2023年1月8日礼拝 説教「神の国とめぐみ教会」音声有

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*音声ファイルは11分頃からお聞きになれます。

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 歴代誌第一 I Chronicles 29:10~11
さ ん び Opening Praise 「全地よほめよ Great in Power」
さ ん び Praise 「主とともに」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌227番「ガリラヤの風」
聖書朗読 Scripture Reading マルコの福音書 Mark 1:14~15
聖書の話 Sermon 「神の国とめぐみ教会」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌346番「信仰の創始者」1~4節
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話「神の国とめぐみ教会」

 

マーク牧師が先週、新年にあたって、前年の振り返りと確認の説教をしてくださいました。私たちは、「新しく、天から、生まれなければならない」と聞きました。人形のピノキオが木造の人形として、人間になれなかったのと同じように、私たちも神様の働きかけがないと本物のクリスチャン、永遠のいのちを持つ人にはなれない、と聞きました。その時に聞いた聖書箇所、ヨハネの福音書3章3節では、イエス様のことばで言うと「人は、新しく(天から)生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

しかし、クリスチャンはなぜ、「神の国」を見たいと思うのでしょうか。そして神の国、王国とはどのようなことでしょうか。私たちは「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えられています。神の国を求めるべきなら、どうやってそれに与るかを知りたいと思いませんか。本日、「神の国」とは何かという観点から、今年にめぐみ教会が抱く目標を考えてみたいと思います。神様の選ばれた王様が登場され、罪人を神の王国に歓迎して、応答を求められるとイエス様が伝えてくださいますが、これが私たちにどのような喜びと目的と課題を与えるか、一緒に考えていきたいです。

マルコの福音書は、読まれた方がご存知のように、イエス様の生い立ちに触れずに、イエスが30歳程の時に突如として始まります。1章1節で「イエス・キリストの福音のはじめ」と言って、早速話を始めます。最初から最後までシーンが速いテンポで変わり、イエス・キリストについて知ってほしい要点を簡潔にまとめてくれる書き方をした福音書です。ただ、まずイエスのことでなく「バプテスマのヨハネ」が登場します。1章2節に書いてあるように、ヨハネの役目が書かれています。

「見よ。わたしは、わたしの使いを

あなたの前に遣わす。

彼はあなたの道を備える。」

「わたし」は父なる神様が語っておられます。「あなた」は、神様が遣わされる「主」また「王」のことです(マラキ3:1、イザヤ40:3参照)。マルコ書1章4節から11節までにヨハネが登場し、「私よりも力のある方が私の後に来られます」と王が来られることを予告していました(マルコ1:7)。しかし、1章14節でヨハネは投獄されてしまい、「主の道を用意」する役割(マルコ1:3)に幕が閉じられます。

しかし、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(マルコ1:14)クリスマスの説教では、ガリラヤ地方は「闇の中に住んでいた民」の土地でした。そこに向かってイエス様が語り始めます(マタイ4:16〜17参照)。イエス様が語り始められた「神の福音」が今日のテーマです。そのまとめを、15節からもう一度読みます。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「福音」ということばは何を意味するでしょうか。マルコはそれがイエス様に当てはまると認識して、用いたのですが、「福音」はイエス様の時代のギリシャ・ローマ文明で「朗報」、「良い知らせ」を意味しました。全般に用いられることもできましたが、多くの場合、国全体の幸福に関わること、具体的には、王や皇帝に関する良い知らせについて用いられました。例えば、戦いの勝利や王子の誕生のお知らせについて用いられました。マルコはこのことばを1章1節と14節で用いて、当時のユダヤ人や異邦人、また、現代の私たちにイエスが王であると教えます。

そしてイエス様が「神の福音」の内容をこのようにまとめられました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」まず二つの宣言があります。「時が満ち」たことと「神の国が近づいた」ことです。クリスマスに見たイザヤ書9章のような箇所では、罪と罪の結果としての霊的な死及びあらゆる悲惨からの救いと恵みの国が約束されていましたが、イスラエルの民がずっと待っても、まだ「時」が未来のことでした。しかし、イエス様が登場され、「時が満ちた」と宣言されます。要するに「神の国」の時が来ました。「神の国が近づいた」は「時が満ちた」を解説します。神の国はすでに近くまで来て、聞く皆の前で成就されていることを示唆します。

さて、「神の国」(神の「王国」とも訳せる)とは何でしょうか。聖書の中で非常に大切なテーマです。イスラエル人の聞き手もそうでしょうが、特にイエス様は旧約聖書の背景を思い出したはずです。旧約聖書では、その表現自体は頻繁に出ませんが、その現実と概念は旧約聖書の至るところにあります。

