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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ペテロの手紙第一 I Peter 1章3~9節 |
さ ん び | Opening Praise | 「詩篇73:21-24」 |
さ ん び | Praise | 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌412番「主とともに歩む」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記Genesis 23章1~20節 |
聖書の話 | Sermon | 「約束されたものを手に入れなかったサラ」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌335番「はるかにあおぎ見る」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
説教(聖書の話)「約束されたものを手に入れなかったサラ」
子どもたちに聞きますが、クリスチャンになることは、どういうことだと思いますか?クリスチャンになることは、いろんな良いことがあります。クリスチャンになったら、神の国、つまり、天国の一員になります。私たちは「天国人」になります。もしイエス様を信じるなら、私たちは神の子になります。つまり、イエス様がもらうものを、わたしたちも全部もらうことができます。クリスチャンになったら、イエス様からウエディングドレスをいただいて花嫁になります。そして、私たちは天国で神様の王子と姫になり、天国で永遠に楽しく過ごせるという約束があります。そして、アブラハムとサラも全く同じ約束を神様からいただいていました。わくわくしながら、天国人になること、神の子になること、花嫁になること、神様の王子と姫になることを待っていました。でも、1年たっても、何もありません。2年たっても、何も起こりませんでした。5年、10年、30年経ってもなにも起こりませんでした。65年経っても、何もなかったのです。そして、神様の王子と姫になるはずだったアブラハムとサラでしたが、砂漠のようなところでテントを張って、67年も待っていたのに、約束されたことの一つも手に入れられないまま、サラは、王子と姫が住む素敵なお城ではなく、テントの中で亡くなったのです。皆さんがサラだったら、どう思いますか?私だったら、悲しくなります。「え!神様!こんなにいろんな良いことを約束されたのに、サラは何も手に入れられなかったんですか。約束と違うじゃないですか!」と思うかもしれません。しかし、今日の話は、アブラハムとサラが悲しまなかったという話です。なぜなら、彼らは、天国人になること、神の子になること、神様の花嫁、神様の王子と姫になることは、この地上で起こることではないと思っていたからです。神様の「都」、つまり、神様のお家である天国で、全てが与えられると信じていたのです。ですから、アブラハムとサラはがっかりせずに、喜びをもって死と向き合うことができたのです。今日の聖書箇所を確認しながら、皆さんと一緒にこの意味をもっと理解して行きたいと思います。
アブラハムとサラは、創世記12章から約25年間も、神様の約束の成就を待ち望み、21章でやっとその成就の始まりを見ることができました。神様が2人に約束されたのは、アブラハムとサラの間に生まれる子によって、彼らを①王家にすること、アブラハム家を②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることでした。彼らは、25年間も待ち続けたのですが、子どもも与えられず、約束の地での「土地」も与えられませんでした。しかし、奇跡的に、神様のみことば通りに、不妊の女で90歳であったサラに「イサク」(笑い)という息子が与えられ、21:8節に書いてあるようにアブラハムは「盛大な宴会」を開きました。しかし、約束の「成就」がやっと始まったと言うのに、その後、すぐにアブラハムは、四つの試練に次々と襲われました。それだけではなく、22章で神様はアブラハムの信仰と従順を試すために、これまでにない程の最も難しい試練をお与えになりました。なんと、神様はアブラハムに、25年間も待ち望んで、やっと与えられたひとり子を、生贄として神様に献げるようにと命じられたのです。
これまで何度も神様のみことばを疑ってきたアブラハムでしたが、様々な試練を通して訓練されてもきたので、神様のみことばを信じ、ひとり子の「イサクにあって」、すべての祝福が与えられると神様が約束されたので、「神には(イサク)を死者の中からよみがえらせることもできると考え」(ヘブル11:18-19参照)、神様の命令に従いました。そして、「比喩的に考えれば」、神様は、アブラハムの信仰と希望通りに、死ぬはずのイサクが「よみがえり」、すべてが守られました(ヘブル11:19)。神様はアブラハムに「脱出の道」を備えてくださり、イサクの代わりに雄羊を与えてくださいました。創世記22章の出来事は、アブラハムとサラの生涯のクライマックスだったとも言えます。
