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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヨハネの手紙第一 I John 2:21・24~25 |
さ ん び | Opening Praise | 「こころに感謝を持ちながら」 |
さ ん び | Praise | 「主の十字架に〜The Wonderful Cross」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌391番 「主と主のことばに」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記Genesis 20:1~18 |
聖書の話 | Sermon | 「神様とアブラハムの嘘」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌322番「こひつじ主イェスの」1-4番 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教「神様とアブラハムの嘘」
子どもたちに聞きますが、手を挙げなくてもいいですよ。皆さんは嘘をついて、それが「バレた」ことがありますか?または、一回バレたけどまた嘘をついて、それもバレたことがありますか?本当に恥ずかしいですが、私はあります。そして、今日の話は、アブラハムの嘘が、一回だけじゃなく、二回も、同じようにバレた話です。子どもたちにもう一つ、質問します。「嘘をつく」とは何ですか?例えば、お母さんに「今日のお弁当、全部食べたの?」と聞かれて、本当はブロッコリ−–を残したのに、「うん!全部食べたよ!」と言ったなら、それは、「嘘をついた」ことになりますね。でも、他にも別の嘘のつき方があります。「お弁当全部食べたの?」と聞かれて、「うん、ご飯とハンバーグは全部食べたよ!」と言うことも嘘になるのです。「え?間違ったことは言ってないよ!」と思う人もいると思いますが、神様にとって、本当のことを隠すこと−–つまり、お母さんにブロッコリーを残したことーを隠そうとしたことは変わらないのです。
アブラハムや私たちが人に「本当のことを隠したい」、「嘘をつきたい」という理由は、本当のことがバレたら、どうなるかわからなくて怖いからです。「怒られるかもしれない」、「嫌われるかもしれない」、「苦しくなるかもしれない」などといういろいろな恐れがあると思います。アブラハムも、私も、同じような恐れがあるので、嘘をついてしまいます。しかし、その恐れの裏には、「神様と周りの人が私を愛してくれない、守ってくれない」というもっと大きな恐れがあるのです。ですから、その大きな恐れを取り除くために、神様は、アブラハムの嘘をバラし、アブラハムに本当のことを教えられたのです。アブラハムが苦しいときを通っていたとしても、アブラハムが本当のことを隠そうとしても、アブラハムの隠したい事実がバレたとしても、神様は変わらず、力強くアブラハムを愛してくださるということをはっきりさせました。ですから、アブラハムも、私たちも、本当のことを隠す必要はありませんし、恐れる必要もありません。本日の聖書箇所をゆっくり確認しながら、覚えていただきたいことについてお話したいと思います。
創世記の話はもう一カ月ぶりなので、簡単に復習します。アブラハムの話は12章から始まります。創世記12:1-3で、神様はアブラハム家に想像を絶するような約束を与えられました。それは、①アブラハム家を「王家」にすること、②アブラハム家を数え切れないほどの大きな「民」にすること、③アブラハム家を永遠の安息を得ることができる「約束の地」に住まわせること、でした。約束を頂いたアブラハムは、最初は信仰をもって歩みましたが、カナンの地で激しい飢饉に陥って、神様の約束の成就を持ち望むことをあきらめてしまい、潤っているエジプトに「しばらく滞在する」ということにしました(創12:10)。しかし、エジプトは危険な場所だったので、アブラハムはサラが妹であると嘘をつきます。しかし、アブラハムのウソによって、妻サラは強引にエジプトの王に取られてしまい、アブラハムとサラが最も恐れていた結末に陥ってしまいました。しかし、神様はアブラハムとサラをこの取り返しのつかない状態から救い出されました。臆病なアブラハムは自分の妻を守ることもできず、神様との約束を信じ切ることもできませんでしたが、神様は誠実に約束を守られ、アブラム家を力強く救ってくださいました。
