2023年5月28日礼拝 創立22周年記念 説教「誇る者は主を誇れ」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇 Psalm 33篇18-22節
さ ん び Opening Praise 「よみがえりの主 What the Lord Has Done in Me」
さ ん び Praise 「キリストが全て All I Have Is Christ」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌番 40番 「父の神の真実」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 I Corinthians 1章26~31節
聖書の話 Sermon 「誇る者は主を誇れ」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 313番 「弱き者よ」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 主の祈りより

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)「誇る者は主を誇れ」

 

スポーツで皆が一番ワクワクするのは、弱いはずのチームが楽勝と思われたチームに打ち勝つ、番狂わせ勝利ではないでしょうか。例えば、去年、サッカーワールドカップの舞台で強豪ドイツそしてスペインを打ち負かした日本代表は大喜びしました。同時にドイツとスペインは負けて、「能力も体力も自信もチームワークもあって、誇りを懸けて戦ったのに…」と悔しいばかりだったでしょう。

真の神様は、世界という舞台で毎日、番狂わせをしておられます。霊的な勝利で、です。神様が人生の本当の「勝利」、新しい天と地に入り永遠に神を喜ぶ特権を、人間の立場と関係なく賜います。私たち人間は「どんぐりの背比べ」をして、色々な価値観でだれがグループに、社会に、教会に、また神様に認められるかを決め付けたがりがちです。だれがお話上手か、勉強上手か、人気な子と一緒に遊べるか、可愛いか、お金やコネがあるか、幸せそうな家庭を持っているか…。子どもでも大人でも、このようなことで心配します。でも、神様はその全てを取っ払って、人間にその罪深さと弱さを示そうとしておられます。究極の番狂わせをするために。

おさらいですが、第一コリントの1~4章でパウロが教会の中の争いと分裂を取り上げます。パウロはコリント人のクリスチャンたちに、キリストの交わりに入れられた者として(1:9参照)、謙遜に愛し合うべきだと教えます。そして前回の18~25節以降で、その根拠を教えました。すなわち、パウロは十字架にかけられたキリストこそが力ある、神の知恵の焦点である、と熱弁しました。それは究極の番狂わせでした。それを証明する二つの経験が1章26〜2章5節で続けて書かれます。ですから、イエス様の十字架を念頭に置きながら、一つ目の経験を描く今日の箇所を見たいと思います。

今日はペンテコステで、キリスト教の教会全体の創立記念の日でもあり、海浜幕張めぐみ教会の創立記念礼拝もしています。パウロがこの箇所で、「負け組」と思われる人がよく、「番狂わせ」のような結果、神様に引き寄せられることを教えますが、これを創立記念の観点から後で見たいと思います。

 

26~29節でパウロは、コリント人たちに自分たちの経験を、十字架の意義の証拠として取り上げます。26節「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。」もし本当に人間の価値観が神様の前で価値であったならば、コリント人の「召しのこと」つまり、彼らがイエス様を信じるようになったことでも、賢くて、強くて、コネのいい人がクリスチャンになっていたはずです。しかし…「人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません」と言います(26節)。実は、コリント人クリスチャンの経験からしても、十字架のキリストを信じるようにされた神様の働きのみが誇りです。

コリントの町の教会のメンバーの中に、家で教会の礼拝ができるほど広い豪邸を持っていた会員もいたでしょうが、少なかったでしょう。人をうまく操る人気の演説ができる、あるいは学問のある「知者」も、政治的社会的影響力ある(「力ある」)者も、身分の高い、要するに良い血筋である、教養ある(「身分の高い」)人も比較的に少なかったです。逆に、都市の人口の大多数を占める貧しい自由人や奴隷は大勢いたでしょう。

パウロは27~28節でさらに、この世が褒めて誇りに思うことと神様が実際に選ばれた人々のあり方とのギャップを印象深く描きます。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、

