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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人への手紙第二 II Corinthians 1章3~5節 |
さ ん び | Opening Praise | 「よみがえりの主 What the Lord Has Done in Me」 |
さ ん び | Praise | 「主は今生きておられる Because He Lives」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌355番 「私の望みは」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記 Genesis 24章1~67節 |
聖書の話 | Sermon | 「アブラハムの最後の願い」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌353番 「あなたこそ我がのぞみ」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇19篇より
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子どもたちに聞きたいですが、みんなのお父さんとお母さんが一番みんなに望んでいることは何だと思いますか?例えば、勉強を頑張って、成功してほしいとか。愛する人に囲まれて、幸せになってほしいとか。自分の得意なことを見つけて、社会に貢献して欲しいとか。聞いたことがなかったら、礼拝後にお父さんやお母さんに聞いてみてください。もう一つ質問します。みんなのお父さんとお母さんは、みんなにどんな人と結婚してほしいと願っていると思いますか?こういう質問は、私も含め、親の価値観が問われるかもしれませんね!今日の話は、あるお父さんと、その一人息子のお話です。お父さんであるアブラハムはかなり年をとっていて、あともう少しで亡くなってしまうので、自分の最後の願いを果たそうとしたのです。それは、自分の息子イサクの信仰を保つために、また、息子に神様の恵みを経験させるために、アブラハムはすべてを犠牲にする覚悟で、同じ信仰を持っている結婚相手を息子イサクのために探したのです。なぜなら、アブラハム自身が神様とともに歩んだことによって、神様の約束だけにより頼む道は険しい道ではありますが、最も心満たされ、喜びのある、慰めに満ちた道であることを確信できたからです。本日の箇所を読んでその意味を確認したいと思います。
アブラハムとサラは、創世記12章から約25年間も、神様の約束の成就を待ち望んでいました。神様が2人に約束されたのは、アブラハムとサラの間に生まれる子によって、彼らを①王家にすること、アブラハム家を②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることでした。彼らは、21章でやっとその成就の始まりを見ることができました。100歳のアブラハムと90歳のサラに、奇跡的にイサクという息子が与えられたのです。ところが、その後25年経っても、約束の地での「土地」も与えられませんでしたし、「王国」も与えられませんでした。しかし、アブラハムとサラは全く失望しませんでした。なぜなら、「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(ヘブル書11:16)ですから、サラが60数年も天幕で約束の地を相続することなく、127歳で亡くなったとしても、サラは天国である天の故郷に入れられることを期待して、喜びと希望を持って死を迎えたことがわかります。
そして、残されたアブラハムも「年を重ねて、老人になってい」ましたが、「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」(創世記24:1)のです。しかし、色んな面で祝福されたにもかかわらず、アブラハムはまだ深く悩んでいました。その理由は、イサクにまだ結婚相手がいなかったからです。しかも、この24章が創世記で一番長い章だということから、それがどれほど深刻な問題だったのかが感じられます。なぜそれほど致命的な問題だったのでしょうか?大きく言いますと、問題は二つありました。神様の約束−−すなわち、王家になること、王国になること、約束の地が与えられること−−は、アブラハムの子孫に与えられるので、もしイサクに結婚相手が見つからなかったら、成就する可能性がゼロになってしまいます。「じゃあ、子どもを産むために、イサクがだれかと結婚すればいいじゃない」と思う人がいるかもしれませんが、ここでもう一つの問題があります。アブラハムは、イサクには同じ信仰を持っている結婚相手が必要だと考えていたということでした。なぜなら、もし結婚相手が同じ信仰、同じ希望、同じ約束の地を待ち望まなかったら、全く意味がないと思ったからです。アブラハムは、神様の約束とその約束を待ち望む信仰がすべてだ、と思っていました。ですから、この24章は、アブラハムがイサクの結婚相手を探す話ですが、現在でも結婚相手を探している人たちに適用できますし、子どもの結婚のために祈っている親御さんたちにも適用できますが、すべての人にとってこの話から学べることがあります。それは、アブラハムが神様の約束と家族の信仰のためにすべてを犠牲にしようとする「決意」です。