厳密には言えませんが、その出来事から約10-20年後に、神様は18章14節で「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている」と約束されます。しかし、このように「恵みの約束」を頂いたのにもかかわらず、先ほど読んだ聖書箇所からわかるように、自分とサラを守るために、アブラハムは周りの人にお互いが「兄弟姉妹」であると嘘をついていました。つまり、創世記12章のエジプト事件と同じように、創世記20章でもアブラハムは神様を疑い、また全く同じ嘘をついたのです。
しかし、20章の最初の一節にはかなり重要なことが書いてあります。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに寄留していたとき…」(20:1)と20章が始まります。12章のエジプト事件と、20章の出来事で、アブラハムは似たような罪を犯してしまうのですが、その前提と背景は違います。12章では、アブラハムは約束の地に住むことをあきらめて「しばらく滞在する」(12:10)ためにエジプトへ行きますが、20章では、ゲラルに一時的に「寄留する」ために行ったということがわかります。理由ははっきり書いてありませんが、遊牧民であるアブラハムは、羊や羊毛を売るために比較的海に近いゲラルへいって、また荒野での天幕生活を続けることを考えていた可能性が高いのです。つまり、12章のアブラハムの信仰と20章のアブラハムの信仰の深さは全く違うとも言えます。
12章のアブラハムは、エジプトの心地いい生活、富、権力に惹かれて、荒野の天幕生活を諦めましたが、エジプト以来、アブラハムは別人のように、深い信仰をもって神様とともに歩みました。創世記13章以降、アブラハムはエジプトで味わえた生活、富、権力に誘惑されず、神様が約束された永遠の「王家」、「王国」、「約束の地」を待ち望みながら、辛い荒野の天幕生活を続けました。24年間も子どもが与えられなくても、カナンでの土地が与えられなくても、信仰をもって約束の成就を待ち続けたのです。創世記12章から20章の間には、アブラハムとサラのいろんな罪を見せられ、私たちもいろいろ指摘することはできますが、彼らの忍耐深さに勝る人はあまりいないと思います。ですから、20章のアブラハムが12章と同じように罪を犯したとしても、アブラハムの信仰の成長を疑うことはできません。
いずれにせよ、アブラハムが12章と同じ罪を犯したことには変わりありませんし、私たちも、そのことを理解する必要もあります。ゲラルに着いたときに、アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」(20:2)と言ってしまいます。つまり、12章でアブラハムの「嘘」によって、エジプトの王が強引にサラを自分の妻にしてしまったのにもかかわらわず、20章でもアブラハムはまた同じ嘘をついたのです。アブラハムは、神様の御力によって何回も守られたのにもかかわらわず、周りの人を恐れ、以前と同じ様に嘘をついたのです。
しかし、この出来事には予想外の展開があります。この嘘は「単発的」なものでもなく、また、思いつきの「嘘」でもありませんでした。20:13を読むと、アブラハムは「私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言ってほしい」とサラに言っていたのです。つまり、エジプトだけではなく、また、ゲラルだけでもなく、アブラハムは今まで同じ様な嘘をついてきたのです。そして、「サラは私の妹です」という『嘘』は、思いつきの嘘ではなく、本当のことを言いながら、人をごまかすような打算的な嘘でした。なぜなら、サラは、腹違いの妹であり、アブラハムの父の娘だったからです。(のちのモーセの律法ではこのような関係は禁じられていましたが(レビ18:9,11; 20:17; 申命27:22)、当時の倫理観では許されていたということです。)アブラハムが本当のことを言っていたのにもかかわらず、最も重要な真実−–サラが妻であったこと−–を言わなかったことがいけなかったのです。要するに、アブラハムの信仰は深まりつつありましたが、はじめに持っていた古い罪の傾向がまだ残っていたということです。
