2023年5月14日礼拝 説教「その請求は私にしてください」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙 Colossians 1章18-20節
さ ん び Opening Praise 「死を打ち破り」
さ ん び Praise 「主イェスの十字架の血で He Is Our Peace」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌432番「いつくしみ深き」
聖書朗読 Scripture Reading ピレモンPhilemon 17-20節
聖書の話 Sermon 「その請求は私にしてください」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇23篇より

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

 

 

聖書の話(説教)「その請求は私にしてください」

 

子どもたちに聞きますが、誰かを赦せるときと、赦せないときの違いは何だと思いますか?例えば、友達に50円を貸したけど、返してくれなかったら、ちょっといやだけど、「まあいっか」と赦せるかもしれません。だけど、もしそれが、自分の3年分のお小遣いとお年玉で買ったゲームを友だちに貸したけど、その友だちがゲームを返さずに北海道へ引越したら、根に持つよね?「俺の3年間返せ!」って言いたいよね?!相手のしたことによって、取り返しのつかないほどの大きな物事を自分が失ってしまうような時は、赦すのはすごく難しいと思います。そういうときって、どのように人を赦せるのでしょうか?聖書では、赦せる方法は一つしかないとイエス様はおっしゃいます。それは、失ったもの以上の恵みをいただいたときです。そのときなら赦せると思います。例えば、僕が友だちのせいで「3年分のお小遣いとお年玉」を失ったとして、イエス様に「じゃあ、マーク、可哀そうだから、3年分のお小遣いとお年玉以上に18,000年分のお小遣いとお年玉あげるから、その友だちを赦してあげて」と言われたら、どう思いますか?3年分のお小遣いは小さく感じますよね?

今日の話は、ピレモンとオネシモという2人のクリスチャンの話です。オネシモという人が、ピレモンからお金を奪ってしまいました。それを、仮に3年分のお金(収入)と言うことにしましょう。ピレモンはもちろん怒っていたと思います。しかし、パウロ先生が中に入って、ピレモンに言いました。「オネシモが奪った3年分のお金を、私が全額払います。そして、ピレモン、私があなたに18,000年分のお金をあげたことは、言いませんよ。だから、もう根に持たなくてもいいでしょう。オネシモを赦して、仲良くしなさい」パウロ先生は、実は、イエス様が私たちのためにしてくださったことを、表しているのです。私たちが罪を犯すときは、周りの人のお財布から、また、神様のお財布からお金を盗んでいるようなことです。そして、いつか私たちはそのお金を返さなければならない日が来ます!しかし、イエス様は十字架の上で、パウロと全く同じことをされました。イエス様は、私たちが奪ったお金を返して、それ以上に、神様と周りの人が私たちを赦すために、膨大なお金を支払ってくださったのです。どういう意味でしょうか?今日の聖書箇所をゆっくりみて、その意味を見ていきたいと思います。

 

この手紙はパウロという初代教会のリーダーが書いたものです。パウロは「キリスト・イエスの囚人」(ピレモン1)として、ローマという町から手紙を書いています。パウロは、ピレモンという大豪邸を持つお金持ちのクリスチャンで、長老のようなキリストにある兄弟に手紙を送りました。ピレモンは、パウロの弟子であり、多くの兄弟姉妹を霊的にも、物質的にも惜しげもなく支え、教会を愛した兄弟でした。しかし、パウロがピレモンに手紙を送った理由は、彼にある「人間関係の課題」があったからです。その当時の都市の人口の3分の1が奴隷でした。そして、ピレモンはお金持ちだったので、奴隷を何人も所有していました。この手紙を読んでいくと、過去にピレモンの家にいた奴隷オネシモが、ピレモンに対して大損させるような何かの罪を犯してしまい、ピレモンの家から逃げ出したことがわかります。しかし、パウロは、オネシモをピレモンの家に送り返したいという願いで、オネシモがどれほど変わったのかを8-16節で説明しています。オネシモは、まだ信仰を持っていない罪深い者でしたが、今では、神の家族の子どもとして新しく生まれ変わっていました。オネシモは、逃げ出すような、役立たずの「生きている道具」のようでしたが、今は、神の御国の前進のために役に立っている主のしもべとして歩んでいました。

