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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コロサイ人への手紙 Colossians 2章13~14節 |
さ ん び | Opening Praise | 「喜びの声上げて」 |
さ ん び | Praise | 「キリストが全て All I Have Is Christ」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌1番 「聖なる 聖なる 聖なるかな」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 1章17~25節 |
聖書の話 | Sermon | 「十字架が知恵、力、…誇り」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌129番 「暗やみに輝く灯」 |
献 金 | Offering | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 主の祈りより
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)「十字架が知恵、力、…誇り」
去年の子どものクリスマス会で、クリスチャンでないお友だちもいるのに、「十字架、十字架、わが力…わがすくい…ハレルヤ!」と歌いました。また、最近、教会学校で神様に向かってこのように歌っています。「あなたが一番。十字架がほこり。…キリスト、命!」考えてみれば、不思議でしょうがないです。なぜ十字架を「誇り」「力」「誉れ」と歌いますか。教会で子どもも大人も、なぜ「十字架」を歌って喜べると思いますか。イエス様がかかってくださった十字架は格好いいものではありません。思い出すだけでも辛いです。でも、十字架がキリスト教の中心にあります!神様が十字架の出来事を用いて、私たちを天国に入れるようにしてくださるからです。だから、パウロは「十字架のことばは、…神の力です」と書きます。
第一コリント のシリーズを最近、始めました。1章から4章まで、パウロは、コリントの教会の中の争いや分裂が問題だと長く説明しています。争いは表に出ている罪です。元を辿れば、彼らは未信者のコリントの世界観と自己中心の思いから、信じると言っていた十字架の現実に反する思いで生きていたのです。ですから、パウロはまず18節から25節までで17節で頭出しした「キリストの十字架」の意義を説明して、コリント人クリスチャンの表の競争心、強い争いの裏にある自慢にメスを入れます。これを見ていくと、私たちも心に刺さることがあるかもしれませんが、一緒に心の手術を受けて、十字架をもっと誇りとするようになればと願います。
まず、十字架がどうしても必要だとパウロは伝えます。
17〜18節「キリストが私を遣わされたのは、…福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」
パウロはここで、「福音」の内容に「キリストの十字架」と「十字架のことば」が必須であると言っていることに注目しましょう。十字架が意味することは福音の現実と本質に関わることです。
私たちは十字架のジュエリーを見て、可愛いと言うかもしれません。しかし、ご存知のように、十字架は本来、処刑の道具でした。十字架にかけられた人はゆっくりと、窒息と出血で、極端な痛みの中で死に絶えるのが普通でした。詳細には触れませんが、とにかく想像を超えた苦しみが伴う、ほぼ動けない、無力の状態で死にます。
十字架刑は痛み弱さだけでなく、恥の極まりをも受ける刑罰でした。古代の地中海文明は日本の文化のように、誇り、面目、名誉をとても大切にしていました。そこで、十字架は最悪の恥でした。十字架刑は裸で処刑されることでした。奴隷やローマ市民権を持たない人のみが受けるような処刑でした。品位あるローマ市民は「十字架」を言うこともできないほど、タブーでした。さらに、ユダヤ人なら、「木にかけられた者は神にのろわれた者」と申命記21章23節から覚えていたからなおさら、十字架にかけられることは屈辱どころか、神の民として恥じることでした。
コリントは紀元前1世紀半ばにローマによって再建された、ローマ植民地の町でした。要するに、ローマの商人や引退したローマ兵が大勢暮らす、ローマ市民の町でしたから、十字架刑を原則、受けないで済む人が多かったです。前回触れたように、評判と影響力を得ることば遣いに価値を見出し、競争社会の勝ち組を尊敬していました。ですから、「十字架のことばは、…愚か」と馬鹿にされて当然でした。
