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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 150篇1〜2節 |
さ ん び | Opening Praise | 「ハレルヤ神の聖所で」 |
さ ん び | Praise | 「キリストが全て All I Have Is Christ」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 230番「確かなもとい ただ主に置き」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 1 Corinthians 3章5〜17節 |
聖書の話 | Sermon | 「神の教会と神の働き人」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 355番 「私の望みは」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
黙 祷 | Silent Prayer | |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
ほとんどの親は必死に頑張って、子どもに良いことをしようと思います。ここにいる子どもたち、あなたの親はすばらしい人だと思いませんか。おいしい食事を作ってくれると思います。教会や教会学校に連れて来てくれます。色々教えてくれると思います。すごく力強いと思います。親になった今、自分の親の労苦を感謝します。けれども、親にできないこともたくさんありますね。親も失敗してしまいます。だから神様が最高の「天のお父様」です。
今日の聖書箇所では、使徒パウロが牧師や宣教師のような人は私たちの親のような者だと言っています。要するに、神様が私たちにくださった、大切な人です。けれども、できないことがたくさんある人です。悪いことをしてしまうときもあります。そして、本当にすばらしいのは神様だけですよ、とパウロは今日、訴えます。神が働き人を用いて、教会を始めて、大きくさせて、元気にさせてくださるのです。
今日の話では、パウロは教会の牧会者や伝道者の役目を取り上げます。今日、まとめて「働き人」と呼びましょう。教会の全ての会員は、教会の貴重なメンバーですが、役目は色々です。神は、教会の始まりと成長のために、ある人を聖書を宣べ伝え、祈り、教会をキリスト中心に成長へ導くようにお選びになりました。エペソ人への手紙4章11〜13節に書かれているように、「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」(12節)。前に立って導くばかりではなく、むしろ一人一人がともに動くために整えようとする「裏方」としても立たされました。ただ、コリントで牧会者や伝道者の評価が狂ってしまって、今日の箇所が書かれました。
復習になりますが、パウロは使徒でした。聖書の記述によると、彼は現代風に言うと宣教師、教会開拓者、牧師の役割を代わる代わる担いました。コリントの教会を開拓した人でした。アポロはパウロの後に、コリントの教会を励まし支えた次世代伝道者でした(使徒18:24-19:1)。
コリントのクリスチャンたちは、パウロとアポロのどちらが偉いか、そして自分たちはどちら側に立てば偉いかを競い合っていたそうです。働き人を対立しあう者かのように、彼らの名を利用して、勝手に「肩を持つ」ようにしていました。そして、優位な方につく者も霊的に高いと思っていたそうです。パウロは第一コリント3章4節でその様子を描きました。「ある人は『私はパウロにつく』と言い、別の人は『私はアポロに』と言っている…。」
しかし、パウロは強く反論します。
アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5節)
アポロとパウロは神様が選ばれ用いられたゆえ、コリントの教会にとって非常に大切な二人でもありました。しかし、ただの人間、ただ主なる神が用いてくださった「奉仕者」(「仕える者」、別文脈では「執事」)でした。一方で、過剰評価、もう一方で、過小評価も禁物です。一方で、使徒や後継の牧会者を自分のマスコットや代表にするのはおかしいです。もう一方で、働き人がみことばを伝えに行かなければ、彼らはみことばなしに、神に罰せられます(ローマ10:14-15参照)。「主がそれぞれに与えられたとおりのことをした」ので、それぞれは得意なことも違いましたが、それぞれはコリント教会の始まりと成長のために用いられたわけです。
6節からパウロは今日の箇所の一つ目のたとえを描き始めます。一つ目は農業のたとえです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6節)
