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礼拝式順
前 奏 Prelude 「両手いっぱいの愛」「シャウト喜び叫べ」 教会学校の有志
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Praise 教会福音讃美歌142番 「キリスト・イエスは」(1-4番)
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白 ( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌122番 「主イエスの死なれた」
洗礼式 Baptism マーク・ボカネグラ牧師
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 ルカの福音書 Luke 24章1~12節
聖書の話 「たわごとのような話」 マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美Praise 教会福音讃美歌139番 「主のよみがえり」
聖晩餐式 Communion マーク・ボカネグラ牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きたいんですが、もし、ある知らないおじさんに、「宇宙から大きな石(隕石)が飛んできて、地球にぶつかります。そして、皆が死にます。でも、私はあなたを救う方法を知っています。私を信じて従えば、あなたの命は救われます」と言われたら、どう思いますか?信じますか?信じられないよね。それより、笑っちゃうよね。「え、何を言ってるんですか?何か変な映画見たんですか?そんな救いなんて要らないから、違うものが欲しいよ。お菓子とか」と、そのおじさんをちょっと馬鹿にするんじゃないかなと思います。でも、そのおじさんは力強く、こう続けて話します。「いや、絶対にその石は地球にぶつかるから、私が宇宙船にのって、命を懸けてその隕石を止める!そして、私が皆を愛していることを証明します!」そう言ったとしたら、皆はどう思いますか?そんな話も、笑っちゃうんじゃないかなと思います。「余計なお世話ですよ。そんなこと頼んでないし。」ともっと馬鹿にするかもしれませんね。でも、ちょっと考えてみて。そのおじさんの話が本当のことだったら、どうしたら、そのことが信じられると思いますか?何を見たら「これは本当だ!」と思えるかな?それは、そのおじさんが実際に飛んできた大きな石にぶつかって行って、その石を破壊するのを自分の目で見たら、そのおじさんの話を信じると思います。
イエス様の話は全く同じなのです。イエス様は、人間は神様の裁き、神様がお与えになる「永遠の死」から救われる必要があるとおっしゃっていました。そして、イエス様が私たち皆の代わりに死んで、三日後によみがえると何回もおっしゃっていました。しかし、だれもイエス様の話を真剣に聞きませんでした。「イエス様ってすごい奇跡を起こすし、優しいし、エルサレムの王様になれるかもしれない」と思っていましたけど、イエス様のよみがえりについてはだれも、真剣に聞いていなかったのです。むしろ、多くの人たちがイエス様を馬鹿にしました。イエス様の友だちでさえも、復活の話を疑っていました。しかし、イエス様は、いろんな人に馬鹿にされても、相手にされなくても、私たちのためによみがえりという救いの道を用意してくださったのです。私たちが受けるべき死を十字架で受けてくださり、復活をもって死を打ち破り、私たちに救いの道を用意してくださいましたす。そして、よみがえられたイエス様は、また友だちたちのところへ戻って来られて、「ほら、言ったでしょ。わたしはあなたたちに救いの道を与えることができる。だから、今度こそ信じなさい!」とおっしゃいました。イエス様がよみがえられたので、友だちは反省して、イエス様の話を信じることができたのです。だから、私たちもイエス様のよみがえりを思い出して、イエス様の話が真実だということを受け入れましょう。本日の聖書箇所を確認しながら、皆さんに覚えていただきたいことを分かち合いたいと思います。
先週の礼拝の聖書箇所と、今日のこの聖書箇所だけを読むと、イエス様が当たり前のように蘇られたという印象を受けがちですが、その間に起こったこと、特に23章を見ると、24章の内容がどれほど十字架の内容と対照的なのかがよくわかります。ちょっとその内容をまとめてみます。
木曜の夜に、祭司長たちや、宮の守衛長たち、長老たちなどがイエス様のところに押しかけて来ました。そして、ユダの裏切りによって、イエス様が捕らわれました。深夜に「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来」て、公な場でないところで、逮捕状もなく、強引にイエス様を捕らえたのです(ルカ22:52)。そして、この暗闇の力(ルカ22:53)に圧倒された弟子たちは、負けを認めて逃げてしまいました。弟子の一人であるペテロは、三回もイエス様を知らないと言ってしまいます(22:61)。そのような中で、イエス様を監視していた者たちは、目隠しされていたイエス様を「からかい、むちでたた」きながら、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」とはやし立てたりして、その他、たくさんの冒瀆のことばをイエス様に浴びせたのです(ルカ22:63-65)。
