2023年2月12日礼拝 説教「ピレモンへのチャレンジ」音声有

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙 Colossians 1章28節~2章3節
さ ん び Opening Praise 「栄光から栄光へと」
さ ん び Praise 「その日全世界が」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美 355番 「私の望みは
聖書朗読 Scripture Reading
聖書の話 Sermon 「ピレモンへのチャレンジ」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌230番「確かなもとい ただ主に置き
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇 Psalm 23より

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)「ピレモンへのチャレンジ」

 

子どもたちにまた質問です。自分ではわかっていると思ってたことが、だれかにそれについて質問されたら、全然わかっていなかったことに気がついたというようなことがありますか?私はよくあります。例えば、牧師になるためには、牧師になるための試験に合格しなければなりませんでした。ですから、神学生の1年生からある教会の牧師(Nutting先生)の下でいろいろ訓練を受けながら、試験の準備をしました。私は神学校でまあまあいい成績をとっていたので、最初は自信満々でした。でも、私が1年生の時、試験の準備のために、その牧師が私に色んな基本的な質問をしてくださいました。例えば、「マーク、『十戒』を知っていますか。」「もちろんです。」「じゃあ、言ってみて。」「え、今ですか。」「はい、そうです。」「えっと…。」私は十戒の順番も具体的なことばも暗記していなくてかなり苦労しました。Nutting先生のチャレンジによって、私の理解の浅さを思い知らされ、もっと理解を深めなければと思い始めました。

今日の聖書箇所はそのような場面です。パウロ先生と優等生の弟子ピレモンの話です。ピレモンは非常にいいクリスチャンでした。もちろん、ピレモンは「福音」もしっかり知っていたし、信じていました。しかし、このピレモンの手紙でパウロはピレモンの福音の理解を試し、深めようとしました。「ピレモン、あなたは福音を知っていますか?」「パウロ先生、はい、もちろんです。」「そうか、じゃあ、福音は何ですか?」「イエス様の十字架を信じることによって、神様の赦しと和解をいただくことです。」「そのとおりです。じゃあ、それを信じているかどうかを試します。あなたを裏切って、あなたからお金を奪った奴隷のオネシモと和解しなさい。」「え!なぜですか?」「神の赦しを頂いた者は、人を赦すことができるからです。」と、パウロはピレモンにチャレンジを与えるのです。パウロのチャレンジの目的はピレモンを戒め、恥をかかせるためではありません。パウロの目的は、ピレモンの福音理解をさらに深め、イエス様の素晴らしさをますますピレモンが見えるようにすることでした。今日は、パウロの「ピレモンへのチャレンジ」を見ながら、皆さんに覚えて頂きたいことを分かち合いたいと思います。

 

新約聖書の中には様々な本があり、様々なジャンルがあります。福音書や使徒の働きは、イエス様やイエス様が召したリーダーたち(使徒)がどのように福音を宣べ伝えたかを記録している「救いの歴史」です。そして、もう一つのジャンルは「手紙」です。イエス様に召されたリーダーたちがある教会に手紙を送って、教会の兄弟姉妹を励ましたり、教理やクリスチャンの生き方の基礎、また、教会の枠組みや運営の枠組みなどについて教えたりしました。また、ある難しい案件にアドバイスを与えたり、教会の教えや歩みを正したり、教会の将来について預言するような手紙もありました。「ピレモンへの手紙」は、使徒パウロがコロサイに住んでいた「ピレモン」という教会のリーダーに送った手紙です。

初代教会の一人のリーダーとしてパウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン1)として、ローマという町から手紙を書いています。使徒28章ではパウロは自宅軟禁されていて、自分の裁判を待っていました。パウロは、「まる二年間、自費で借りた家に住み」(28:30)、パウロが逃げられないようにローマ兵と鎖でつなげられていました。そして各教会に様々な手紙を送りながら、訪ねて来る人たちにイエス様について教え、「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」(28:31)ていました。そこには、パウロの共同労働者であった兄弟テモテ(ピレモン1)がともにいて、パウロが手紙の内容を口頭で言うのを、テモテが手紙にして書き記していたようです。

ピレモンへの手紙は、「私たちの愛する同労者ピレモンと、姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ」 (ピレモン1-2節)と冒頭に書いてあります。この人たちとこの教会は「コロサイ」という町にありましたが、実はパウロはコロサイへ行ったことがありませんでした。コロサイという町は、「エペソ」という大都市に近い、中くらいの町でした。「東京都」から少し離れた「千葉市」という感じかもしれません。パウロは「エペソ」で数年奉仕したことがあり、そこでコロサイ出身の人たちと出会い、彼らはクリスチャンになりました。コロサイ教会を開拓したエパフラス(コロサイ1:7)もその一人で、ピレモンもエペソでパウロと出会ってクリスチャンになった可能性が高いと言われています。

