2023年1月1日礼拝(元旦) 説教「あなたがたは新しく、天から、生まれなければならない」音声有

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下記を追って公開いたします。クリスマス礼拝後に祝会、キャロリングを予定しています。

礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

司会者  主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

会衆     主の恵みがありますように。

司会者  さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

会衆     感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

一同     主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌 504番「偉大な神の」

開会の祈り Opening Prayer

 

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

会衆     あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。

アーメン。

個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2

会衆     アーメン。

平和のあいさつ Passing the Peace

司会者  神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。

会衆    主の平和が、あなたとともにありますように。

 

賛美 Praise 教会福音讃美歌 46番「初めにおられた神のみことば」

 

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読        ヨハネの福音書 John 3:1~8

聖書の話    「あなたがたは新しく、天から、生まれなければならない」                           マーク・ボカネグラ牧師

 

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌359番

                                               「私の望みは主イエスだけにある」

 

聖晩餐式 Communion                            マーク・ボカネグラ牧師

[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29

[式 辞][祈 り][分 餐]

配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老

一同      私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。

私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」

祝 祷                                        マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen         讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教) 「あなたがたは新しく、天から、生まれなければならない」

 

年末年始のどこかで、時間があれば、私はいつも自分の評価面談のようなものをします。前年を振り返って、今後どうしたいかを考える時間を作ります。私にとって、元旦礼拝は、そのようなときでもあります。教会として、前年を振り返り、今後を考える機会だと私は思っています。今までの自分の生き方、教会としての働きはいかがでしょう?今後、私たちはどのように歩みたいでしょうか?

しかし、その質問に答えるためには、やはり自分のアイデンティティー、自分がなりたい「理想像」が何なのかがはっきりしていないと、答えられないことが多いと思います。ですから、「クリスチャン」とはそもそも何なのか?そして、「海浜幕張めぐみ教会」とは何なのか?と、毎年確認する必要があると思います。去年、私たちはパリサイ人と取税人のイエス様のたとえを読んで、「めぐみ」とは何なのか、そして、恵みにより頼むクリスチャン、または、教会として、どのように歩むべきなのかを考えました。今年は、ヨハネ3章1~8節を読んで、「クリスチャン」とはそもそも何なのか?そして、「海浜幕張めぐみ教会」とは何なのか?を確認して、これからの歩みについて一緒に考えたいと思います。

子どもたちに質問です。私はこの前「ピノキオ」という映画を観ましたが、「ピノキオ」って知っていますか?ピノキオは、おもちゃを作るおじいさんが作った、木でできた男の子の人形です。ある日、妖精(ブルー・フェアリー)が現れて、ピノキオに「いのち」を与えるのですが、「勇気を持って正直で優しい性格になれば人間になれる」とピノキオに言い残して、消えて行きました。つまり、ピノキオは「いのち」のようなものは持っていたけど、まだ木でできた人形で、「人間」ではありませんでした。そして、ピノキオは頑張って、いろんな良い行いをして、おじいさんの子どもになろうとしました。

今日の話は、ピノキオのたとえを借りて言うと、イエス様が、木でできた「ピノキオクリスチャン」と、生きている「本物のクリスチャン」の違いをニコデモという人に説明している話です。もっと言いますと、イエス様は、ニコデモに「あなたは、「ピノキオクリスチャン」ですね、このままでは、天国へ行けませんよ」と突然おっしゃいます。ニコデモはかなりまじめで勤勉な人なので、すごくびっくりします。そして、イエス様はニコデモにこうおっしゃいます。「あなたは新しく生まれなければならないのです。『木』でできたピノキオクリスチャンから、『霊』でできた本物クリスチャンに。その唯一の方法は、人生のすべてのことを、わたしに委ねて、すべてのことをわたしに頼る(より頼む)ことです。」私たちは「ピノキオクリスチャン」になりたいのか、「本物クリスチャン」になりたいのか、改めて確認したいと思います。「あなたがたは新しく生まれなければならない」とのイエス様の命令を一緒に吟味していきましょう。

 

