2023年3月12日礼拝 説教「新しく生まれたオネシモ」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship エペソ人への手紙 Ephesians 2:17~22
さ ん び Opening Praise 「神の家族」
さ ん び Praise 「主イエスの十字架の血で  He Is Our Peace」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」
幼児洗礼式 Infant Baptism マーク・ボカネグラ牧師
聖書朗読 Scripture Reading ピレモンへの手紙 Philemon 8~16節
聖書の話 Sermon 「新しく生まれたオネシモ」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌229番「キリスト 教会の主よ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer マーク・ボカネグラ牧師
頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌 271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)「新しく生まれたオネシモ」

 

子どもたちもわかると思いますが、どれほどひどい兄弟喧嘩をしても、いつかは仲直りをしますよね。そして、喧嘩が長引くのは、楽しくありません。なぜなら、それは、家族だから。一生涯、兄弟関係は変わりませんし、どう頑張っても、兄弟から逃げることはできません。むしろ、兄弟の仲が良ければ、もっと楽しくなりますよね。今日の話は、神の家族についての話で、ピレモンとオネシモという2人のクリスチャンのお話です。ピレモンはクリスチャンで、オネシモはクリスチャンではありませんでした。そして、オネシモはピレモンにすごくいじわるなことをしてしまったので、ピレモンとオネシモの仲が悪くなってしまいました。しかし、ある日、オネシモがクリスチャンになりました。そして、パウロというピレモンのクリスチャンの先生がピレモンに手紙を送りました。「オネシモが悪いことをしたとしても、オネシモは悪い人ではないし、意地悪する人でもありません。イエス様は命を懸けて、オネシモを「神の子」とし、ご自分の「弟」にされ、私たちの兄弟にしてくださいました。しかも、生きている間だけではなく、あなたと私の永遠の兄弟になったのです。だから、仲直りするだけではなく、楽しく兄弟として過ごしなさい」とパウロ先生はピレモンに伝えたのです。私たちは永遠の「神の子」であり、クリスチャンの友だちも私たちの永遠の「兄弟」なのです。ですから、クリスチャンの友だちが天国でも「永遠の兄弟姉妹」であるのなら、今のうちに良い関係を築いて兄弟と楽しく過ごすことができれば、天国での楽しみを、今、この世でも味わうことができる、ということなのです。では、本日の聖書箇所を確認して、皆さんに覚えていただきたいことを、分かち合いたいと思います。

 

前に説明したように、この手紙はパウロという初代教会のリーダーが書いた手紙です。パウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン1)として、ローマという町から手紙を書いています。使徒28章ではパウロは自宅軟禁されていて、自分の裁判を待っていました。パウロは、「まる二年間、自費(じひ)で借りた家に住み」(28:30)、逃げられないようにローマ兵と鎖でつながれていました。そして、その2年の間に、パウロは、コロサイという町にいる、パウロの同労者であるピレモンというクリスチャンの男性に手紙を送りました。当時の感覚では、ピレモンは「大豪邸を持つ」お金持ちのクリスチャンでした。ピレモンは、自分の家を解放して、教会の礼拝場にして、多くの兄弟姉妹を霊的にも、物質的にも支え、惜しげもなく教会を愛した兄弟でした。しかし、パウロがピレモンに手紙を送った理由は、ある「人間関係の課題」があったからです。当時は、都市の人口の3分の1が奴隷でした。そして、ピレモンはお金持ちだったので、奴隷の所有者でもあったのです。この手紙を読んでいくと、過去にピレモンの家にいた奴隷オネシモが、ピレモンに対して何かの罪を犯してしまい、ピレモンの家から逃げ出してしまいました。パウロは、オネシモをピレモンの家に送り返したいという願いがあったので、この手紙を書いたのです。今日の聖書箇所には、オネシモを送り返す理由が書かれています。

しかし、手紙の内容に入る前に、1世紀のローマ帝国時代の文化と奴隷の立場を確認する必要があります。当時の文化では、家にはもちろん、車も電気も家電や機械など「自動」で動くモノはなかったので、自分の生活や社会を「自動化」するために「奴隷力」を使用していました。今の時代に言い換えると、「奴隷」というのは社会を動かす「電気」に例えられるかもしれません。社会を動かすため、都市を発展させるためには、奴隷は欠かせない存在でした。オネシモがどのような奴隷だったかはわかりませんが、その当時、奴隷を「獲得」する方法は大まかに言うと三つありました。①戦争や強盗によって、強制的に敵の奴隷を奪い取るか、ある人を奴隷にする方法。②奴隷市場で奴隷を買うか、経済的な問題のために自分の子どもか自分自身を売る人たちをお金で買う方法。③自分の奴隷が生んだ子どもを、自分の奴隷にする方法。しかし、この三つの方法でわかると思いますが、当時の哲学者(アリストテレス)いわく、奴隷は「生きているモノ」または「生きている道具」であり、「いのちのない奴隷」だったのです。そして、奴隷は主人に完全に従う必要があり、人としての権利と自由は全くありませんでした。