アブラハムがそのように嘘をついたのにもかかわらず、アブラハムとサラは神様の恵みによって守られました。しかし、創世記20章で神様はアブラハムがさらなる罪を重ねるのを止められました。“アブラハムは、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。”(20:2) つまり、アビメレクは、エジプトのパロのように、サラを強引に自分の妻にしようとしたのです。しかし、“その夜、神が夢の中でアビメレクのところに来て、こう仰せられた。「見よ。あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ。」” (20:3) 要するに、神様はアブラハム「を呪う者をのろう」(12:3)と約束されていたので、アビメレクに警告されたのです。しかし、アビメレクは、知らずにしたことだったので、神様は、アビメレクをあわれんで、悔い改めるチャンスをお与えになりました。そして、12章のエジプト事件とは違い、「アビメレクは、まだサラに近づいていなかった」(20:4)ので、アビメレクとサラも「姦淫の罪」から守られました。そして、アビメレクは神様の警告に対してこのように応答します。「主よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。 彼が私に『これは私の妹です』と言ったのではありませんか。彼女自身も『これは私の兄です』と言いました。私は、全き心と汚れのない手で、このことをしたのです。」(20:4-5)
20章でのアビメレクの応答は、19章のソドムの応答とは全く違います。まず、神様が現れたとき、アビメレクはすぐに恐れおののき、敬意をはらって、神様を「主」として呼びました。頑なで、傲慢なソドムと全く逆の反応です。次に、自分の誠実さと「義」を主張し、神様の正義の判断を求めました。「主よ、あなたは正しい国民さえも殺されるのですか。」と言う質問は、「私たちはソドムと同じような罪を犯していないのに、なぜ私たちをソドムと同じように裁かれるのですか?」という意味なのです。そして、すべてを見ておられる正義の神様は、「そのとおりだ。あなたが全き心でこのことをしたのを、わたし自身もよく知っている」(20:6)と答えられ、アビメレクに悔い改めるチャンスをお与えになったのです。そして、アビメレクは、ソドムと全く違って、何もためらうこともなく、すぐに義をもって行動しました。「翌朝早く、アビメレクは彼のしもべをみな呼び寄せ、これらのことをすべて語り聞かせ」(20:8)ました。そして、アブラハムを呼び寄せて、「あなたは何ということを私たちにしたのか。私がいったい、罪となるどんなことをあなたにしたというのか。あなたが、私と私の王国に大きな罪をもたらそうとするとは。あなたは、してはならないことを私にしたのだ」(20:9)と言いました。ここではっきり言えるのは、偶像崇拝者であるアビメレクとゲラルの民は、アブラハムよりも「姦淫の罪」の罪深さを理解していたということです。
しかし、創世記20章にはアブラハムが25年間も嘘をつき続けた理由がはっきりと書いてあります。まず一つ目。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。」(20:11) その理由を初めから聞いていたら、納得できると思いますが、それはエジプト事件のきっかけにもなったアブラハムとサラがついた嘘の理由と全く同じです。彼らが25年間も嘘をつき続けたもう一つの理由とは。「神が私を父の家から、さすらいの旅に出されたとき…」(20:13)の一言で、アブラハムの心の内に秘めたフラストレーションが伺い知れます。「神様が、愛する父の家から、私たちを何のあてもなく、荒野でさまよわせるように、ウルから出された…」というニュアンスもあると思います。「神様が私たちを見放された」という気持ちだとも言えます。
しかし、アブラハムの歩みを知っている創世記の読者は、この二つの理由を聞いても納得しないと思います。25年も荒野で寄留している間、アブラハム家はだれかに襲われたこともありません。エジプトでの事件があったとしても、最終的に神様は力強くパロを倒し、アブラハム家をパロの圧政から救いだしてくださいました。北同盟がカナンにある王国に侵入し、植民地にされても、アブラハム家は平和に過ごしていました。そして、アブラハムが自分の甥っ子を北同盟の強大な軍から救い出したときも守られたし、ソドム王の脅しからも守られました。神様が25年間もアブラハム家を守り続けてくださっていたにもかかわらず、アブラハムは25年間も周りの王国に殺されるかもしれないという恐れに囚われていたのです。「神様は守ってくださらない」という疑いの思いを隠して、「自分の恐れと弱さを自分の嘘で何とかマネージしよう」と思っていたアブラハムとサラだったとも言えます。
