2023年3月26日礼拝 説教「キリストが分割されたのですか」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇 Psalm 34:3~5
さ ん び Opening Praise 「わがたましい主をほめよ How Great Is Our God」
さ ん び Praise 「主の十字架に The Wonderful Cross」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌230番「確かなもとい ただ主に置き」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 I Corinthians 1:10~17
聖書の話 Sermon 「キリストが分割されたのですか」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 301番 「千歳の岩よ」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 主の祈りより

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

私はインスタグラムを持っていませんが、他の人のアカウントを見ると、投稿されるストーリーなどがとてもキラキラしているものが多いと感じます。正直なものもありますが、人に好印象などの影響を与えるように編集されていることもよくある気がします。そして、スマホのSNSを通じて、多くの若者はSNSの人気者の映像などを見て、自分と人気投稿者の見栄え良さの違いに打ちのめされて、精神的に病んでいっていることが深刻な問題となっていることも聞きます。ここでインターネットのツールを全部否定しているのではありません。ただ、そこでよく現れる課題を言っていて、その課題は別の方法でも見受けられます。日本で引きこもりや自殺が相次ぐのも、社会の欲求に答えられず、受け入れられないという恐れと現実に耐え難いケースが多いからではないでしょうか。私たちは自分を守るために、色々な建前で取り繕って、良くないと分かるいじめや村八分に賛同します。小さいときから、一緒に遊んでもらえないときの寂しさがないように、好きになってもらおうと考える子どもが多いと思います。他の人に受け入れられようとする競争は常に、世の中にあります。

教会の中はどうでしょうか。今日の箇所のお願いと注意が来るのは、私たちにも先ほどのような問題があるかもしれないと教えます。

パウロはまず1章10〜12節で、4章まで取り扱う問題を提示します。10節では、「私たちの主イエス・キリストの名によって…」と厳かにイエス様を証人として認めますが、「あなたがたにお願いします」と優しく言って、「どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。私の兄弟たち」と書きます。

コリントのクリスチャンたちが仲間割れをしていたから、この話がありました。「仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください」は、皆が同じになりなさいというお願いではありません。当時、ギリシャの社会で、多様な考えや立場があっても平和を保つように勧めるときに用いられるような表現でした。教会は主イエスを共有するように、語る主張も抱く思いも、共有して、交わりをして、生きるべきだとパウロは主張します。

けれども、11節に「実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました」と書かれています。「争い」は口喧嘩だけでなく、「不調和」とも言えます。そして、パウロはクロエの家の者が「告げ口」をしたことを暴露しているということではありません。コリント人たちの分裂が悪化しないために、パウロが思いやりをもって、情報を共有しました。はっきりと情報源を伝えることによって、コリント人の間で「お前が言ったな」とお互いをますます疑ったり非難したりする余地もないようにしてくれます。(地図)「クロエ」はおそらく、パウロが手紙を書く際にエペソ、あるいはコリントの町に住む女性であったでしょう。その家族か奴隷が商売か何かの出張でコリントからエペソに行って、コリントで見てきた分裂をエペソにいたパウロに伝えました。

12節によると、コリントのクリスチャンたちは自分たちのお気に入りの指導者を名乗って、競い合っていました。パウロはガラテヤ書のような手紙と違って、アポロやケファと神学的な論争を一切しません。しかし、パウロ、アポロ、ケファ(ペテロ)、キリストの名を取る「派閥」ができていること自体が問題でした。

もう少し理解するために、コリントの文化がどういうものだったかを確認したいと思います。コリントは世的な「成功」、影響力や「名声」をとても大切にする町でした。出世して儲けるために人が行って、競争していく、繁盛の町でした。コリントの町は財政力と影響力を持っていました。そして、満ち足りた中で自分を誇る文化をも持っていたことが、考古学や当時の文書を調べると分かります。お金を誇りとすることだけでなく(第一コリント4:8参照)、例えば、「コネ」を用いて立場を確立しようとする習慣もあったようです。もし偉い人の「派閥」に加われば、立場が有利になるということでした。

パウロ・アポロ・ケファ・キリストと名乗った「派閥」について少しだけの推測はできます。持っている情報から、状況を想像してみましょう。

使徒の働き18章によれば、使徒パウロがコリント教会を開拓した人です。彼のいわゆる第二宣教旅行に於いて、コリントの町で反対をされても、イエス様の励ましを受けて、一年半も伝道と訓練をし続けました。そして、コリントに地域教会が誕生しました。パウロは、言うまでもなく多くの人の恩師でした。彼を個人的に知っていた信者は「私はパウロにつく」と言っていたかもしれません。

