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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人への手紙第一 I Corinthians 1章27-31節 |
さ ん び | Opening Praise | 「詩篇100」 |
さ ん び | Praise | 「主の十字架に The Wonderful Cross」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌226番「しもべらよ、み声きけ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 2章1-5節 |
聖書の話 | Sermon | 「パウロ、宣教のドジか?」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌118番「丘に立てる荒削りの」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇23篇より
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
皆さん、チラシやテレビやユーチューブのCMを見ると、どんな人が出ていますか。大抵、有名人や格好いい、綺麗な人がイメージキャラクターとなります。子どもたちも、新しいゲームや遊びがしたいと思うのは、「先輩が勧めたから」「皆がやっているから」という理由かもしれません。私たちは、上手に話して、一緒にいたいと思う人の言うことを聞きますね。
では、創造主なる神様が人間に、完全にされた新しい世界で永遠の喜びを楽しむ方法を教えに遣わしたイメージキャラクターと言えば、使徒パウロですが、パウロは格好いい人だったでしょうか。今日の箇所を見ていくと、そうでなかったのが分かります。どちらかと言えば、普通にPRの面から考えると「ドジ」のように見えました。でも、そのパウロが語った結果、コリント人教会が生まれました。不思議ですね。
本日の聖書箇所では、使徒パウロは数回前の話から続けてコリント人のクリスチャンたちに競争心から出る争いを止めるように教えています。キリスト教の共同体教会が世の評判や欲求と全く違う価値観に立っていることを教えています。1章18〜25節ではっきりと、信じない人にとって弱く、愚かに見えた十字架にかかったイエス様こそ神の力、神の知恵であると言いました。前回の箇所、26節以降で、その原則がコリント人のクリスチャンの中でも見えたと言いました。すなわち、コリントでイエス様を信じた人の多くは教養や影響力、家柄などを持たない凡人がほとんどだったのに、神様が彼らの心の内で働いてくださり、彼らにとってイエス様が神の全ての祝福(義・聖・贖い)の源となってくださいました。今回の箇所がその続きとして、パウロが宣教経験を語って、イエス様の十字架がそこでも弱さのうちに効果を持ったと指摘します。
これを聞いたコリント人たちはなるほど、そうだったねと思い返したかもしれませんが、同時に「演説者、布教者としてドジだな、非常識だな」とも思ったかもしれません。パウロが人間の「常識」を覆す福音を、彼らの世界観と社会観に当てはめようとしていたからです。まず聖書箇所を見てから、パウロの宣教の内容の力強さを確認して、私たちに適用してみたいと思います。
2章1節は2〜5節をまとめたような出だしです。パウロは、今度は自分の経験の観点から、コリント人クリスチャンたちが競争する虚しさを教えようとします。
「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。」(1節)
「私があなたがたのところに行ったとき」は出会いの頃を意味します。パウロはいわゆる第2次宣教旅行でヨーロッパ大陸に足を踏み入れました。ビジネスや運動の論理からすれば、その実績は「いまいち」でした。北のマケドニア地方(ピリピ)から南下しながら宣教し、次々と迫害を受けました(使徒16:11-17:14)。ついに、古代の西洋思想の中心地のアテネに到着して、当時の裕福な哲学者たちに説教しました。上手に話はしましたが、からだの復活とイエス様の主権を主張して、馬鹿にされました(17:15-34)。クリスチャンになった「知者」は僅か数名でした(17:34)。どこでも、小さな会衆しかなかったように見受けられます。
<地図>
次にパウロがアテネの南西に位置するコリントに到着しました。使徒18章1〜18節でそのことについて読めます。
神の「奥義」とは、神様が旧約時代にほのめかし予告され、イエス様にあって成就されたことです。深くて濃い旧約聖書の内容をまとめるなら、細かく難しく話すことはできたはずです。知者だけに理解できる、難しい表現や修辞法、ドラマチックな演説で飾ることはできたかもしれません。しかし、パウロは自分が採用した話し方は「すぐれたことばや知恵」でなかったと言います。聞き手たちの中で最初からいた人たちは思い返したでしょう。「あの頃のパウロは確かにね…町に入って来る演説者と違って、アシスタントによる宣伝もなく、劇的な口調や手振りもあまりなかった。つまらない話し方だったね。」
パウロは敢えて、わざとそうしました。2〜5節で彼の宣教方針を聞きましょう。まず2節です。
「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」