そして、パウロが奴隷のオネシモをピレモンに送り返したい理由は、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟」(16節)として送り返し、「永久に」(15節)その主にある関係の恵みを楽しむためだったのです。だから、パウロは、奴隷だったオネシモをピレモンの元に「もはや、奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟」(16節)として、送り返したかったのです。そして、彼らが「永久に」(15節)主にある関係の恵みを楽しんで欲しかったのです。イエス様からいただく天の永遠の恵みによるー神様との和解された関係と兄弟姉妹との和解された関係を、今、私達はこの地上でも、経験することができるのです。

しかし、どれほどパウロから「新しく生まれた」、「愛する兄弟」オネシモの話を聞いても、ピレモンにとっては、オネシモから受けた「害」や「傷」、または、そこから来る痛みや苦しみは変わらない事実です。そして、覚えていただきたいのは、ピレモンとオネシモの葛藤は、ただの口喧嘩ではありませんでした。また、ただのミスコミュニケーションでもありませんでした。そのような、単純な人間関係のギクシャクではなかったのです。オネシモは、ピレモンの家から逃げ出しました。奴隷が逃げ出す時は、よく主人のお金を奪ってそのお金で逃げるのです。オネシモが逃げていなくなったことで、ピレモンが被ったものは、時間のロス、経済的な被害、精神的な被害だけでなく、ピレモン一家に恥をかかせたというダメージもあったと思います。多くの注解者は、何が起こったかについて色んな仮説を組みますが、最終的に何が起こったのかは、私たちには全くわかりません。しかし、「ごめんね」「いいよ」のような簡単な和解で片付けられない葛藤だとはっきり言えます。私たちも、夫婦の間でも、親子の間でも、家族の間でも、教会の兄弟姉妹の中でもそのような「葛藤」を感じるときがあると思います。もしかしたら、今、そのような経験をしている方がおられるかもしれません。

パウロが、ピレモンに和解を促した手紙には、他の手紙に書いてあるような牧会案件と比べると、ピレモンとオネシモとの間に起こったことについての詳細はあまり書かれていません。オネシモが悪かったのか、ピレモンが悪かったのか、誰が悔い改めるべきなのか、どのように悔い改めれば良いのかなどについて、一切触れていません。そして、パウロはこのように言います。

もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。私パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。

パウロはピレモンに「損害を自分で自分の心に納めて、早く赦してあげなさい」とは言いませんでした。むしろ、パウロは、罪深いオネシモの「損害」と「負債」を自分で請け負って、「私が償います」と書いています。1世紀のローマ帝国では、社会的に考えられないような話です。繰り返しになりますが、奴隷のオネシモは1世紀の感覚では、何の権利もない、「生きている道具」、「いのちのない奴隷」だったのです。パウロは、自分の奴隷でもない他人(ピレモン)の役にも立たない、壊れている「道具」のために借金を返そうとしているのです。そして、19節には、パウロがどれほど真剣だったのかが書かれています。私たちが手紙を書く時は、椅子に座って机に向かい、ペンで紙に、すらすらと文字を書いていきます。しかし、1世紀の「手紙」は紙だけではなく、動物の「皮」に文字を刻むこともあり、それは非常に大変な作業でした。紙自体も高いし、インクも非常に書きにくかったらしいです。どちらにしても、かなり大変な仕事だったので、パウロが口頭で手紙の内容を言って、パウロの弟子のテモテが内容を書いていくというやり方をしていたと思います。ですから、19節の「私パウロが自分の手で、『私が償います』と書いています」という意味は、パウロがそれまで、テモテに書かせていた手紙を自分の手で書くことによって、どれほど自分が真剣にその約束をしようとしているのかを表しているのです。パウロは、奴隷オネシモの罪を他人事として扱うことをせず、自分の責任として受け入れたのです。なぜなら、オネシモは、自分の罪を悔い改めて、イエス様により頼もうとしていたからです。

しかし、ピレモンがこれを読んだとき、どんな気持ちだったと思いますか?まず、パウロが「損害」を否定せず、全額出すという約束は、ある意味、和解のために最もいい解決策だと思います。パウロが「私が償います」を言った時点で、ピレモンは文句を言いうことはできないでしょう。もちろん、お金で解決できないことはありますが、パウロは限度なしですべての負債を「私に請求してください」と言っているので、加害者(オネシモ)がどれほど、悪いことをしたのかに焦点を当てるよりも、被害者(ピレモン)がどれほどの被害を受けたかに焦点を当て、計算しなければなりません。神様が求められる和解、償い、赦しは、感情的で抽象的な和解の仕方ではありません。神様は、会計用語を用いながら、私たちが人の罪によって受けたダメージを精密に計算し、加害者に請求します。神様は、罪の結果を無視せずに、正義をもって、和解を促されるのです。

