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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 37篇3-7a節 |
さ ん び | Opening Praise | 「主イエスの十字架の血で He Is Our Peace」 |
さ ん び | Praise | 「わがたましい主をほめよ How Great Is Our God」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 303番 「かいぬし我が主よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 創世記 Genesis 26章1-33節 |
聖書の話 | Sermon | 「オリジナリティに欠けていたイサク」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 391番 「主と主のことばに」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇21篇より
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)「オリジナリティに欠けていたイサク」
子どもたちに聞きますが、みんなは迷路って知ってますか。やったことがありますか?すぐにゴールできる迷路もあるけど、何回やってもなかなかゴールできないものもありますね。そういうときは、行き止まりになったら、また新しい道を探したり、試したりして何度もチャレンジしなければなりませんね。でも、もし誰かがもうゴールできていたら、その答えになる線をたどっていけば、新しい道を探す必要はありませんよね?その「答え」になる線が出口から逆方向に行ったり、ぐるぐる回ってまた同じところに戻って来たみたいに感じたとしても、ただただその線を辿っていけば、迷路から抜け出すことができるとわかりますよね?
今日の話は、イサクの歩みについてですが、迷路の話と似ています。人生というのは、非常に難しく、迷子になりやすい迷路のようです。もし答えを知らなかったり、行き止まりに当たったら、また新しい道を考えて、いろいろ試して、何回もチャレンジしなければなりません。しかし、イサクの父アブラハムは、色んなことを乗り越えて神様の恵みを受けた人物であると、イサクは自分の目で見ていました。つまり、父アブラハムは「人生の迷路」を解いた人だ、とイサクは知っていたのです。ですから、イサクはこう考えました。「自分の道を探す必要はない。父アブラハムの教えと歩みをただただ辿って歩めば、父アブラハムと同じように、私もこの迷路から抜け出せる」そして、イサクは、人生の難しい迷路を平安をもって歩んだのです。実は、イサクの歩み方は、私たちとイエス様との関係を表しているのです。永遠のいのちを頂いて、復活されたイエス様は、この「人生の迷路」を解かれた人物です。そして、私たちは、ただイエス様が歩まれた「答え」になる道を歩んでいるのです。そのため、「人生の迷路」の中でぐるぐるまわっていたとしても、イエス様と同じように永遠のいのちを頂くことを信じて、平安をもって歩めるのです。この意味をもう少し理解するために、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。
アブラハムの息子、イサクは、父親のアブラハムが神様から頂いた神様の約束を、引き継ぎました。その約束は、神様がアブラハムの子孫を①王家にすること、彼らを②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることでした。ヘブル書11:16を読むと、これはアブラハム家が「天」の王家となり、「天」の王国に入れられ、「天」の永遠の約束の地を引き継ぐことでしたが、神様はその前味として、アブラハム家にカナンの地を与えると約束されました。アブラハムが始めてこの約束を聞いたとき、いろいろと疑うことはありましたが、神様の恵みと誠実さを経験し続けたアブラハムは、最終的に、疑わずに神様の約束を信じました。
今日の話で、イサクの信仰の歩み方を見ますが、「え、数章前に、全く同じ話しを読んだよね…」と思えるぐらい、アブラハムとイサクの歩みは似ていて、不思議なことに、イサクも父のアブラハムと全く同じような試練を経験します。イサクの歩みをみると、完全にオリジナリティに欠けていたのです。良くも悪くも、「この父にしてこの子あり」ということを明らかにするためではありますが、もっと深い意味があると思います。イサクが父親と同じ試練を受けたことは偶然ではなく、神様の御手から来たものです。神様がイサクに父アブラハムと全く同じ試練を与えた意図は、二つあると思います。一つは、アブラハムがイサクに継承した信仰が、イサクの中でどのように熟し、どのように深まったかを明らかにするためです。そして、もう一つは、神様が想像以上に御自分の約束を守られたということがより明らかにされるためです。イサクが向き合った試練を一つ一つ見ながら、この二つのことを見ていきたいと思います