パウロの宣教の内容を聞きます。パウロは色々なことを語ったでしょう。異邦人相手なら、聖書のこと、イスラエルの背景にも触れたでしょう。しかし、パウロは「十字架につけられたキリスト」が最も大事なことであると確信して、そこから外れるような話を避けようとしました。「十字架につけられキリスト」何を言っても、「これはイエス・キリスト、十字架につけられたキリストと直結するのか」という気構えでした。
2回前の話のように、「十字架につけられたキリスト」(1:23、2:2)は絶対失敗のPR作戦でした。最悪の苦しみと弱さの中で恥を受けたイエスの話はローマ市民のコリント人とは無縁のおとぎ話のようなものでした。自分たちが絶対に憧れない、親近感を感じない、強さや希望を感じない話でした。しかし、パウロは敢えてこれを伝えました。
2章3節でパウロは自分の外見と態度を思い起こさせてくれます。
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
ここに書かれている弱さ、恐れ、おののきは、今まで見た「知者・学者・論客」と「知者・力ある者・身分の高い者」「強さ三昧」(1:20・26)を覆すような「弱さ三昧」でした。パウロのコリント宣教の途中で、主イエスがパウロに幻で励ましてくださいました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)
パウロは確かに周りの人を恐れることがあったでしょう。もしかしたら身体的や精神的に弱さを感じていたかもしれません。金とコネと劇的な話し方がものを言うコリントでは、今までのヨーロッパ宣教と同じ攻撃や軽蔑を受けるに違いないと覚悟していたでしょう。同時に、正しく神のメッセージを伝えるという重い責任を負っていました。いずれにせよ、パウロのコリント旅行中の気分は「弱さ三昧」でした。好かれるように、前回より少し痛い目に遭わないよう、話の内容を十字架以外のものにしたかったかもしれませんが、そうしませんでした。
4節でパウロは宣教方針における、宣教の効果の源を説明します。「私のことばと私の宣教」は同じことを少し違う言い回しで言っていると思います。その内容は、先ほどの通り、弱い、愚かと思われる十字架にかけられたイエスの話ばかりでした。弱さを感じても、パウロはそれを語りました。「説得力のある知恵のことば」で飾らずに伝えました。ですから、効果の源は明らかに人間を超えた力、「御霊と御力」でした。これも、同じことを二通りの言い方で言っているでしょう。聖霊様はパウロの拙そうな、おかしそうな話の真実と力を人の心の中で、力強く分らせてくださいました。「御力」は目覚ましい奇跡でなかったと思います。たとえ、目で見える奇跡もあったとしても、大切なのは、パウロの証言が現実だと聞き手の心に神の霊が悟らせてくださったことです。使徒16章14節でパウロはピリピにて同じことを試み、同じ結果を見ました。
パウロは質素で福音の「ことば」と「御力」による宣教に満足しました。なぜなら、彼の宣教方針の目標は2章5節のとおりでした。「それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」パウロは自分のことばの「知恵」も自分も焦点にならないことを望みました。人が変わるのは、人間の説得力、影響力、品格と関係なく「神の力による」とはっきりするからです。イエス様に先駆けた預言者ヨハネが言った「あの方〔イエス〕は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)と同じ態度で、パウロが劇的に説得しようとせず十字架にかかってくださったイエス様の宣教をしました。そして御霊の働きかけによって、コリントにキリスト教会が生まれました。
パウロは質素な、純粋な福音の「ことば」と「御力」による弟子育成に満足していました。コリント人たちは「パウロ派」や「アポロ派」と名乗って、弟子としての立場を強めていこうとしていたのに、パウロはそれが不要だと言います。純粋に、神の力に希望を置こうとしています。
ということで、使徒パウロがコリント宣教を指して、人間的に言って弱さと格好悪さのうちに行ったが、聖霊様がイエス様の十字架という主旨を用いられたから教会が生まれたと指摘します。では、この短い箇所は私たちをどう導くのでしょうか。パウロの話からすると、伝道と教会成長の中でキリストとキリストの十字架の福音を最優先するべきだと理解できます。しかし、どのクリスチャンであっても、十字架を語るのが弱く、恥ずかしく感じることがあります。難しいです。
クリスチャンでなくてもお分かりだと思いますが、私たちは皆、人に好かれたい者です。誇りを持って、恥を避けたいです。「格好好い人」に好かれたいと思います。その中で「世間」はその「常識」で私たちの生き方を型に嵌めようとします。「好かれる」という「飴」と「恥」という「鞭」でそっと導きます。例えば学校で、会社で人の噂話を聞き入れたり言ったりするように、あるいは嘘をつくように。そしていつの間にか、世間が私たちクリスチャンの中心の福音をも影響してしまいます。好かれるために、私たちは「十字架につけられたキリスト」の良い噂について黙ります。クリスチャンだと知られたら、クリスチャンは楽しくて仲間がいることを前面に出したいかもしれません。しかし、そうすると、私たち自身も福音を薄らとしか掴められず、その分、私たちも永遠の喜びを確信できずに歩んでしまいます。
