2023年4月2日礼拝 説教「主の御名によって来られる王」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇​ Psalm ​118​篇​25​~​29​節​
さ ん び Opening Praise 「大いなる方に Give Thanks」
さ ん び Praise 「主の十字架にThe Wonderful Cross」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 30番「御前にひれ伏し」1-2・4-5番
聖書朗読 Scripture Reading ルカの福音書 Luke 19章28~40節
聖書の話 Sermon 「主の御名によって来られる王」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 115番 「主イエスの頭に」
献   金 Offering
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇23篇より

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きたいのですが、もし今日、イエス様がベイタウンに来られるとしたら、みんなはどう思いますか?わくわくするんじゃないかな。じゃあ、みんなはイエス様にどんなふうにベイタウンに来てほしいですか?私だったら、イエス様に、カッコよくバレンタイン通りを歩きながら、自分の力強さを見せてほしいですね。そして、教会のみんなで賛美しながらイエス様を迎えたいと思います。では、もしイエス様がベイタウンに来られたら、イエス様に一番にしてほしいことは何ですか?いろいろあると思います。私だったら、海浜幕張めぐみ教会の牧師として、ベイタウンのみんながイエス様のみことばを聞いて、多くの人たちがこの教会に導かれるようになってほしいと思います。イエス様がイスラエルにある大きな町、エルサレムという所に向かっていた時、イエス様の弟子たちも似たようなことを考えていました。

しかし、イエス様がエルサレムに来られた時、弟子たちの期待とは全く逆のことが起こりました。イエス様はかなり地味なかっこうで、普通の人のようにエルサレムに入られました。そして、イエス様が弟子たちに与えようとされていた救いとは、イスラエルを強い国にすることではなく、ご自分が十字架の上で死んで、よみがえることでした。弟子たちもびっくりして、混乱していました。つまり、私たちがイエス様に期待することと、イエス様が私たちにしてくださることは大きく違うときがあるということです。しかし、私たちが覚えなければいけないのは、イエス様がお与えになる救いは、私たちが欲しがるものよりも、何千倍、何万倍もいいことだということです。本日の箇所を見ながら、その意味をもう少し見ていきましょう。

 

ここは、イエス様がエルサレムに向かおうとされる箇所ですが、ルカの福音書と旧約聖書の背景を理解すると、その意味のインパクトをより深くわかると思います。エルサレムはイスラエルの首都ですが、当時はローマ帝国の配下にありました。実は、エルサレムは紀元前7世紀後半から、様々な王国の配下にあったのです。最初は、バビロン帝国、次はペルシア帝国、そのあと、ギリシャ帝国、最後にローマ帝国。約700年以上もの間、イスラエルが異国の帝国に支配されるということは、神様の裁きによるものでした。なぜなら、イスラエルは神に選ばれた民なのに、神様以外の力により頼み、霊的に傲慢になってしまったからです。つまり、神様を裏切ったのです。

しかし、神様は裁きの預言を与えながらも、神の民に恵みと救いを約束し続けてくださいました。それは、いつか神様が「メシア」を神の民のために送ってくださるという約束でした。「イエス・キリスト」の「キリスト」とは、そのような意味なのです。神様に選ばれた王の印として、イスラエルの王は、神様が遣わされた預言者によって油注ぎを受ける習慣がありました(1サム10:1、1サム16:13)。ですから、「メシア」(ヘブル語)または「キリスト」(ギリシャ語)の意味は、「油注がれた者」、つまり、神様が選ばれ、送ってくださった「王」であり、神の民の「救い主」だという意味なのです。ですから、神の民であるイスラエルは、この「メシア」を約700年以上も待ち望み続け、いつかこの「メシア」が、ダビデ王のようにエルサレムに来られ、自由と解放を神の民に与え、エルサレムで「神の王国」または「神の国」を再建してくださることを期待していたのです。

そして、「イエス」という人物が突然現れます。突然、ある礼拝堂にあらわれ、イザヤ書にある預言を読みます。

「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」 (ルカ 4:18-19)

そして、「イエス」は巻物のイザヤ書を巻いてから、人々に向かって、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」 とおっしゃいました(ルカ4:20-21)。つまり、無名の「イエス」という人物が究極の「油注がれた王」だと、自分で宣言されたのです。そして、そのあと、メシアが神の民に自由と解放を与え、救いを与えると、「神の国の良い知らせ」について語られたのです。多くの人がこの「イエス」という男はちょっと頭がおかしいんじゃないかと思いましたが、「イエス」の周りには、群衆が集まり始めました。この「イエス」は、旧約の預言者以上の迫力と頻度で奇跡としるしを起こしていたからです。そして、この「イエス」は、律法学者以上に権威をもってみことばについて教えていました。揺るがず、力強く「神の国があなたがたの近くに来ている」という良い知らせを語り続け、多くの人たちが「この人がキリストだ!」と信じるようになりました。