26章1節に書いてあるように、イサクが最初に向き合った試練は「飢饉」です。
「アブラハムの時代にあった先の飢饉とは別に、この国にまた飢饉が起こった。」(26:1)
「また飢饉が起こった」という表現は、イサクがアブラハムと同じような試練を受けていたことを強調するためです。創世記12章では、約束を受けた父親のアブラハムが信仰をもってカナンの地へ行ったのですが、そのとき、カナンの地に飢饉が起こったのです。しかし、まだ「クリスチャンになり立て」のアブラハムは、この激しい飢饉に襲われたとき、神様の約束を待つのを諦めてしまい荒野の地、カナンと違って、飢饉もなく、潤っているエジプトに住もうと考えました。彼の不信仰によって、アブラハムとサラは大変なことになってしまい、約束の地に戻ることができない羽目になってしまいました。しかし、神様の一方的な憐れみによって彼らは救われました。もちろん、イサクもエジプトで起こった出来事について聞いていたと思います。ですから、イサクは父アブラハムと同じ試練を受けたとしても、同じような不信仰な手段は選びませんでした。イサクは、飢饉を逃れるために、カナンの地の端っこにある「ゲラル」と言う地に向かって、エジプトへは向かいませんでした
しかし、ゲラルはカナンの地とエジプトの境界線にあったので、どれほどアブラハムの失敗談を聞いたとしても、苦しい飢饉の中にあって、イサクも誘惑される恐れはありました。その中で神様はもう一度イサクを注意し、アブラハムの約束を思い出させるのですが(26:2-5)、自分の家族が飢え乾いている中で、「潤っている地ではなく、飢饉の地に留まりなさい」と言われても、そう簡単に、聞き従えるようなことではありません。しかし、イサクは、父アブラハムから、主が、いつもどのようにアブラハムとともにおられて、どのようにアブラハムに誓った誓いをはたされたかを、何十年も聞かされ続けてきたのです(26:3参照)。イサクはアブラハムの生涯から学び、理解したことは、「主の民は、パンで養われるのではなく、主の誠実さによって養われる」と言うことでした(詩篇37:3参照)。イサクはアブラハムから神様のお名前を聞いていたのです。アブラハムの主の名は、「エル・ロイー私たちを見てくださるお方」(創16:13)。主の名は、「エルシャダイー全能の神」(創17:1)。主の名は、「アドナイ・イルエー備えてくださる主」(創22:14)。もし父アブラハムの主が「民を空の星のように増し加え」、「これらの国々」(26:4)を与えると約束されたなら、 主は確実に与えてくださると、イサクは信じました。そして、「アブラハムが【主】の声に聞き従い、【主】の命令と掟と教えを守って、【主】への務めを果たした」 (26:5)、それゆえ、イサクは、父アブラハムがすでに獲得した祝福を受けると確信して、「飢饉の荒野」に残って、希望をもって主の業を待ち望んだのです。面白いことに、イサクはゲラルに住み、飢饉の真っ最中に、信仰をもって「その地に種を蒔き」、「その年に百倍の収穫」(26:12)を見たのです。主は、約束通りに、イサクを祝福され、御自分の名前の真実をイサクに表されました。イサクは、アブラハムと全く同じ試練を受けましたが、アブラハムと違って、主の約束に期待しました。そして、主は約束通りに、「飢饉中の荒野」でイサクを百倍ほど祝福してくださいました。それは、イサクがアブラハムの生涯から学ぶことができたからなのです
そして、そのあと、イサクは、父アブラハムと同じ寄留者としての苦難という試練を経験しました。寄留者は、住民と比べると何の権利も与えられておらず、守ってくれる存在もいませんでした。差別され、ないがしろにされることが多く、住民自身の益のために不正に利用されることが多かったのです。アブラハムが受けた寄留者としての苦難を、イサクも全く同じように受けていました。そして、イサクは寄留者として、アブラハムと同じように、恐れとリスクに向き合い、同じ試練の中で信仰を持ち続ける必要がありました
イサクはアブラハムから良いことを学んでいましたが、残念ながら、父アブラハムの罪の傾向も学んでしまいました。寄留者に対して、もし、その人の妻が非常に美しかったら、住民はその寄留者を殺し、その人の妻が奪われるという恐れがあったそうです。父アブラハムが取った解決策は、主の守りに頼らないで、妻(サラ)のことを妹だと呼んでいました。イサクはもちろん、その嘘が色んなハプニングに繋がったことを知っていました。例えば、サラがエジプトの王のハーレムに強制的に入れられたこと(12:15)や、サラがアビメレク王の妻にされそうになったこと(20:2)など。しかし、その嘘が多くの場合、効果があったと言うこと(20:13)も聞いていたと思います。ですから、父アブラハムの失敗を知っていながらも、イサクは父アブラハムの不信仰な歩み方を見倣ってしまいました