そして、夜が明け、金曜の朝に、民の長老会や祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエス様を彼らの最高法院に連れ出し 「おまえがキリストなら、そうだと言え」と罵りましたが、イエス様は「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。 だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と宣言され、ご自分が「人の子」、つまり、救世主であることを認められました(22:67-69)。そして、それを聞いた祭司長たちや律法学者たちは、イエス様を嘲りながら、「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言いました(22:71)。
しかし、エルサレムを治めていたピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言いました。
「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。 ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」 (ルカ23:14-16)
そして、また、イエス様はローマ兵によりムチで打たれました。群衆は、「十字架だ。十字架につけろ」(ルカ23:21)と叫び続けました。イエス様を十字架につけるように、しつこく大声で要求し続け、その声がいよいよ強くなってきたので、ピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めたのです(ルカ23:21-24)。
イエス様の弟子たちが逃げてしまったとしても、イスラエルのリーダーたちが闇の政治力を用いてイエス様をはめたとしても、大群衆がイエス様の処刑を求めていたとしても、そして、ピラトがその処刑を許可したとしても、イエス様は、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」 (ルカ23:28) や、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)とおっしゃいます。しかし、群衆はイエス様がおっしゃったことばを無視して、イエス様の話を、戯言(たわごと)だと、バカにし続けます。
彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。 (ルカ23:34-39)
そして、金曜の午後、太陽の光は失われ、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」そうおっしゃった後、息を引き取られたのです(23:46)。要するに、イエス様が逮捕されたときから、亡くなられるときまで、イエス様がおっしゃることはすべて「馬鹿げた話」として扱われ、イエス様は頭のおかしい愚か者として嘲られたのです。
しかし、イエス様が復活されたとき、すべてが大逆転します。突然、知恵ある者、強い者、聖い者として自分たちは正しいと主張していた者はみな愚か者になり、愚か者とされたイエス様が突然、知恵のある、復活の力のある、真実なお方とみなされるのです。すべての常識がひっくり返されます。ルカの福音書の「イエス様の復活」についての描写は、他の福音書と比べると、そのモチーフが明らかにされています。
「イエスとともにガリラヤから来ていた女たち」(23:55)−−すなわち、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たち」(24:10)−−は、準備しておいた香料を持って墓に行き、イエス様のご遺体を大事にしようと思いました。普通に考えたら、それは非常にいいことですよね。しかし、墓に来たら、その墓の入口の大きな石は転がされていて、イエス様の身体は見当たりませんでした。そして、「まばゆいばかりの衣を着た人」が彼女たちの前に現れたので、 彼女たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せました(24:4-5)。もう一度言いますが、普通に考えれば、彼女たちの反応は非常に自然な反応だったと思います。
ルカの福音書に書いてある御使いの最初のことばは、マタイに書いてある「恐れることはありません」や、マルコに書いてある「驚くことはありません」のような優しいことばではありません。ルカの福音書には、厳しいことばがあります。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」筆者のルカは、普通に墓参りに来た女性たちのしていることを、皮肉っぽく「愚かなことだ」とほのめかしているのです。