強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

神の家族である教会に入った者は、神様による立場の番狂わせを経験します。立場の低い人が加えられます。ところが、ほとんどの場合、知恵、影響力、家柄や教養、性格、精神状態の良い人は、天国の贈り物を受けようともしません。すでに順位が高くて、誇りがあるから、十字架にかけられたイエスという「たわごとのように思え」る話に耳をかしたくもないです(ルカ24:11参照)。しかし、神様は、神様以外のもので誇る人を「恥じ入らせるために」働かれます。そして自分の恥を真摯に受け止める者には、栄光を下さいます。

イエス様は、全人類が霊的な病人、つまり、神の教えに反抗する「罪人」であると示唆されまたことがあります(マルコ2:17)。自分が罪人であり神の恵みが必要だと認めることができるかどうかが人間の重大課題です。自然なたかぶりはあるので、大抵、何らかの貧しさ、弱さ、汚れ、恥でしか、イエス様の助けが必要とは認めません。

ヤコブの手紙2章5節はこのように、経済的な側面からパウロとイエス様と同じ現実を解説します。「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国〈新しい天と地〉を受け継ぐ者とされたではありませんか。」

信じない人からすれば、イエス様の福音は愚かなおとぎ話ですが、実は、神様による番狂わせです。世間から見て貧しい、卑しい人は、物質的な助けだけでなく霊的また身体的な救いを下さる神に目を向ける機会が多いのです。

29節でパウロはこのように神様の御心をまとめます。「肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」私たちは舞台に立つと、良い自分、得意な自分を見せたいです。誇りを持って人生を歩みたいです。自尊心が全て悪いとは言っていません。しかし、「肉なる者」が人前での誇り、面目だけを求めるのは大間違いです。そのような誇りを心の拠り所にしたまま死ぬと、次は審判をなさるイエス・キリストの前に立たされます。人間的な誇りがもはや通じません。

前回、十字架とイエス様が誇りということをお話ししましたが、30~31節がこれを明記します。ここは今日の箇所のクライマックスです。神様が誇りのなさそうな人を大勢選ばれた結果、コリント人の教会があります。30節にはこうあります。

しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって〈別訳:私たちのため〉神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

キリスト・イエスのうちにあるという表現は新約聖書でとても重要な表現です。「キリストと結び合わされる」とも言います。人が信仰によって、イエス・キリストを通じて真の神様と密接な関係を持つことです。仲介者「イエスのうちにあ〈る〉」者は、キリストが人間として十字架と復活で得られた様々な特典(祝福)を受ける、と聖書は教えます。第一コリント1章9節の表現で言えば、イエス様が私たちといのちを共有する「交わり」に入れてくださいました。結果として、イエス様のいのちの祝福が私たちに共有されます。言い換えると、神様に受け入れられ、神の国に入る唯一の基準そして誇りの対象は、弱くて罪深いと認める人間に繋がってくださったイエス・キリストです。

「神からの知恵」は、コリント人が褒める人間中心の「知恵」と違います。神の知恵なるイエス様は、ここにある「義と聖と贖い」を下さいます。そして、これらの「贈り物」は全て、前回の箇所でお話しした十字架に直結しています。

一つ目の「贈り物」の「義」は神に認められるための必須条件です。新しい天と地、神の国に入るために必須のきよさ、愛、謙遜などを含みます。イエス様が生涯を貫く義の生き方をなさり、十字架で死なれた時も、父なる神様への完全な従順という義をもって生きられ、死なれました(マタイ26:39、ヨハネ12:27・19:30参照)。イエス様のうちにある者は、それをイエス様に繋がった者として、イエスの「義」を共有し、「神の義」そのものとして神様に歓迎されます(第二コリント5:21)!