しかし、パウロは敢えて、この話にこだわります。なぜなら、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(18節)興味深いことに、十字架のことばは「神の知恵」ではなく、「神の力」です。知恵もそこにありますが、まず知っておくべきことは、十字架の出来事に生ける神の力あるみわざが現れたことです。コリント人たちは建前の影響力に満足したが、神様は本当に本質的な変化をもたらします。滅び、要するに神様からの永遠の裁きを受けること、へ向かう人々を、救われている人に変えてくださいます。
コリント人は1章10節以降で、お気に入りの「先生」の名を使って、派閥を作っていました。しかし、その区分は無意味です。パウロは、全人類が根本的に二つのグループに分けられると示します。滅びる人と救われる人です。①神様を拒み続けて離れた人は最終的に裁きを受けて、苦しみ、悔やむ永遠を過ごすと聖書が厳かに教えます。これは「地獄」や「滅び」と言います。②神様が示された十字架の力で神様に信頼し、立ち返る人は永遠に神様と親しく、神様の素晴らしさを楽しみたたえることができます。彼らは死んだら「天国」へ行き、最終的に「新しい天と地」を経験できます。要するに、「救い」をいただけます。
では、神様からの刑罰の中で滅びたくないと思う人は、どうしたら新しい天と地への道に入って、救われるのでしょうか。ここに、神の力と知恵が不可欠です。十字架が不可欠です。前回お話ししたように、コリント人が想像した「知恵」は、人に影響を及ぼして、自分の地位や名誉を確保するノウハウや技術でした。しかし、それが全く通用しないことだとパウロは1章19節でイザヤ書29章14節を引用して、主張し続けます。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、 悟りある者の悟りを消し去る」と19節が言います。
元のイザヤ書の箇所の文脈は、神様を信じると口で言いながら心が離れている者の罪深さと刑罰を警告しています(イザヤ29:13-16)。民を導くはずの「知恵ある人」、言い換えたら「成功者」「勝ち組」は人間の努力と魅力中心に行動するゆえ、神様が彼らを取り除かれるということです。
第一コリント 1章20節は続けて問いかけます。「知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。」「知恵ある者」は自分で人生をうまく操縦して、自分か他の人に益をもたらします。「学者」はユダヤ的な律法学者かもしれませんし、他の「達人」とも考えられます。「論客」はつまり、当時の議論などでことば上手に人を導ける人です。現代風に書き換えるなら、「優等生、『良い人』はどこですか。東大の教授はどこですか。ツィッターや新聞のインフルエンサーはどこですか」。パウロの答えは、「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか」です。
イエスの十字架に希望を置かない「世」の「知恵」は生活水準を上げたり人の尊敬を得たり、一時的な成功をしたりするかもしれません。この世での健康、名誉、快楽、文明そのものは否定されていません。それらは一時的な恵みであり、用いてもいいです。しかし、神の国(新天地)を造り出し、そこに入るのに役立たずのものです。神の力と知恵を拒む人にとって、いわゆる力と知恵あるものはこの世の「利益」に役立つものの、永遠の祝福から目をそらせる煙幕、地獄から救う力のない幻、悪魔の手品にもなってしまいます。
21節前半でパウロはさらに説明します。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。」神様の知恵は私たちが理解できないほどのものですから、本来、神様から示されなければ知り得ません。けれども、創世記のバベルの塔でのように、神の教えに反する方法で名声を得ようとしましたが、神の御位に到達できず、失敗しました。ところが、21節が続けます。「それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」パウロがコリントの町で宣べ伝えた「宣教のことば」とは、血生臭い十字架の広報でした。
22〜24節はこのように、キリストの十字架の教理に対する一般的な反応を描きます。世的な主張の二つの観点(大まかに言うと宗教的な考えと世俗的な考え)と、キリスト者の主張を繰り返し対比しています。