しかし、そのクライマックスのあとに、この2節があります。
創世記23:1-2 サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。 サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた。
私たちの「信仰の母」で、「信仰の巨人」であるサラの生涯がここで幕を閉じます。私はこの2節を読むと、いつも感動します。神様の約束をいただいた後、サラも25年間、アブラハムに従いつづけ、獅子やジャッカル、サソリに囲まれながら、荒野の昼の猛暑、夜の強風と寒さをテントで耐え続けました。夫のアブラハムの嘘によって2回も異国の王のハーレムに強制的に入れられてしまいましたが、サラはアブラハムを「主」と呼び、どんなことをも恐れないで善を行おうとしました(1ペテロ3:6参照)。そして、25年間も不妊であり、90歳になっていましたが、「約束してくださった方を真実な方」(ヘブル11:11)と考え、「死んだも同然」の体ではありましたが、信仰によって、子を設ける力を得ました。そして、長い間、待ち望み続けて、やっと与えられたひとり子を、夫が生贄として神様に献げようとしても、夫の信仰と同じように、「神にはイサクを死者の中からよみがえらせることもできる」と信じ、2人を送り出したと思います。「カナンの地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロン」で、信仰によって歩み続けて来たサラは127歳で亡くなってしまいました。信仰深いアブラハムでしたが「サラは神様のところにいる。神様に感謝しましょう」とは言わずに、神様の約束を待ち望んだ、信仰の旅のパートナー、自分の愛する妻のサラのために悼み悲しみ、泣いたのです。
そして、ここにはもう一つの悲しさがあります。ヘブル書は、サラの死をこのように解釈しています。
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。 (ヘブル11:13)
サラは約60年も神様が約束されたものを待ち望んでいましたが、待ち望んでいた「約束の地」を「手に入れること」はできませんでした。神様はサラが「世界の王妃」、「約束の地を治める、神の民の母」となると約束され、「姫」を意味する「サラ」という名前をお与えになりました。しかし、サラはカナンの荒野に住む遊牧人の妻として、また「異国人の寄留者」として死んでいきました。それでもサラは、死ぬまで「信仰の人」として神様が約束されたものを喜び迎えました。
ですから、同じ信仰を持つアブラハムは、愛するサラのそばから立ち上がり、悼み悲しむのをやめて、自分の愛する妻が「はるか遠くに」見ながら「喜び迎えていた」約束の地を手に入れて、サラを約束の地に葬りたいと思いました。そして、約束の地の所有者であったヒッタイト人に「私は、あなたがたのところに在住している寄留者ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば、死んだ者を私のところから移して、葬ることができます」とお願いしました (創世記 23:4)。しかし、それは非常に無理なお願いでした。なぜなら、荒野のようなカナンでは、良い耕作地は稀だったので、土地を売ってしまうと、自分たちの子どもにその良い地を与えられなくなってしまうからです。経済的に苦しいときでさえも、よその者にではなく、身内に売ることが大前提でした。異国人であり、寄留者であるよそ者が、カナンの地の土地を買うなどということは非常に難しい話でした。それゆえ、アブラハムとサラは約束の地に自分たちの土地を所有することはできなかったかもしれません。
中東の文化は日本の文化と非常に似ているところがあって、いろんな言い回しや、曖昧な表現で交渉したり、断ったりします。この箇所のヒッタイト人の応答をみてみましょう。
「ご主人、私たちの言うことをお聞き入れください。あなたは、私たちの間にあって神のつかさです。私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください。私たちの中にはだれ一人、亡くなった方を葬る墓地をあなたに差し出さない者はおりません。」 (23:6)
ヒッタイト人は、アブラハムとアブラハムの神様の力をよく知っていて、非常に尊敬していました。なぜなら、アブラハムの神様は、アブラハムと彼の318人の兵を用いて、強大な連盟軍をカナンから追い払ったこともあり(創世記14章)、ヒッタイト人もその出来事に感謝していたからだと思います。ですから、ヒッタイト人はアブラハムを「神のつかさ」として呼び、「最上の墓地」を差し出そうとします。しかし、「私たちの最上の墓地に、亡くなった方を葬ってください」という言葉の言わんとしていることは、「墓地は譲るけど、所有権はあなたに売らない」ということなのです。
