2023年7月2日礼拝 説教「支援者のささげ物」

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礼拝式順

前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌254番「主イエスの恵みと御栄とを」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白 Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 聖歌273番「命の泉に」
洗礼式 Baptism マーク・ボカネグラ牧師
転入会式 Membership Vows for Transfer マーク・ボカネグラ牧師
みことばの宣教 Scripture reading ピリピ1章3〜13節、4章10〜20節
聖書の話 Sermon 「支援者のささげ物」

マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美  Response of Praise 教会福音讃美歌122番「主イエスの死なれた」
聖晩餐式 Communion [制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29

マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering
報 告 Announcements
頌  栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

子どもたちに聞きますが「宣教師」はどういう人だと思いますか?宣教師というのは、聖書を知らない、または、クリスチャンが少ない地域へ行って、教会を始めたり、教会を支える働きをする人です。そして、宣教師たちは、多くの場合、色んな教会から支援を受けて、宣教の働きをします。実は、世界でクリスチャン人口の最も少ない国はバングラデシュで、その次は日本なのです。ですから、私も含め外国から来ている宣教師たちは、多くの教会から支援を受け、日本の教会とともに「宣教」の働きをしようと思っているのです。

私たちが今日読んだ手紙は、初代教会の一番有名な宣教師、パウロという人の手紙です。実は、「ピリピ人への手紙」はパウロが支援教会のピリピ教会へ送った「宣教師のニュースレター」なのです。つまり、パウロの働きのために献金してくださった教会にお礼を言うための手紙でした。しかし、お礼の手紙なのにかなりびっくりする内容も書いてあります。もう一つ、子どもたちに質問しますが、宣教師パウロにとって「宣教師」と「宣教師を支える教会」では、どちらが大変だと思いますか?どちらも大変だと思いますが、命を懸けて、色んな迫害と試練を受けながら、鎖に繋がれながら宣教していたパウロはこう言いました。「私はこれほど宣教のために苦しんでいますが、私の苦しみはあなたたちの献金または主へのささげ物の安い飾りです」(ピリピ2:17参照)。宣教師パウロは、支援する教会は宣教師よりも主のために犠牲を払っていると言うのです!どうしてだと思いますか?「ピリピ人への手紙」の初めと終わりをみながら、その意味をもっと深く理解するために、一緒に見ていきたいと思います。今日の話を普段と違う、トピック説教のように、三つのポイントに絞ってみたいと思います。ちょっと極端にポイントを絞ってみようと思いますので、驚かないでくださいね。

まず一点目、宣教師パウロのラブ・ランゲージは、お金です。

アメリカのクリスチャンの間でちょっと流行った「5つの愛を伝える方法」という結婚の為の本があるのですが、その中で、人にはそれぞれ、愛を伝えたり、愛が伝わるための言語や方法があることを教えています。例えば「肯定的な言葉」「充実した時間」「スキンシップ」など、いくつかのラブ・ランゲージ(直訳ー愛の言語)がありますが、宣教師パウロのラブ・ランゲージ(愛の言語)は、極端に言うとお金でした

ピリピ教会から「金銭的な」支えを受けていたパウロが、非常に喜んでいることがはっきりとわかります。ピリピ1:3-5をまず読みましょう。

「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」 (ピリピ1:3-5)

「福音を伝えることにともに携わってきたこと」という表現の原語は「コイノニア」つまり「交わり」という意味です。しかし、「コイノニア」の意味は、祝会のような、兄弟姉妹との楽しい「交わりの時間」を指していません。「コイノニア」の英語での訳は「パートナーシップ」なのです。「コイノニア」は親密な関係を指していて、いろんなことを共有しながら、同じゴールへ向かうような関係です。それゆえ、ビジネスパートナーや結婚相手の関係を「コイノニア」と呼ぶときもありました。パウロとピリピ教会との関係は、福音を伝える「コイノニア」または「パートナーシップ」だとパウロは思っていました。しかし、もう少し具体的な意味もあります。ローマ15:26、2コリント8:4や、2コリント9:13を見ると、教会が兄弟姉妹を経済的に、惜しげもなく支援する行為も「コイノニア」と呼んでいます。そして、ピリピの手紙の終わりを見ると、パウロはこのように書いています。

「それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。」 (ピリピ4:14-16)

「私の働きに関わってくれた」という表現もまた「コイノニア」のことば(語根)を使っています。つまり、パウロとピリピ教会の「パートナーシップ」は、物質的、金銭的なやり取りで成り立ってる親密な関係があると言えるのですが、むしろ、物質的、金銭的なやり取りがあるからこそ、ピリピの教会と深い関係をもっているとパウロは思ったのです。それはなぜでしょうか?