しかし、神様はアブラハムとサラが隠し続けた真実を明らかにされますが、皮肉なことに、それを通して神様はアブラハムとサラにもっとも必要な真実−–神様が彼らを愛され、守られ、見放されなかった事実−–を教えられたのです。アビメレクは、すぐにサラをアブラハムに返しました。そして、神様の恵みによって、アビメレクはアブラハム家に富を与え、住む所を与えました。そして、サラの名も守られました。つまり、神様はいつも通りに守ってくださり、祝福してくださったので、アブラハムとサラは怖がる必要もなかったのです。アブラハムが嘘をつき続けたとしても、神様は恵みを与えてくださいました。そして、最後に、神様は、アブラハムを通して、アビメレクにも救いを与えられます。
そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。 主が、アブラハムの妻サラのことで、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたのである。(20:17-18)
ゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻を奪い取ったせいで、神様は「アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じ」られたのですが、アブラハムの祈りによって、全ての人の胎が癒されたのです。神様は「いのち」と「死」を与える主であり、それは、アブラハム家を見捨ててはおられないという証拠でもあります。この癒しの奇跡を通して、神様がアブラハム家とともにおられるという事実をはっきりとアブラハムに見せておられます。神様が、このようにアビメレク家の女性の胎を閉じて、開くことがおできになるなら、サラの胎をも閉じ、また、開くこともおできになります。
アブラハムとサラの信仰が未熟な「ベビークリスチャン」だったときに犯したとんでもない罪を、25年後にまた犯した時、神様はどうされたのでしょうか?次の2節はその答えです。「主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。 サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」(21:1–2)つまり、アブラハムとサラは全く恐れる必要はありませんでしたし、自分たちが隠していたことを公にされたとしても、神様は約束通りに恵みと救いを彼らにお与えになったのです。
では、このアブラハムの20章から何が学べるでしょうか?三つ言えることがあります。皆さんは、何かを隠し続けていることがありますか?それは何でしょうか?アブラハムの話から、私たちが真実を隠し続ける理由は、真実が明らかになったときに、神様に置き去りにされることを恐れるからかもしれません。
アブラハムのように嘘をついた、臆病な弟子もいますね。イエス様が囚われた時に、ペテロはもちろん信仰を持っていましたが、怖くなりました。これから何が起こるかは全くわからず、自分のいのちを守るために、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と3回も聞かれたときに、ペテロは「違う」と言い続けました(ヨハネ18:17)。なぜなら、イエス様は、死んでよみがえると約束してくださいましたが、イエス様は自分のことは守ってはくださらないと思ったからだと思います。
私たちはどうでしょう。周りの人から真実を隠している理由。いい顔を見せて取り繕っている理由。自分の「素」、または醜い、弱い自分を隠したい理由。自分の間違い、不安、悩みなどをそのまま言えない理由。それはなぜでしょうか?それは真実が明らかになったとき、神様に、または、周りの人に置き去りにされることを恐れるからかもしれません。では、私たちはどうすればいいのでしょう。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(1ヨハネ4:18–19) 要するに、全き愛で恐れを締め出す方法は、私たちが神様の全き愛、神様の約束をまず思い出す必要があります。
