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下記を追って公開いたします。クリスマス礼拝後に祝会、キャロリングを予定しています。
礼拝式順
前 奏 Prelude
[待 降 Awaiting]
旧約聖書 イザヤ書 Isaiah 7章14節
旧約聖書 イザヤ書 Isaiah 9章2節
新約聖書 ルカの福音書 Luke 3章15節
♪讃美歌 94番 「久しく待ちにし」(1〜3番)
[告 知 Annunciation]
新約聖書 ルカの福音書Luke 1章26節〜38節
新約聖書 マタイの福音書 Matthew 1章18節〜22節
♪讃美歌 96番 「エサイの根より」(1・2番)
[誕 生 Birth]
新約聖書 ルカの福音書 Luke 2章1〜14節
♪讃美歌106番 「あら野のはてに」(1・2・4番)
[歓 迎 Welcome]
新約聖書 マタイの福音書 Matthew 2章1〜2節、9〜11節
♪讃美歌103番 「牧人ひつじを」(2・3番)
新約聖書 ヨハネの福音書 John 1章12節
信仰告白式 司式 マーク・ボカネグラ牧師
転入会式 司式 マーク・ボカネグラ牧師
聖書朗読 Scripture イザヤ書 Isaiah 9章1〜6節
聖書の話Sermon 「その肩に」 百瀬ジョザイア伝道師(マーク・ボカネグラ牧師が代読)
♪教会福音讃美歌90番 「天なる神には」(1・3番)
聖晩餐式 Communion 司式 マーク・ボカネグラ牧師
献 金 Offering
♪讃美歌98番 「あめにはさかえ」(1番)
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Postlude
報 告 Announcements
説教(聖書の話)「その肩に」
肩車が好きな子どもはここにいるかもしれません。大人の方は、肩車をしてもらっている子どもの嬉しそうな顔を見たことがあるかもしれません。中には、怖く感じる子もいるかもしれませんが、多くの子は大喜びです。担がれて喜んだ記憶を私もぼんやりと持っています。小さな子どもは大人に背負ってもらうと、高いところから周りを見渡せます。体が軽くなって、飛んでいるような体験でしょう。その経験をさせるために、力持ちの大人がその肩にその子を乗せてあげました。クリスチャンがクリスマスを祝う理由の一つは、たとえて言うなら、イエス様が私たちを肩に乗せて、私たちの罪と悩みと痛みを担いで、私たちを助けるためでした。クリスマスの喜びのこの側面を今日、ともに覚えて、感謝したいと思います。
旧約聖書のイザヤ書9章6節前半に集中したいと思いますが、その前に来る事柄も大切ですから、背景をお話しします。イエス様が生まれて来てくださったことがどんなに画期的か理解するために、その前の状況がどんなに悪いかも知る必要があります。8章から9章の初めまでを見ると、人間、罪人が救いを必要とすることが分かります。そして与えられた赤ちゃんがこの必要を満たしてくださるのがよりよく理解できると思います。
イザヤという書簡は、イエス様の誕生の700、800年前に書かれたと考えられます。イスラエル、そして世界中の人々が救いを必要とすることを前提として、まだ来ていない救い主の予告をします。一昨年前、昨年にマーク牧師がクリスマスの時期に教えてくださったように、イザヤ書は神様に反抗する人の「わざわい」を告げる前半と神様に信頼する人への「慰め」を宣言する後半とに大きく分けることができます。ところが、前半の中でも、人間の罪の結果の悲しみだけでなく、慰めの兆しも書かれています。例えば、その8章の終わりは神様の教えをいのちの道として掲げて、それを拒む人に対して、わざわいの警鐘を鳴らしますが、それに続けて今日の箇所の慰めも予告されます。まず8章の20~22節を読みましょう。
ただ、みおしえと証しに尋ねなければならない。このことばにしたがって語らないなら、その人に夜明けはない。その人は迫害され、飢えて国を歩き回り、飢えて怒りに身を委ねる。顔を上に向け、自分の王と神を呪う。彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。」