そして、奴隷が主人に反抗するケースは稀ではありませんでした。1世紀に生きていたあるローマの政治家(小プリニウス)がある手紙に、友人についてこう記録しました。友人がお風呂に入っていた時、数人の奴隷たちが突然、主人である彼を捕らえて殴り殺し、逃げ出しました。その記録にはかなり残酷な詳細が書かれています。しかし、その主人の家族が逃げ出した奴隷を捕まえて、適切な「復讐」を下し、すぐに処分したことも書いてあります。この手紙を読んでいくと、これは1世紀のローマ帝国でよくある出来事だったようですし、主人と奴隷の間には、信頼関係がなかったことがわかります。パウロの他の手紙からも、その難しさを感じ取ることができます。「主人たちよ…(あなたがたの奴隷を)脅すことはやめなさい。」(エペソ6:9)「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。」 (テトス2:9-10) このような社会背景の中で、奴隷であったオネシモが具体的に何をしたかはわかりませんが、オネシモは、パウロが金銭的に償わなければならないような経済的なダメージを主人ピレモンに与えてしまったようです。ですから、主人であるピレモンとしては、奴隷オネシモに適切な復讐を下し、すぐに「処分」して、オネシモを他の奴隷たちの見せしめにすることは、当時としては当然のことでした。

このような状況の中で、パウロは、突然、奴隷オネシモについて、主人ピレモンに報告し、当時の人にとっては非常に無理なお願いをします。「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」 (ピレモン10)この意味は、パウロが実際に赤ん坊のオネシモを生んだ意味ではなく、今年の元旦礼拝説教のタイトルを引用すると、パウロのみことばの伝道と聖霊様の働きによって、オネシモが「天から新しく生まれた」ということです。違う手紙では、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 (2コリント 5:17)とパウロは書きました。 つまり、だれかがクリスチャンになると、「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」 (コロサイ3:11) ですから、クリスチャンになったオネシモは「奴隷のオネシモ」ではなく、「天から生まれた、キリストにあるオネシモ、神の子」として新しく生まれたということなのです。それだけではなく、「獄中」で生まれたオネシモは、パウロの第一の弟子テモテのように(2テモテ1:2参照)、パウロの霊的な「息子」でもあり、「パウロの心(魂)そのもの」(ピレモン12)だとパウロは主張しています。

そして、ここでパウロは話術のすごいテクニックを使って、ピレモンにお願いをします。「オネシモ」という名前は、「役に立つ」または「有益な」という意味で、よくある奴隷の名前でした。しかし、「オネシモ」の名前の意味とは全く逆のことが起こりました。 「役に立つ」はずのオネシモが、前の過ちによって、ピレモンにとって「役に立たない」、そして、「大損」を引き起こした奴隷になってしまいました。しかし、パウロは、こう言っています。

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。…私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。(11・13節)

役に立つはずの「オネシモ」は役に立たなかった奴隷でしたが、イエス様を信じて生まれ変わり、ピレモンの「役に立たない」奴隷が、ピレモンの代りに、獄中にいた師匠であるパウロに仕え、「役に立つ奴隷」に変えられたのです。ただ仕えたのではなく、パウロの同労者として「福音のために」仕え、ピレモンの奴隷の一人だったのに、パウロがローマにとどめたくなるほど「役立つオネシモ」になったとパウロは言います。つまり、オネシモは、処分される役に立たない「生きている道具」から、イエス様により頼む「神の子」、「福音の大使」に生まれ変わったのです。

そんな状況の中で、パウロはこのようにピレモンにお願いします。

ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、むしろ愛のゆえに懇願します。 (ピレモン8-9)

要するに、パウロは、初代教会のリーダーとして、ピレモンの師匠として、キリストにある権威をもって、ピレモンに一方的に和解を命じることができました。しかし、パウロが命令を下さなかった理由は、命令を守ることは命令の最低限までだけ守ることを勧めることです。ですから、「あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものと」(14節)なるようにとパウロは言います。それはピレモンの「自己判断」やピレモンの「気持ち次第」という意味ではありません。パウロは、「愛のゆえに」ピレモンに懇願します愛は単なる感情でもありませんし、「最低限」という限度もありません。愛は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして」神を愛し、隣人を「自分自身のように」愛することです。愛には、「リミット」がなく、最大限を求めます。そして、皆さんもご存知のように、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(1コリント13:5-7)愛は「感じる」ものだけではなく、兄弟姉妹に仕えるクリスチャンの「召し」なのです。ですから、パウロは、イエス様とコロサイ教会の兄弟姉妹を惜しげもなく愛するピレモンに、一方的に命令を下すのではなく、クリスチャンの召しである「愛のゆえに」オネシモとの和解を促したのです。