もう一方で、使徒18章の終わりと19章1節によると、伝道者アポロもパウロの後に、コリントへ行きました。雄弁で情熱のある教師だったそうです。第一コリント1章17節以降の話からすると、彼の話し方がコリント人の人気を得たのかもしれません。さらに、第一コリント9章から読み取れますが、使徒ペテロ(ケファ)が妻と一緒に旅行をしたことがあり、コリントで知られていたようです。それで「私はアポロに」「私はケファに」と言う人がいたそうです。「私はキリストに」と言った人は、自分がもっと霊的だと自負していた人たちだったかもしれません。

そのように性格や賜物の違いを持つ使徒たちや伝道者がコリントの教会の個人の間で、「ファン」を集める対象となってしまいました。個人的に好きな「先生」を選んで競い合って、「争い」までしていたそうです(第一コリント1:12)。

ちなみに、自分を含め、「神学議論」好きな方への注意です。パウロが神学的議論を必ずしも問題として見ないと言いましたが、神学的議論の内容は別にして、自分の神学が正しいこと自体を誇りとするなら、パウロの指摘は私たちにも当てはまると思います。「私は長老派につく」と威張った態度を取り、「〜先生がやっぱり一番だ」と主張する中で他のクリスチャンを軽視したりするなら、問題があります。

それはそれとして、キリストに従うと言いながらも、コリント人クリスチャンはそれ以上に、個人的に親しく感じる先生、あるいは影響力ありそうな先生を選び、対立し合うことになっていました。神学の議論でなかったとしても、争い自体は神学的な問題から生まれていました。前回見た「聖徒の交わり」、教会の一致、また「キリストとの交わり」の本質に関わることです。ですから、パウロは長く、多くの方面からコリント人クリスチャンを説得しようとします。まず、13から17節まで、最初の反論として神学的な現実を指摘します。分裂したイエス様がおられず、キリストとの交わりに入れられた教会にも分裂があり得ない、またパウロが求めたものではない、と伝えます。

13節 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

答えは当然、「まさか、そんなことはない」です。キリストは「パウロクラブ」や「アポロ得意分野」に分割されるようなお方ではありません。イエス・キリストの霊的からだである教会も、相反する部分に切断されて分割されることもあり得ません。

14〜17節前半でパウロは、たとえ洗礼を授けた人に対してでも、クリスチャンは個人に特別な忠誠は要らないと教えます。彼自身は、「ステファナの家の者たち」への洗礼をうっかり忘れて、また16節で訂正するほどに、それに無頓着です。

彼は洗礼を軽く見ているのではありません。ただ、自分が大勢に洗礼を授けて、恩を着せたと思ってほしくなかったのです。パウロから洗礼を受けた人とそうでない人とに分かれようと思ってほしくなかったからです。むしろ、17節で続けるように、「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。」第一に福音を伝える使命を受けていました。

「ことばの知恵」は何でしょうか。知恵は良くないとでも、パウロ は言うのでしょうか。なぜ、「知恵」を自分のメッセージと対比しているのでしょうか。これは18節以降でもっと明らかになりますが、コリント人クリスチャンの問題のもう一つの原因をほのめかしています。コリントの町には、「成功」への道の一つとして、ことばで評判を高める価値観がありました。しかも、手段を問わないで「人気になる」表現を使っても良いと見做す文化でした。ですから話し方、演説法はとても大切にされていました。その頃、ローマ帝国では、一方で、事実を明らかにして説得しようとする人の修辞法がありました。もう一方で、ただ人気と利益を得るためにことばを操る、より劇的な話し方を好む人の修辞法もありました。考古学でコリントにある記録からすると、後者がそこの主流だったそうです。参考までに、コリント人への手紙第二の10章10節に「『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない』と言う人たちがいる」と指摘されています。

ですから、パウロはすべての「知恵」を否定していません。問題なのは、コリント風に捉えられる、偽の「知恵」です。コリント人は影響を及ぼせる話し方を「ことばの知恵」として評価していました。パウロはコリントに行って福音を宣べ伝えた際、彼らの期待を裏切ったかもしれません。17節を締めくくって、「福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです」と言います。しかし、パウロが福音の内容を代表する「十字架」について教えた時、実際にコリントでクリスチャンの共同体、教会が生まれました。コリントにある教会が始まり、現在も世界中、何千もの文化の人々が私たちと同じように礼拝をささげる理由は、「キリストの十字架」だけです。

 

