良し悪しを定めたいと思うことがありませんか。良いことをしたらご褒美、悪いことをしたら罰の世界(でも逃れたらラッキー)と思うかもしれません。聖書の神様の善意や恵みを受け入れたくないと思ってしまうことがあります。例えば、人のした悪いことを赦したくなかったり、敵を愛したいと思えなかったり、神様が彼らを愛することも望まなかったりするかもしれません。自分が決めた基準で生きるなら、神様の恵みを除外することになってしまいます。

ヨナ4章を読み返して気づきましたが、これは新約聖書ルカの福音書の有名な譬え話、「放蕩息子」の話の終わりと似ていますね。家の責任を捨てて父の財産を持ち出して行った弟が帰って来て、祝宴があると聞いた兄の怒りの反応と父のあわれみの返事をぜひ、後で読み返してみてください(ルカ15:28-32)。自分が頑張ったのに、悪い弟がもてはやされるなんて!と怒る兄は、生き延びるニネベ人について怒ったヨナとよく似ていませんか。身勝手な基準で生きる私たちは神様に対する反逆者、最高の父親に対して不孝を犯してしまうような者です。

しかし、神様の基準はどうでしょうか。神様こそが、人間の人生について完全な基準をお持ちです。ご自身のご性質である、完璧なきよさで判断されます。そして、確かに私たちの罪に対してお怒りになります。罪に甘い方では決してありません。ところが、神様には恵みもあります。放蕩息子の話で最後に語る父親はヨナ書4章11節の主なる神のように、罪の中で失われた人が立ち返れば、喜んで赦してくださいます。神様はヨナの心を引き戻そうとして、魚、植物、風を用いて注意を引いて、最後に問いただしてくださいます。そして、神様はニネベをもあわれもうと思いました。

ヨナも私(たち)も、主の基準より自分の基準が正しいと主張してしまうことがないでしょうか。子どもが親に、大人が上司などに対して「不公平だ」「納得行かない」と怒るように、私たちは神様の基準に反発しますか。人間の権威に対して敬意を払うべきだとしても、彼らは間違えるかもしれません。しかし、神様は決して間違えません。その基準は完璧であり、私たちが思いつくものは、比べれば、自分勝手な判断で変わる、汚い泥のようなものです。私たちは神であるかのように考えてしまうと、ヨナのように、痛い目にあいます。

 

ですから、私たちは主の恵みを今日も聞きましょう。自分の基準でなく、神様の絶大な基準に続き、絶大な恵みをも覚えましょう。

先ほども言いましたが、神様は緩い基準を持っておられません。神様は出エジプト記34章6・7節で神様がこう宣言なさいます。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して…」(出エジプト34:6-7)。実は、ヨナの活躍の後、ニネベはまた暴行に戻り、漸く数十年後、バビロニア帝国によって滅ぼされました。

しかし、神様は地上の生活の滅びより恐ろしい、永遠の地獄の滅びからの救いを下さるほどに恵み深いお方です。と言うのは、神様は身代わりの救い主イエス様を「罰すべき者」として扱って、罰を与えたことによって、主イエスに信頼を寄せる者を赦すことができます(イザヤ53:5-6、第二コリント5:21)。ニネベ人のような人間、ヨナのような人間、私たちのような人間のために、イエス様が十字架の上で身代わりとして、永遠の滅びの刑罰を受けてくださいました。イエス様に信頼する者には、受ける裁きが残っていません。「私は一部、善行を付け足して、悪行の罰を受けて、イエス様の負担を減らしたい。全部受けるのは納得できません」と言えません。

ローマ人への手紙3章23~24、27~28節 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。…私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる…

完全な赦し、きよめを神様が用意されました。100%恵みによって私たちは信仰によって、神様に「義あり、歓迎される人」として認められて受け入れられます。もちろん、罪を悔い改める必要がありますが、不十分な悔い改めという罪でさえも神様が赦してくださいます。神様は無償で、イエス様の義とあなたの信仰だけを見て、あなたをニネベ人のようにわざわいを下さず、むしろ、放蕩息子のように歓迎してくださる神様です。

 

主は、圧倒的なあわれみを抱いてヨナを追い込み、ヨナとご自分の基準の違いを突き付けました。そうすることによって、神様の主権と恵みを知らせました。私たちは神様のご支配の下で、自分の基準でなくキリストが満たしてくださった基準によって喜んで生きることができます。自分の義や恵みの基準を捨てて、あわれみを受けて、あわれみを周りの人に対して抱きましょう!

ですから、あなたが自分のことをニネベ人に同情できる、悪い人間だと思っていても、自分で作った基準を握って自分と周りの人をさばきたいと思っていても、神様の恵みのメッセージは同じです。招きのことばの一部をもう一度読み、祈りましょう。

悪しき者は自分の道を、

不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。

──主のことば── (イザヤ55:7-8)