ただし、旧約聖書は二通りの使い方で神の国を取り扱います。一つ目の意味は、神様の絶対主権の下にある、全体的な王国です。神学的に言うと、一般的な摂理により、神が支配なさる、全地における王国があります。例えば、歴代誌第一の29章11節でダビデ王がこのように、主(ヤハウェ)に祈りました。「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。」神を王として認めない人々でも、神様によって支配されている訳です。どこに住んでもだれであっても、嫌でも、この「神の王国」に含まれています。

しかし、もう一方で、旧約聖書は「新しい創造」と言える、終末的な「神の国」をも予告していました(イザヤ65:17-18参照)。これは神様の救いと贖いという特別な摂理が入る領域です。旧約時代において、それはとても限られた形で、例えばダビデの王国で現れましたが、実態は未来のものでした。現れたら、それが拡大し、やがて全地を覆い、神様が聖めてくださる民がそれを受けるとも書かれました。そして神の選ばれた代表、「メシア」、ダビデの子孫がそれを治めることも示唆されていました(ダニエル7章、第一歴代誌17:14など)。

この王国を描く箇所の例は、クリスマス説教の箇所とその続きです。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。

ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、

その名は「不思議な助言者、力ある神、

永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、その平和は限りなく、

ダビデの王座に就いて、その王国を治め、

さばきと正義によってこれを堅く立て、

これを支える。今よりとこしえまで。…(イザヤ9:6〜7)

旧約聖書の背景から二つ目の意味の「神の国」を簡単に定義してみます。神の国は、神様が、選ばれた王を通して、新しく聖なる民を創り出し、治め、守ってくださるところです。旧約時代のイスラエルの聖徒たちはその兆しを、経験しながらも実態を待ちわびたり、待つのを諦めたりしました。やっと、イエス様がマルコ1章15節で、神の国が近くまで来たと仰せになります。

なぜ神の国が「近づいて来た」と言われたのでしょうか。王が治めている領域や人々のあるところこそが王国です。ですから、王国があれば、王がいるはずです。ナザレのイエスが神の国の王ですから、神の国がイエス様と共に到来しました。イエス様は病や悪霊に打ち勝ち、みわざと教えによって、王として王国を広げ始めました。イエスはマルコ9章1節で「ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます」と言えるほど、それがすぐその場まで近づいて来ていました。

ところが、神の民は神の国の完成をイエス様のご生涯の時代でも、今でも待っています。いつか、イエス様が王としての栄光を全てあらわして、再び地上に来られ神の国を完成させてくださいます。ですから、多くの神学者は神の国が「既に」ありながら「未だ」完成されていないと言います。神の国は今、現にあるのですが、完成された形には未だです。その栄光はまだ部分的にしか見えません。

ここで聖書を読み、疑問に思われるかもしれませんが、この「神の国」は私たち、海浜幕張めぐみ教会とどう関係するのでしょうか。「神の国=教会」でしょうか。微妙に異なります。マーク牧師の前回の説教の通り、神の国は「第二の創造」です。聖書の終わりに書いてあるように、天と地を含めた再創造が神の国に含まれています(黙示録11:15、21:1〜5)。ですから、教会だけではありません。しかし、引き離して考えることができません。教会は神様の集められた民と呼ばれる共同体であります。そしてそれは、神の国が一番はっきり見えるところ、組織でもあります。神の国の王であるイエス様が第二の創造を完成させるまで、地上にある、見える教会が神の国の中心の現れとも言えます。

教会は、たとえて言うなら、将軍か王のお城でもあり、王の民でもあります。お城を想像してみてください。城下町、またはお城に暮らす民は城の営みや構造で養われます。城の壁の外へ出て行って、それぞれの仕事や活動をできますが、その城に属してそこに安全があります。生きる意味と目的を与えるのは、ある意味でお城に住む王です。そして、そのお城から、地域に王の影響が及びます。お城が見えるから「ここに王が住む」と分かることもできます。

イエス様の支配がはっきりと見られる「ところ」は、イエス様が生まれさせてくださった共同体である教会です。ですから、以前の神の国の定義を「神様が、選ばれた王を通して、特に教会において、新しく聖なる民を創り出し、治め、守ってくださるところ」と補足することができます。教会に属する人は城下町の住民のように、神の国の民として、教会の生活と組織によって養われ守られます。色々な仕事や趣味が世の中にあっても、根本的なアイデンティティーは第一に王様、第二に王国と具体的にお城から来ます。城と教会が完全に一致する訳ではありませんが、何となくお分かりでしょうか。海浜幕張めぐみ教会と他の福音的な地区教会は、それぞれの地域で神の国の「お城」を成しています。

