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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヨハネの手紙第一 I John 1:1~4 |
さ ん び | Opening Praise | 「揺るぎない土台 Firm Foundation」 |
さ ん び | Praise | 「花も」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌194番「詩篇73:21-24」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 1:1~9 |
聖書の話 | Sermon | 「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」
コリント人への手紙第一をはじめから終わりまで説教すると決めたとき、少し緊張しました。第一コリントには、難しい箇所が幾つかあるからです。しかし、もう一方で、聖書の難しい箇所に怯える必要がないということも確信していますから、逆に、ともに見ていく中で、神様の恵み豊かさときよさ、イエス・キリストの十字架と復活の栄光、聖書の信ぴょう性と素晴らしさ、教会の歩みの希望を知ることができたらと願います。
質問したいと思いますが、皆さんが失敗ばかりしていると感じるときに「祝福を祈るよ」と言われたら、嬉しいですか。「はい、ありがとうございます」と素直に言えると思いますか。また、問題がたくさんあるように見える人のことを感謝することがありますか。パウロは今日の箇所で、そのような、驚くようなときに祝福の話しをして、感謝をしています。それがなぜなのか、そして私たちがどう応答できるかを、今日見ていきたいと思います。
前置きですが、第一コリントという書簡は手紙です。日本には、文通の習慣と思いやりのこもった定型がありますね。パウロは、周りのローマ・ギリシャ文化の手紙の書き方にある程度倣って、この手紙を始めます。例えば、送る人の名前、相手の名前、そして安全・幸福を願う決まりの文章が1章1~3節にあります。「ご清栄のこと…」と少し似ています。それから、「平素は格別のご厚意を賜り…」とは違いますが、感謝を表す文章も4節以降にあります。ところが同時に、パウロは慣れ親しまれた形式に、キリスト中心の内容で手紙を始めます。
なお、今日の箇所は序文である為、一つだけのまとまったテーマがある訳ではありません。パウロが手紙全体で詳しく話して行く三つのテーマが出てきます。これらは手紙に出てくる教えの前提になったりします。ですから、この大切な三つのテーマを見てから、これらにパウロがどう応答して、私たちがどのように応答できるかをお話しします。
まず第1節に送り手が名乗ります。16章21節「私パウロが、自分の手であいさつを記します」からすると、パウロと違う人が本文を執筆したのが推測されます。その執筆者が「兄弟ソステネ」だったかもしれません。ところが、この手紙の著者はパウロです。自分のことは「神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ」と冒頭に言います。パウロは、反対してくるかもしれないコリント人に対して肩書を武器にして、脅かそうとはしていません。ただ、自分が神様より特別な使命を受けたことを明確にしています。
序文に出てくる最初の大切な前提、「使徒の使命」が頭出しされます。新約聖書のほとんどの場面で「使徒」という語が意味するのは、よみがえられたイエス・キリストを個人的に目撃して、イエス様について証言するように使命を受けた人でした。具体的に、教会の土台を据える教えをイエス様から、聖霊様から受け、権威をもってイエス様について証しをするように遣わされた人でした(使徒1:2-3、1:22参照)。エペソ人への手紙でパウロが書いたように、教会は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」(エペソ2:20)。キリストが何よりも大事ですが、使徒の証言も教会にとって不可欠な、基礎的なものです。
使徒の使命は最終目的ではなく、ただ、神様が用いられる手段です。なぜ使徒が教会に与えられたかと言うと、二つ目のテーマに繋がります。一言で言うと、それは「聖徒の交わり」です。1節後半から3節までを見ましょう。
パウロは1節で自分をいわゆる「使徒先生」として威張りません。ソステネを共同労働者また兄弟として尊敬し愛し、仲間として名前を書かせたことは注目に値します。
2節で、当時の決まりの形式通り、送り先は書かれていますが、単なる「コリントにある教会へ」で終わりません。パウロもソステネもコリント人クリスチャンが平等だということを強調します。
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
パウロは教会の広さと一致を強調して、後でコリント人に書く勧めのための土台、前提を据えています。コリント人クリスチャンは世界中でキリストに信頼して「呼び求めている」人と同じ立場を持っています。教理で言う「聖徒の交わり」(使徒信条、ウ信仰告白第26章参照)に言及することによって、パウロはコリント人の個人主義や「仲間割れ」(10節)に陥りやすい、高慢な考え方の「解毒剤」を指し示しているように思われます。
