礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。
For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.
礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 98篇5〜9節 |
さ ん び | Opening Praise | 「詩篇100篇」 |
さ ん び | Praise | 「素晴らしい主Goodness of God」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌4番「父なる神 力の主よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 3章1〜4節 |
聖書の話 | Sermon | 「ふさわしくない人のための望み」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇23篇より
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | デイビッド・キム宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
皆さんは、家族や学校、その他に入っている集団のために良いことをしたいと願っていると思います。褒めてもらいたいでしょう。子どもも大人に、「よくできたよ」と言ってもらいたいですね。私たちは、大切な人が誇りを持てるように、また、ともに成功を楽しむために頑張ると思います。日本では「真心を込めて」自分の集団を代表するように学びます。幼稚園や学校の運動会で自分のチームを。親戚に対して自分の家族を。競技の大会で自分の学校または国を。与えられた立場にふさわしいことをしようとするのです。多くの場合、これは素晴らしい結果に繋がります。もう一方で、ときに私たちは家族、学校などに恥をかかせてしまったと思うことがあるかもしれません。自分の年齢や立場にふさわしくないことをしてしまったことがあるかもしれません。
パウロが書いている手紙では、相手であるコリント人クリスチャンたちは、自分がだれを代表しているか意識しないで、自分勝手に生きていました。自分はとても偉い「霊的」「成熟した」クリスチャンだと思いたがっていました。そして「彼女より・彼より自分が偉い」と思いたがって、競い合いました。分裂もしていました。彼らは自分たちがだれによってクリスチャンとなり、どの集団に加えられて、だれを代表しているかを真剣に考えていませんでした。結果として、自分をはじめ、教会全体に辛い思いをさせるように振る舞っていました。
パウロは彼らを「よくできてたよ」と褒めることができません。彼らの自慢する「霊的」「成熟した」というようなラベルをはがして、自己中心が信仰にふさわしくなく、見合わないと気づかせようとします。厳しく非難しますが、これは同時に、神の大きな恵みを前提として、恵みによって生きるための忠告です。ともに見て、これは自分たちとどう関係があるかを考えてみたいと思います。
まず、第1節。
兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
この箇所の解釈はやや難しいです。パウロは今までの教え方を振り返って、コリントの教会員が期待を裏切ってきたことを嘆きます。解釈の問題としては、質問を聞くことができます。ここの人が本当にクリスチャンなら、なぜパウロは彼らを「肉の人」と呼ぶのでしょうか。特に3節ではそう言っています。その箇所へいく前に、1節はその理解を助けてくれます。
まず「肉」は聖書では、文脈によってはいくつかの意味合いがありますが、ここでは、人間の物質的体として、人間中心的とも言えます。罪深い、とも言えます。「肉の人」と「肉に属する人」は同じこと、すなわち神様に逆らう性質、自分のために生きる性質が中心となった人のことです。
パウロが語っている「御霊に属する」クリスチャンと「肉に属する」クリスチャンは二つの異なった「段階」あるいは「階級」のクリスチャンだと考える人もいらっしゃいます。パウロは確かにコリント人たちを「肉に属する人に対するように」と、「まるでノンクリスチャンかのように」扱っているのですが、コリント人たちを本当の信者として認めています。実は、彼らは根本的に肉に属さない人たちです。1章2節の挨拶では、こう書かれていました。
コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々…。
コリント人たちが「コリントキリスト教会」の中で派閥を作り、だれがより良いクリスチャンかを主張しあっていました(1:10-13、3:4参照)。霊的に強くて偉い人とそうでない人がいることを前提にして争っていました。しかし、パウロはその考え方に反論しています。