先週マーク牧師が言ってくださったように、「天から下られる御霊」が吹かれるところはイエス様のことばのあるところです。そして、教会でみことばの宣教で御霊が働かれると、この世では再現できないことが起きます。うわべだけの「良い人」(先週の「ピノキオ・クリスチャン」もそうです)を作ることはこの世には可能です。しかし、神の国はそれでは現れません。もう一方で、霊的に死んで、腐った人を造り変えて、神の国を相続できるようにする神様のみわざは、神の国の「民」また「お城」で期待できる奇跡です。新聞で報道されなくても、SNSで広がらなくても、神の国が教会を通して広がることは最もワクワクする出来事です。私たちがそれを今年、目の当たりにすることができるようにぜひ祈りましょう。

イエス様の福音メッセージに戻りましょう。マルコ1章15節後半がまだ残っています。それはイエス王の宣言に続く命令、また招きです。神の王国に加えて頂くための二つの条件です。まず、「悔い改め(なさい)」です。悔い改めは後悔ではなく、神様と罪に対する考えを変え、生き方を変えようとすることです。具体的に、イエス様のあわれみによって罪を憎み、捨てて、「神様に立ち返る」ことです。神の王国の民は王の律法に従う必要がありますが、まだ罪人です。神の国の民となるにも、民として歩むにも、悔い改めが必要です。心からの悔い改めは、私たちのうわべの罪の裏にあった願望や恐れをも吟味することです。私たちが神様より信頼し、切望し、恐れる「偶像」が何であるかを祈り求めて吟味して、それをも悔い改める必要があるかもしれません。(昨年、多くのセルグループで用いられた『福音中心の人生』がこれを分かりやすく取り上げます)。

しかし、悔い改めだけで良いとイエス様は言われません。厳密に言うと、神の国に入るためには悔い改めが基本ではなく、イエス様により頼む信仰が基本的な必須条件です。「福音を信じなさい」は、福音が指し示す王に信頼しなさい、ということです。「福音を信じ」るなら、必然的に神への悔い改めと神の国の市民らしい生き方が伴います(WCF14:2、15:3参照)。

福音を信じることは、神の国に入るために何もできない、神に対する反逆者であることを認めつつ、王様にお城まで担いで頂きたいと願うような話です。なぜなら、王に信頼することは自分への誇りを捨てることです。マルコ10章45節でイエス様は、ご自分が「人の子(ダニエル書7章で神の国の王者の名)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」とも言われ、民をご自身が身代わりの犠牲になって救い出すと予告もしてくださいました。私たちのプライドにとって、痛い話です。しかし、王なるイエス・キリストが御国を建て、それを表す「お城」、分かち合う「民」を建て、招いてくださっています。御霊が聖書にあるイエスのことばを用いて、働きかけ、招きに応答できるようにしてくださいます。

イエス・キリストによる神の福音は、イエス様にあって赦しがあるから悔い改めなさい、イエス様にあって神の国の栄光と希望があるから信頼しなさい、ということです。クリスチャンは今日も、今年も、この「福音」によって生きます。教会はこの福音によって存続します。イエス様は喜んで、悔い改めて信じる人を神の国に入れてくださいます。宣教の始まりのマルコ書1章15節から今まで、神の国へ招いておられます。

最後に、もう二つの適用があります。厳密に言うと、神の国を、私たちは来させることができません。神の国を建てることができません。しかし、「御国が来ますように」(マタイ6:10)と祈り求めて、御国のことを喜び伝えることができます。「サタンの王国を滅ぼしてくださるように(2)、恵みの王国を進展させ(3)、私たち自身と他の人々をそこに入れ、その中に守ってくださるように(4)、また栄光の王国を早く来たらせてくださるように(5)、」

そして、他の人がみことばを聞き、聖霊の働きによってイエス王の国に入れられるような機会を差し出すこともできます。旧約聖書でも、神の国の民には主の栄光を告げ知らせる特権が書かれていました(詩篇145:10-12)。新約聖書では、ペテロがある教会に対して書いたように、

あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

ですから、海浜幕張めぐみ教会の皆様。2023年にも、神の国の一部として置いていただいた私たちは、共同体として、できることは四つあります。①悔い改め続けて、②信じ続けましょう。この二つを踏まえて、③神様に「御国が来ますように」と祈り求めること④イエス王を告げ知らせることとができればと願います。2023年に、神の国の民の一部として、KMGCが歩めますように。