要するに、神様が下さった聖書の「みおしえ」を受け入れない人は、霊的な幸福を受けないと警告されます。霊的な死の状態にいます。さらに、精神的に追い詰められ、指導者との敵対や身体的に苦しみ、惨めにさまようことが描写されます。全人類にこのことが当てはまります。私たちは生まれながらの、完全な聖さと義を持っておられる真の神様を拒む者です。まさに「神を呪う」者です。「みおしえ」である聖書という取り扱い説明書を無視して、設計通りに使われない機械や道具のように、擦り減って、壊れてしまいます。最初の人間アダムの罪により、霊的な闇から始めて、精神的、社会的、身体的な「闇」が全人類と宇宙を覆ってしまいました。人生にあるこのような「闇」は、神様の裁きの象徴ですが、予兆でもあります。最終的に、神様を拒み続ける者に永遠の裁きが来ると聖書が警告しています。ですから、神様の永遠の裁きからの救いが必要です。私たちを光といのちに導く救い主が不可欠です。
実際、9章の初めを読むと、聖書を持っていたにもかかわらず、イスラエルは暗闇と死の道を選び、神様から離れるという前提で始まります。イザヤ自身がまだ生きているうちに、9章1節の「ガリラヤ」を含む北のイスラエル王国は、その偶像礼拝の罪のために滅びました。イザヤが亡くなってから約100年以内、南部のユダ王国も滅びました。全土は霊的に憂鬱な状態に入りました。助けは中々やって来ません。
しかし、イザヤ9章はその状態の中に慰めと希望の光が差し込むと約束します。1~2節です。
しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。
先にはゼブルンの地と
ナフタリの地は辱めを受けたが、
後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、
異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
闇の中を歩んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が輝く。
闇は確かに地を覆っていました。イスラエル人はイザヤの警告通りに、暗闇に沈み込んでいました。しかし、イスラエルの神殿がある、首都エルサレムでなく、不真面目そうなイスラエル人の地方、「異邦の民のガリラヤ」に光が来る、と言われます。マタイの福音書4章12節以降では、イエス様がこの預言を、ご自分の宣教によって成就された、と書かれています。
では、イザヤは9章3から5節まででイスラエルの希望をどのように描写するのでしょうか。収穫の喜びと勝利の喜びをもたらし、民を守り導く王に希望を置いています。例えば、次の4節で助けと守りを待ち望みます。
彼〈=王の民〉が負うくびきと
肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、…
打ち砕かれるからだ。
王の民は神様に反抗してしまった結果として、闇の中にいた人々です。肩に重くのしかかる、苦しい労働の「くびき」、処罰または苦役の「杖」を経験していましたが、それらは「打ち砕かれ」ます。つまり、やって来る王者は、罪の結果として苦しむ人々を圧政と虐げから徹底的に救ってくださるからです。打撲や重荷でうずくまっていた肩が、楽になります。なぜこの希望がありますか。6節前半に進みましょう。
6節でイザヤはまた救い主に向かっての話から、イスラエル人に向かって、「私たち」へ話しかけます。新改訳に書かれていませんが、6節の始まりに根拠あるいは強調を示す接続詞があります。補足すれば、こうなります。「(と言うのは・確かに)、ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。 / ひとりの男の子が私たちに与えられる。…」神のみことばを拒んで、苦しみと暗黒を選んでしまった「死の陰の地に住んでいた者たち」には、自分の行いの改善などに望みはありません。しかし、無力そうな、ひとりの赤ちゃんに望みがあります。
6節は続きます。「主権はその肩にあり…」。約束された赤ちゃんは王となり、主権を担ってくださるということです(イザヤ22:22参照)。王国を平和と公義と繁栄へ導く責任を、約束の子が取ってくださいます。
興味深いことに、「肩」ということばは2節前の4節にもありました。このことばは旧約聖書に20数回しか出てきませんが、イザヤ書にはこの9章に2回も登場します。懲らしめ、また奴隷の労苦を受けていた「肩」が解放される、と4節に書かれていました。と言うのは、赤ちゃんがお生まれになり、後に主権を肩に背負ってくださいます。刑罰を当然の結果として被った人々に、この王は恵みを与え、安息を授け、戦争の悩みに替わって平和と繁栄を与えてくださいます。これは、聖書が約束して、指し示す救い主の素晴らしさの一つの側面です。