皆さん、少し想像してみてください。当時、約束の地であるカナンに住んでいる人たちの中で、アブラハムやイサクと同じ信仰を持っている人たちは…アブラハム家だけでした。日本よりもクリスチャン人口が少なかったんじゃないかな、と思います。ですから、イサクのために同じ信仰を持っている結婚相手を探すのを諦める理由がいくつもありました。しかし、アブラハムはこう言います。
自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」
つまり、アブラハムは、最も信頼しているしもべの手を、自分の「ももの下」−−すなわち、男性の生殖器官−−に手を置かせた理由は、そこが神様の約束のしるしである「割礼」を施す部分でもあり、「神様の約束の成就がかかっている!」としもべに言いたかったからだと思います。
しかし、アブラハムのしもべは、「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか」(24:5)と質問します。非常にリーズナブルな妥協案だと思います。しかし、アブラハムは強く断言します。「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。 」(24:6)なぜなら、「天の神」であるヤハウェは、アブラハム家に、天の約束の地のひな型として、カナンという地を与えてくださることを約束されたからです。もしイサクの結婚相手が、神様が約束された恵みを拒否するようなら、結婚する意味はありませんし、イサクもその恵みを拒否することになるのです。
アブラハムにとって、そのシナリオ−−イサクが約束の地から離れて、約束の地を待ち望んでいない人と結婚すること−−は、彼が最も恐れている、最悪なことだと言えます。非常に厳しいと思われるかもしれませんが、アブラハムの何十年もの経験から、もし、「抜け道」のような手段を選んで「小さな妥協」をしてしまったら、最終的にどんな結果になるかを、アブラハム自身が、よく知っていたのです。アブラハムが、苦難から逃れるために約束の地から出て、潤っているエジプトに滞在したとき、自分の思いとは反対に、エジプトではいろんな苦しい目に会ったからです。甥っ子であるロトは、約束の地から離れてソドムに滞在したときから、神様の恵みよりもこの世の富を追い求めるという貧弱な信仰を持つようになってしまいました。ソドムに住んだロトの妻は、約束の地を望まなかった結果、ソドムと同じ裁きを受けてしまいました。ロトの娘たちがソドム人と結婚して、信仰を失い、その夫たちもアブラハムとロトの信仰を嘲っていました。アブラハムは、神様の御心を無視して、同じ信仰を持たないエジプト人ハガルと結婚した結果、生まれた息子イシュマエルも、ハガルと同じように、神様の約束の地を見捨ててしまいました。つまり、アブラハムは結婚と信仰を切り離してはならないということを学び、主の御心に従ったのです。
それゆえ、「良い結婚相手」か「信仰」か、という究極の決断に迫られたとき、アブラハムは「信仰」を選びました。「もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」(8節)つまり、結婚相手が同じ信仰を持っていないのなら、イサクは信仰を保ちながら独身のままでいるほうがいい、とアブラハムは確信していたのです。モリヤの山での絶体絶命の状況の中で、御使いが生贄に必要だった羊を備えてくださったように、アブラハムは、ヤハウェが「あなたの前に御使いを遣わされる」という信仰を持って、「そこから私の息子に妻を迎えなさい」としもべに命令しました(7節)。そして、「モリヤの山」で表した同じ信仰で、アブラハムは「あらゆる良い品々」を乗せた10頭のラクダをしもべに持たせ送り出しました(10節)。どれほど絶望的な状況であっても、アブラハムは、妥協せず希望を持って、意図的に、積極的に、犠牲的に、イサクのために主の御心に従って、息子の結婚相手を探したのです。
さて、アブラハムのしもべは、どのようにイサクの結婚相手を探したのでしょうか?色んな手段もあったでしょうし、色んな基準もあったかもしれません。しかし、アブラハムと同じ信仰を持っていたしもべは、①祈りをもって、②「美しい品性」と「熱い信仰」を持っている女性を探しました。
しもべは、「水を汲む女たちが出て来るころ」、井戸のそばに行きました(11節)。そして、知恵を絞って良い計画を立てました。その町の娘たちが、水を汲みに来るとき、「どうか、あなたの水がめを傾けて、私に飲ませてください」と言い、もし娘が「『お飲みください。あなたのらくだにも、水を飲ませましょう』と言ったなら」、イサクにふさわしい「美しい品性」のある女性である、という基準を考えました(13–14節)。シンプルな基準です。しかし、非常にハードルの高い基準でもあります。らくだは約95Lの水を飲むことができます。連れて来たラクダは10頭いるので、最大950Lの水が必要でした。小さな水がめで何回水を汲む必要があったかは、皆さんの想像にお任せします。つまり、しもべがイサクの結婚相手に求めたのは、美しさでもなく、名誉や賜物でもなく、イサクにフィットした性格でもなく、優しい人でもなく、美しい品性を持っている人だったのです。しかし、その目的のために駅前でバンバンチラシ配りをするアルバイトの人のようには行動しませんでした。しもべは、まず祈りました。「その娘こそ、あなたが、あなたのしもべイサクのために定めておられた人です。このことで、あなたが私の主人に恵みを施されたことを、私が知ることができますように。」(14節)つまり、しもべは、自分の主人の期待していたこと、−−主が「御使い」によって、しもべに先立って花嫁となる女性を探してくださること−−を信じて祈ったのです。そして、「しもべがまだ言い終わらないうちに」、リベカがしもべの前に現れ、祈った後でしもべはすぐに行動し、彼女の方に走って行って、こう言いました。「どうか、あなたの水がめから、水を少し飲ませてください。」 (15・17節)そして、しもべが祈ったように、その女性はしもべに水を飲ませ、ラクダ十頭のためにも水を汲んでくれました。しかし、しもべは、「主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた」のです(18-21節)。つまり、リベカが「美しい品性」を持っていたとしても、「熱い信仰」があるかどうかは全くわかりませんでした。