しかし、アブラハムの時とは違って、大事になる前に、イサクは、神様の憐れみとアブラハムの過去に守られるのです。イサクとリベカは、嘘をつき続けて、ゲラルに長く滞在していました(26:8)が、神様の憐れみによって、リベカを妻にしようとする人は現れませんでした。そして、偶然だと思うかもしれませんが、神様の御計画通りに、ペリシテ人のアビメレク王が窓から見下ろしているとき、「なんと、イサクがその妻リベカを愛撫しているのが見えた」(26:8)のです。つまり、これは神様の憐れみなのです。(「愛撫」と言う言葉は、原語では、「イサク」と同じ言葉(派生語)で「笑う」という意味もあります。つまり、筆者はこの出来事を皮肉っぽく描写しているのです)兄弟姉妹同士のはずのイサクとリベカが、夫婦として笑いながら抱き合っているのを見て、アビメレク王は彼らに注意します。「何ということをしてくれたのか。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪責をもたらすところだった。」 (26:10)「罪責をもたらすこと」の表現には、意味があります。皆さんもご存知のように、ペリシテ人が、アブラハム家にこのように嘘をつかれたのは始めてではありません。創世記20章で、アブラハムがアビメレク王にー26章のアビメレク王は、同じ人なのか、または、息子なのかははっきりしていませんがー嘘をついて、サラを妻にしようとしたとき、神様は罰として、アビメレク王の家の「すべての胎」を「堅く閉じ」られました(20:18)。そのことから、アビメレク王は「この人と、この人の妻に触れるものは必ず殺される」とすべての国民に警告したので、イサクとリベカは守られたのです。ですから、父の罪の傾向を見倣ってはしまいましたが、イサクは、神様の憐れみと、アブラハムの過去によって、守られたのです
イサクが寄留者として経験した、もう一つの試練は、住民の嫉妬がもたらす迫害でした。飢饉の中、イサクは、寄留者であったにもかかわらず、「富み、ますます栄えて、非常に裕福」(26:13)になり、「羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つように」(26:14)になり、住民であるペリシテ人はイサクをねたみ始めました。「住民の私たちが飢饉で苦しんでいるのに、よそ者のイサクが私たちの土地に勝手に住んで、私たちの土地によって裕福になるなんて不公平だ!」と思い、イサクの家族を追い出そうとしたのです。その土地には、父アブラハムが自分で掘った井戸がありました。そして過去に、アブラハムは、正当な取引でアビメレク王にお金を払って、その井戸を買い取りました。それなのに、ペリシテ人は、当時の人たちにとって「命綱」である井戸をすべてふさいでしまったのです。しかも、アビメレク王は「さあ、われわれのところから出ていってほしい。われわれより、はるかに強くなってしまったからです」(26:16)と、イサクに言いました。実は、このやり取りは、それから400年後に起こるエジプトでの迫害の前兆でもあったと言えるのです(出エジプト記1:9参照)。
では、この迫害を受けたイサクはどのように試練に向き合ったのでしょうか。父アブラハムの道から1ミリもそれないで、イサクはただ教えられたことを信じました。主がアブラハムと共におられたように、イサクとも、共にいてくださると確信して、イサクは、「父アブラハムの時代に掘られて、アブラハムの死後にペリシテ人がふさいだ井戸を掘り返し」、「それらに父がつけていた名と同じ名」をつけたのです(26:18)。まさに、オリジナリティに欠けるイサク。そして、アブラハムが主から受けた恵みの場所で、イサクも、アブラハムと同じように、「湧き水」(26:19)という恵みを頂きました。しかし、イサクはふたたびゲラルのペリシテ人から迫害を受け、また井戸を奪い取られてしまいました(26:20)。それでも、イサクは、復讐もせず、また、違うところに井戸を掘ったのですが、それもまた奪い取られたのです(26:21)。しかし、イサクは、復讐することなく、主の守りを期待して、もう一度、新しい井戸を掘りました。そして、感謝なことに、その井戸は、ゲラル人達から奪い取られませんでした。そして、イサクは、荒野で自分の家族のいのちが失われるような恐れがあっても、アブラハムとサラとは違って、神様に対して苦味や不満を抱くこともなく平安をもって、こう言いました。
「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」 彼はそこからベエル・シェバに上った。(26:22‐23)
