2023年2月19日礼拝 説教「自分の十字架を背負ったアブラハム」音声有

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship イザヤ 40:28-31
さ ん び Opening Praise 「おどろくばかりの〜罪とがを自由にされて Amazing Grace (My Chains Are Gone)」
さ ん び Praise 「その日全世界が」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 40番 「父の神の真実」
聖書朗読 Scripture Reading 創世記 Genesis 21章8~34節
聖書の話 Sermon 「自分の十字架を背負ったアブラハム」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 353番 「あなたこそ我がのぞみ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇16篇より マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)「自分の十字架を背負ったアブラハム」

今朝も、この聖書箇所から、子どもたちのためにある話をしたいと思います。ちょっと怖い話になるかもしれませんけど、よく聞いてくださいね。皆さんは、「信仰告白準備クラス」または「洗礼準備クラス」と言う言葉を聞いたことがありますか?クリスチャンになりたいとき、牧師と何回か学びをするクラスです。そして、そのクラスで学び終わったら、洗礼を受けることもできます。そして、幼児洗礼をすでに受けた人は、パンとぶどうジュースをいただくことができるようになります。昔、ある牧師が数名の子どもたちのために信仰告白の準備クラスを行っていました。そして、最後のクラスで、信仰告白をしたい子どもたちを動物園に連れて行きました。牧師は子どもたちをライオンがいる檻の前に立たせました。びっくりするかもしれませんが、これはクリスチャンをいじめていた国で起こった本当の話です。牧師はこう言いました。「聖書の中の、あなたたちの信仰の大先輩は、イエス様を信じていたために、このようなライオンがいる檻に投げ込まれました。あなたたちはライオンの前に投げ込まれはしませんが、ライオン以上にあなたを痛い目に会わせるかもしれない人間の前に投げ込まれるかもしれません。さあ、ここでイエス様を信じるかどうかを決めなさい。」すると、子どもたちは泣きながら信仰告白をしました。子どもたちにとって、少し怖い話かもしれませんが、クリスチャンになるということは、とても怖いことなのです。なぜなら、クリスチャン生活には色々な辛いことが待っているからです。今日の話に出て来るアブラハムとサラは、神様から素晴らしい祝福を頂きましたが、辛い試練も次々と受けました。しかし、アブラハムとサラは神様を恨まず、最後には神様に感謝したのです。それはなぜでしょうか?アブラハムとサラは自分の目の前にいる試練(ライオン)を見ていたのではなく、試練を乗り越える力を与えてくださる「永遠の神様」を見ていたからです。皆さんは、これから試練と向き合う自信があるでしょうか?喜びをもって自分の十字架を背負う自信があるでしょうか?本日の聖書箇所を確認して、それについて考えたいと思います。

 

アブラハムとサラは、創世記12章から約25年も、神様の約束の成就を待ち望み、創世記21章でやっとその成就の始まりを見ることができます。神様が2人に約束されたのは、アブラハムとサラの間に生まれる子によって、彼らを①王家にすること、アブラハム家を②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることです。25年間も待ち続けましたが、子どもも与えられず、約束の地での「土地」も与えられませんでした。しかし、奇跡的に、神様のみことば通りに、不妊の女で90歳であったサラに「イサク」(笑い)という息子が与えられ、21:8節に書いてあるようにアブラハムは「盛大な宴会」を開きました。「神は私たちに、イサクを通して、笑いを下さった!感謝!」と祝っていました。前に使ったたとえで言い換えると、神様が「このコンクリートの上に大きな木が植えられる」と約束してくださったので、アブラハムとサラは25年間もコンクリートの上に種を蒔きつづけ、21章でその種がやっと芽を出したので、2人は非常に喜んだということです。

これがディズニー映画だったら、ここで「めでたし、めでたし」という終わり方になると思いますが、アブラハムの話はまだまだ続きます。なぜなら、イサクが生まれたことは、神様の約束の成就の「最初の一歩」に過ぎなかったからです。アブラハム家はまだ「王家」になってもいませんでしたし、「世界を治める王国」にもなっていませんでした。また、「永遠の約束の地」も頂いてはいませんでした。私たちは多くの場合、「神様の約束を信じて25年も待ったんだから、これからは右肩上がりの人生だ!」と心の中で期待してしまうことがあります。しかし、この箇所を読んでいくと、最初の成就のあとに、色んな試練が待っていたことがわかります。