植物を育てて野菜を収穫する前に、農業のステップがあります。種や苗を植える段階もあり、水をやる段階もあります。そして徐々に、あるいは突然、植物が成長します。実もいつか、成ります。ただし、農家にできるのは肝心の成長以外のことです。「成長させたのは神です」はこのたとえでは、信仰と教会の成長についても言えます。最初に「種」を植えたのは開拓者のパウロでした(使徒18:1-11)。後からコリントのクリスチャンたちを手伝って励ましたのはアポロでした(使徒18:27-19:1)。しかし、究極的に、十字架につけられたキリストの知らせを理解させ、信じるように導いてくださったのは、御霊なる神様でした(第一コリント2:6-16、ウェストミンスター小教理問答第31問参照)。その結論は7節です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7節)
ここはもう一度、コリント人たちの働き人に対する過剰評価について注意を呼びかけます。
パウロとアポロのような働き人は、あくまでも神により頼んでいるだけの奉仕者であるのですが、実は協力し合っています。「植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き」ます(8節)。それぞれは働いた分について「報酬を受けるのです」(8節)。そして9節は8節前半を展開します。「私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑…」パウロとアポロが一つであり協力しあっている「同労者」です。競争していません。そして、彼らは神の所有、また、しもべです。さらに、コリント教会も神の所有です。そこにだれが働くかは雇用主である神様の決断です。パウロとアポロは賜物も異なるし、コリントで働いた時期や教えのスタイルが違います。しかし、それぞれは神様に対して責任を負って、報酬を受けます。コリントの人々の間で、だれが人気かは関係ありません。神に忠実かどうかが重要です。
パウロは二つ目のたとえとして、建築に移ります。9節最後からです。「あなたがたは…神の建物です。」パウロは農業のたとえより、さらに複雑なたとえで語ります。
私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
パウロは10節で自分とコリント教会、そして他の働き人との関係を説明します。
私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。
ここの「建築家」を、特に技能のある建築家、あるいは主任の建築家と訳すことができますが、パウロは自分の宣教技術を威張らず、謙遜に「自分に与えられた神の恵みによって」責任を受けて、「土台を据え」、次の作業は他に任せると言います。「他の人」は例えばアポロを含むでしょう。
次にパウロはこの比喩で、10節最後から15節まで、注意を挟みます。
しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(10-11節)
パウロの大きなポイントは、まず、土台がただ一つしかなく、それは「イエス・キリスト」であることです。もしそこから始めなければ、何も意味がありません。農業のたとえでは、成長は神様のみにかかっているという側面が強調されました。今回、教会建設、その成長の基礎はキリストであるという強調があります。
しかし、働き人は、大変大きな責任を負っていることも次に書かれています。
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
これは第一に働き人への注意です。しかし、どのクリスチャンも教会と関わっていますし、生活全体においても、ここに書いてある原則によって歩むことが大切です。
まず、教会の土台はキリストですが、働き人はパウロのように、続けて十字架につけられたキリストを教え、また、キリストを愛し続けるのかどうかが非常に大切です。地道な聖書宣教より、手っ取り早く調達できるプログラムや印象深い性格などという「建材」で教会を大きくし、影響力を増し加え、社会に認められようとする誘惑があります。また、非常に悲しいことですが、人に傷をつけても構わない、悪い働き人も時々います。最終的に、聖書でよく言われる審判の「その日」に、王なるイエス・キリスト様が地上に戻られ、敵を打ち倒し、世を裁かれます。働き人に限らず、全人類の一人一人の本性がその日「明らかになります」。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(第二コリント5:10)
だれも、これを避けられませんが、教会の働き人は特に注意を払うべきです(第一テモテ4:16参照)。使徒ヤコブが忠告するように、「教師は、より厳しいさばきを受けます」(ヤコブ3:1)。
イエス様の「その日」には、働き人の本当の実績が全部明らかになります。本当に神が喜ばれる方法で、神に喜ばれる祈りをもって働いたのか。そうでなければ、何らかの形で「その人は損害を受けます」。どの働き人にも、後悔する実績はあるでしょう。
ただし、働き人の救いは、他のどの信徒の救いとも同じ土台にあることで私たちは安心できます。人の救いはあくまでも、土台なるイエス・キリストが成し遂げてくださった完全な義と贖いのゆえであるので、私たちの行いは、当然イエス様の栄光を現すものであるべきですが、それで神に受け入れられるのでもなく、罪のために損害を受けても「その人自身は…助かります」。神が、罪ある人をキリストのゆえに、人の信仰のみによって、義と認めてくださいます。
