2023年6月25日礼拝 説教「知恵〜イエス様を知る恵み」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 詩篇 Psalm 98篇1〜4節
さ ん び Opening Praise 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」
さ ん び Praise 「おどろくばかりの〜罪とがを自由にされて

Amazing Grace (My Chains Are Gone)」

開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌8番 「ほめたたえよ」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 I Corinthians 2章6〜16節
聖書の話 Sermon 「知恵〜イエス様を知る恵み」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌129番 「暗やみに輝く灯」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 主の祈りより

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

最近のラミークラブの教会学校で、先生方は創世記の話をしています。子どもたちも大人たちも覚えておられるかもしれませんが、アダムとエバがだめと言われた木の実を食べてしまいましたね。自分で好きな判断をして、神様の教えを無視しました(創世記3:1-6)。また、他のある人たちが「偉くなろう」と思って、バベルの塔を建てようとしましたね。煉瓦を積み上げて、天に届く塔で神様に近づこうと思いましたね(創世記11:1-9)。

その話を聞いて、悲しくなりますね。けれども、私たちも同じことをしてしまうことがあります!勝手に、神様が一方的に恵んでくださる方法以外で偉く、賢くなろうとするときです。神様が教える方法を無視して、友だちや偉い人の言うこと、また、自分の思っている方法で神様に近づこうとするときも、そうです。しかし、神様は一番喜びある道をすでに用意してくださいました。そして私たちの頭の良さなどと関係なく、恵みによって神様の霊が人に教えてくださいます。パウロはそれを今日の箇所で私たちに教えてくれますので、一緒に見ていきましょう。

一言で言うと、今日の話は「知恵」を、「知る恵み」と覚えてください。神の知恵を悟るには、神の一方的な恵みが必要です。そして、神様がその一方的な恵みを実際に下さるから、私たちは十字架の知恵を理解して、満足して、喜ぶことができます。

 

パウロは今回の箇所で二つの大きなポイントを主張します。一つ目に6〜9節のポイントを見ましょう。パウロは2章5節でコリント人のクリスチャンたちが人間による「知恵」に頼ることを懸念していたと言ってから、6節以降で次の課題として、人間の知恵が神様の前で通じないことを強く主張します。

しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。

ここでパウロはまず、コリント人が考えていた「成熟した人たち」と「知恵」を再定義します。

「成熟した人たち」。日本人は「成人式」をとても大切にします。二十歳、または18歳で「大人」として扱います。純粋に、年齢で決まっています。同時に、当然、成人としてできること、責任をとるべきことも理解されています。ここから推測するには、コリント人たちは同じように「成熟した人たち」は何か誇ることができる理解や立場を得ていると思って、これを目標としていたでしょう。成熟していれば、誇ることができるはずであり、1章から取り上げられている教会内の競争や争いが自然に出て来ます。

ところが、パウロがここで使う「成熟した人たち」は、「この世…この世の過ぎ去って行く支配者たち」と対比させます。世とその支配者、勢力はキリストと十字架に望みを賭けていない人々です。従って、対照的な「成熟した人たち」は、イエス様を信じるどのクリスチャンにも当てはまる、とパウロがコリント人たちの「成熟した人たち」の定義の修正を教えます。

「知恵」もここで再定義されます。1章20節以降、コリント人たちが社会の基準でことばを巧みに使って人に影響を及ぼせるなら「知恵」があるとされていたそうです。しかし、パウロはその定義を覆します。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(7-8節)

「神の知恵」がポイントです。プラトンも孔子も、ムハンマドも親鸞も、どの哲学者も宗教家も、軍人も政治家も、またメディアの発信者やインフルエンサーも、神様の知恵に思い至ることができません。神の知恵は人間の「非常識」と言うより、「超常識」です。第一コリント1章で見たように、それはイエス・キリストがつけられた十字架を通しての救いだったからです。

そして、「奥義」はパウロ書簡では、神様が計画され、少しずつ大まかに教えてくださったが、イエス様の登場以来、はっきりと教えてくださったご計画のことです。エペソ人への手紙3章5節は奥義をこう説明します。「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。」第一コリント1・2章では、「栄光の主〔が〕十字架につけ」られたことが神の知恵また奥義です。