最初の試練は、「霊的な迫害」だったと言えます。しかも、この試練は喜ばしい「盛大な宴会」の途中で与えられた試練でした。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。」(創世記21:9)ガラテヤ4:29はこの一節をこう解釈しています。「あのとき、肉によって生まれた者(=ハガルの子、イシュマエル)が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。」神様の約束を信じ、喜び、希望を置く人たちは「御霊によって生まれた者」です。そして、その人たちの信仰、喜び、希望を見下し、からかい、価値のないものと見なすことは「迫害」なのです。要するに、神様の約束の奇跡的な成就のすぐあとに、「霊的な迫害」が来たのです。そして、新約聖書でも同じですね。イエス様の誕生、十字架での死と蘇りが成就されたとき、福音書でも使徒の働きでも「肉によって生まれた者」はいつも、イエス様を信じ、喜び、希望を置いた人たちをすぐにからかい、見下し、場合によっては物理的に迫害し、殺そうとします。しかし、「御霊によって生まれた」サラは、そのような迫害があった時でも、静かに立ち向かいました。

それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」(創世記21:10)

これはサラの感情的な復讐心からではなく、神様の御心(21:13)を表した言動でした。サラは、彼らが神様の選ばれた民とは全く反対の生き方を選んだと言うことを察しました。なぜなら、ハガルとイシュマエルが約束された神様の一方的な恵みを、畏れと喜びをもって受け入れなかったからです。要するに、ハガルとイシュマエルは、アブラハム家と違う信仰、喜び、希望を持っていたのです。ですから、ハガルとイシュマエルは、アブラハム家と違う道を歩まなければならないということです。

ここで二つ目の試練が現れます。それは「分裂」です。

このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。 (創世記21:11)

イシュマエルはアブラハムの血の繋がりのある10代の息子ですし、ハガルもアブラハムの妻でした。何年も一緒に過ごしてきた、愛する家族です。ですから、彼らがサラとイサクを霊的に迫害したからと言って、愛する家族をそんなに簡単に追い出すことはできませんし、それは非常に苦しいことでした。しかし、神様はアブラハムをこのように励まされます。

神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。 しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」” (創世記21:12-13)

パウロはこう説明しています。

アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。」 (ローマ 9:7-8)

つまり、この世で血の繫がりがある家族であっても、神様が与えてくださった約束を信じる者だけが、「本当の家族」だと認められるのだと神様はおっしゃっているのです。

なぜなら、たとえ血が繋がっていたとしても、自分の基になる喜び、信仰、希望、生き方が正反対だからです。それは、友人関係、職場での関係、どのような人間関係にも当てはまります。私たちは、全ての人と近い関係を築くことはできますが、神の約束を信じる人たちとの関係と、約束を信じない人たちとの関係に別れてしまうということなのです。そして、神様の約束の成就がはっきりとなされたとき、その「分裂」は明らかになります。新約の時代も同じです。イエス様はこのようにおっしゃいます。

マタイ10:34-38「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

アブラハムにとっては、非常につらい命令だったと思いますが、創世記21章14節に書いてあるように、「翌朝早く」アブラハムは自分の十字架を負って、神様のことばと、とサラの言ったことばに従い、「パンと、水の皮袋を取ってハガルに与え、彼女の肩に担がせ、その子とともに彼女を送り出し」ました。

そのあと、アブラハムに別の試練が与えられました。それは「愛する人の霊的堕落」とも言えます。神様は神の民からハガルとイシュマエルを追い出されましたが、お見捨てにはなりませんでした。神様はハガルとイシュマエルを「一つの国民」とし(21:13)、ハガルの子孫を「数えきれないほど多く」し(16:10)、彼らを物質的にも祝福することを約束されました。ですから、ハガルの皮袋の水が尽きて、「あの子が死ぬのを見たくない」と声をあげて泣いていたとき、主の使いが2人に現れ、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする」と言い、ハガルとイシュマエルに水を与え、二人を救ったのです(21:17-18)。

神様はイシュマエルとともにおられ、二人を物質的にも祝福してくださったのですが、彼らの霊的な堕落の方向は変わりませんでした。イシュマエルは「成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。 彼はパランの荒野に住んだ。彼の母は、エジプトの地から彼のために妻を迎えた。」 (21:20-21)これは、創世記16章にあった預言の成就です。イシュマエルは「弓を射る者」として、「野生のろば」(16:12)のように、強い闘争心をもって、アブラハム家と争い続け、約束の地から出て、エジプトの近くにある「パランの荒野」に住み、エジプト人と結婚しました。もしハガルとイシュマエルがイサクの相続権を認めたなら、アブラハム家の一員として、①王家になること、②王国になること、③永遠の約束の地が引き継ぐことができました。しかし、ハガルとイシュマエルは、神様の約束を待ち望むよりも、豊かに潤っているエジプトに住むこと、エジプト人の妻と結婚すること、約束の地から出ることを選んだのです。それはハガルとイシュマエルの霊的な堕落を表しています。そして、神様は、創世記16章とは異なり、彼らを止めようとはなさいませんでした。神様は彼らを彼らの欲望に引き渡されました。それは、アブラハムにとって心苦しいことだったと思います。