しかし、サラの死を悼み悲しんでいるアブラハム、神様の約束を待ち望んでいたアブラハムは、ヒッタイト人がやんわり断っていることを無視して、強引に交渉を進めようとします。しかも、町の門に入るヒッタイト人たち全員が聞いているところでです。アブラハムは自分の井戸が、王の見えないところでカナン人に盗まれた経験があったので(創世記21:25)、愛するサラの墓地が失われないように慎重に交渉したと思います。アブラハムが目を付けていた畑地(はたち)の所有者、エフロンは、他のヒッタイト人と同じように、アブラハムの願いをかわし続けます。「いいえ、ご主人。どうか、私の言うことをお聞き入れください。あの畑地をあなたに差し上げます。そこにある洞穴も差し上げます。私の民の者たちの前で、それをあなたに差し上げます。亡くなった方を葬ってください。」 (23:11) しかし、アブラハムは、サラのために「自分の所有する土地」が欲しかったのです。それは、創世記14章でソドムの王からの譲りものを断った理由と同じように、「アブラムを富ませたのは、この私だ」(創世記14:23)とヒッタイト人に言わせないようにするためだったと思います。なぜなら、もしエフロンが譲ったものを、たとえば、エフロンの子孫がまた強引に取り返したら、権利のない寄留者や異国人は何の言い分もできなくなってしまうからです。
それゆえ、アブラハムはまた堂々と、みんなの前で、愛するサラのために、強引に交渉し続けます。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことをお聞き入れください。畑地の価の銀をお支払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」 (創23:13) そして、エフロンは、「銀四百シェケルの土地、それなら、私とあなたの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、亡くなった方を葬ってください。」 (23:15)と答えます。「いえいえ、たったの400シェケル土地なので、譲りますよ」と言うのは、一見、非常に優しく聞こえますが、いろんな意味が含まれているのです。400シェケルがいくらぐらいなのか、はっきりわかりませんが、若いヨセフは20シェケルでエジプトの奴隷商人に売られたので(創37:28)、この墓地は20人の男奴隷に相当する価値があると思います。元気な若い男奴隷は、パワフルで速い、使い勝手のある新車にも例えられるとしたら、新車20台分と同じ価値の墓地を、何も払わないで、ただいただくと言うことは非常識でしょうし、エフロンも「この墓地は新車20台分の価値ですよ。買えるんですか」ということもほのめかしていると思います。中東では価格交渉することは普通なので、最初の価格は、当然、本来のその土地の価格よりもはるかに上回っていたと思います。しかし、愛するサラのために、そして、神様の約束の地の土地を所有するために、アブラハムは交渉も抵抗もせずに、この機会を逃がさず、即購入したのです。
サラの死についての箇所なのに、なぜ墓地の価格交渉の説明が13節も占めているのかと考える方もいると思いますが、その意味は17-20節に書いてあります。色んな言い回しで同じ内容が何度も繰り返されていることから、この箇所の内容が筆者(ひっしゃ)にとってメインポイントになっていると言えます。それは、アブラハムが、サラが亡くなっても、自分のものにした約束の地で休むことができたからだと思います。皮肉なことに、サラの死によって、「この畑地とその中にある洞穴」は、ヒッタイト人たちの手から離れて、アブラハムが所有する私有の墓地となりました。そして、サラは、自分が待ち望んでいた約束の地で、神様が直接サラに現れ、力強く約束されたマムレの木(創世記18:1)の近くで、自分の「所有」する「マクペラの畑地の洞穴に」眠ることができました。サラが葬られた洞窟は、アブラハム(25:8-10)とヤコブ(50:13)も葬られた洞窟になり、そして、約1000年後には、カナンの地を自分の王国の下で統一させた王ダビデが、カナンの地のサラが葬られた町、ヘブロンで王として国を治めました。つまり、サラの死は、神様の約束の成就の妨げにはなりませんでした。むしろ、サラの死によって、神様の成就が始まったということなのです。
しかし、サラは、カナンの地を求めていた訳ではありませんし、地上に建てられるイスラエル王国を求めてもいませんでした。ヨシュア記と創世記の説教で何回も引用しましたが、ヘブル11:16にサラの信仰の本質が、記されています。
しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
つまり、サラが待ち望んでいたのは、カナンではなく、永遠の約束の地、すなわち、天の故郷であり、神の都である天国でした。ですから、サラがカナンの地を受け取ることができなかったとしても、サラの子孫であるイエス様が、サラのために、天の約束の地を獲得してくださるということが彼女の希望でした。そして、よみがえられ天に上られ、神様の右の座に座しておられるイエス様がこの希望を実際に成し遂げられたのです。
この箇所からどんなことが私たちの歩みに適用できるでしょうか。三つのことを分かち合いたいと思います。
まず、一つ目。「神様が選ばれた王妃」サラは、寄留者として、異国人として、「約束されたものを手に入れず」、亡くなりました。そして、神の子である私たちも、全く同じです。