4:14に書いてあるように、支援するとは「苦難を分け合う」ことです。実は、「分け合う」という表現も「コイノニア」が語源なのです。つまり、パウロにとって、経済的に、物質的に宣教師を支えてくれるピリピ教会は、ビジネスパートナーや、結婚相手のように、宣教師の「苦難」を「よく分け合ってくれる」相棒のような存在でした。兄弟姉妹に「祈ってるよ!」「応援してるよ!」「あなたの働きに励まされたよ!」と言われるのは嬉しく思いますが、もしある兄弟か姉妹から「あなたを助けたい。はい、これ。これは私の貯金の半分だ。これを使ってください」と言われたら、応援のことばの重みが変わりますよね?

ピリピ教会も実際そのようにパウロを支援したのです。2コリント8章を読むと、パウロが町々を周り、飢饉を経験していたエルサレム教会の兄弟姉妹のためにお金を集めていたことがわかります。そして、そのとき、まだ開拓したばかりで、ベビークリスチャンしかいなかった貧しいピリピ教会が手を挙げて「パウロ先生、これは私たちの『コイノニア』(献金)です!」と言いました(2コリント8:4参照)。さすがに、パウロも抵抗したと思います。「いやいや。あなたたちは極度の貧しさ(2コリント8:2)と戦っているんだから、結構ですよ」と。しかし、パウロによると、ピリピ教会は熱心に、しつこく懇願したようです。「パウロ先生、お願いですから、献金させてくださいよ。どうして私たちの献金を拒むんですか?先生の言った通りにやってるだけだし、主が私たちを守ってくださることを信じていないんですか?」というピリピ教会の人々の言葉が想像できます。パウロによると、ピリピ教会は「満ち溢れる喜び」をもって「力に応じて、また力以上に献げ」「苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富」を分け与えたのです。しかも、マケドニアの教会の中では、この小さな群れしか献金しませんでした。ですから、パウロにとって、お金そのものや、金額が重要なポイントなのではなく、献金が表す「苦難を分け合いたい」というピリピ教会の人々の思いがパウロの喜びだったのです。

ピリピ教会のように、海浜幕張めぐみ教会の「苦難を共に担いたい」という教会に、皆さんすでに会っています。2月に来てくれたExilic教会。5月に来てくれたKCPC。何人かの個人の支援者もこの教会に来てくれました。しかし、会ったことのない人たちも大勢います。また、失業しながらも献金をささげるご家族。鬱になってしまったのに献金をささげる兄弟。夫が刑務所にいて、一人で家族を支えながら献金している姉妹。十分の一献金をささげながら普通の社会人以上にささげている最低賃金で働いている兄弟姉妹、年金生活する夫婦、貧乏な神学生。私たちもいかがでしょうか?働き人の苦難や兄弟姉妹の苦難を、霊的、精神的なだけではなく、金銭の面においても、どのように、惜しむことなく喜びを持って犠牲的に担っておられるでしょうか。海浜幕張めぐみ教会や日本長老教会に献金してくださっている兄弟姉妹も「宣教の苦難」をともに担ってくださっています。そして、会ったことのない兄弟姉妹に献金することも、もう一つ「宣教の苦難」の担い方でもあります。

次に覚えていただきたい点はこれです。宣教師パウロは、自分の生活のためにお金を集めているのではなく、聖化の実を収穫しようとしているということです。

パウロはお金や、支援金を必要としているわけではないのです。パウロはこう言います。

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 」(ピリピ4:11‐12)

そうであるなら、なぜパウロはピリピに経済的な支援を求めているのでしょうか?

「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。」 (ピリピ4:17)

パウロは「ピリピ人への手紙」の冒頭で、次ように霊的な「実」を祈り求めています。

「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真(じゅんしん)で非難されるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」(ピリピ1:9‐11)

つまり、パウロは抽象的で、見えない「霊的な実」を祈り求めているのではありません。みことばがもたらす彼らの「愛」が成長することを祈り求めているのです。その愛が最も目に見える具体的な形は、兄弟姉妹と働き人を金銭的に惜しげもなくささげて支えることです。

 

それゆえ、パウロはこの「聖化の実」をピリピ教会において、大胆に、また、積極的に収穫しようと思っているのです。なぜなら、この実は「イエス・キリストによって与えられる義の実」であり、もしイエス様が「良い働き」をピリピ教会に始められたのなら、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、パウロは確信していたからです(ピリピ1:6)。パウロがこの実を収穫したいと思っているもう一つの理由は、もし兄弟姉妹が惜しげもなく献金したのなら「義の実」を与えてくださった神様に、栄光と誉れが現されることになるからです。宣教師パウロから見ると、兄弟姉妹の「ささげたい」という心を疑うことは、神様が教会を成長させてくださることへの妨げになるということなのです!パウロはこう言います。「種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(2コリント9:10)