そして、パウロがオネシモを送り返す目的は、ピレモンに恥をかかせるためではなく、ピレモンを祝福するためでした。

オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。 もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。 (ピレモン 1:15-16)

パウロは、「罪深い、不従順な奴隷」ではなく、「奴隷以上の者、愛する兄弟」、永遠の兄弟であるオネシモをピレモンに送り返そうと思っていました。そして、生まれ変わったオネシモが、キリストにある永遠の兄弟になったゆえに、「主にあって」―すなわち、霊的に、または、天での―関係が変わったのですが、「肉においても」、つまり、地上での主人と奴隷の関係が変わったのは、なおさらのことです。その変化は、「仕方がなく」変えるものではなく、聖霊様によって、天から新しく生まれ変わった「永遠の兄弟」が与えられた恵みと祝福によって関係が変わるという意味なのです。要するに、パウロは、ピレモンとオネシモに、天国で永遠に楽しめる「神の子としての兄弟関係」を今から経験させたかったのです。この和解は、二人にとっての天からの祝福とも言えるのです。

 

では、生まれ変わったオネシモと、パウロの懇願から何が学べるでしょうか?皆さんに、3つのことを覚えていただきたいと思います。まず、一つ目。オネシモは役に立たない、罪深い奴隷ではなく、キリストにあって神の子であり、「役に立つ」教会の息子になったのです。あなたは兄弟姉妹と、新しい「名前」でお互いを呼び合っていますか?

「ピレモンへの手紙」の主旨は、オネシモとピレモンの「和解」についてですが、和解に入る前に、クリスチャンになることによって、自分と兄弟姉妹との「アイデンティティー」が変わったということが、この手紙の土台でもあり、和解の大前提とも言えます。「変わった」と言うよりも、むしろ「古い自分が過ぎ去り、新しく生まれた」のです。なぜなら、古いオネシモも、古い私たちも、イエス様にあって十字架で接ぎ木され、神様の御怒りによって死んだ(ローマ6章参照)からなのです。そして、イエス様のよみがえりによって、私たちと私たちの兄弟姉妹も「天から新しく生まれ」、イエス様の義によって、新しい名前が与えられ、神の子とされ、神の家族の一員になりました。神様の天の法廷では私たちの「名義変更」または「アイデンティティー変更」はすでに完了したのです。私たちはイエス様の義と血によってきよめられたので、自分がどれほど罪深くても、神さまが与えてくださった「名前」または「アイデンティティー」を変えることはできません。

しかし、クリスチャンとして頭でそれを理解することはできますが、実際に、私たちは自分の「旧姓」を使ってしまうときもありますし、神の家族に新しく加わった兄弟姉妹を古い名前で呼んでしまう時もあります。そのため、教会の中で、自分と相手の古い「名前」や「アイデンティティー」によって、いろんな境界線や派閥を作ってしまいます。しかし、私たちはここで決断しなければなりません。イエス様がくださった名前で、自分と相手を見るのか。または、自分や相手の人種、年齢、教育、性格、罪の傾向、良い行い、価値観、育ちなどで見るのか。つまり、役に立たない罪深い奴隷、オネシモとしてか、または、天から新しく生まれた神の子、オネシモとして呼ぶのかを決めなければならないのです。教会の中にも色んな罪人がいます。傲慢な人。臆病な人。信頼できない人。お酒、麻薬、ポルノ、ゲームなどの中毒を持っている人。支配欲のある人。心の中で同性愛または性欲と戦っている人。物欲の高い人。親に常に逆らう人。生ぬるい人。怒りや感情に支配されやすい人。自分の事しか考えない人。常に見下す人。人の目に左右される人。怠慢な人。仕事しか考えない人。仕事ができない人。などなど。いろんな「名前」があると思います。私たちは、自分や相手をその「古い」名前で呼ぶのか。または、「世界が据えられる前に御父に選ばれた、イエス様の血によってきよめられ、復活の聖霊様によって造り変えられている神の子」という名前で呼ぶのか、決めなければなりません。十字架の血によってイエス様が私たちに下さった「名前」、それとも、罪の下にいたときの「名前」、どちらが私たちのアイデンティティーでしょうか。