しかし、ルカの福音書を読んでいくと、期待外れが二つあったことがわかります。もし「キリスト」が、エルサレムをローマ帝国から解放してくれるお方だと期待していたら、どんなイメージを持つでしょうか?多くの兵隊に囲まれて戦車に乗っている「将軍」が、エルサレムに突撃するようなイメージを持つのは、当然だと思います。しかし、この「イエス」は全く違います。エルサレムではなく、ど田舎にある村々の病人を癒したり、何の社会的地位も持っていない人たちの悪霊を追い払ったり、奇跡によって、貧しい人たちにパンを配ったり、色んな人たちの家に泊って、取税人や遊女のような罪人たちとお酒を飲んだり、山の上で、意味のわからないたとえ話によって律法について教えたりするのです。しかも「イエス」の弟子たちは、政治家でも軍人でもお金持ちでもなく、無名で、影響力もない普通の人たちでした。しかも、その活動は約3年間も続くのです。この「イエス」を熱心に支持していたバプテスマのヨハネも、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」(ルカ7:20)と疑問に思うほど、多くのイスラエル人が「イエス」に対して首をかしげていたと思います。つまり、この「イエス・キリスト」は、イスラエル人が期待していた「救い」には全く興味がなさそうでした。

しかし、この「イエス」は自分が「キリスト」であることを宣言し続け、そして、エルサレムへ行くことには変わりありませんでした。「町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた」(ルカ13:22)のですが、「イエス」がエルサレムへ行く目的や「イエス」が期待していた神様の約束の成就は、イスラエルとイエスの弟子たちの期待とは、かけ離れていたことがわかります。

さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子(=メシアまたはキリスト)について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 (ルカ18:31-33)

つまり、イエス様が思い描かれていた「神の国」とは、神様のイスラエルに対する裁きである「ローマ帝国の圧制」からの解放ではなく、神様の全人類に対する裁きである「死」からの解放ということでした。しかし、弟子たちは、これらのことを聞いても、「何一つ分からなかった」のです(ルカ18:34)。そして、イエス様がエルサレムの近くに来られたので「人々は神の国がすぐに現れる」と期待しました(ルカ19:11)。つまり、弟子たちも人々も、イエス・キリストがエルサレムに着かれた時、彼がローマ帝国をすぐに追い払ってくださり、新しい政府が立ち上げられると期待していたのです(ルカ22:34参照)。

しかし、エルサレムに入る前のイエス様の最後の一言はこうでした。「私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。」(ルカ19:27)つまり、イエスは自分を王として受け入れない人たちに宣戦布告をしているのです。弟子たちはこれを聞いて、「おお!先生がやっと本気になったぜ!ローマどもをついにやっつけるんだ!」と思ったかもしれませんが、その意味が少しずつ明らかになります。

イエス様は、エルサレムの近くにある「オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいた」とき、2人の弟子たちを遣わされました。そして、こうおっしゃいました。

「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ロバが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」(19:30-31)

ここにはいろんな矛盾が含まれており、非常に面白い場面だと思います。まず、イエス様はご自分で「自分はメシアである」とおっしゃいながらも、豪華な大行列ではなくが、なぜか徒歩でエルサレムに向かわれたのです。そして、最後の数キロ(徒歩1.5時間)は、なぜか「王らしく」エルサレムに入りたいとおっしゃるのですが、イエス様が選ばれた軍馬は、「ロバ」でした。しかも、借り物の。私の勝手な想像かもしれませんが、こんな会話が思い浮かびました。イエス様が弟子たちに「王らしくエルサレムに入りたいから、近くのレンタカー屋さんにいって、一番安い軽自動車を借りて来なさい」とおっしゃいます。「先生!せっかくなので、ベンツとかはいかがでしょう。せめて、クラウンでも…」「いや、安いやつで。支払いについて聞かれたら『メシアがこの軽トラをお入り用なので』と言いなさい。」色んな矛盾があり過ぎて、もう何が起こっているかがわかりませんよね。しかし、この場面には、弟子たちの「メシア像」とイエス様の「メシア像」がかけ離れていることがわかりやすく描かれています。

イエス様の「メシア像」は、神様の御心に沿ったものです。ゼカリヤ9:9-12は、このように預言します。

娘シオンよ、大いに喜べ。 娘エルサレムよ、喜び叫べ。 見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、 柔和な者で、ロバに乗って。 雌ロバの子である、ロバに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。 戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、 大河から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、 わたしはあなたの捕らわれ人を、 水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ、砦に帰れ。