「ピレモン」は「家」を持っている「愛する同労者」と書いてあります。初代教会の99%の人たちは貧しい人たちでした。その当時、「家」を持っているということは、「一戸建て」や「マンション」を持つということではなく、21世紀の私たちの感覚で言うと、「大豪邸を持つ」というようなことでした。当時の「家」は、家族や親戚、奴隷も含め、平均で27人が共に住んでいたので、そのような「コミュニティー」として住むことができる敷地のようなところが「家」でした。ですから、お金持ちのピレモンが、教会として集まれる場所として、自分の大豪邸である「家」を開放し、主と兄弟姉妹にささげたということです。そして、このピレモンがパウロの「愛する同労者」であるということは、過去にパウロと共に同志として、御言葉と教会開拓の働きをした人であると言えます。ですから、パウロは、「いつも【ピレモン】のことを思い」(4節)、神様に感謝していたのです。

ピレモンはこの教会の牧師であったかどうかははっきり書かれていませんが、かなり重要なリーダーであったと言えますし、教会に大きく貢献していた兄弟であり、信仰の模範となった人でした。4-7節を読むと、ピレモンの歩みについて学ぶことができます。ピレモンの「主イエスに対して」抱いている「愛と信頼」(5節)についての報告は、ローマにいるパウロに届くほどの素晴らしい証しでした。そして、神様に対する熱い愛だけではなく、「聖徒たちが安心を得」(7節)られるような、兄弟姉妹に対する愛も持っていた兄弟でした。具体的にどのようなことをしたかはわかりませんが、「聖徒たちが安心を得た」という表現は「聖徒たちの魂を生き返らせた」、「悩み悲しんでいた聖徒たちの心に安らぎを与えた」というニュアンスに訳すこともできます。それは、ピレモンの御言葉の働きによって霊的に励まされたと捉えることもできるし、物質的に兄弟姉妹を助けたというふうにも捉えることもできますが、ピレモンが兄弟姉妹の「魂」または「心」の奥底にまで安らぎを与えるほどの愛を持っていたということがパウロの喜びでした。つまり、宣教師として、神学者として、牧者として、パウロは、自分の弟子が何人伝道したかとか、どれほど適切に聖書を学んでいるのかとか、牧会している教会がどういう活動しているのかなどからではなく、「(ピレモン)の愛によって多くの喜びと慰め」(7節)を得ていたのです。ですから、ピレモンはパウロの良き弟子であったと言えます。

しかし、パウロがピレモンに手紙を送った理由は、ある「人間関係の課題」があったからです。ピレモンの奴隷「オネシモ」が何らかの理由で、ピレモンの家から逃げ出し、パウロと出会い、オネシモはピレモンのようにクリスチャンになりました。当時の文化では、家には、もちろん、車や電気や家電や機械など「自動」で動くモノはなかったので、自分の生活や社会を「自動化」するために、また、都市を発展させるためには、奴隷は欠かせませんでした。ローマ時代の都市は約3分の1以上は奴隷だったと言われています。奴隷というのは、一家の一員でしたが、主人の「モノ」でした。みなさん、自分の「モノ」が壊れてしまったら、どうしますか?処分するのは当然ですよね。ですから、オネシモがピレモンの家から逃げ出したのは、信頼していた家族の一員に裏切られたという思いもありましたが、家長として非常に恥ずかしい問題でもあったし、もしオネシモを罰しなかったら、他の奴隷も逃げ出してしまうという問題もあったのです。ですから、ピレモンにとって、オネシモを「処分」するのは、手っ取り早い手段だったと思います。そして、社会的にも、当時の一般的な常識でもありました。

しかし、この手紙の主旨は17節と20節に書いてあります。「ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください…そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意(こうい)にあずかりたいのです。私をキリストにあって安心させてください。」

最後の「私をキリストにあって安心させてください」という表現は、先ほど読んだ7節と同じ表現なのです。「私の魂(心)を、キリストにあって、生き返らせてください(安らぎを与えてください)」という意味です。パウロはピレモンに「愛のチャレンジ」を与えているのです。「あなたが、愛で兄弟姉妹の心を生き返らせたように、私の心を生き返らせてください。オネシモと和解しなさい。つまり、私を愛するように、オネシモを愛しなさい」というチャレンジなのです。