前回の2章6節で見たように、「成熟した」人たちは「未熟クリスチャン」と別にある「成熟クリスチャン」のグループではありません。むしろ、神様が伝えてくださった十字架の奥義の知恵を受け入れるすべてのクリスチャンのことです。反対の「未熟」、言い換えれば今回の箇所の「肉に属する人」は、御霊を受けておらず、福音を受け入れられない人のことです。本来、全ての人は「肉に属する人」です。3章4節で「ただの人」です。そして生まれながらに神様のみことばを拒み、自分を高めたいと思う野心があります。つまり、聖書で言う 「罪」を持つ人です。
イエス様を知り信じ、従うことは恵みのみによってできる、神様からの贈り物です。パウロは一つの信者のグループだけを見ています。2段階や2階級に分かれるクリスチャンを言っていません。単純にクリスチャンとして「成熟した人」「御霊に属する人」であるにもかかわらず、「肉に属する」かのように生きているゆえ、パウロは彼らをそうであるかのように扱う他はなかった、と言っているのでしょう。
「肉に属する人」と似た表現として、パウロは次に「幼子」を用います。2章6節の「成熟した人」ともちょうど対照的な表現ですが、「肉に属する」とペアとなっているので、ただ「子どもっぽい」とか「子どもらしい」ではなさそうです。悪い意味で、聖霊様によって変えられて歩んでいるはずなのに、神様のことを理解できないという意味合いです。幼子の理解力がまだ足りないように、霊的な理解力が足りないのです。
誤解させないように念のため申しますが、幼子が神様のことを理解できないということではありません。大人が子どもを見て「まだ福音を分からないだろう」と思っても、御霊の助けにより、理解できるかもしれません。相手の理解力に合わせて、神様の正しさとイエス様にある恵みを伝えれば良いです。
しかし、コリント人たちがパウロの宣べ伝えた福音を信じてクリスチャンとして歩み始めたのに、福音が求めるへりくだりを無視して、偉くなろうとしていました。彼らは十字架につけられたキリストの良い知らせを中途半端に受け止めていました。だから、パウロは彼らを幼子かのように、まだイエス様を信じていない人々かのように扱って、そのような描写をしています。
2節でその問題を別のたとえでパウロは表現します。
私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
パウロは「未熟なクリスチャンには乳を、成熟したクリスチャンには固い食物を」と書いているよりもっと深刻なことを言っていると思います。コリント人クリスチャンたちは福音を消化しきれず、世の自己中心さという毒入り食物を食べていましたから、まだ福音の乳を飲んでもうまくいきません。
皮肉なことに、パウロは十字架の弱さが見下されているが神の力と言いました(1:18-24)が、コリント人たちもそれを見下して、他のことで霊的強さを誇ろうと思っていたました。ですから、強いと自負する彼らには固めの、より難しい「食物」の消化が「無理」、消化する強さが足りないとパウロは指摘します。それゆえ、3章1節でパウロ自身は彼らに「御霊に属する人に対するようには語ることができず」(「無理」と同じ語)にいたのです。コリント人クリスチャンたちはクリスチャンとして受け入れて消化できるはずのものを受け入れることができなかったほど「弱い」人でしたから、パウロは彼らに合わせて、いわゆる「乳」をあげ続けていました。
パウロが3節で「あなたがたは、まだ肉の人だからです」と言うのは、その問題が続いていたからです。パウロはコリントのクリスチャンたちの態度に疲れていたと思います。彼らはいつまで「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(2:2)の逆説的な「奥義」(2:7)を軽んじて、他の道で霊的立場を追求して争うのか、というもどかしさが伝わります。すでにお話ししたように、コリント人たちは神に逆らう人から御霊に属する人には変えられましたが、彼らの生き方からすると、まだ肉の人かのように扱う他はないとパウロが嘆きます。
さらに、3章3節後半でパウロは「あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか」と厳しく、残念そうに言います。「霊的な人」だと自慢していたように見えるコリント人たちは、御霊にまだ変えられていない「ただの人」のように見えました。
コリント人のクリスチャンたちのように、クリスチャンであっても神と人を愛することに励まず、罪について呑気になってしまうことがあります。神様からいただいた立場、きよさ、愛を当たり前と思って、感謝の応答として出る、見合った考え方や生き方を無視して、それまでの価値観で自分勝手に生きることはできます。しかし、それは神の民、神の家族であるクリスチャンにとしては大きな無礼となります。信仰に見合わない歩みです。「コリントの教会の兄弟姉妹は本当にクリスチャンなのだろうか」とパウロが疑問に思うほどに、コリント人教会の人々が争って、教会の中の愛を乱している状態でした。