「ユダヤ人はしるしを要求し、〈世・ユダヤ〉
ギリシア人は知恵を追求します。〈世・異邦人〉
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。〈クリスチャン〉
ユダヤ人にとってはつまずき、〈世・ユダヤ〉
異邦人にとっては愚かなことですが、〈世・異邦人〉
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。〈クリスチャン〉
ここで「力」に似た語として「しるし」が出て来ます。宗教的な人なら、「力」の表現である奇跡的な「しるし」を見たら、福音を受け入れると決めつけるかもしれません。例えば、ユダヤ人たちは旧約聖書を信じ、創造主を信じていましたが、同時に、目の前にイエス様が立っていても、その語ることはユダヤ人が求める、ローマ帝国を追い払うような「しるし」ではありませんでした。彼らの多くはイエス様に「つまずき」を感じました。神の国を宣言しながらイスラエル再興を成さないイエスの教えは、別の言い方をすると、みっともなくて嫌になる、「無礼」、「スキャンダル」でした。ユダヤ人たちのほとんどはイエス様には付いて行きたくないと決めて、「十字架だ。十字架につけろ」と叫びました(ルカ23:21)。
もう一方で、「ギリシア人」や「異邦人」は聖書の神様を信じていないのですが、ユダヤ人のように、好きな基準でキリストの十字架を見ました。十字架の宣言を聞いたら、成功や誉れどころか、弱そうに、愚かそうに、格好悪そうに死んだ凡人の話のようです。成功や誉れを慕う人にとっては、無意味な話です。それで、ローマ人はイエスを十字架でも、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と嘲笑いました(ルカ23:37)。成功を示さなければ、信じない、という態度でした。十字架は愚かさでした。
とにかく、どの反応をするにしても、「十字架につけられたキリスト」を拒むのは自然な反応です。クリスチャンでも、おかしく感じることがあります。しかし、神様の霊によって、子どもも大人も「十字架が誇り。…キリスト、命!」と言えます。十字架に力があり知恵があると認めることは弱そうで愚かそうな、奇跡的な告白です。すなわち、「私は弱くて、永遠の喜び、神の国、新しい天と地を楽しむためには何もできない。私は愚かで、それらを楽しむ方法も、神様からの良い知らせ(福音)がなければ何も分からない」と認めることです。力も知恵もなく、さらに、ユダヤ人でも異邦人でも私たちが追求したい誇り、名声も、跡形なく崩れます。
では、イエス様の十字架にどういう力と知恵があるのでしょうか。「十字架につけられたキリスト」は、本当の意味で弱くて愚かな人が神の国に入り、今の世を本当に楽しみ、新しい天と地で私たちの神様を永遠に喜ぶことを可能にしてくださいました。第一コリントを続けて読むと、15章3節で「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」と言っています。要するに、十字架でイエス様は、本当は罪のために死ぬべき私たちが死ぬ代わりに生きるように、神が聖書でほのめかした知恵に従って、輝かしい「しるし」なしに死んでくださいました。また、6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られた」と言って、十字架でクリスチャンが罪の生活から離れるために買い取られた、贖われたと書いてあります。要するに、十字架でイエス様は、自己中心的な生き方の罪から抜け出せない私たちが神様中心の、本当に喜べる生き方へ劇的に移すために、「力」ないような形で死んでくださいました。
従って、「十字架につけられたキリスト」は第一コリント 1章24節の通り、「ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」宗教的で「力」のしるしを求める人であっても、世的で「賢そう」なことに憧れる人であっても、キリストが全てとなってくださいます。「神の力、神の知恵」のどちらでもあられます。ユダヤ人のような人のために、イエス様は「死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された」お方です(ローマ1:3)。これ以上のしるしはありません。異邦人のような人のために、「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3)。本当の力も本当の知恵も、十字架にかかってくださったキリストこそにあります。