パウロは、本題に入る前に、6節でこのチャレンジをほのめかしています。「私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。」 つまり、パウロが言っているのは、「もしイエス様が行っているすべての良い働きを理解するならーすなわち、オネシモがクリスチャンになったこと、オネシモがあなたと和解したいと思っていること、彼がコロサイへ戻りたがっていることーあなたの信仰の交わりがますます生き生きしたものになります」という意味なのです。

そして、パウロは、ピレモンとオネシモとの間の和解を促しているだけではなく、教会の兄弟姉妹をも励ましていると思います。それゆえ、この手紙は個人的にピレモンに宛てていますが、「姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会」にもこの内容が公示されているのです。なぜ個人的な和解をこのように公にしているのでしょうか?それは、教会のリーダーと彼の奴隷の個人的な関係と和解は、教会全体にも影響するものであり、この一つの和解によって教会全体に成長をもたらすことをパウロが期待していたからです。「それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、【教会は】愛のうちに建てられることになります」とエペソ4:16に書いてあります。

要するに、宣教活動で忙しくしているパウロ、初代教会の神学の土台を築き上げたパウロの望みは、「キリストのために」(6節)和解を求め、変えられた人間関係によって、ますますキリストを知ることです。その目的を、パウロはピレモンがいたコロサイにある各教会に送った手紙にこう書きました。

私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。 (コロサイ1:28-2:3)

パウロが「労苦しながら奮闘している」ゴールは、全ての人―ベビークリスチャンのオネシモ教会のリーダーであるピレモンーをキリストにあって成熟した者として立たせるためなのです。しかし、成熟する方法は、単に「キリストについて」勉強するではなく、また、単に「キリストのために」いろいろな活動をするのでもありません。パウロは、兄弟姉妹が「愛のうちに結び合わされて心に励ましを受」ることによって、「豊かな全き確信」が与えられ、さらに「神の奥義であるキリストを知る」ということを望んでいたのです。つまり、パウロがピレモンに「愛のチャレンジ」を与えた理由は、ただピレモンを鍛錬するためではなく、また、ただ壊れた人間関係を修復するためでもなく、私たちが兄弟姉妹をキリストにあって愛することによって、イエス様から頂いた和解を深く吟味し、イエス様をますます知り、イエス様に対する愛を深め、一人一人の信仰を、ますます「生き生きした」ものにするためなのです。

 

ではこの聖書箇所の内容を確認した上で、私たちは何を学べるのでしょうか?パウロのピレモンへの難しい「チャレンジ」から学べることを三つ分かち合いたいです。まず、一つ目。自分の「愛」と「信仰」に満足しているということは、キリストと自分の関係にも満足してしまっているということです。

私がパウロだったら、弟子であるピレモンの愛と信仰の模範を聞いて、「彼によって兄弟姉妹は励まされているし、惜しげもなく自分のモノを兄弟姉妹に分け与えているし、彼の教会も大きくなっているし、ピレモンは十分成長している。」と思ってしまうと思います。そして、もし自分がピレモンだったら、他の信徒と自分を比べ、自分の信仰と愛の成長に満足し、「これぐらいの成長でいいや」と心の中で決めてしまって、信仰生活もマンネリ化するかもしれません。しかし、その裏には、自分の求める「愛」と「信仰」の成長度合が、「平均以上の愛と信仰があれば、また、みんなが認める輝かしい実があれば、大丈夫」というような、最低限の成長で満足してしまうような心があると思います。しかし、パウロにとって、私たちの「愛」と「信仰」が成長する目的は、ますます「神の奥義であるキリストを知る」ことです。それゆえに、パウロは「最低限のラインを保っているかどうか」ではなく、「最大限に、彼らにイエス様を宣べ伝えたい」というふうに考えるのです。ですから、パウロはピレモンの模範に喜びながらも、ピレモンの成長には満足しておらず、ピレモンがキリストをますます知るために成長する機会を与えたのです。そのために、パウロは「労苦しながら奮闘している」のです。それがパウロの喜びなのです。

パウロの喜びの根源を見ると、私たちが教会として活動している理由、毎週日曜礼拝に来る理由、セルに通う理由、奉仕する理由、デボーションや祈る理由が明らかになります。その理由は、「豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるため」(コロサイ2:2)、「キリストにあって成熟した者として」立つため(コロサイ1:28)なのです。知識を得たり、良いことをしたり、何かを達成したりするクリスチャンとしてちゃんとした生き方をすることがモチベーションなのではなく、「キリストをますます知る」ことがすべてのモチベーションなのです。「イエス様を知る」というモチベーションが抜けてしまうと、私たちの信仰生活はマンネリ化しますし、「最低限のライン」をただ捜し始めるのです。もし、ピレモンの信仰のモチベーションがそのようだったら、パウロのチャレンジを受けた彼ははすぐに諦めたか、すぐにその手紙をごみに捨てたか、どこかにしまい込んでその手紙の存在を忘れてしまったかと思います。しかし、この個人的なやり取りが新約聖書に記されているということは、ピレモンが自分のキリストとの関係に満足せず、「キリストをますます知る」ために手紙を自分の教会の兄弟姉妹にも読んで、全力でパウロを「キリストにあって安心させる」(ピレモン1:20)ために、愛の業に取り組んでいたのだと思います。皆さんは、「キリストをますます知る」ために、兄弟姉妹を積極的に愛していますか?