パウロは最後に、16・17節で建物の建築のたとえをもっと掘り下げて、これは具体的に宮、神殿だと言います。
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。
働き人はもはや登場せず、神様とその宮の関係だけに集中した話になります。
聖霊様が教会の共同体の内におられるのですから、これを聖なるところ、つまり「神の宮」としてくださいました。当時のギリシャやローマの神殿には、その神殿を神聖なところにし、どの神のものか分かるように偶像が置かれていました。霊的な宮である「あなたがた」、すなわち教会の共同体は、御霊によって聖別され、アイデンティティーを持っていました。
しかし、これを壊す(滅ぼす)人とはだれか。破壊する指導者もいるかもしれませんが、コリント人たちも、それを自己中心的な理由で分裂していました。言い換えると、神様が好きなように働き人を用い、主人公であり信仰と成長をくださるのを無視して、自分たち、そしてパウロやアポロに目を注いでいました。キリストが、弱さと恥の象徴である十字架にかけられて、教会の堅固な土台を造られたことを無視して、人間的な力と誇りを求めていました。聖霊様によって聖別されていることを無視して、聖霊様の住まいにひび割れを入れていました。
コリント人の教会員自身が神の宮を壊そうとしている犯人でした。個人の自慢ために、神の家族という共同体が、自滅しそうになっていました。パウロは深刻な警告をしていました。
私たちは今日のたとえから何を学べるでしょうか。今日の箇所には色々な警告がありました。
①農業のたとえで、教会成長の源は全て神であると学びました。神は「農夫」を選び、雇ってくださいますが、彼らは協力しあい、補い合う同労者です。ですから、働き人を過剰に評価して、コリント人のように、派閥のマスコットにするのはいけませんし、逆に不要なお手伝いさんとも思ってはいけません。
②建築のたとえで、教会成長の土台はキリストのみであると学びました。「建築家」はとても大切な作業として、キリストが教会の土台となるように教えなければなりません。そして建物を建てて「増築」する人は、キリストから離れない、しっかりした構築をしなければいけません。
③建築のたとえの延長である「神の宮」に関する忠告から、聖なる御霊が信徒の中に宿ってくださり、一つの共同体として聖別してくださることを知りました。そして、この教会を取り壊すような人には大きな罰があると告げられます。
この警告を聞いて、聖霊様の働きによって、神様や人に対して罪を犯したと気づいたら、悔い改めて、神や人と和解を求めるようにこの箇所は教えています。しかし、この箇所が、私たちにキリストにあって与えられた希望をも示唆します。今日の箇所の働き人を、親のように大きな存在として見てもいいですが、彼らは主人公ではありません。彼らの行いに望みがかかっているのではありません。彼らも必ず失敗します。ですから、「しなさい」という「律法」を受け止めながらも、「神があなたのためになさった」ことの「福音」を思い出していただきたいです。
神様は三位一体として、一致して救いを人のために成し遂げたと言われますが、この箇所もそれを、順番に表しています。この箇所の主人公は、教会と働き人の救いの神です。
①「成長させたのは神です。…私たちは神のために働く同労者…。」(第一コリント3:7・9)父なる神は「畑」なる教会を愛し、働き人を任命してくださいます。彼らにみことばの種まき、水やりをさせます(マルコ4:14-20参照)。そして神が成長させてくださいます。
②「土台とはイエス・キリストです。」(第一コリント3:11)。子なる神イエス・キリストは、教会を愛し、そのためにご自分の血をもって贖ってくださり、導く働き人を任命されました。それによって、土台となってくださいました(使徒20:28、エペソ2:20参照)。働き人は罪人であり、失敗を犯しますが、働き人であろうがなかろうが、イエス・キリストの土台は揺るぎません。
福音を今まで受け入れなかった方でも、自分の人生の土台をイエス・キリストにすれば、究極の裁きにあわないと約束されています。イエスは、信じる者に新しい天と地に入る資格「義」をまとわせてくださいます。共に、イエス・キリストを土台としましょう。
③「自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられる…」(第一コリント3:16)。御霊なる神は罪人をきよめてくださり、以前、関係なかったかもしれない個人を「神の聖なる宮」に変えてくださいました。そして、教会が壊されないように気を配り、守る保証をしておられます(創世記12:3、第一コリント6:11参照)。
ですから、会衆の皆様、恐れと感謝をもって、この箇所を覚えましょう。警告も約束もあります。働き人のために祈り、彼らが聖書に沿った方法と建材で、教会建設に励むように祈りましょう。私たちが、ともに神の聖なる宮として生きるように祈りましょう。そして、福音を覚えましょう。父・子・聖霊のひとりの神が全てを成し遂げて、教会を成長させてくださいます。最後の日の裁きでも、私たちを歓迎してくださいます。覚えつつ、今週も教会として歩みましょう。