つまり、メシアは軽トラに乗って、敵軍の最強の戦車と軍船、最先端のミサイルやドローンを絶えさせ、エルサレムを解放するというような預言です。その預言を知っているイエス様の弟子たちは、わくわくしながらイエス様を迎えます。

イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、こう言った。 「祝福あれ、 主の御名によって来られる方、王に。 天には平和があるように。 栄光がいと高き所にあるように。」 (ルカ 19:37-38)

弟子たちは本日の招き言葉である詩篇118篇を歌いながら、韓国の超有名なグループ、BTSのコンサートで、はじめてメンバーが現れる瞬間のファンの叫び以上に、大声で賛美したと思います。

それを見ていたパリサイ人は、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言いました(19:39)。当時の人から見ると、パリサイ人は真面目で熱心で、清く歩んでいる人たち、そして信仰深くて、非常に尊敬され、信頼されている宗教的なリーダーたちでした。彼らは「イエス」という人物を、「みことばをよく知っている良き先生」と受け入れていましたが、「王」としては受け入れていませんでした。むしろ、イエス様が、ご自分はメシアであると自称されることは、みことばに相反する冒涜だと考えていました。しかし、イエス様はこうおっしゃいます。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(19:40)つまり、イエス様が「王」または「メシア」としてエルサレムに入られることは、全世界、全宇宙に響くものであり、この人たちが黙ったとしても、被造物である石さえも歌い始めるということなのです(イザヤ55:12参照)。要するに、イエス様が示された、イエスが王になるのを望まなかった「敵ども」(ルカ19:14・26)とは、ローマ帝国だけではなく、パリサイ人のようにイエス様を王として認めなかった人たちでした。

しかし、イエス様の王位を望まなかった人たちは、パリサイ人だけに限りませんでした。イエス様を賛美で迎えた弟子たち、イエス様の王位を望んでいませんでした。つまり、ロバに乗られたイエス様は、弟子たちが思い描いていた、エルサレムの王座に座り、栄光の冠を被り、戦車に乗りながら異邦人や罪人たちを追い払うことなど考えておられませんでした。イエス様は、異邦人や罪人たちに嘲られながら、茨の冠を被らされ、緋の衣をまとわせられ、服をはぎとられ、手足に釘が打たれ、十字架にかけられることを望まれたのです。そして、三日目によみがえり、みことば通りに、天においても地においても、すべての権威が「メシア」として与えられることを望まれたのです。しかし、イエス様が十字架にかけられたとき、そして、よみがえられたとき、「祝福あれ、 主の御名によって来られる方、王に。 天には平和があるように。 栄光がいと高き所にあるように」とたたえていた弟子たちはいたでしょうか?誰一人いませんでした。つまり、パリサイ人が望んだように、すべての弟子たちも、十字架にかけられたメシアを自分の王として望まなかったのです。

しかし、イエス様がエルサレムに来られた理由は、「失われた者を捜して救うため」(ルカ19:10)とおっしゃいました。ゼカリヤ9:11でその救いの方法が預言されました。「あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、 わたしはあなたの捕らわれ人を、 水のない穴から解き放つ。」そして、イエス様はエルサレムに入られ、その次の木曜の夜に−−すなわち、十字架にかけられた前夜−−イエス様はこの成就について12人の弟子たちに説明されました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:28)要するに、メシアであるイエス様が成し遂げられた救いは、小さなエルサレムという町の解放ではなかったのです。すべての国民、すべての人が捕らわれている「罪」と「死」からの解放と救いだったのです。そして、イエス様が、十字架上で流された血によって、ローマ帝国ではなく、「罪」と「死」の最強の戦車、軍馬、戦いの弓をすべて絶えさせ、死に向かっている罪人である私たちに解放の道を与えてくださったのです。

 

では、このようにイエス様がエルサレムに入られた様子から、何を自分の生活に適用すればいいのでしょうか。覚えていただきたいことが3つあります。まず、一つ目。イエス様の敵は、ただイエス様を王として認めないという人だけではなく、イエス様のロバ、茨の冠、血まみれになった緋色の衣、十字架という王座を望まなかった人たちも、です。

多くの人たちは、パリサイ人のように、イエス様の良い教えを認めます。無神論者も仏教徒もイエス様の「愛」に関する教えを受け入れます。また、イエス様がなされた「力あるわざ」を認めます。例えば、すべてのイスラム教徒はイエス様を預言者として認めていて、イエス様の力ある奇跡のわざを受け入れています。そして、イエス様が願っておられることー世界が義と平和に満ち、すべてが回復されることーを願わない人はあまりいません。しかし、イエス様が私たちに求めておられるのは、①イエス様が天と地を治める唯一の王であること、②イエス様の十字架とよみがえりを通して救いが与えられることを望むことです。イエス様を「王」として認めることはたやすいと思いますが、イエス様が選ばれた救いの手段を望む人はあまりいないと思います。