この箇所は、非常に有名な箇所ですが、この場面の背景はよく忘れられがちになります。イエス様は、「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられ」(ヨハネ2:23)、多くの人の前で「しるし」(奇跡)を行われて、多くの人がイエス様の「名を信じた」ということでした。つまり、聖書を信じるユダヤ人が、ユダヤ人の「本拠地」とも言えるエルサレムに、最も集まる時期に、イエス様が、聖書の神様の「しもべ」としていろんな奇跡を行い、そして、多くのユダヤ人がイエス様の教えと行いに圧倒され、その「名を信じた」のです。「おお!すごい!イエス様の業が広がっている?!これはリバイバルだ!」そう思われるかもしれませんが、ヨハネはこのようなコメントを付け加えます。

「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、 人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。」(ヨハネ 2:24–25)

なぜイエス様はユダヤ人に「お任せにならなかった」のか、または、彼らを信じなかったのでしょうか?その理由は、イエス様が「人のうちに何があるかを知っておられた」からです。人のうちに何があったのでしょうか?その「究極の例え」として、3章にニコデモが出てきます。つまり、この3章は、イエス様の「しるし」を見て、その名を信じた「うわべだけの信仰」(ピノキオクリスチャン)のあり方を説明しているのです。ですから、ヨハネの福音書の流れをみると、ニコデモは「ピノキオクリスチャン」の代表とも言えるのです。

しかし、皆さんの「うわべだけの信仰」のイメージと、ニコデモのイメージとは全く違うかもしれません。少なくとも、私の「うわべだけの信仰」のイメージは、「半生。中途半端。生ぬるい。なよなよしている」ですが、ニコデモはどちらかというと、その反対です。「パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。」(3:1)

クリスチャンとして「パリサイ人」と聞くと、「悪者」、「ずる賢い」、「怪しい」そんなふうに思うかもしれませんが、実は、当時の人から見ると、パリサイ人はその正反対のようでした。ニコデモのイメージとしては、「教団の役員・リーダー」、「神学校の教授」、「教師試験委員」、「エリート牧師」などを一つにしたようなイメージです。「週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げて」(ルカ18:12)、真面目に、熱心に、きよく歩んでいる、信仰深い、忠実な人とも言えます。ニコデモという名前も「人々のチャンピオン」というような意味もあるのです。「そのようなクリスチャンになりたい」と思うような人がいたら、それは、うわべだけの信仰の「ピノキオクリスチャン」の代表ニコデモだと言えます。

ニコデモはこのように挨拶します。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(3:2)福音書に出てくるパリサイ人と違って、礼儀正しく、イエス様の権威と働きを否定してもいませんし、イエス様が「神のもとから来られた教師」であることを認めています。また、3:2にある「私たち」の意味は、ニコデモが「イエスの名を信じた人々」の考えを表している者だということです。つまり、ニコデモはイスラエルの代表だったのです。

しかし、イエス様はニコデモの話に乗りません。むしろ、ニコデモに対して、大胆に立ち向かいます。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)これは、びっくりするような展開です。なぜなら、「神の国を見ることはできません」の意味は、「永遠のいのち」をいただくことができない、「天国に入ることができない」ということだからです(ヨハネ3:5,15; マルコ10:17、23参照)。要するに、イエス様は、今、まさに神の国の王様として天の王座に座っているかのように、「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは私の民ではありません。新しく生まれなければ、あなたは私の王国に入ることはできません」と宣言されるのです。

教師の資格もなく、パリサイ人やエルサレムの議会にも認められていない若僧にこのように言われたら、ニコデモが、次のようにイエス様に応答したのも当然だと思います。「ニコデモはイエスに言った。『人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。』」(3:4) このようにちょっとイエス様をバカにしているような皮肉っぽい答え方をしましたが、なぜニコデモはそのように応答したのでしょうか?それは、イエス様に自分のアイデンティティーを全面的に否定されたからです。

誰からも認められたニコデモの社会的、宗教的地位。神に選ばれた民の血筋。彼の聖書に関する教育と知識。誰にも負けない熱心さと勤勉さ。年月によって精錬された聖い生き方。ニコデモが誇りに思っていることをすべて否定され、イエス様に「神の国に入るために、何の価値もない」と言われてしまったので、彼は防衛反応として、イエス様にカウンターパンチをしかけたかったのではないかと思います。しかし、もう一方で、イエス様を「神のもとから来られた教師」だと認めていたので、逆らいたくはないという思いもあったと思います。要するに、ニコデモの信仰は、イエス様の「権威」は一応認めてはいましたが、教えられた「内容」は受け入れていない、というような「うわべだけの信仰」だったのです。