二つ目の「贈り物」の「聖」は「聖別」とも言うことができます。神様が人をご自分のものとして、ご自分の近くに住んでも良い、きよい民として取り分けてくださることです。イエス様が聖なるお方なのに、十字架上で罪人の汚れた罪を身代わりとして背負って、罰せられました。それから、ご自分のうちに入れられた人々に聖さを分かち合いました。

最後に「贖い」は、二つのイメージを思い起こさせます。一つは、ローマ人の文脈では奴隷が市場で買われ、他の主人に譲られるイメージです。もう一つは、古代のイスラエルの家族がエジプトの奴隷制度から「贖われ」、なるヤハウェのしもべまた民となった奇跡も重要な背景です。イエス様が十字架で、ご自分のいのちで悪魔の奴隷となっていた人を買い取られました(第一コリント6:20)。要するに、イエス様が私たちを悪魔と罪・恥・死の支配下から神の義と愛の支配下へ移すために、悪魔・罪・恥・死の代償を十字架で払って、復活なさいました。これによって「贖い」ともなってくださいました。

ですから、御霊なる神が働きかけてくださると、誇りのなさに気づいた人はイエス様こそ自分の希望だと信じて、イエス様に自分の希望を置きます。心の拠り所、また「誇り」を自分中心の誇りからイエス様に移します。義と聖と贖いそのものをイエス様から受けます。イエス様を受けることにより、揺るがない立場に立ちます。イエス様の立場に立ち、イエス様の義を受けているからです。学校の同級生や先生、ママ友、会社のグループ、社会でどう思われようが、イエス様にあって正しい、特別な、神様のものとされています。

当然、キリストを信じる者同士の立場は同じです。社会での背景や立場と関係ない、一つの誇りを持ちます。したがって、キリストにあって、お互いにも繋がっています。パウロは第一コリント1章31節で旧約の預言書エレミヤ書9章23・24節から結論を出します。エレミヤ書9章23節はまさに、先月と今日の箇所をほのめかすように、

知恵ある者は自分の知恵を誇るな。

力ある者は自分の力を誇るな。

富ある者は自分の富を誇るな。

とあります。その続きが「誇る者は、ただ、これを誇れ。/悟りを得て、わたし〈、ヤハウェ〉を知っていることを。…」で。パウロはここを引用しています。「誇る者は主を誇れ。」主なるイエス様を誇りと思いなさい。これがコリントの教会でも成就されているはずです。だから、パウロの主張に戻ると、教会内で優位を争う必要もありません。

コリント人のクリスチャンたちが家の教会の集まりでこの箇所を聞いて、お互いを見回して、どう思ったのでしょうか。奴隷、貧民、字が読める「知識人」、奴隷、奴隷、貧民、富豪、貧民…。多様なグループなのに、十字架につけられたイエス様の話を信じて、皆が同じ部屋で礼拝しています。イエス様が彼らの能力や社会的地位と関係なく、同じ義、同じ聖、同じ贖いとなってくださいました。ただ、罪人と自覚して信じた人に神様の恵みが注がれます。

 

では、パウロが1世紀のコリント人のクリスチャンに書いたことは現代の私たちにどう関係するのでしょうか。今回、二つの適用をお話しします。一つ目の適用に、私たちは感謝と謙遜の心からイエス様を誇りとするように招かれています。

今日は、海浜幕張めぐみ教会が2001年5月27日に地域教会として設立されたことを記念する日です。ビジョンを確認し、神様が私たちをあわれんでくださったことを感謝する機会です。

私たちの教会ビジョン・目的は「海浜幕張めぐみ教会は、聖書の神の栄光をあらわし、永遠に喜ぶために存在しています」です。そしてそれが実現されるために、八つの分野(優先的価値観・コアバリュー)を意識してきました。最初の四つは、