21章の最後の試練は、「寄留者としての苦難」だと言えます。アブラハムとサラに「イサク」が与えられましたが、創世記21:22-34の聖書箇所の出来事を通して、「王家」、「王国」、「約束の地」はまだまだほど遠いものであることが明らかになりました。アブラハム家はまだ土地も持っていない、無名の遊牧民でした。そして、21章の時点では、アビメレク王の支配下の土地に住んでいました。ある時、アビメレク王とその軍の長ピコルがアブラハムのところに来てこう言いました。「それで今、ここで神によって私に誓ってください。私と私の子孫を裏切らないと。そして、私があなたに示した誠意にふさわしく、私にも、またあなたが寄留しているこの土地に対しても、誠意を示してください。」 (創世記 21:22-23) そのことばから、当時のアブラハムの立場が見えてきます。アブラハムが今住んでいる場所は、アビメレク王の土地でした。そして、「軍の長」を連れて来てこのように一方的に誓いを求められたアブラハムがアビメレク王の権威の下にいるということがわかります。前にアビメレク王を裏切ってしまったアブラハムは、抵抗しないで、配下の者として「私は誓います」と答えます(21:24)。

そして、そんな状況の中、アビメレク王のしもべたちが、アブラハムが自分たちで掘った井戸を奪い取ってしまったという事件がありました(21:25)。荒野の井戸は命綱ですし、遊牧民にとっては欠かせないものです。アブラハムはアビメレク王にこの件について抗議しましたが、アビメレク王の返答は、「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それに、あなたも私に告げなかったし、私も今日まで聞いたことがありませんでした。」(21:26)つまり、アブラハムは、この件に関して何の権威ももっていませんでしたし、またアビメレク王は彼らを助けることもしませんでした。

そのような試練の中でも、アブラハムに希望が与えられます。アビメレク王とアブラハムが契約を結んだあと、アブラハムは「この井戸を掘ったという証拠」として7匹の雌の子羊をアビメレク王にささげ、王はその子羊を受け入れました。それは、アブラハムにとって、大きな出来事でした。なぜなら、創世記の中ではじめて、約束の地でアブラハムに「自分のもの」が与えられたからです。様々な試練のただ中で、「永遠の約束の地」からほど遠いものでしたが、その「井戸」が与えられた感謝の応答として、アブラハムは「永遠の神、主の御名を呼び求め」ました(21:33)。イザヤ書では、試練の中で「永遠の神」をこのようにほめたたえ賛美しています。

あなたは知らないのか。 聞いたことがないのか。 主は永遠の神、 地の果てまで創造した方。 疲れることなく、弱ることなく、 その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、 精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、 若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、 鷲(わし)のように、翼を広げて上ることができる。 走っても力衰えず、歩いても疲れない。 (イザヤ 40:28-31)

しかし、力強い賛美のあとに、非常に印象深い一節があります。「アブラハムは長い間、ペリシテ人の地に寄留した。」 (21:34) つまり、アブラハムにイサクが奇跡的に与えられ、色んな試練の中で井戸も与えられましたが、まだまだ神様の約束は完全に成就されなかったことが明らかになります。

 

私たちはこの聖書箇所から何が学べるでしょうか。実は、アブラハムとサラの立場は私たちの立場と非常に似ているところがあります。3つのことを皆さんに覚えていただきたいと思います。まず、1点目。イエス様の十字架とよみがえりは「永遠のいのち」の始まりです。しかし、私たちが「永遠のいのち」を頂くまでは、私たちもキリストの十字架を背負わなければなりません。

私よりもクリスチャンとして長く歩まれている兄弟姉妹の皆さんは、この点をよくご存知だと思います。アブラハムとサラに「イサク」が与えられたとき。イエス様が十字架にかけられ、三日後によみがえり、天に上られたとき。どちらも神の民が長年待ち続けた神様の約束でもあり、最も喜ばしいときでもありました。しかし、それらはあくまでも神様の約束の成就の「はじまり」に過ぎないのです。その成就が完成するまでには、あらゆる試練が待っています。アブラハムとサラにイサクが与えられたあと、「霊的迫害」、「分裂」、「愛する者の堕落」、「寄留者としての苦難」という試練が次々と与えられました。それと同じように、イエス様が天に上られたあと、試練が次々と与えられ、2000年後の現代でも私たちは同じ様に試練を受けています。皆さんはクリスチャンになってから、もっと心地いい生活になったと思いますか?違いますよね。アブラハムとサラのように、この世からの霊的な迫害、家族や友人内での分裂、教会の兄弟姉妹または教会の霊的な堕落、この社会に生きる難しさを、皆さんは今、経験していると思います。それゆえ、「え!クリスチャンになったのに、何で私はこんなに辛い思いをしなければならないの?もう『永遠のいのち』を頂いたんじゃないの?」と思っているかもしれません。