どういう風にこの王が主権をその肩に負って、救ってくださるのでしょうか。9章6節のことば通りに、王として、全ての責任を負ってくださることです。その責任から二つを考えてみましょう。
一つ目に、イエス・キリストは王として、その民の日常の必要と悩みについて助けを下さると言えます。国王、知事、市長などは地域や国の色々な重大決断の責任を担って、治められる人にとって良いことを求める責任があります。イエス様は、ご自分に属する「民」の集まり(教会)のために、あらゆることを担ってくださっています。イエス様が全てを支配し、神様のご栄光と人々の永遠の喜びのために用いてくださるから、クリスチャンは慰めと望みを抱きます。私たちはイエス様に従いますが、イエス様に従うことは「軽いくびき」を負うことにたとえられています(マタイ11:28~30)。イエス様は、ともにおられ守り導くと言う意味で、その肩に主権を担っておられます。
二つ目に考えたいことは、救い主イエス様が主権を肩に負われたことが、一つ目の助けと導きの前提としてあるということです。すなわち、私たちの肩に降りかかるはずの「杖」と「むち」の刑罰をその肩に受けてくださり、決定的に光と恵みの国へ移すためにも主権を肩に抱えてくださいました。ローン返済できない人のために立つ保証人のように、イエス様はまずその民を滅びから守るために、ご自分の肩に彼らの、私たちの、犯罪の刑罰を背負われました。ご自分に対する罪なのに、ご自分がそれについて責任を負う、というとんでもない恵みを人々に向けてくださいました。イザヤが後の53章6節で書いた通りです。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼〈しもべなるイエス・キリスト〉に負わせた。
イエス様が私たちの受ける罰を身代わりとしてお受けになり、私たちが神様の聖なる義によって焼き尽くされないようにしてくださいました。神様の聖い光によって滅ぼされないように、罪を取り除く光として来られました。クリスマスは王の勝利そのものでなく、王の宣戦布告に過ぎませんでした。勝利はイエスの十字架と復活で成し遂げられたのです。霊的な救いを始め、精神的、社会的、身体的に完全なものとされることが十字架と復活で予兆され約束されました(第一コリント15章、黙示録21~22章、第二ペテロ3:10~13参照)。これが、私たちがクリスマスで祝うことです。
さて、新約聖書でイザヤ書9章6節がどう成就されたのでしょうか。ルカの福音書の記録から分かりますが、イエスは貧しい家族に、ベツレヘムという村でお生まれになりました。町の外で羊の夜番をしていた羊飼いたちへ神様の天使が現れ、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と宣言されました(ルカ2:11)。信頼する人だれでものために、その「ひとりのみどりごが私たちのために生まれ」ました。
この救い主(キリスト)は、自分がしっかりしていて良いと自負する人のためではありません。夜中、臭い羊と一緒に座り込んでいた羊飼いたちは、現代風に言うなら、「ブルーカラーワーカー」でした。社会的に、あまり尊ばれない人でした。彼らは、自分が輝かしい者だとは思っていなかったでしょう。イザヤが描いた「闇の中を歩んでいた民」のような人々でした。彼らのために「主キリスト」すなわち父なる神様が選んで送られた王、主権をその肩に担われる王が生まれました。そして、彼らはその最初の公開発表を受けました。
イエス様は、自分が立派だと思う人間のために来たのではありません。自分には心のけがれ、罪があると認める人を救うために来てくださったのです。心が暗闇に覆われやすいものと認める人のために来てくださいました。肩にのし掛かる重荷と降りかかろうとする罰がどうしようもないと分かって、イエス様に信頼する人のために、イエス・キリストが来てくださいました。
あなたは、イエス様に信頼しますか。その肩であなたの罪を負って償ってくださり、あなたの悩みに同情して、あなた自身を担いでくださると信じますか。信じるなら、あなたの肩が軽くなったのを経験していますか。もちろん、私たちはまだ、罪の結果として、色々な「闇」を体験して悩みますが、イエス王がともにおられ、私たちを抱えて、導き守ってくださっているから、基本的な状況が一変しています。王なるイエスの肩に救いが掛かっていて、保証されています。肩車してもらっている子どものように、イエス様に自分を委ねて、このクリスマスを喜びましょう。
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