そして、神様は、そのイサクの信仰に対してこう答えられました。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」(26:24) つまり、①主が誠実に父アブラハムを守ってくださったこと、そして、②主がアブラハムの従順さのゆえに、彼の子孫を祝福してくださると約束されたこと。イサクが、この二つのことを信じるなら、恐れる必要はない、と主はおっしゃるのです。そして、イサクは将来のことを恐れず、創世記13章のアブラハムと同じように、「祭壇を築き、主の御名を呼び求め」、約束の地を与えてくださることを確信して「そこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った」のです(26:25)。主の民を押さえつけようとしましたが、主の御業をみて敗北を認めたエジプト王と同じように、アビメレク王と軍の長ピコルは、「主があなたとともにおられることを確かに見た」と、降参する旨をイサクに伝え、主に対抗することをやめると誓ったのです。アブラハムが掘った井戸の名前(21:31)と、この出来事を記念するイサクの井戸の名前(26:33)が非常に似ている理由は、主がアビメレク王の迫害から父アブラハムを守ってくださったように、イサクをも同じように主が守ってくださったということも示唆されているのです(26:33)。
いろいろと詳細を確認しましたが、ここから私たちは何が学べるでしょうか。イサクの歩みを通して、私たちは、信仰をもって歩むとは何なのかを学ぶことができます。イサクの歩み方は、地味なものでした。オリジナリティに欠けていて、激的なこともありませんでしたが、こつこつと、また、たんたんと歩み続けました。そして、イサクは、アブラハムと同じ試練(飢饉)を受けても神様の約束を諦めませんでした。罪に陥っていても守られました。そして、何度も同じような迫害を受けても、平安をもって前進しました。なぜそのような信仰をもって、歩めたのでしょうか。イサクが様々な厳しい試練を乗り越えられた理由は、父アブラハムが受けた祝福を、自分も、同じように、受けることができると信じていたからなのです。状況が変わっても、時代が変わっても、敵からの攻撃が変わっても、神様の約束と祝福は変わらないと知っていたので、父アブラハムと違った道、違った手段、違った生き方を探す必要はありませんでした。ただただアブラハムと同じ道を歩むことに満足し、平安をもって前進したのです
実は、私たちも同じような立場に置かれています。そして、私たちも同じように歩むことができるのです。しかし、私たちが見ているのは、アブラハムの歩みではなく、イエス様の歩みです。そして、私たちも、イエス様が受けられた祝福を、同じように、受けることができると信じています。だから、試練があっても、試練を乗り越えるために自分で道をを探す必要はありません。むしろ、「復活」と「永遠の命」で終わるイエス様の道を私たちも歩んでいるからこそ、私たちは平安をもって前に進むことができるのです
私たちが頂いている約束は、何でしょうか?それは、イサクが頂いたような、主が約束されたこの地上での恵みや、父アブラハムの従順さによって受けることができた約束の地、カナンのことではなく、主が約束された天の恵みと、イエス様の従順さのゆえに、イエス様ご自身がいただいた「天上にあるすべての霊的祝福」(エペソ1:3)を、私たちも頂くことができるということです。イエス様が十字架に掛けられ、死から蘇ってくださったので、私たちも同じように蘇ります。イエス様が天に昇られ御国を相続されたので、私たちもイエス様との共同相続人になるのです。イエス様が永遠に天の右の座に座し、主と永遠の交わりを楽しまれるなら、私たちも同じ交わりを楽しむことができるのです。イエス様が先にこの祝福をすでに得られたので、私たちもイエス様の道を歩む中で、祝福と喜びが与えられることを確信できるので
しかし、私たちは、イエス様がいただく「天上にあるすべての霊的祝福」を頂くだけではなく、イエス様が経験された「苦難」をも、経験します。飢饉という試練ではないかもしれませんが、イエス様が40日間、断食されていたとき、サタンがイエス様に、この世のすべての王国とその栄華を見せて、 「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 と誘惑したように、私たちも同じように誘惑を受けます(マタイ4:8-9参照)。また、この世で、よそ者として迫害されたイエス様はこうおっしゃいました。「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」 (ヨハネ15:20)そして、父なる神様のためにすべてを捨て、十字架を背負われたイエス様のように、私たちも同じように、自分の十字架を背負い、主のためにすべてを捨てるという召しも与えられています
私たちは、イエス様の弟子として、イエス様と全く同じ試練を受けるということです。しかし、私たちは、慌てることも、怖がる必要もありません。また、独自の「抜け道」を探す必要もありません。なぜなら、イエス様が歩まれた苦難の十字架の道は、御父の誠実さと力、イエス様の従順さと苦難、聖霊様のいのちと導きのゆえに、復活、栄光、永遠の喜びと安息に至る道だからです。ですから、私たちも、イサクと同じように、オリジナリティに欠けるイエス様の弟子として、平安と信仰をもって、1ミリもそれることなく、イエス様が受けた主の守りと祝福を期待しながら、平安をもってこの道を歩んで行きしょう。