しかし、1世紀に生きていたペテロはこのように教会を励ましました。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」(1ペテロ4:12) つまり、イエス様が約束される『永遠のいのち』に「燃えさかる試練」はつきものなのです。しかし、ペテロは面白いことを、そのあとに付け足します。「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜(かんき)にあふれて喜ぶためです。」 (1 ペテロ 4:13) 要するに、私たちが受けている試練は、イエス様が受けられた苦難です。それと同時に、キリストが受けた苦難に「あずかればあずかるほど」、私たちは喜ぶ理由があると言うのです。なぜなら、もし私たちがキリストと同じ苦難を受けているのであれば、私たちもイエス様が受けられた「栄光」と「永遠のいのち」を受けられると確信できるからです。つまり、私たちがイエス様の十字架の試練を受ければ受けるほど、私たちもイエス様のよみがえりに近づいているというふうに言えるのです!

次に覚えて頂きたいのは、「永遠のいのち」のために十字架を背負いたくないと言う者は、「永遠の約束の地」を拒むのも当然です。この箇所では、ハガルとイシュマエルの決断とアブラハムとサラの決断が対比されています。ハガルとイシュマエルは、最初は神様の約束に期待していましたが、最終的に辛い寄留者の天幕生活を諦めてしまい、約束の地から出て、エジプトに近いパランでの心地いい生活を選んだのです。つまり、彼らは十字架を背負う喜びがなかったのです。なぜなら、「永遠の約束の地」はハガルとイシュマエルにとっては喜びではなく、エジプトでの生活が彼らの喜びだったからです。同じように、クリスチャンに欠かせないことは、「キリストの苦難」、自分が背負っている「十字架」を喜びと思うことです。「この試練を我慢して乗り越えれば、楽になる」と思っているのなら、これからのクリスチャン生活にがっかりすると思います。なぜなら、この箇所のように、試練は波のように、次から次へと来るからです。ですから、クリスチャンとしての試練を自分の喜びにできないのなら、そのクリスチャンライフは岩地に蒔かれた種のように長続きしませんし(マルコ4:16-17)、神の民とともに向かっている方向は、自分が行きたい方向ではないかもしれません。皆さんは、「試練」とどう向き合っておられるでしょうか?自分の十字架から全力で逃げたいと心の底から思うときがありますか?もう一つ質問があります。キリストが下さる「試練」を受けるとき、賛美しながらその試練を背負ったアブラハムのように、私たちは喜べますか?私たちがどのように試練と向き合っているかによって、自分の喜びがどこにあるかがわかるのです。

最後に覚えて頂きたい点はこれです。私たちが喜んで十字架を負うことができるのは、十字架を背負ってくださった「永遠の神」イエス様を仰ぎ見ているからです。この箇所から私が最も印象を受けた点は、アブラハムが色んな試練を受けて、色んなことを乗り越えた後に全力で神様をほめたたえた時です。アブラハムが、長い間、敵であるペリシテ人の地に寄留させられていた上に、世界を治める王国や約束の地の土地を引き継ぐ目処も全くなく、アビメレク王にも脅され、家族が分裂してしまい、荒野での辛い天幕生活をする中で、与えられたのは、たった一つの井戸でした。(しかも、自分で掘った井戸!)私だったら、全力で賛美するよりも、全力で神様を責めたと思います。この箇所から、アブラハムの試練に対する向き合い方によって、アブラハムの喜びがどこにあったかがはっきりわかります。アブラハムの喜びは自分の状況によっていたのではなく、どんな状況にあっても、常に呼び求めた「永遠の神、主の御名」(21:33)がアブラハムの喜びだったのです。

私たちは十字架の試練を好きで背負うのではありません。イエス様がこの十字架の苦難を背負ってくださったから、私たちも喜んで背負うのです。そして、イエス様が「永遠の神」だからこそ、必ず私たちに復活の永遠のいのちを与えてくださることを確信しています。色々な苦難の中では、「 若者も疲れて力尽き、 若い男たちも、つまずき倒れ」てしまいますが、御父に従ったイエス様は「疲れることなく、弱ることなく」、「走っても力衰えず、歩いても疲れず」私たちの十字架を背負って、私たちを永遠のいのちへと導いてくださるお方(参照:イザヤ40:28-31)です。その「永遠の神」イエス様が私たちの先頭を走って下さっています。ですから、私たちも喜びをもって十字架を背負うことができます。今週も喜んで十字架を背負ったイエス様を仰ぎ見て、自分たちの十字架を背負っていきましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church