他の箇所に書かれている奥義と重なります。他の箇所で、イエス・キリストご自身が奥義(コロサイ2:2)です。キリストの十字架の結果として、ユダヤ人も異邦人もだれでも入ることができ(エペソ3:6)、キリストが信じる者のうちに住んでくださり、最終的に栄光を約束される(コロサイ1:27)ことも奥義と記されています。これは、世からすれば考えられない話です。神様を拒んでその栄光に値しなかった人々(ローマ3:23)であっても、「神が私たちの栄光のために」イエス様の人生、死、復活を計画なさったという話です。自分の反抗の罪を認めて、神様に立ち帰りたいと願って、イエス様により頼む人は神様から栄光を受けられます!罪を洗い清められ、逆に、完全に聖なるイエスの義と愛をまとう者として扱って頂き、一つの共同体(教会)として歩めます。イエス様と、栄光を受けて、新しく聖なる世界で永遠を過ごせます。このような話が旧約時代にほのめかされ、予告されていましたが、今大々的に宣言される福音の「奥義」です。

言うまでもありませんが、イエス様を受け入れない人には、これは愚かな話に聞こえます。昔の宗教古典を本気で信じるのは、おかしいね、という評論家や世間の態度で見られます。クリスチャンになった私たちもそう思ったことがある可能性は高いと思います。けれども、パウロが言います。そもそも、神の知恵は世の最先端にいる「支配者たち」にも思いつけません。むしろ、パウロは9節で旧約聖書からの引用でこう指摘します。

「目が見たことのないもの、

耳が聞いたことのないもの、

人の心に思い浮かんだことがないものを、

神は、神を愛する者たちに備えてくださった」

と書いてあるとおりでした。

これは一つの旧約聖書箇所をちょうどは引用していませんが、イザヤ書64章4節が一つの原文であると考えられています。そこには、神様が罪人を裁かれることの文脈の中で、神様は信頼する人のために、それまでだれも一度も見聞きしなかったことをしてくださることが書かれています。具体的には、裁きを通して、信頼する人を助けてくださるとあります。まさに、十字架で代わりに裁かれたイエス様による救いがそれです。だからパウロが1章18節、24節、30節で十字架のイエス様を神の知恵、神の力と言いました。イエス様が裁かれることを通して、イエス様を「待ち望む者」に新しい天と地の約束をくださいました。まさに、どの人も自ら思いつける話ではありませんでした。

さて、9節までで人間が想像もできなかったイエス様の十字架のことが神様によって計画され、暗示されていたということですが、そうならどうして想像できないことを人間が知るようになることができるでしょうか。今回の箇所の後半(10-16節)にある二つ目のポイントは、神様のみがイエス様に関する奥義を人に分らせて信頼に導くことができることです。これに関しても、人間は誇りを持てないということです。コリント人たちは自分の知恵でより「成熟した」、より「霊的」なクリスチャンになって、誇ることができると思っていたことがうかがえます。パウロはこれに対して、反論します。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。(10節)

 

 

 

 

「それ」は「神は、神を愛する者たちに備えてくださった」十字架のイエスのことです。パウロは、クリスチャンが霊的な理解を得る際、100%受け身だと指摘します。そう説明するために、人間の一般的な経験に訴えます。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(11節)

一般的に言うと、あなたのことを一番よく知っている人はあなたですね。自分の考えを知ることができます。他の人は、あなたが仕草や言葉か他の何かの表現で伝えなければ、あなたの思いを知りません。パウロはこの現実から、続けて、「神の霊」だけが神の知恵をご存知だから人間にそれを伝えられる唯一の主役だと指摘します。「神の霊」は三位一体の「聖霊」です。神様のみが神様のことを知り尽くされます。父と子が完全な、永遠の愛のうちで知り合われ、喜び合います。神の霊がその全てをご存知であり、同じく喜ばれます。ですから、人間の心に神のみこころを伝える啓示を刻み込める唯一の主役です。パウロは12節で続けます。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(12節)

要するに、霊的に深いことを知りたければ、神の霊からそれを受けなければなりません。コリント人たちは「世の霊」で、要するに自分の霊で悟りのような知恵に到達できると思っていたかもしれませんが、12節の通り、神の知恵を知るのはただ「恵みとして」のみ可能です。だから、10節を引用すると、「神は私たち〔信者〕に御霊によって啓示してくださいました。」

しかも、13節は、このために聖霊様が「私たち」(恐らく使徒たち)に言うべきことを教えてくださると伝えます。

それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

人は教養や知能でも、文明の情報蓄積でも、神様のことを知ることができません。しかし、パウロは「御霊に教えられたことばを用い」て、神様の知恵、イエス様の十字架のことを伝えました。要するに、神中心の方法に従って、伝道し教えた訳です。

14〜16節は1章18節から続く、世が持つ知恵と神に属する者が教えられた知恵の対立をまとめる箇所です。特に6節以降の話がここでまとめられています。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。