私は、金銭的なサポートをお願いする宣教師として、いつもパウロのずうずうしいとも思えるような大胆さに抵抗を感じていました。「自分の生活のために、身を削りながらも献金してくださる方々に、そのような態度を取るのはちょっと…」といつも思っていました。しかし、ピリピ4:18のパウロのことばにいつもへりくだらされます。

「私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」(ピリピ 4:18)

要するに、兄弟姉妹からの献金をパウロが受け取ったとしても、兄弟姉妹はパウロにささげたわけではないのです。「兄弟姉妹が自分にささげてくださった」という考えた方は、とんでもなく傲慢な考え方です。兄弟姉妹はイエス様にささげ物をささげているのです。

そして、そのささげ物は、当然のことながら、苦しみをもたらし、犠牲を伴います主が喜ばれる良いささげ物とは、むしろ、大きな犠牲を伴い、何の益にもならないようなささげ物なのです(例:全焼のささげ物)。そのため、パウロは「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」(ピリピ2:17)というのです。要するに、世界宣教を支えること、御国の前進のためにささげることは、大きな犠牲を伴い、自分の益にはならないけど、神様を喜ばせる最高の芳ばしいささげ物になると言っているのです。そして、迫害を受けていた宣教師パウロは、自分の苦難などは一番安くて、取るに足らないような「注ぎのささげ物」であると言います。そして、それは、ピリピ教会の芳ばしい最上のささげ物の上に添えられる「飾り」に過ぎないと言うのです。それゆえ、宣教のために献金を集めることは、兄弟姉妹にとっては非常に大きい犠牲を伴うことになるのですが、パウロにとっては、主への最高のささげ物である「聖化の実」を収穫するということなのです!

私たちも、イエス様の花嫁として「義の実」を実らせ、成長したいでしょうか?もし、そう思うなら、御国の前進のために、世界宣教のために、地区教会のために、犠牲的に、惜しげもなく、喜びをもって、主にささげ物をささげてみてください。そして、パウロはこう言います。「ささげることを恐れているのであれば、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 」(ピリピ4:19参照)

最後に覚えていただきたいのは、ピリピ教会が模範としていたのは、すべてをささげられた最高の支援者、イエス・キリストだということです。

誰にとっても、犠牲的に惜しげもなく、喜びを持って主にささげるということは、非常に難しいことだと思います。しかし、忘れていけないのは、ピリピの教会、パウロは、単に心が優しいからささげることができたのではないということです。彼らは、イエス様の犠牲を仰ぎ見て、ささげたのです。

今の時代で考えてみると、教会自体が「天からの宣教師」だとしたら、教会の支援者はイエス様だとも言えます。

イエス様はただただ「祈ってるよ!」「応援しているよ!」「頑張って!」と言って、12人の弟子たちやこの教会を宣教に派遣されたのではありませんでした。イエス様は、教会と「コイノニア」という親密な関係を持ち、すべてを共有する関係を保たれました。そして、イエス様は、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、【教会】を自分よりすぐれた者」(ピリピ2:3)として愛され「神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり… 人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで従われました。」 (ピリピ 2:6-8) その結果「主は富んでおられたのに、【私たち】のために貧しくなられました。それは、【私たち】が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9) つまり、イエス様は、ピリピ教会以上に、宣教のために「富み」を教会にささげられ、ピリピ教会以上に貧しさを経験されたのです。イエス様は、花嫁である教会の苦難を共に担ってくださいました。教会の膨大な借金を自分のものにされ、永遠のいのちを獲得するための「義」をすべて支払ってくださったのです。極端に言いますと、イエス様が教会に御自分の愛を伝える方法ーラブ・ランゲージーお金なのです。なぜなら、それは、具体的に見え、重みのある愛だからです。

しかし、イエス様はすべての富みを教会にささげられたのではなく、御父にささげられたのです。それは、宇宙の中で最も高価で、最も御父を喜ばせるささげ物でした。なぜなら、それは、最も犠牲の大きいささげ物だったからです。また、そのささげ物は、イエス様ご自身にとっては何の益にもならないものでした。けれどもイエス様は、最高の愛で、ただただ御父を褒めたたえ、教会を祝福したかったのです。

このように、私たちは一人一人のクリスチャンとしてイエス様から「支援」されているのです。私たちの最高の「富み」は私たちのお金、私たちの時間などではありません。私たちが受けた「霊的な祝福」でもありません。「コイノニア」という深く、親密な関係をイエス様と持っていることこそが私たちの最高の「富み」なのです。そして、イエス様が教会を支援される目的は、教会に「収入」を得させるためではなく、教会の愛を深いものにするためなのです。教会が神様の御栄光を現すためなのです。聖化の実を収穫するためです。それゆえ、すべてのものを惜しげもなく、犠牲的に、喜びをもってささげ、パウロとピリピ教会と共に、一緒にこのように告白しましょう。

「 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:7‐9)

お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church