ですから、しもべはリベカに詳しい説明をしないで、「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただける場所があるでしょうか」と聞きました(23節)。この娘さんがアブラハムの親戚であること−−すなわち、創世記5章に書いてある、アダムの息子セツから引き継がれた信仰を持っている一族なのかどうか−−を確かめたかったのです。すると、彼女はこのように答えました。「私は、ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。」(24節)しもべが願った通りに、信仰を持っている一族でした。ですから、祈りをもって事を始めたしもべは、祈りをもってこの出来事の最後を締めくくり、主に感謝しました。しもべは、ひざまずいて主を礼拝しながら、「主は、私の主人に対する恵みとまことをお捨てになりませんでした。主は道中、この私を導いてくださいました!」と主の御名をほめたたえたのです(26-27節)。
そして、しもべは、リベカの兄であるラバンの所へ行き、結婚の話について話し合います。ラバンはしもべをもてなしたかったのですが、しもべは、長い旅の後にも関わらず、「私の用件を話すまでは、いただきません」と断言して食事もしませんでした。このしもべは、アブラハムのように妥協しない信仰を持っていました。34節〜48節にかけて、筆者はしもべの口を通して、今まで起こったことをもう一度説明します。それは、読者に神様のご計画と御手を再び感じさせるためなのです。そして、しもべは、最終的にリベカの兄ラバンと母べトエルにこのように問いかけます。
「主は、私の主人の親族の娘さんを主人の息子に迎えるために、私を確かな道に導いてくださったのです。それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのなら、私にそう言ってください。もしそうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになります。」 (48-49節)
このことばのニュアンスは、「この話を全て聞いた上で、あなたは神様のご計画に反対するのですか?もしそうであれば、神様は、祝福、恵み、栄光を違う娘にお与えになりますよ。」こう問われた、ラバンとべトエルは、神様のご計画に圧倒され、「主からこのことが出たのですから、私たちはあなたに良し悪しを言うことはできません。 ご覧ください。リベカはあなたの前におります。どうぞお連れください」と、恐れおののきながら主の導きに従ったのです(50-51節)。
この話の中で、私にとって一番印象的だったのは、最初から最後まで、リベカがいつも走っていることです。井戸まで走って水を汲みに行き、らくだに水を飲ませる(20節)。そして、しもべの話を聞いて、リベカは家まで走って行きます(28節)。その後、リベカは一日も待たず、イサクがいる約束の地へ行くのです。兄のラバンは、「娘をしばらく、十日間ほど私たちのもとにとどまらせて、その後で行かせるようにしたいのですが」としもべを止めようとします(55節)が、しもべは「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。主人のところへ行けるように、私を帰らせてください」(56節)と言い、リベカ自身もすぐにイサクの所へ行きたいと答えます(58節)。リベカは、一日も早く、イサクとともに約束の地で神様の恵みの成就を待ち望みたい、という熱い信仰を持っていたのです。
しもべとリベカはカナンに戻り、しもべは「自分がしてきたことを残らずイサクに話し」(66節)ました。そして、「イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た」(67節)のです。この慰めは、喪失感からの解放だけではないと思います。この慰めは、アブラハムの最後の願いがかなえられたということも含まれていると思います。つまり、神様の恵みの契約が成就する道が開かれ、「世界の王と王妃」であったアブラハムとサラが亡くなった後、イサクとリベカがその地位を引く継ぐことができるという喜びだったと思います。ですから、リベカが約束の地へ向うときに、リベカの家族は、リベカがサラの後継者となることを祝福し、送り出しました。「われらの妹よ、 あなたは幾千万にも増えるように。 あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」 (60節)つまり、結婚、家族、心地いい生活を通してではなく、神様はご自分の約束を成就することによって、アブラハムとイサクを慰めたのです。
この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。時間の関係で、一つのポイントに絞りたいです。皆さん、神様が下さる救いの約束と教えてくださる生き方は、私たちを苦しませるためのものではなく、私たちを慰めるためのものであることを信じていますか?