「生まれながらの人間」は世の知恵だけを知る人です。アダムの罪の結果、神への反抗を喜び、神と知り合うことを拒む心を持っているので、御霊が教えることを聞いても、拒否します。それがちんぷんかんぷんです。もう一方で、すなわち「神からの霊を受けている人」(12・15節)、言い換えると6節の「成熟した人たち」は心に奇跡を経験しています。神の御霊の不思議な働きによって、神の知恵を理解して受け入れる「判断」をできる人へと変えられました。「神からの霊を受けている人」になりました。

「御霊を受けている人はすべてのことを判断しますが、その人自身はだれによっても判断されません。」では、パウロはクリスチャンは間違えることがないと言ってはいません。確かに、聖霊様の助けによって、私たちは聖書のみことばによって変えられ、人生のあらゆることについて洞察力を受けることができます。聖書が教える原則によって、クリスチャンは人生の多岐にわたる決断で神の栄光を表し、神を喜ぶ道を探ることができます。占いのように伺いを立てなくても、聖書を学んで適用してみると、御霊が助けてくださっていることがわかります。

もう一方で、周りの人々には「判断」また理解はできません。クリスチャンの価値観の多くは世の価値観と重なる場合がありますが、根底にある愛が異なりますから、本当に理解されません。日本社会が「文化」と「伝統」と呼ぶ宗教の行事についていかないと白い眼で見られ怒られるかもしれません。会社で「馬鹿正直」と言われるかもしれません。それは仕方がありません。御霊が教えなければ聖書は理解できないので、聖書に基づく考え方と生き方は理解されません。

コリントのクリスチャンたちはこれに同意して、誇りたかったかもしれません。「俺は霊的なクリスチャンだから口を出すな」という態度は、彼らがパウロやアポロを自分の派閥のリーダーとして勝手に選んでいたことでも見えます(1:10-13参照)。しかし、パウロは16節でそれが霊的な判断の間違った定義だと教えます。

「だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

かぎかっこの付いている箇所はまたイザヤ書40章13節を大まかに用いている箇所です。すでに書かれていた通り、人間は主の心を知り、主に役立つ情報を与えられません。しかし、パウロは「しかし」と続けて、10節以降のことを言い換えます。「私たちはキリストの心を持っています。」すなわち、神様が罪人にキリストの心を知る贈り物を下さいました。6〜9節から人間には知り得ない神のご計画を、10節以降の通り、聖霊様がそれを教えてくださいます。それによって人は初めて、聖書を正しく理解し始め、イエス様を正しく見て、罪を認め、イエス様にある赦しと清めを受けることができます(「有効召命」)。

 

ですから、聖書の中のパウロが伝える「知恵」は世界の誰も思いつかない、十字架にかかってくださったイエス様という知恵でした。神様の御霊が教えなければ、誰も気づかない知恵でした。しかし、驚くべきことに、イエス様が十字架にかかってくださりよみがえってくださいました。御霊が実際に教えてくださいます。人の信仰と救いも、また人生を神様のみこころ通りに生きるための判断力は神様の御霊の助けと教えによって、現実となります。

ところが、問題があります。今日の箇所でパウロが主張しているように、コリント人でも私たちでも、神を知る洞察力についても神を人に伝える説得力についても誇ったり競争したりしてしまいます。クリスチャンでなければ、自分の理性に頼って、聖書を批評して、いいとこ取りできると思われるかもしれません。あるいは、クリスチャンなら、口にしなくても自分の霊的洞察力を誇りにしたり、十字架より「深い」真理を聖書で発掘して、「もっと霊的」になろうとしたりするかもしれません。逆に、クリスチャンでない家族や友人をただの論理で説得しようとするかもしれません。これも無駄です。

私たちは福音から「卒業」したり、「より深く」行ったりすることができません。創世記のアダムとエバは、神様に言われたことばを受け入れて、神とともに歩むことより偉い経験ができると思って、逆らいました。バベルの住民たちは、自分から天に向かって進もうと思いました。

しかし、神様は御子を天から送られ、イエスが人とともに歩まれました。新しい天と地に人を入れるために、降りてくださいました。地上の心地よさより慰めを与える永遠の神と、宴会と喜びの永遠をたのしむことを私たちに可能にしてくださいました。そしてその奥義を私たちに悟らせるために聖霊様は聖書のことばで、私たちに「御霊のことばによって御霊のことを」知らせてくださいます。十字架以上の何かに満足せず、この奥義に毎日戻りましょう。十字架はクリスチャンライフの始まりの通過点以上に、クリスチャンが常に立ち戻って深くなって行く中心点です。今週、今まで与えられた福音の理解を誇りとせず、これを下さる神様に感謝しましょう。これをまだ受けていない方がこれを受けられるように、自分の説得力に頼らず、御霊に頼って、祈り求めましょう。めぐみ教会として、常に神の一方的な恵みを喜び、父・子・聖霊の働きに驚き感謝しましょう。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church