「聖徒」と聞くと、「道徳的」と連想しやすいですが、パウロの定義によると、聖徒かどうかは「主イエス・キリストの名を呼び求めている」かどうかです。 人間は正しい行いで、聖なる神様の御前では聖なる者として認められせん。ただ「キリスト・イエスにあって」、つまりイエス・キリストにより頼み、信頼して、告白することによってキリスト・イエスと繋がって(結び合わされて)神様に扱って頂くため、聖なる者と言えます。コリントの教会には泥臭い罪と問題があるにもかかわらず、パウロは彼らを聖なる者と呼ぶのは、これゆえです。
3節でパウロがここまでの二つのテーマに応答します。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」と祝福の挨拶をします。パウロは頻繁に聖霊なる神様に導かれて、手紙で父なる神そして子なる神のイエス・キリストから、祝福のことばを告げます。先ほど申しましたように、相手が罪の問題があっても、です!恵みは神様から、罪人に与えられる、イエス・キリストによる祝福です。「平安」は「平和」や「繁栄」「シャローム」とも言えて、神様と平和を持つようにされた人が受けられる祝福です。これはパウロの単なる「願い」でもなく、勝手に良いことがあるだろうと決めつける「ご清栄のこととお慶び申し上げます」でもなく、神様から来る、使徒による確かな祝福の宣言です。
4節から9節までパウロが序文を続けます。当時の手紙にあった感謝文に相当しますが、特別に長くて、神中心、キリスト中心です。第1テーマ「使徒の使命」が支える第2テーマ「聖徒の交わり」はここで、第3のテーマ、「キリストとの『交わり』を受ける者への恵み」を土台としています。
パウロはまず、「あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています」と言います。自分に嬉しいことが起きたら、私たちは感謝するかもしれません。子どもはよくわかると思います。自分がケーキやおもちゃをもらったら嬉しいですけど、部屋の向こうの子がもらっても別に嬉しく思わないかもしれませんね。大人もそうです。けれども、パウロは他の、遠くに住むクリスチャンについて聞いて、「いつも」感謝しています。彼らが自分の仲間だ、同じ召しを受けた聖徒だ、と意識しているからです。その理由は、「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえ」です(4節)。
5節から8節まで、パウロは4節の感謝の根拠を書きます。「キリストとの『交わり』を受ける者への恵み」がどのようなことかが分かります。パウロは別にコリント人クリスチャンを褒めているのではなく、神様の恵みを誉めたたえています。
まず、5から7節前半までは、イエス・キリストによって与えられてきた、過去に基づく現在の恵みを描きます。パウロは5節でコリントの信者たちへの霊的な贈り物を見て、感謝します。コリント人のクリスチャンたちが「あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされ」ました。後で読んでわかるように、彼らは与えられた「ことば」や「知識」を乱用していることもありました。しかし、パウロはまだ、彼らに与えられた、聖書的なことばと知識のことで感謝します。クリスチャンが神学的に間違っていて、実際に罪を犯しているのであっても、まだ、ことばと知識の変化という、聖霊様の働きかけの結実を見て、喜ぶことができます。
6節でパウロは、どのようにしてコリントのクリスチャンたちが豊かにされたかを説明します。使徒パウロは「キリストについての証し」をして、さらに神様が働きかけてくださったから、コリントの住民の心の中で証しが「あなたがたの中で確かなものとなった」のです。彼らは信じて、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ」ました(2節)。
さらに、7節は5節を補足します。証しが確かとなった「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく」なりました。12章などで聖霊様からの賜物が詳細に出てきます。神様は信徒に必要なものの全てを下さっています。
7節後半と8節で強調されるのは、約束された、将来に向けた現在の恵みです。7節後半は賜物を受けた信者が「熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望む」ことができると教えます。神様が今のために下さった賜物によって、クリスチャンはイエス様が現れることを楽しみにして生きることができます。イエス様の「現れ」つまり再臨の際、悪魔と反対する者と死を打ち破り、教会を完全にして、世を新たに創造され、神の国を完成させてくださいます。クリスチャンがこれを熱心に待ち望める理由は8節にあります。「私たちの主イエス・キリストの日」、つまり先と同じ「主イエス・キリストの現れ」の時に、新しい天と地、天国で神様を永遠に楽しめるのは、「責められるところがない者」だけです(詩篇15、黙示録21:1-8参照)。神様が、イエスを信じる人がそうであるように「あなたがたを最後まで堅く保って」くださいます。この祝福は神様の恵みによる祝福であり、パウロが感謝できる理由です。
9節は5~8節の感謝の根拠をまとめるような箇所です。「神は真実です。」私たちの真実は全く当てになりませんが、神の真実は確実です。そして、クリスチャンたちは「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられた」のです。