次に、覚えていただきたい点はこれです。もし自分と兄弟姉妹が「天から新しく生まれ」、新しい「神の天の家族」に加わったのなら、あなたの兄弟姉妹を永遠に愛する家族として楽しみなさい、ということです。

もし私と兄弟姉妹に天の神の家族として、新しい「苗字」があれば、私たちの間にどのような関係があったとしても、どのような衝突があったとしても、どのような歴史があっても、どのような性格の違いがあっても、全ては「天から新しく生まれ」たものでなければなりません。数百年も敵対していたユダヤ人と異邦人に対して、パウロは、さらっとこのように言います。「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ 2:18-19)私だったら「いや、パウロ。ただ理想論や正論を言われても、相手がしたひどいことや、自分がどれほど頑張ったかを全部なかったことにするんですか?」と反論したい気持ちになりますが、パウロが言っていることは、私たちがまだ達成していない「理想」や、果たさなければいけない「正しいこと」ではないのです。パウロは今の「現実」におけることだけを言っているのです。「家族になるまで愛しなさい!」と無理やり和解を促そうとしているのではありません。パウロはただ私たちの天の戸籍を確認して、ただその内容を読み上げているだけなのです。「えっと…。コロサイのピレモンさんですね。あなたの父親は天の御父で、伴侶はイエス・キリストで、聖霊様の病院で生まれ、担当の医者はパウロでしたね。そして、あなたが嫌いで、苦手で赦せないオネシモさんのことなんですが…戸籍は同じで、一つの、神の天のご家族なんですね。」というふうに言っているだけなのです。

しかし、そう聞いて「え!あの人と永遠に天で同じ家族として過ごすの?嫌だな」と考えるなら、イエス様が私たちに与えようとしておられる恵みを見過ごしてしまうことになります。天では、教会の一人一人が、「組み合わされ」、「ともに築きあげられ」、「主にある聖なる宮」となり、「御霊によって神の御住まい」となるのです(エペソ2:21-22参照)。つまり、天では、神の家族の一人一人が完全に、罪なしで、愛することによって、教会が完全に一つになるのです。それゆえ、「主にある聖なる宮」として神様のご臨在、栄光、愛が一人一人に行き渡り、一人一人に宿り、一人一人が満たされるのです(コロサイ1:17-20,3:14-15参照)。そして、私たちがこの地上で、キリストにある兄弟姉妹と和解することによって、天での神の家族の一致の喜びをこの地上で楽しめるのです。この世で私たちが兄弟姉妹と和解することが天の前味であるからこそ、パウロはその喜びのために私たちに和解を促すのです。

それゆえ、最後に覚えていただきたいのは、ピレモンやオネシモと同じように、御父が私たちと和解してくださった目的は、私たちを永久に取り戻し、私たちとの関係を永遠に楽しんでくださるためだということです。

御父が私たちと和解してくださったのは、私たちの罪や私たちの良い行い、また、私たちの性格やかわいらしいところをご覧になったからではありません。御父は、イエス様が私たちに与えてくださった「名前」、または「アイデンティティー」を通して私たちを見ておられます。イエス様は、「教会を愛し、教会のためにご自分を献げられ…みことばにより、水の洗いをもって教会をきよめて聖なるものと(し)、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を」、御父の前に立たせくださいました(エペソ5:25-27参照)。ピレモンとオネシモの関係のように、敵対していた私たちが、イエス様の死によって御父である神様と和解させていただいたのです。そして、その和解はただ1回のことではなく、キリストにあって、今も、そして永遠に続くことを私たちは大いに喜んでいます(ローマ5:10-11)。

しかし、私たちだけが喜んでいるのではありません。神様も大いに喜んでおられます。カルヴァンは、注解書でオネシモのことを、クリスチャン家庭から逃げ出してしまった「放蕩する弟」のような奴隷として描きました。つまり、御父は、私たちのような「放蕩する奴隷」を永久に取り戻すために、ご自分のひとり子であるイエス様を十字架に送られました。イエス様は、私たち一人一人を奴隷としてではなく、神の子、神の家族として、天の神の家まで連れて行ってくださいました。

そして、放蕩する弟の父のように、「ところが、まだ家までは遠かったのに」、御父は私たちを見つけて、駆け寄って私たちの首を抱き、口づけしながら迎え、私たちを天の大宴会に連れていきます(ルカ15:20)。そして、御父である神様は、義務感からイヤイヤされたのではなく、喜んで私たちと和解してくださいました。御父は天のみ使いに、「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(ルカ15:22-24)とおっしゃいます。ですから、和解もせずに苦い思いを抱き続けていた、放蕩した弟のお兄さんのように怒ったりせずに、御父と一緒に、神の子とされた兄弟姉妹たちとともに、永遠に天の神の家族の大宴会を楽しみましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church