最後に、パウロは第一コリント1章25節で18節以降の主張をまとめます。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神様が無限・永遠・普遍の力や知恵の方なので、厳密に言うと愚かさも弱さもありません。しかし、パウロは皮肉なことを言っています。仮に神様に弱さや愚かさを現す出来事があるとすれば、それはキリストの十字架の惨事です。ところが、十字架で神様がなさったことは、人間の力と知恵を超越するものです。神が人間となること、そして死ぬことは本当に想像もできなかった愚かさ、弱さでしたが、イエス様は私たちの知恵や強さ、善良さによらず、ただ一方的な恵みによって、来てくださいました(ピリピ2:6-9参照)。そして、人を本当に救う力と知恵のある王国を建国なさいました。信じるなら、私たちもその国に入れていただけます。
終わりに、最初の質問に戻ります。教会で子どもも大人も、なぜ「十字架」を歌えますか。イエス様が私たちの弱さと愚かさをそこで示してくださいました。しかし、私たちに負わせるためでなく、身代わりとして負うためでした。「十字架、わが力」と歌えるのは、最も強い敵である死と罪の刑罰に打ち勝ったからです(第一コリント 15:54-57)。イエス様の愛から引き離そうとするものは全て、もう力がないのです。
では、適用として、三つの質問をしたいと思います。
①まず、イエスの十字架はあなたにとって、神の力と知恵の現れですか。それに人生を懸けていますか。今まで懸けていなかったなら、今、信じる機会があります。クリスチャンでなくても、クリスチャンであっても、もう一度考えていただきたいです。
人間は自分の知恵で神様に近づこうと、あるいは、世の中の大物になろうと考えて、努力します。ある人はいわゆる「宗教的」な生き方を求めて、占いや行事、修行、あるいは「良い行い」で超自然的な「力」を操って成功しようとします(今日の箇所のユダヤ人のように)。また、ある人はいわゆる「世俗的」な生き方を取り、色々な「知恵」で「出世」「成功」「名声」のために神との関係や人への愛を後回しにするかもしれません(今日の箇所のギリシア人、異邦人のように)。どちらの生き方にも同じ思いがあります。すなわち、自分のために何かを得ようとして、神と人を利用しようとする生き方です。この世の「力」思考でも「知恵」思考でも同じです。しかし、神様が愛を持って、警告を下さいます。そのものは愚かで無力だと。十字架が本当の力と知恵によって人生を変えることができるから、十字架にかけられたイエス様に信頼しましょう。
弱く見られても、十字架で死なれ、またよみがえられたイエス様があなたの罪を取り扱って、あなたを神の王国に入れる力と知恵があります。もし信じるならば、何をも恐れる必要がありません。(ローマ8:35-39)ここにクリスチャンでない方がいらっしゃるかもしれません。知恵と力をもってあなたを助けることがおできになる救い主のみもとに来てください。
②次に、イエス様を信じている皆さんへの質問です。あなたは十字架の話を友人やご家族に伝えられていますか。それとも、キリスト教の輝かしい、彼らに通用するいわゆる「力」と「知恵」の部分だけを伝えていますか。
これは私にとっても難しいことです。クリスチャンの嬉しい経験だけを掲げたり、イエス様の愛ばかりを言ったりする誘惑があります。けれども、十字架の意味をも分かち合う必要があります。結果は聖霊様にお任せしましょう。でも、結果が出るために、材料が必要です。周りの人の救いという結果には、十字架のことばが必要な材料です。人と話す都度毎回話せとは言っていませんが、私たちが話す覚悟と話す喜びを持っているか、考えてみましょう。そして、十字架を話すことができない私たちのために十字架があります。祈って、信じて、悔い改めましょう。
③最後に、パウロがコリント人に向けて暗示していた適用を質問にしたいと思います。十字架の力と知恵が救いを与えると信じるなら、自慢して他のクリスチャンを裁いたり争ったりすることができますか。できませんね。「十字架、十字架、わが力…わがすくい…ハレルヤ!」神様の王国、家族、新しい天と地に入るための力は全部神様が与えてくださいます。私たちには力もなく、知恵もなかったことになります。それでいいです。十字架でイエス様が罪の支配から買い戻してくださって、罪の刑罰から救いだしてくださったことを中心にして、お互いに自慢しないで、感謝して喜びましょう。