そして、パウロの手紙はそれだけではなく、ピレモンに一言付け加えます。「あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします」(19節)皮肉なことに、「言わないことにします」と言っていますが、パウロははっきりと、ピレモンにも負債があると言うのです。しかも、ピレモンの負債は、奴隷オネシモの負債よりも大きいと言うのです。どのような借りだったのでしょうか?パウロがピレモンを信仰に導き、パウロの働きによって、ピレモンは、神様から罪の赦し、身体のよみがえり、永遠のいのちをいただくことができたのです。パウロは、ピレモンに「神様の目には、オネシモの負債と、イエス様が帳消しにしてくださった負債の、どちらが大きく映っていると思いますか?正確に計算してみてください」と問いているように聞こえます。神様は私たちが受けた害を忘れていませんが、神様は私たちがすでに受けた恵みもお忘れになりません。

それゆえ、パウロは最終的にピレモンにこう促します。「ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるようにオネシモを迎えてください。」(17節)つまり、パウロは、ただオネシモの負債を償っただけではなく、それ以上に自分のアイデンティティー、自分のステータス、自分の名誉、自分の「義」をオネシモに与え、オネシモを「罪深い罪人」として迎えるのではなく、「使徒パウロ」として迎えることを、ピレモンとピレモンが所属している教会にお願いしたのです。しかも、最後には「そうです、兄弟よ。私は主にあって、あなたの厚意にあずかりたいのです。私【の心】をキリストにあって安心させてください。」(20節)と、促しています。原語では、【私の心】を安心させてくださいと書いてあるのですが、12節では、オネシモはパウロの「心そのもの」であると主張しています。ですから、パウロはあえて、「オネシモ」と言う名前を使わないで、「私を愛するなら、【私の心】(=オネシモ)を安心させてください」とお願いしているのです。これは、21世紀の私たちにとっても、考えられないような話ですが、1世紀の人たちにとっては、なおさらのことだと思います。しかし、「イエス様の福音」とは、それほど人の価値観を変えるものなのです。

もちろん、奴隷オネシモは、パウロと主人ピレモンのやり取りを全部知っていました。オネシモはどんな気持ちでこの話を聞いたと思いますか?「さあ。ピレモン、早くオレを赦せ!オレを使徒のように迎えろ!」と高慢になってピレモンに言ったと思いますか?むしろ、これほどまでに、パウロがオネシモのために赦しと和解を促したことで、オネシモも自分の罪深さを深く認め、主に対する感謝と、ピレモンに仕えていこうという意志がさらに深まったはずだ、とカルヴァンは言っています。つまり、恵みによる和解を経験すればするほど、罪を正当化し増し加わせるのではなく、むしろ、さらに罪への深い悔い改めに導かれ、主に対する感謝と兄弟姉妹への愛も深まるということなのです。

 

今日の箇所を確認して、私たちは何を覚えるべきでしょうか?パウロの和解の促し方によって、和解の仕方についていろいろ学べることはありますが、最も覚えていただきたいことは、パウロが、ただ私たちの模範であったというだけではなく、奴隷のオネシモと主人のピレモンに、イエス様の福音を見える形で語ったということです。

私たちが、パウロがオネシモのために成したことをすごいと思っても、イエス様のほうがすごいことをされたのです。イエス様は、パウロと同じように、私たちの負債を自分のものにしてくださり、私たちを「御自分のからだ」にしてくださいます。私たちは、神様に敵対し、隣人に対して罪を犯し続けますが、神様は、その罪を正確に、きっちりと天の会計名簿に記されます。人から奪った時間。怒りや苦みを含んだ言葉によって人に与えた精神的なダメージ。愛を示すべき人々−−主にある兄弟姉妹、親、伴侶、子ども、友人、上司か先生、部下や後輩−−その人々に愛を示さなかった回数。神様に感謝を示さなかった回数。すべての恵みを私たちに与えてくださった神様を愛さずに、他の偶像を拝んだり、霊的に姦淫してしまった回数。神様から見れば、私たちはただの逃げ出した奴隷ではなく、神様に敵対し、クーデターを起こした裏切者、何回も姦淫してしまう「花嫁」と同じなのです。最後の裁判で、私たちにその負債を、全額、1円も残さずに請求されます(もちろん、支払い遅れたら、利息もかかります!)。しかし、イエス様は、パウロ以上に、私たちの負債を償ってくださいました。しかも、ご自分の手だけではなく、十字架の上でささげてくださった、ご自分の血、ご自分の名誉、ご自分のいのちをもって私たちの負債−−過去の負債、今の負債、将来の負債−−を、1円も残さず、全額を支払ってくださったのです。十字架は、あなたの負債の決済が完了した、という領収証だとも言えます。