パウロは4節で、1章10〜12節ですでに言及した事例に戻って、今日の箇所の問題の証拠としています。
ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
使徒パウロ自身は「あ、私も人気者だ。やった!」とも、「後輩アポロに人がついていく。腹立つ!」とも言いません。神学的議論でアポロとパウロは対立している訳でもありません。単純に、そのような派閥作りにある競争があるのは、3節の「ねたみや争い」の証拠です。そしてパウロは悲しみながら、これを指摘します。「あなたがたは、ただの人ではありませんか」は3章1節の「肉に属する人、キリストにある幼子に対するよう」や、3節の「あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」の繰り返しです。神様がくださった恵みによって愛し合って成長する兄弟姉妹の教会のはずです。しかし、競い合う兄弟姉妹の派閥の教会となってしまいました。だから「ただの人」すなわち御霊を受けていない未信者のように見えて、パウロは彼らをそうかのように扱わざるを得ないと嘆いて、忠告しています。
今日は短い箇所にしましたが、大きな問題が取り上げられました。コリント人クリスチャンたちも現代の私たちクリスチャンも、父・子・御霊の働きによってクリスチャンとなり、神の家族に入れられました。そして神の子として神様を代表します。膨大な憐みを受けて、大きな責任を持っています。パウロはコリント人クリスチャンたちに、彼らが追求している霊的地位はクリスチャンの名にふさわしくなく、見合わないことを指摘しました。なぜなら、自己中心で生きていたからです。具体的に、彼らは教会の中に地位と富と人脈を大切にする競争社会の価値観をもって、自分たちの栄光と立場を求めていました。その結果として、分裂が起きていました。
感謝なことに、海浜幕張めぐみ教会はコリント人教会のような分裂には陥っていないと思いますが、似た問題が起こりうります。コリント人たちほどの表面上の問題がなくても、私たちにも「ええ、クリスチャンなのにそんなことするの?」と突っ込まれることがあるかもしれません。
もっと言うなら、どの罪でも、それは三位一体の神様の名前を洗礼で受けた者が、主の御名を「汚し、あるいは、みだりに用いること」になってしまいます(十戒の第3戒・ウェストミンスター小教理問答の答え55番)。パウロやアポロの名を使って他のクリスチャンと差を付けようとしていたコリント人クリスチャンたちは神の栄光でなく、自分と人間のリーダーたちの栄光に集中して、主の祈りの「御名が聖なるものとされますように…国と栄え力はとこしえにあなたのものです」に逆らいます。「肉に属する人」かのような、失敗だらけの者です。
残念なことに、時々クリスチャン同士はお互いの罪を見て「クリスチャンらしくない」と非難して、神様の恵みに触れずに諭そうとすることがあるかもしれません。しかし、パウロは3章1節の最初のことば「兄弟たち」で違う態度を示します。神の家族メンバーとして恥ずかしいはずのコリント人たちをまだ「兄弟姉妹」として愛して、認めています。
コリント人の信徒たちのように「私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」(第一コリント1:2)を覚えていてください。私たちは実は、神の御名をみだりに用いてしまったことについても、きよくしていただくことができます。
御霊によって、私たちはイエス様に信頼して、キリストを呼び求めていますか。御霊によって、今も残っている罪を捨てて、神の栄光のために生きたいと願いますか。ヘブル人への手紙の著者はこう書いています。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)
イエス様は神のご栄光を表すために、十字架の辱めをどうでもよいと思って、その苦しみと侮辱の先にあった喜びを目指しました。信者に必要な義を生きて、完全な愛の人生を歩まれました。罪人の身代わりとして刑罰と死を忍ばれました。さらによみがえり、天に昇られ神の国の王座に着かれて、罪人の心を変える御霊を遣わしてくださいました。
神様は、私たちが「社会人として、クリスチャンとして恥ずかしい、ふさわしくない」ことをご存知なのに、恵みを差し伸べておられます。私たちがまた神の名を恥にさらしてしまうことがあるとご存知ですが、イエス様にあって義と聖と贖い(第一コリント1:30)をくださいます。私たちは運動会で、学校で、会社で、近所付き合いで、家庭内で恥ずかしいことをしてしまったかもしれません。教会の友だちに知られてほしくないことをしてしまったかもしれません。しかし「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでい〔ましょう〕。」主イエスに自分の恥ずかしい失敗や神の子にふさわしくない罪のことを委ねましょう。神様と神様の教会を恥にさらしてしまったとしても、私たちの誇りと望みはイエス・キリストです。