アブラハムは、神様の約束を信じ続けることや、神様が教えてくださる道を歩むことがどれほど苦しく、犠牲の多い、険しい道であるかをよく知っていました。私たち以上によく知っています。そして、私たち以上に、いろんな妥協をして、「楽な」抜け道を探そうとしました。それは、アブラハムが「神様の約束」と「主の道」が、自分たちに喜びと慰めを与えてくれる道ではないと、心のどこかで信じていたからです。しかし、神様の憐れみによって、60数年もの間にいろんな試練を通して、主が下さる救いの約束と、主が教えてくださる生き方が、自分を苦しませるためのものではなく、自分に喜びと慰めを与えるためのものであるということが、やっとわかったのです。主のみこころは、主が与えてくださる約束の地を待ち望む「美しい品性」と「熱い信仰」を持っている人と結婚すること。主の道を歩むことに1ミリも妥協せず、希望を持って、積極的に、犠牲的に、主のみことばに沿って歩むこと。それは、非常に狭く楽しくもない、自分の自由が縛られるような道だとアブラハムは思っていました。主の約束を待ち望むことは、寄留者として荒野のど真ん中の天幕の中で、神様の恵みを待つことです。「神様の恵みを待つ」ことは、神様の恵みにより頼むことです。自分が何かをすると言うことよりも、約束された方がそれを成し遂げてくださることを待つということです。それゆえ、アブラハムは、主の「御使い」(24:7)が彼を「導いてくださる」(24:27)ということを信じて、最後の最後まで、主の恵みを待ったのです。そして、創世記24章にあるように、神様はアブラハムをお見捨てにはなりませんでした。
私たちの歩みも全く同じです。主のみこころは、主が与えてくださる永遠のいのちを待ち望む「美しい品性」と「熱い信仰」を持っている人と結婚することです。主の道は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです(マタイ22:37-39)。主の約束を待ち望むと言うことは、この世で見下されたり、嘲られたり、相手にされなかったりしても、また、自分の「家族」、「快楽」、「富み」、「自由」、「結婚」、「キャリア」、「成功」、「ステータス」、「命」を失うようなことがあったとしても、イエス様が約束してくださる恵みしか自分を満たすことはできない、と確信することなのです。
私たちは自分が満たされる保証を得るために何かをするよりも、イエス様が私たちのすべてを満たされることを確信して、行動することです。アブラハムと彼のしもべが信じたように、私たちも究極の「主の御使い」であられるイエス様が、私たちの先にたって、永遠の喜びと慰めへ導いてくださることを待って歩みます。そして、受難週で学んだように、イエス様は私たちの喜びと慰めであり、神様の約束の成就を果たしてくださいました。創世記24章のみことばを越えた、「十字架の救い」という不思議な神様のご計画の中で、神様の約束は力強く成就されました。ですから、私たちは今日の招きのことばを信じて、アブラハムのしもべのように、イエス様の十字架とよみがえりの前にひざまずいて賛美し、妥協せず、深い苦しみや犠牲も恐れず、主のみこころ、主の道、主の約束に従って堅く歩んで行きましょう。
私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(2コリント1:3-5)