①【礼拝】 心からの礼拝と感謝を聖書の神にのみささげます。

②【祈り】 祈りによって神を信頼し、その答えを喜びます。

③【弟子化】 神をさらに知るために、聖書の教えを学びます。また、神が与えてくださった賜物を発見し、育て、用います。

④【交わり】 主にあって、互いに愛し、信頼し、ゆるし、仕えることによって一致を深めます。

他に四つの分野がありますが、次回に触れます。礼拝・祈り・弟子化・交わりについて振り返れば、今日の箇所から重要なことが分かります。なぜ私たちは神様を礼拝していますか。なぜ祈って答えを期待しますか。なぜ人が神の弟子として成長することを求めますか。なぜ互いに愛し合うことを心がけますか。私たちが神の絶大な、一方的な恵みをいただいたからです。

クリスチャンの方は今、自分がなぜキリストに信頼を置いたか、考えてみましょう。自分が成功を収めて、良い人として歩んで、イエス様をプラスすればなお良し、と思ったからですか。もしそうだったら、自慢できます。

けれども、違うと思います。まず弱さや貧しさを感じて、イエス様が差し出す救いの希望に惹かれたかもしれません。あるいは、たとえよい生活を送っても、物質的快楽や評判が空虚だと気づかせる悩みがあったのかもしれません。身体的な弱さや苦しみで霊的な病に気づかされたかもしれません。精神的な苦しみや、この社会が負担させる基準を背負いきれなかった経験が切っ掛けだったかもしれません。恥ずかしい体験や罪悪感、敗北感の中で必要を感じたかもしれません。

それから、聖霊様が聖書の良い知らせをその中で働かせて、心に奇跡を起こしてくださいました。だから、イエス様が十字架によって私たちに義と聖と贖いを下さるという良い知らせ、福音が自分にも必要だと分かり、信じ、「御国を受継ぐ者」となりました。一人一人の心の反抗の傾向をご存知の神様が愛をもって、弱さや恥という贈り物で適切な切っ掛けをくださったから、私たちはここにいます。

自分たちはきよくなった分、自分を誇りとしていないでしょうか。私たちの弟子訓練、祈り、交わり、礼拝が私たちの誇りになってはいけません。ただ、その全ての中心におられるイエス様が誇りです。

だからこそ、22年もこの教会が続いて、5名の会員が100名以上になりました。開拓者や宣教師やセルグループの知恵や努力を誇りとしたり、より小さな教会を見下したりする理由は全くありません!全ての成長は神が下さったことです。創立記念の時、神の真実を感謝して、イエス・キリストこそ、キリストのみを、誇りとしたいと思います。

二つ目の適用は別の価値観の「伝道」と関係ありますが、「祈り」の大切な一部に触れます。他の人もイエス様を誇りとするように祈り求めましょう

信じない方が「信じますように」と簡単に祈るかもしれませんが、私たちはどこまで真剣に、具体的に祈ることができていますか。「キリストを誇りとする妨げを取り除いてください」という祈りはどうですか。物質的、社会的な「番狂わせ」がないと、霊的な番狂わせに至らないのかもしれません。「私の愛する家族・友人がイエス様を誇りとするために、彼・彼女の他の誇りを取り壊してください」とまで祈られますか。

このような祈りは代償が大きいかもしれませんし、愛のない祈りのようにも聞こえるかもしれません。もし愛する人が健康、富、地位を失ったら、私たちも苦しみます。しかし、イエス様を知る喜びと誇りに勝るものはありません。永遠のいのちに比べるものはありません。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」(マルコ8:35-36)世界の誇りを失う番狂わせにあっても、イエス様にある永遠のいのちへの番狂わせが与えられることを一緒に祈り求めたいと思います。

この創立記念の時、私たちは過去を振り返り、喜びます。教会の成長、良い思い出などがあります。しかし、本当に誇りとしてよいことは一つだけです。神様に対して不従順で鈍感な人々がイエス様にあって、イエス様の十字架の弱さと恥にある「番狂わせ」を通して、義として受け入れられ、聖とされ、神の者として買い取られました。それでこの教会が生まれました。同じイエス様にあって、これからも成長することを期待しましょう。今日、主を誇りましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church