神様の約束を信じる者は、イエス様と同様に「神の子」とされ、イエス様と「共同相続人」となり、また、イエス様の「花嫁」になりました。神様は「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(エペソ2:6)。しかし、私たちはこの世では「旅人、寄留者」(1ペテロ2:11)であり、「私たちの国籍は天にあり」(ピリピ3:20)、この世では異国人として歩んでいます。ですから、サラのように、イエス様を通して、私たちも「神の王家」(エペソ2:18参照)、「神の王国」になり、この地を治める者になる(黙示録5:10参照)約束をいただいたとしても、私たちも「約束されたものを手に入れず」(ヘブル11:17)亡くなります。最後の日が来ない限り、私たちは約束されたことを見ることはできないのです。
しかし、私たちの唯一の希望は、イエス様も同じように歩まれたということです。私たちは「神の子」とされた者ですが、イエス様は実際の神の子です。しかし、「[イエス様]はもとから世におられ、世は[イエス様]によって造られたのに、世は[イエス様]を知らなかった。 [イエス様]はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」とヨハネ1:10-11に書いてあります。イエス様は神の子であり、この世界の創造主であられるのに、「よそもの」、「異国人」、「寄留者」として扱われました。そして、「王の王」であられるのに、イエス様は「ローマ帝国の罪人」として十字架につけられました。ですから、私たちが自分たちの救い主と同じ道を歩んでいるということは、私たちにとって励ましなのです。
次に覚えていただきたいことは、これです。神様の約束は、ぶざまでやっかいで不公平な人間の普通の手段を通して、力強く前進します。
アブラハム家にどのように約束の地が与えられたのでしょうか。奇跡的に天から降ってきたのでしょうか。超自然的な方法で、アブラハムの名前がカナンの土地権利に登記され、その情報がアブラハムに送られたのでしょうか。神様があるカナン人を洗脳して、アブラハムに約束の地を譲ったのでしょうか。私たちは神様の約束の成就を、そのような、すごく簡単で見栄えがよくて、自分たちにとって都合のいい方法を期待するかもしれませんが、神様はそのようには働かれません。劇的でもないサラの死と墓地の所有権の購入の際に、人間同士のやっかいな土地の価格交渉を通して、また、カナン人の異国人に対する不公平な扱いの中で、神様はご自身の約束を力強く果たされたことがわかります。創世記の結論には、このような一節があります。
「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」 (創 50:20)
つまり、どんなに悪に満ちた手段であっても、神様はそれを通して神様の約束を成就し、多くの人にいのちを与えることがおできになります。奇跡よりも、むしろ神様の力強さがより明らかになります。そして、もうお気づきだと思いますが、十字架での救いの方法は全く同じです。私たちが永遠のいのちをいただいたとき、それは、すごく簡単で見栄えがよく、自分たちにとって都合のいい手段だったでしょうか?私たちが救われた方法は、むしろ「愚か」で、みにくい手段であったと、1世紀のときから言われています。裸で血まみれになったぶざまな姿で十字架につけられたイエス様が、やっかいなローマ帝国の法廷のプロセスを通して、不義と悪を行った罪人たちに囲まれている中で、十字架の上から永遠のいのちが多くの人に与えられたことによって、私たちが生かされたのです。聖書を読めば神様が「泥臭い」方法でご自分の約束を成就されたことがわかります。しかし、それによって、神様のご栄光はますます現され、私たちはますます神様を誉めたたえることができるのです。
そして、最後に覚えていただきたいことは、これです。死は、神様の約束の成就の妨げにはなりません。むしろ、イエス様は死を用いて、私たちを神の都へ導かれます。
サラは、カナンという約束の地、イスラエルという地を待ち望んではいませんでした。もう一度ヘブル11:16をお読みします。
彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
サラは、今どこにいると思いますか?サラのからだは、この地上にある約束の地、ヘブロンにありますが、サラの霊は天にある永遠の約束の地にあって、神様の御前で、神様と永遠の安息を楽しんでいます。そして、サラが死んだことによって、サラはイエス様からの栄光のからだを受けることができ、永遠のいのちをいただくことができます。サラの死が神様の約束の妨げになったと思われるかもしれませんが、サラの死は、神の都への「入口」となったのです。
それゆえ、パウロはこのように私たちを励まします。
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。(1テサロニケ 4:13-14)
イエス様が十字架で死なれ、復活されて天の神の都へ上られたので、イエス様を信じる者たちも全く同じ道を通るのです。ですから、私たちは死と向き合うとき、望みのない人々のようには悲しみません。むしろ、死んでよみがえられたイエス様を仰ぎ見て、サラのように天の神の都を待ち望むのです。