しかし、どのようにそれを思い出せば良いのでしょうか?アブラハムの話から、次のことが言えるでしょう。私たちは同じ様に罪を犯し続けたとしても、イエス様は、愛をもって真実を明らかにされ、私たちにさらに恵みを注いでくださいます。
「恵み」は、罪の事実を無視することや隠すこと、ただ見過ごすことではありません。「恵み」とは、まず、愛をもって真実を明らかにすることです。アブラハムの嘘を明らかにしたのは、アブラハムでも、アビメレクでもありません。神様ご自身だったのです。これはアブラハムに傷を与えるためではなく、アブラハムに恵みを与えるためでした。医者が癌を取り除く手術を行うように、神様は、アブラハムの嘘の裏にある、長年抱え続けていた神様の愛に対する疑いを掘り起こして、表に出されたのです。そして、執刀医はメスで体を切りますが、必ず切ったところを縫い閉じます。同じように、神様は罪という真実を明らかにされる時、必ず恵みをもって癒されます。神様は、アブラハムの嘘を表に出されたとき、嘘という罪の事実を否定せず、罪人のアブラハムに恵みを注がれました。アビメレクの裁きからアブラハムを守り、アブラハムに妻サラを返し、アビメレクを通して銀千枚を与え、約束の地での住む場所をお与えになったのです。つまり、アブラハムに「あなたは恐れる必要はない。わたしはあなたが思っている以上にあなたを愛し、あなたを力強く守る。あなたを置き去りにはしない」と愛をもって真実を語られたのです。
イエス様も同じ様に弟子たちと接してくださいました。イエス様が十字架にかけられて弟子たちがイエス様を裏切り、弟子たちの心の中の疑いと不信仰と嘘が公になったとき、イエス様はペテロと弟子たちを置き去りにされたでしょうか?いいえ。イエス様は、弟子たちの所に戻り、彼らのためにご飯をつくり、更なる恵みを注いで下さいました。その上、イエス様は私たちの罪を否定されませんし、隠そうともされません。イエス様は3度も裏切ったペテロに3度も「あなたはわたしを愛していますか」と、ペテロの嘘の罪を明らかされました。しかし、そのあとで、「わたしの羊を飼いなさい。」と赦しのことばをお与えになられたのです。(ヨハネ21:9-17)
私たちはどうでしょうか?何度も、何度も、同じ様な罪を犯したことはありませんか?恥ずかしくて、それを隠したいと思ったことはありませんか?イエス様は十字架の死によって、私たちの罪を明らかにされました。私たちの罪はイエス様を十字架にかけるほど大きいものであることを、全世界に明らかにされたのです。しかし、それだけではありません。イエス様が私たちに注がれる恵みは、その罪よりも大きいことも明らかにされました。ですから、十字架上のイエス様の全き愛を忘れないようにしましょう。
最後に覚えていただきたいのは、神様から恵みを頂いた罪人より、未信者の隣人のほうが「義」があるという恥ずかしい現実もあるということです。ですから、その真実を隠さず、十字架の愛に希望を置いて、恐れる事なく悔い改めましょう。
この聖書箇所は、神様とアブラハムの関係がメインなのですが、やはりアビメレクの振る舞いが非常に印象深いと思います。なぜなら、この箇所を読むと、聖書の神様を信じるアブラハムよりも偶像崇拝者のアビメレクのほうが「義人」だからです。アビメレクは、アブラハムよりも、サラの純潔を熱心に守りました。アブラハムよりもアビメレクの方が神様を恐れ敬い、誠実に、義をもって、神様が求めておられることを成し遂げていました。また、この箇所を読むと、アビメレクがアブラハムに主が求められておられることを教えているようにも感じることができます。しかし、この対比は、神の民の現実をよりクリアにするためでもあります。神の民は「神の義を果たす者の集まり」ではないのです。神の民は「神様から恵みを頂いた罪人の集まり」なのです。ですから、未信者のアビメレクがアブラハムの罪を指摘し、正そうとすることに対して、私たちは驚く必要はありません。同じように、もし私たち自身が、また私たちのキリストにある兄弟姉妹や教会が、未信者の隣人以上に義を行うことができないような場合、または、罪が指摘されるような場合、私たち自身が驚くことはありません。そして、私たちはアブラハムのように変に、真実を隠したり、自己弁護する必要もありません。十字架上でのイエス様の全き愛を確信し、恐れることなく正直に真実を明らかにし、ただ主の恵みに期待して、悔い改めていきましょう。