しかし、それだけではありません。負債を返済しても、私たちの口座はまだ0円です。ですから、会計のたとえで言うと、私たちが教会に加わるとき、私たちが天国に入るとき、イエス様がご自分の相続分を私たちの口座に振り込んでくださいました。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」 (第二コリント8:9)

ですから、教会に加わるとき、また、天国に入る時、教会の人たち、天国の御使いたちは、私たちを「ありのまま」で受け入れるのではありません。それよりも、さらによい話なのです。私たちは、イエス様の「体」の一部、イエス様の「花嫁」、イエス様と同じ「義」と「聖さ」をいただいている「長子」として迎えられるのです!パウロの言葉でいうと、教会はイエス様の「心のそのもの」だと言えます。パウロは他の手紙で、このように言います。「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」 ( ガラテヤ3:27-28) ですから、オネシモと同じように、私たちも、キリストの義と聖さを「着た」者として、感謝しきれないのです!

また、イエス様は、パウロと同じように、私たちにこうおっしゃっています。「もしその兄弟(姉妹)があなたに何か損害を与えたり、負債を負わせているなら、その請求は私にしてください。 私は十字架の上で、私の命をもって、兄弟(姉妹)の代わりにすべて償います。ですから、もし私のことをあなたの兄弟(姉妹)だと思うなら、私を受け入れるように、兄弟(姉妹)を受け入れてください。兄弟(姉妹)はわたしの心そのものです。ですから、私の心を安心させてください」と。

もしあなたが「赦しません!」と言ったら、イエス様はどうおっしゃると思いますか?実は、パウロが言った「あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします」よりも、さらに厳しいことをおっしゃいます。皆さんは、イエス様の赦しのたとえ話を覚えていますね。1万タラント(6千万デナリ=60億円?)の負債を持っている者が、王に帳消しにされていたのに、百デナリ(=100万円?)−−6千万デナリの0.00016%ーの借りのある人−−を赦せない人についてのたとえ話でした。王がこの話を聞いたとき、王は、赦しを与えなかった人に、何を言いましたか?

そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」 (マタイ18:32-35)

イエス様は、パウロよりも厳しいです。「もし誰かに負債の支払いを求めるのなら、私が十字架で支払った負債をあなたに請求しますよ」と、私たちに注意されます。なぜそのような厳しいことばを私たちにおっしゃるでしょうか?

十字架はあなたの負債の返済の領収書でもありますが、罪を犯した主にある兄弟姉妹の負債(罪)の返済の領収書でもあるのです。つまり、口で「イエス様の十字架を信じます!」と言ったとしても、人を赦さないと言うことは、わかりやすい形で十字架という「領収証」の存在を否定するということです。他の人の罪を赦さないと言う人は、イエス様の十字架の価値(6千万デナリ)と、自分が受けた被害(100デナリ=6千万デナリの0.00016%)が同じぐらいの価値だと思っている人であり、自分は6千万デナリの赦しをいただいているのにもかかわらず、喜びも感謝も全く感じていないと主張している人なのです。

しかし、私たちはイエス様のことばや、パウロのことばを厳しく感じる必要はありません。イエス様は、私たちの罪の大きさや負債の重さを指摘することで、私たちの存在や私たちへの愛を否定しておられる訳ではありません。イエス様はこうおっしゃいます。

するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。 … ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(ルカ 7:40-47)

十字架の赦しを心から信じているなら、その人は、自分の罪の大きさを指摘されても、それを攻撃されたとは捉えません。それは、借金を帳消しにしてくださったイエス様の愛を、更に深く理解する機会だからです!ピレモンやオネシモも、そのように捉えました。ですから、私たちも罪の大きさを指摘されても、自己弁護せず、イエス様の十字架に感謝しましょう。そして、イエス様からいただいた赦しの恵みを、他の人々に積極的に分け与えることができるように、お祈りしましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church