そして、御使いたちは彼女たちに説明します。「ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」原語のニュアンスは「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならないと言われたでしょう」ということになります。つまり、イエス様の十字架と復活の必要性を真剣に考えなかった人たちは、真の笑い者になるのです。
そして、8節には「彼女たちはイエスのことばを思い出した」と書いてあります。つまり、イエス様のよみがえりを見て、彼女たちは、自分たちの「愚かさ」に気づいたのです。それは、彼女たちが、「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」だったので、イエス様がガリラヤでおっしゃったことを思い出したからです(ルカ23:49)。イエス様は、ご自身がエルサレムに入る前にもまた同じ様に説明されました(18:31-33)。しかし、なぜ彼女たちは、イエス様が何度もおっしゃったのに、そのことを思い出せなかったのでしょうか。今日の箇所でその理由がはっきりわかります。
そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。 …彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。
弟子たちは、御使いが女性たちに語った、「イエス様の十字架とよみがえりの必要性」について、彼女たちから聞いても、それを「たわごとのように」思ったのです。そして、ルカ福音書24章には、他の弟子たちの同じ様な愚かさが指摘されています。イエス様がよみがえられた後に、2人の弟子たちがこう言います。
「仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 (24:22-24)
ここでは2人の弟子たちは、「御使いの幻」、墓が開いていたこと、イエス様のからだが見当たらなかったことなどの「事実」を受け入れていますが、2人の弟子たちの考え方には、女性たちから聞いた御使いのことばが完全に抜けています。つまり、イエス様の十字架と復活の必要性を全く感じておらず、むしろ、不思議に感じているのです。そのような人たちに、イエス様は何とおっしゃいましたか?優しい励ましのことばだったでしょうか?
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」(ルカ24:25-26)
つまり、ルカの福音書に書かれているイエス様の復活の様子は、弟子たちの愚かさ、心の鈍さがはっきり表されて、嘲られたイエス様がそれまでにおっしゃっていたことが真実であったことを強調しています。
それをふまえて、皆さんに3つのことを覚えていただきたいと思います。まず、一つ目。皆に嘲られたイエス様は蘇られたのです。イエス様の話を嘲り続けますか?
もう一度言いますが、イースターというのは、ただイエス様が復活されたということだけではありません。イスラエルの長老たち、ローマ兵、エルサレムの大群衆、十字架に付けられた罪人のような人たちに嘲られたイエス様がよみがえられたのです。弟子たちさえもイエス様の話をたわごとだと思っていました。しかし、よみがえりを通して、イエス様を嘲った人たち、イエス様の話をたわごとだと決めつけた人たちについて、御使いの一言が彼らの正体を明らかにしています。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」知恵ある者、強い者、常識を知っている者として、自分たちは正しいと主張していた者は皆、イエス様を馬鹿にしていましたが、死人の中からイエス様を捜す彼らを見て、イエス様は苦笑いされたことでしょう。
私たちは、イエス様が救い主であると信じていないかもしれません。イエス様が自分とどんな関係があるのか、わからないかもしれません。ある人は、今日の話を聞いて、「こんな話を本当に信じているの?」と思っているかもしれません。私もそうでしたし、心の中でそのように思ってしまうときもあります。そして、今日の箇所を読んでみると、皆がそうでした。しかし、はっきり言えるのは、イエス様は、弟子たちも含め、すべての人の理解、期待、偏見、考え、嘲りを引っ繰り返したお方です。イエス様を嘲笑っていた人たちが、今度は笑いものになったのです。
イエス様の復活を、1番疑ったのは弟子たちでした。イエス様の話をたわごとだと思っていた弟子たちがどのように信じることができたと思いますか?彼らの立場になってみてください。自分の先生が十字架にかけられ、墓に葬られたことを自分の目で確認しました。すべての人が自分たちの先生を嘲っている中、弟子たちも深い恥と敗北感を抱えていたと思います。女性たちが見た幻やイエス様が復活されたと言う話も「たわごとのような話」だと思い、弟子たちは彼女たちの話を無視しました。そして、イエス様が弟子たちの前に現れてくださったのに、ただの幽霊だと思ったのです(24:37)。もし、自分がそのような立場だったら、どうしたらイエス様の復活が信じられるようになるでしょうか?しかし、それほど頑なに復活を否定していた弟子たちが変えられたのです。ですから、イエス様の復活を嘲る前に、まずよくよく考えていただきたいのは、自分が間違っているかもしれないという可能性はゼロではないということです。