イエス様の「交わり」に与ることが天国に入るための鍵です。「交わり」はクリスチャンがよく聞く「コイノニア」の訳ですが、私たちが思い描きがちな「おしゃべりと食事の時間」を遥かに超えたことです。「共有」を意味します。イエス様のいのちを共有させて頂き、「共同生活」を送ることを意味します。2節にあるようにイエス・キリストにより頼む人は聖い者として扱われます。なぜなら、イエス・キリストと信仰によって結び合わされて、イエス様のいのちを「共有」し、「相続」します。
同時に、クリスチャンの信仰生活は一人で歩むものではありません。ヨハネの手紙第一1章3節で使徒ヨハネが書いたように、「私たち〈使徒たち〉が見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」縦関係の交わり、神様・イエス様との交わりから、横関係の交わりが生まれます。キリスト者がキリストと持つ交わりは一つの教派、ましてや一人の個人だけで持つものではありません。教会全体で持つ交わりです。聖霊様は使徒が下さった証し(6節)を用いて、罪人をイエス・キリストと繋ぎ合わせて、「交わり」の共同生活に入れてくださいます。
パウロはこの手紙で、主イエス・キリストとの交わりが教会全体の交わりを要求すると何度も訴えることになります。例えば、教会の中の派閥意識・罪に対する見て見ぬ振り・争いと訴訟・礼拝での振る舞い・主の聖晩餐・霊的賜物の用い方など、を教会がともにキリストのいのちに与る共同体として、取り扱う問題として取り上げていきます。要するに、序論の結びである9節にある、キリストとともに結び合わされてキリストのいのちをキリストとともに楽しむ人は、お互いとも共同生活を送っているので、次回以降に出てくる問題にこの現実を当てはめる必要があります。
さて、今日、使徒パウロは、キリストとつなぎ合わされたコリント人信者の教会について神様の恵みを確信して、感謝しました。手紙の序文を通して、手紙全体の重要な三つのテーマの頭出しをしてくださいました。「使徒の召し」、「聖徒の交わり」、そして「キリストとの『交わり』を受ける者への恵み」は今後、よく登場します。この三つに対して、パウロは今回の序文で二つの応答をしました。一言でまとめるなら、パウロは信じて応答しました。それらを見て、皆さんに適用の質問をしたいと思います。
まず、3節までで、パウロは神様からコリント人のクリスチャンに祝福があると信じて、イエス様にあって召しを受けた使徒として、祝福の「伝言」を3節で述べました。私たちは使徒ではないのですが、同じ祝福を受けるように招かれて集められた会衆です。では、私たちは神様の「恵みと平安」という祝福を受け入れますか。コリント人の反応は、想像できます。「困ったなあ…パウロ先生から手紙がきたぞ。しかられるじゃないかな。確かに私たちは色々な問題がある。間違っているかもしれないね。『 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安』はただのお世辞だろう」。あなたは神様の祝福を聞いて、信じて受け入れますか。
私たちは公の礼拝で、賛美や主の聖晩餐で恵みと平和を耳と口と舌で確認します。説教で、良い知らせである「福音」を聞いているはずです。そして、礼拝の終わりに、祝祷において神の恵みと平和をもう一度聞き、「アーメン」と祝福を受け入れます。それでも、私たちは疑うかもしれません。「今日、聖書から3章も読んだ。祝福された。」「今日、あまり祈らなかった。駄目だな。」そういったことで一喜一憂して、それによって神様の祝福が来るかどうかを決めつける疑いがあるかもしれません。しかし、神の祝福は、続く4~9節が明らかにしたように、恵みのみによって、イエス・キリストを通して与えられます。これを信じますか。自分の良い行い、熱心さ、功績に頼らず、ただ、キリスト・イエスを呼び求めて、アーメンと祝福を今日、受け入れますか。
パウロが信じた二つ目の応答とは、コリント人の内に働かされる恵みの結果を認めて、感謝することでした。コリント人クリスチャンたちがキリストと結び合わされた者として、どんなに素晴らしい祝福あるかを確かめて、感謝しました。あなたはイエス様のゆえに、恵みを信じて、他のクリスチャンのために、神様に感謝できていますか。
私たちは、他の人の行動の良さか悪さでさばいたり、他のクリスチャンを気にかけなかったりする傾向があるかもしれません。「あのクリスチャンは劣った信仰を持っていて、がっかりする。」「彼、彼女の罪は自分とは関係ない。」そのように、他人事のように思っていれば、教会に対する愛と神への感謝はいつまでも不安定でしょう。しかし、パウロが全く別の基準で状況を見ています。「神様がキリスト・イエスにあってコリント人たちに恵みをくださった。感謝します!」そういう反応です。
イエス・キリスト様があなた、また隣、あるいは隣の部屋、会衆に集まれていないクリスチャンのためにも、完全な義を用意されて、教会が豊かになるための賜物を下さいました。イエス様がいのちを共有するために、まず、いのちを十字架上で捨ててくださって、復活してくださいました。だから、私たちは再臨を確信して、新しい天と地で神の国の完成を期待することができます。戦争が止み、病が消え、喜びの声と賛美が響く日を主が約束してくださいます。
キリストを信じる者は、イエス・キリストとの交わりのゆえに、主の現れの日の希望を共有しています。今週、キリストにある祝福に「アーメン」と言って、お互いのために感謝を持って歩むことができます。