キリストの十字架を次回もっと見ますが、今日も、毎日、十字架を思い出す必要があります。イエス様が十字架上で死なれた理由は、私たち人間が自分の罪のために何もできなかったからです。「私はパウロに付く」など言う意味がありません。クリスチャンは「私は罪人のアダムに」以外何も言えない者でした。クリスチャンでない方は今も、じつは、そうです。コリント人は好みで自分の派閥の代表を選べると思っていましたが、全人類はアダムの罪を持って生まれます。連帯責任の原則と自己責任の原則の両方によって、アダムの罪と自分の犯罪を負っています。つまり、無限で聖なる、宇宙の王なる神様の教えに対する反逆のため、刑罰を受けるべき存在です。か弱い私たちは、「罪をあがなう力はあらず」(教会福音讃美歌301番)、世のコネ、カネ、話し方、知恵も、神様に赦され認められるために全く無意味です。

そこで、イエス・キリストが十字架に架かってくださいました。十字架上で、イエス・キリストを信じる人の罪が全て罰せられました。十字架によって罪に対する三つの解決が与えられました。一つ目に、罪の償いと刑罰はすでに取り扱い済みです(義認)。二つ目に、罪を犯さざるを得ないという奴隷制度からも、自由になった状態で今を歩めます(聖化)。三つ目に、罪がもたらす恥と苦しみと身体の死も、十字架の死を通られてよみがえられたイエス様によって、イエス様の栄誉と完全と復活に飲み込まれる日が来ます(栄化)。

ですから、イエス・キリストを信じるなら、私たちは自分の格好よさや業績、あるいは影響力ある、ただの人間にすがって、自分の立場を守る必要はありますか。ありません!それで周りの人と競い合う必要もありません!キリストの以上の恵みの全てが、信じる私たちの共有するものです。キリストは分割されるような方ではないから、その全ての恵みが全てのクリスチャンに与えられています。賢くて昔から世話してくれた恩師の「パウロ先生」に付く特典か、話が面白くて、元気な「アポロ先生」に付く特典かに分けられていません!キリストの十字架の力だけで私たちは神様のすべての祝福を頂けます(エペソ1:3-14参照)。

 

では、今日の箇所の第一の適用は、十字架にある福音をただ信じることですが、もう少し具体的にしてみましょう。21世紀の日本にいる私たちへの二つの大まかな質問と勧めがあります。

① 12節と17節から、「あなたは自分のために立場や安全を確立しようとして、十字架以外に何か、だれかを利用しようとしていますか。イエス様だけにより頼んでみませんか。」

人間的な「ことばの知恵」で人を操ろうとしていますか。日本の文化は素晴らしい美徳を持っていますが、同時に派閥、いじめ、仲間外れ、引きこもり、自殺もあることを私たちはよく知っています。コリント的な競い合いと少し違っても、結局、私たちは学校や友人関係、会社、また教会でさえも、自分を守らなければいけないと思って、見た目を好くしようと思うかもしれません。

「インスタ映え」や「イイね」で人を好きなように動かそうとしますか。学校、会社で公正なこと、また隣人愛を求めますか。それとも、人気者にることを優先しか。なぜですか。私たちは何を恐れますか。何を欲して、他のものを犠牲にしていますか。必要なものは全て、十字架によって、イエス様が下さるのです。ですから、自分の立場を守るより、イエス様に信頼して、弱く格好悪く思われても、歩んで良いのです。

② 10節に第一コリント1〜4章の主な主張がまとめてあるのですが、パウロは特にクリスチャンの間の問題を考えていました。ですから、最後に、特にクリスチャンの皆様に次の質問をしたいと思います。「あなたは、同じ共同体の一員と見做すのが難しいクリスチャンがいますか。いれば、もしあなたが十字架のみに誇りを持てば、あの人を愛せますか」です。クリスチャン同士で競争相手となっている人がいたら、「私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」そうするために、福音の内容を思い出しましょう。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる〈十字架での〉贖いを通して、価なしに義と認められるからです。…それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。(ローマ3:23-24、27)

他の人にでも自分にでも誇りは持てません。持たなくてもいいです。私たちクリスチャンはともに、イエス様の交わりを共有しています。十字架では、あなたの恥ずかしい罪も私の恥ずかしい罪も取り扱われました。争う必要も意味もありません。恥じる必要も誇る必要もありません。私たちを洗いきよめるキリスト・イエスだけが希望です。分裂しないキリストのからだとして、分割されていないキリストのすべての恵みを感謝して、愛し合えるように祈り求めたいと思います。共同体ですから、この課題について一緒に祈り合える相手を求めてもいいかもしれません。

社会の中での派閥や仲間外れ、競争はイエス様の再臨まで続くでしょう。教会の中でも、罪が残っているゆえ、続くでしょう。しかし、教会の中では、私たちは評判を守る代わりに、イエス様を信じる一致において、平和を求められるように自由にされました。色々な違いがあっても、根本的に「語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致」することができます。十字架のメッセージによって、一致を喜んで、歩んで行きましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church