ニコデモのそのような応答にも、イエス様はこのように答えられます。しかし、私は一か所だけ、訳を変えました。

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは【天から】生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 (3:5-7)

私は、ヨハネの説教シリーズをするとき、この2節の意味を掘り下げたいと思いますが、今日は、二つの重要な点に焦点を当てたいと思います。

まず、一点目は、イエス様が、ニコデモのことばの誤解を解かれたということです。ニコデモは、イエス様の3節のことばを誤解していたのです。「あなたがたは新しく生まれなければならない」の「新しく」ということばには、二つの捉え方があるのです。一つは、「再び何かをする」ということです。ですから、ニコデモは「再び生まれるってどういうことですか?もう一度、母の胎に入って生まれることですか?」と嫌味ったらしく言います。それゆえ多くの訳は、3節と7節を「新しく生まれる」と訳しています。しかし、このことばにはもう一つの意味があります。「上から」または「天から」という意味です。イエス様はその誤解を解いておられるのです。つまり、イエス様は、人は新しく「天から」生まれないと、天にある神の国に入ることはできないとおっしゃっているのです。

では、「天から生まれる」とはどういうことでしょうか?神の国に入れる人は、地上の「肉」によって生まれた者ではなく、天の「御霊」によって生まれた者です。これが二つ目にイエス様がおっしゃりたいことです。「肉」と「御霊」の比較は、「罪」と「聖さ」という比較だと解釈しがちですが、私は血肉から生まれた「第一の創造」と、御霊から生まれた「第二の創造」を指していると思います。パウロはこう説明します。

どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり(ます)… 最初にあったの(アダム)は、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のもの(イエス)は後に来るのです。 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 (1コリント15:39-40, 46–50)

これを、ピノキオのたとえで言うと、イエス様がおっしゃっているのは「もしあなたが木でできた人形であれば、あなたがどんなに人間らしいことをしても、どのような良い行いをしても、また、どのような知識を得たとしても、木でできた人形は人間の子どもにはなれません。人間から生まれた子どもしか、家族になれないのです。同じように、あなたがこの地上で生まれた限り、あなたが天国人らしいことをしたとしても、神様と天国について深く勉強したとしても、天国へ行くために色んな犠牲を払ったとしても、全く関係ないのです。天の御霊から生まれるのでなければ、あなたは神の国に入ることはできません。御霊の働きによって、新しく、天から生まれたのでなければ、あなたはただのピノキオクリスチャンに過ぎない」ということなのです。これは非常にショッキングなメッセージです。ニコデモはこれを聞いて、パニックと混乱に陥ったと思います(3:9参照)。

しかし、イエス様のショッキングな話はここで終わりません。この話を聞いたら、私たちも、「では、良い先生。永遠のいのちを受け継ぐために、神の国に入るために、天から新しく生まれるために、私たちは何をしたらよいでしょうか。」(マルコ10:17参照)とイエス様に聞きたくなりますよね?イエス様はこのように答えられます。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(3:8)衝撃的ですね。風の存在をはっきり察することはできますが操ることはできないように、私たちは、御霊によって生まれた者から、御霊の働き「察する」ことはできますが、御霊の行き先を操ることはできませんし、予測することもできません。つまり、私たち次第ではないということです。

しかし、イエス様は「私たち次第ではない」と同時に、「あなたがたは新しく生まれなければならない」と命令されています。ですから、ニコデモにも私たちにもアクションを求めておられるのです。それは、「イエス様を信じる」ことです。「信じる」ということは、ニコデモのように、また、悪霊やサタンのように、イエス様の「権威」を認めながらも、恐れることではありません(ヤコブ2:19)。ペテロは「信じる」ということをこのように描写しています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに…私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。」(1ペテロ1:3)つまり、「御霊によって新しく生まれる」ということはイエス様に対する生ける望みを持つことから始まるのです。「イエス様を信じる」ということは、イエス様ご自身が自分の「望み」であり、その「望み」のゆえに生きるということです。そして、その望みはただのポジティブ・シンキングから生まれるのではなく、「あなたがたが新しく生まれたのは、「朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。」(1ペテロ1:23)つまり、御霊によって与えられる「天から来る新生」を頂く唯一の手段は、神のことばなのです。