これはより広く言うと、私たちの罪の問題です。私たちは皆、神様の聖い、そして唯一の確固たる基準である道徳律法によると、日々、罪を犯してしまいます。私たちを造られ、私たちと愛の関係を用意された神様に対して罪を犯します。そして人間同士でお互いに罪を犯します。神様の教えに反することを願ってしまい、考えてしまい、言ってしまい、してしまいます。例えば、人気な人や強い人に好かれようとして、他の人に傷をつけます。神様を無視します。神様は愛の神だけでなく正義の神でもあられるので、裁きを下されます。神は私たちに罪のなさだけでなく、実際に愛と義を求めておられます。私たちの賢さ、人脈、見た目、人気度、力強さ、学問、情熱は関係ありません。私たちは自分で、神の基準に達しえません。
だからこそ、福音と福音の伝え方は、弱く、恥ずかしいと思われる話ですが、真の神様はそれによって人を救われると仰います。私たちは何度も何度もこれを聞き直して、信じて、悔い改める必要があります。この機会に、もう一度、「十字架につけられたキリスト」をお伝えします。
イエス様は十字架で、罪人に来るはずの裁きを代わりに受けてくださいました。罪人の代わりに完全な義の人生を最後まで歩まれました。パウロのように、弱さ、恐れ、おののきを通ってくださいました。人の求める救い主像に応じず、力を見せつけず、神の子としての立場を隠されました。霊的に愚かで弱く、神に見捨てられるべき人のためでした。さらに、身体をもって復活なさいました。これによって、新しい、聖い世界に入る確証を与え、一緒に入る資格を信じる人に分け与えてくださいます。前回の箇所のとおりに義と聖なる立場、及び贖いを用意してくださいました。イエス様に信頼するだけで、これが受けられます。十字架につけられたイエス・キリストが人の唯一の、そして十分な希望です。パウロはこれを知り、コリント人に知らせようとしました(第一コリント15:1-4参照)。
ですから、今日の箇所のレンズを通して福音を見て、二つの適用を提案したいと思います。一つ目は教会また個人のクリスチャンの歩みへの適用です。
「海浜幕張めぐみ教会は、聖書の神の栄光をあらわし、永遠に喜ぶために存在しています」というビジョンを追い求める為に、私たちの教会は八つの分野(優先的価値観)を意識しようとしてきました。前回の説教では前半の礼拝・祈り・弟子訓練・交わりに触れましたが、次の四つもあります。
⑤【伝道】 私たちが会う人々に、言葉と愛によりイエス・キリストの恵みの福音を伝えます。
⑥【憐れみ】 主の憐れみと恵みを傷つき、失望し、迷っている世にあらわします。
⑦【変革】 聖書の真理と神の愛と恵みによって、神を信じる人の生涯だけではなく、その周りの社会をも変革します。
⑧【生み出す】 このようにして、さらに多くの教会を生み出していきます。
これらは全て、内向きの働きから生まれる外向きの価値観と言えます。そして、どれに関しても、イエス様が十字架につけられて、復活されたことをはっきりさせないと意味がありません。例えば伝道でクリスチャンのキラキラ人生を目玉商品にしても、苦しんでいる方の痛みを和らげても、自分たちの働きぶりや人間関係か改善されても、新しい教会が生まれたとしても、永遠の幸せと永遠の裁きの判決を分ける十字架を語らなければ、世の人を見殺しにしてしまいます。単純に、はっきりと、イエス様が罪人の罪を洗いきよめ、神様が求める義と愛を罪人に転嫁するために十字架にかかったことをも言わなければなりません。
もしかしたら、職場や家庭で福音を具体的に口にする機会はあまりないかもしれません。では、聖書の真理、イエス様の十字架の福音によって私たちは弟子として成長して、変革されましょう。それを見て、人が気づくでしょう。例えば「嘘をつかなかったから仕事を取り上げられた。でもお前は動じないでまだ気持ちよく働いている。なんで?」そこがチャンスです!
心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)
ですから一つ目の適用は教会として、またクリスチャン一人一人として、日々の会話でも愛の行為でも変わることでも増えることでも、イエス様の十字架を中心点として据え続けることです。
二つ目の適用はより細かい適用です。前回の価値観「礼拝」にも戻ります。パウロの宣教方針は聖書の教師、特に説教し伝道する人の責任を明らかにしますから、説教者への具体的な適用もあります。説教する人はパウロと同じように、聖書どこを見ても、それがイエス様の予告あるいはイエス様が来られることの意義を掲げるみことばとして受け止め、宣言する必要があります。自分の栄光や周りの人の機嫌とりを求めるのは禁物です。正確に、人間でなく神のご栄光が明らかになるように、熱心に語る責任を受けています(ウェストミンスター大教理問答159参照)。ですからどうぞ、あなたの説教者や教師のためにお祈りください。また、聴く人としても、みことばにある「十字架につけられたキリスト」に信頼し、従うことができるようにもお祈りください。
私たちが伝える福音は、パウロと同じ態度で広まります。「自分たちは恥ずかしい、弱々しく、みっともない罪人です!十字架でこれがさらされたけど、イエス様が同時にこれを背負ってくださったからもう恥じなくても良い。」聖霊様の力によってこのように言えますし、私たちの周りの人も信じるようになるかもしれません。
福音を受けた共同体として、私たちは弱さのメッセージによって救われています。伝道と憐れみと変革と生み出そうとする中で、弱くても良いです。弱く歩みながらも、聖書の良き知らせを覚え続け、信じ続け、伝え続ける教会でありますように。