しかし、イエス様の「力強さ」とイエス様の「十字架」を切り離すことはできません。イエス様がエルサレムに向かわれたのは、私たちのために、神様に選ばれた王様として、ロバに乗り、茨の冠を被り、血まみれにされた緋色の衣を来て、十字架という王座に着くためでした。私たちは、イスラエルと同じように、一方的にイエス様に対して、色んな「輝かしい」ことを期待しているかもしれませんが、イエス様の望みは、醜い十字架上の救いを私たちに与えることなのです。それ以外のことは、考えておられませんし、私たちが望んでいるような「輝かしい」救いは、イエス様にとって、取るに足らないものなのです。そして、イエス様は、十字架以外の道で「神の国」を望むような人を「敵」と見なされるのです。

次に覚えていただきたいのは、これです。 主の御名によって来られる王は、私たちが望んでいる王国を建てられるためではなく、私たちを神の国に入れるために死んでくださったのです。

私たちはイスラエルの民や弟子たちと同じように、のんきにイエス様が約束してくださる「救い」と「神の国」を求めて、「神の国」がこの世に実現することを望みます。ところが、イエス様をほめたたえていた弟子たちのように、イエス様の十字架を望んでいない私たちも、「神の国」に敵対している者なのです。そもそも、私たちは神の国に入る資格がありません。ですから、私たちはのんきにイエス様の「神の国」を楽しみにしている場合ではないのです。裁きの日に、イエス様が私たちをイエス様の王位と十字架を認めなかった「敵ども」と同じ様にさばかれてしまいます。

しかし、感謝なことに、イエス様は十字架で「契約の血」を私たちの代わりに流されました。十字架で打ち殺されたのは、イエス様ではなく、十字架を拒んだ私たちなのです。つまり、イエス様の死によって、私たちの肉がさかれ、私たちの血が流され、罪人である私たちが「打ち殺された」のです。イエス様の死がなければ、イエス様を裏切った私たちに、赦しはありません。ロバに乗られたイエス様は、ご自分のために王国を建てられたのではなく、私たちのために十字架の屈辱、神の御怒り、私たちの裁きを受けられたのです。それを知った私たちがそのことを理解していたなら、のんきに、わくわくしながら「祝福あれ、 主の御名によって来られる方、王に」と賛美できなかったでしょう。目の見えない物乞いが「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください!」と何回も繰り返し、大声で叫んだように、私たちもイエス様の赦しと憐れみを求めるはずです。

最後に覚えていただきたいのは、これです。イエス様が与えてくださる罪からの解放と救いは、全世界、全宇宙、天と地の全てのものが誉めたたえるべき救いなのです。それ以外の救いは取るに足らないものです。

皆さん、想像してみてください。もしイエス様がイスラエルと弟子たちが望んだようにすべての事を実現させたなら、どうなったでしょうか?ローマ帝国をエルサレムから追い払い、無事にエルサレムの王になり、イスラエルという国が1世紀に独立します。現代の日本にいる私たちとして、そのことについてどう思うでしょうか?「へー、すごいね」と思うぐらいですよね。つまり、イスラエルが期待していた救いは、1世紀のイスラエル人以外には何の関係もないし、イエス様の救いについても何とも思わないと思います。同じように、自分がイエス様に期待する救いまたは祝福は、自分にとっては、非常に関心のあるものかもしれませんが、自分以外の人たちには全く関係ないものかもしれません。そして、全世界、全宇宙にとってもどうでもいい話かもしれません。

しかし、イエス様がエルサレムで成し遂げられた救いは、全世界、全宇宙に響く救いです。なぜなら、イスラエル人でも日本人でも、1世紀の人でも、21世紀の人でも、すべての人は「罪」に捕らわれ、自由になることもできず、すべての人は「死」と「神の裁き」から逃れることはできないからです。ですから、イエス様が望まれ、そして、実際に成し遂げられた救いは、天に於いても地に於いても存在しませんし、それを成し遂げることができる人もいません。イエス様が望まれた救いは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」ほど、すべての人、すべての存在、すべての被造物が誉めたたえる救いなのです。ですから、イエス様が十字架にかけられたとき、よみがえられたときには、だれも賛美しませんでしたが、天と地にあるすべての被造物はこのように賛美したのです。

そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った。 「屠られた子羊は、 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を 受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。 「御座に着いておられる方と子羊に、 賛美と誉れと栄光と力が 世々限りなくあるように。」すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。(黙示録5:11-14)

ですから、私たちも、ロバに乗り、茨の冠を被り、十字架にかけられたメシア、イエス様の偉大さを忘れず、幾万人の御使いたちとともに、主の御名によって来られた王の御名を誉めたたえましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church