そこで二つ目のポイントです。キリストにあって成熟する者になるためには、単独の修行ではなく、キリストの家族としてぶつかり合って和解し、一つのからだとして愛し合うことが不可欠です。

現代の個人主義や日本の「資格・受験社会」に囲まれている私たちにとっては、キリストにあって成長することは、自分で勉強し、自分で自分を磨くようなイメージが自然に思い浮かぶかもしれません。しかし、イエス様の花嫁は一人一人ではなく、教会という共同体が「花嫁」なのです。ですから、イエス様は、私たち一人一人の成長を見ておられるのではなく、教会を一つのからだとして、成長しているかどうかを見ておられるのです。パウロはよく教会を「からだ」としてたとえていますが、もし教会が12歳の子どものからだであれば、左足が27歳の大人の足で、右足が3歳児の右足のまんまだったら、本当に不自然ですし、むしろ、不健康だと言えます。教会がキリストにあって成熟する者になるためには、からだの各部分がお互いに助け合って、ともに成長する必要があるのです。しかし、そう言うと、仲が良くて、何の葛藤もない、フレンドリーな家族を思い浮かべるかも知れませんが、罪人の「信仰の交わり」でお互いを愛そうとするなら、ぶつかり合いと和解は大前提です。むしろ、「愛をもって真理」をお互い語り合っての和解がなければ、「かしらであるキリストに向かって成長」できないということです(エペソ4:15参照)。

しかし、なぜ反目(はんもく)する相手と和解することが「イエス様のことを最も知ることが出来るとき」なのでしょうか?それが、最後の適用のポイントです。「兄弟姉妹との和解を通して、キリストがあなたを赦すためにどれほど犠牲を払って下さったのか、赦しを受けるとはどれほど喜ばしいことなのかを味わうことができるのです。」

ピレモンの説教シリーズで和解について具体的に確認しますが、パウロはピレモンにこのように和解を促します。

ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。 (ピレモン1:17-19)

ちょっと嫌らしい和解の促し方ですよね。「オネシモと和解しなさい。そして、オネシモの借金は、私が償います。だけど、ピレモン。あなたが私にもっと負債があることは言わないよ」とパウロが促しています。私は「負債があると言ってるじゃないか!」とツッコミたいのですが、実は、パウロの和解の促し方は、神様が私たちにの和解を促し方でもあります。神様は「A兄弟、B姉妹と和解しなさい。その人の借金は、私は十字架で償います。だけど、マーク。あなたが私に数兆円ぐらいの負債があることを言いません」とおっしゃるのです。パウロはイエス様が私たちに与えた和解をこのように描写しています。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 (2 コリント8:9)

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。 (2コリント5:21)

ですから、金持ちのピレモン、義人のピレモンには、奴隷のオネシモ、罪人のオネシモを赦さないと言う選択肢はないのです。なぜなら、イエス様から見ると、ピレモンこそが貧しく、罪に支配された奴隷だったからです。パウロは和解を促すことによって、イエス様があなたをどのように赦してくださったかを忘れるな!イエス様から頂いた福音をより深く味わいなさい!自分の福音理解に満足しないで!とピレモンに言っているのです。

皆さんは、キリストにある兄弟姉妹に、自分から本気で赦しを求めたことがありますか?または、本気で誰かを赦したことがありますか?つまり、自分でも赦せないほどの罪について、誰かに赦しを求めたことがありますか?だれかの、赦すことができないほどの罪を心から赦したことありますか?本当に難しいですよね。そのようなとき、十字架の愛を理解していなかったら、誰かに罪の赦しを求めることはできませんし、相手を赦すこともできないでしょう。赦しを求める人にとっても、赦しを与える人にとっても、これは非常に難しい、犠牲の多い、リスクの高い、恥ずかしいプロセスだと思いますが、イエス様と自分との間の和解の「良い知らせ」をより深く味わうことができる機会です。また、十字架のすごさを違う角度から見ることもできます。ですから、私たちはキリストにある家族として、互いに和解をしながら、キリストにあって成熟した「家族」として立っていくことができるように祈りましょう。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church