二つ目に覚えていただきたいことは、イエス様の復活を「たわごと」だと決めつける理由は、私たちにとって、復活があってもなくても、どちらでもいいと思っているからだということです。
今日のイースター礼拝に来られた皆さんの中には、イエス様の復活を嘲る人はいないかもしれません。しかし、私を含め、多くの人は、弟子たちと女性たちのような立場にいるのではないかと思います。弟子たちも女性たちも、「イエス様が十字架上で死んで、三日後によみがえられる」という預言を、私たちと同じように、何回も聞きました。しかし、彼らがその預言を覚えていなかったことは明らかです。弟子たちは十字架と復活よりも、違うものをイエス様から期待していたのではないかと思います。ローマ帝国からの解放。イスラエル国の再建。再建された王国での祝福と権力。弟子たちにとって、イエス様の復活は、あってもなくても良いような、「おまけ」のような恵みとしか思っていませんでした。だから、弟子たちはそれほど覚えていなかったのだと思いますし、「先生がまた変な話をしている」くらいにしか思っていなかったのかもしれません。皆さんはいかがでしょうか。最近、イエス様に祈り求めて、期待したり、望んだりしていることは何でしょうか。その中に「復活」は入っているでしょうか?「また復活の話か〜。それは私には要らないことだし、遠い将来の話なんて今は関係ないよ…」と、思っているかもしれません。
しかし、イエス様はこうおっしゃったのです。「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(ルカ9:22)。そして、数節後に、イエス様はこのように説明されています。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。」(ルカ 9:25-26)
つまり、「愛」、「平安」、「喜び」、「希望」、「居場所」、「友人」、「結婚相手」、「幸せな家庭」、「生きる目的」、「充実した生活」など、全世界が欲しているものをイエス様からいただいたとしても、イエス様がよみがえられなかったら、それらの物などは全く意味がないということなのです。「いやいや、私は、復活なんてなくても十分だ」と思ったとしても、「絶対、後悔して、恥じる事になりますよ」とイエス様はおっしゃいます。最後の日に、知恵ある者、強い者だと自負して、自分には「復活は必要ない」と主張するような者は、みな愚か者とされて、最終的に復活されたイエス様が、知恵のある、力のある、真実な方だと見なされるのです。
ですから、最後に覚えていただきたいことは、これです。イエス様が嘲られても、イエス様の話がたわごとだとされても、イエス様がよみがえられた故に、イエス様がすべてのことにおいて真実なお方であることが確信できます。
「おまえがキリストなら、そうだと言え。」「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」とイエス様を嘲りました(23:35・37・39参照)。このような嘲りを受けられても、イエス様はこうおっしゃいました。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。 だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」(22:67-69)そして、イエス様は、「神のキリスト」、「ユダヤ人の王」、「右の座に着く人の子」、私たちを救うことができる「救い主」としてよみがえられました。イエス様がよみがえられたことによって、イエス様がおっしゃったことがすべて真実であることを信じることができます。
私たちがイエス様の復活を嘲っても、イエス様の話をたわごととしても、よみがえられたイエス様は、私たちにチャンスを与えてくださいます。御使いが女性たちに促したように、私たちにも促して下さっているのです。「主がお話しになったことを思い出しなさい。」(24:6)もしイエス様を嘲ったこと、イエス様の話をたわごととしたことを悔い改めて、復活されたイエス様が真実であると言うことを信じるなら、イエス様は私たちを赦してくださり、イエス様がよみがえられたように、私たちもよみがえるのです。イエス様はこう言われます。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ 9:59-60参照)。イエス様のおっしゃったことを「たわごとのような話」と扱わないで、御使いに会ったの女性たちのように、イエス様の神の国の福音を思い出して、死人であった私たちに新しい命が与えられたことを祝い、すべての人に宣べ伝えて行きましょう。