 

繰り返しになりますが、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とイエス様は私たちに促しておられます。もしそうであるなら、私たちの歩みはどう変わるでしょうか?また、私たちの教会の歩みはどう変わるでしょうか?新年の初めに、三つのことを覚えていきたいと思います。

 

「肉」による「生まれ変わり」によってでは、神の国を見ることはできません。

「新しく生まれなければならない」と聞くと、いろんな考え方がありますが、私がはっきり言えることは、ニコデモのように「知識があって、まじめで、熱心で、聖く歩んでいる宗教的なエリート」になることや、ヨハネ2:23のようにイエス様の力強い「しるし」をみて、「神のもとから来られたことを信じ、イエスの権威を信じた」大群衆の一人のようになることではない、ということです。もっと言いますと、そのようなことを目指す事は、「神の国」とは全く関係ないということです。

しかし、言いながらも私たちは、「肉」による「生まれ変わり」をほししがっていることを認めないといけないと思います。「ライザップ」のCMを見たことありますか?太っている人が、お腹の脂肪つまみながら悲しい顔をした後、一瞬でキレキレの体に生まれ変わる。というシンプルなCMなのですが、健康と体型だけではなく、私たちは人生においても、「霊的な歩み」においても、ライザップのような「生まれ変わり」を欲しがっているのではないかと思います。しかし、ピノキオにたとえて言えば、木の人形が、ライザップの「生まれ変わり」のように、リアルに近い、キレキレの身体を持った男の子の「木の人形」になったとしても、木でできている限り、人間にはなれません。イエス様がおっしゃる「新しく生まれる」ということは、全く違う次元のことなのです。「血肉のからだ」はそもそも神の国を相続できないのです。つまり、朽ちない天の御霊によって新しく生まれることを求めなければなりません。私たちは、クリスチャンとして、教会として、「血肉」でできた理想の体を求めているのでしょうか、それとも、「御霊」による「新しく、天から生まれたからだ」を求めているのでしょうか?ぜひ新年のはじめに考えてみてください。

 

それでは、私たちは何を目指すべきでしょうか?「天から下られたイエス様のみことばに「帆」を張って、御霊の風を待つことです」

自分の意志や、自分の努力で生まれた人は、だれ一人いませんし、陣痛が来るタイミングを知っている人もいません。ですから、私たちが最初から受け入れなければならないことは、自分が「新しく生まれる」ことや自分の子どもが「新しく生まれる」こと、また、伝道してきた友人や家族が「新しく生まれる」ことは、私たちのコントロール外であり、100%聖霊様の働きによるのです。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネ3:8) しかし、天から下られる御霊は、一つのところにしか吹きません。それはイエス様のことばです(ヨハネ14:26参照)。ですから、クリスチャンとして、教会として、忘れてはいけないのは、イエス様のことばのない生活、そして、教会に、聖霊様が吹かれることはありません。今年、教会として、いちクリスチャンとして、私たちはどのようにイエス様のみことばに大きな「帆」を張って、御霊の風を待ち望むでしょうか。

 

「新しく生まれた」た者は、御霊から「新しい天の望み」を頂いているのです。

「新しく生まれる」ということは非常にシンプルなことです。イエス様はこのようにおっしゃいます。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39–40)ニコデモのようにイエス様の「名」と「権威」をただ認めるだけではありません。ニコデモのようにみことばや奉仕から「いのち」、「生きる目的」、「希望」、「喜び」をいただくことでもありません。御霊によって「新しく生まれた」人は、天から来られたイエス様ご自身から「いのち」、「生きる目的」、「希望」、「喜び」を頂く人です。ニコデモのような生き方を捨て、御霊によって新しく生まれたパウロはこう言っています。

私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 キリストにある者と認められるようになるためです。(ピリピ3:7–9)

私たち、海浜幕張めぐみ教会は、ライザップのようにキレキレの地上での人生を持っていなくても、天から来られたイエス・キリストが自分たちの望みであると確信しています。今年も、これからも、イエス様のことばに帆を張って、自分たちの望みであるイエス様にあって、生きて歩んできましょう。