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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | イザヤ書 Isaiah 55章1〜2節 |
さ ん び | Opening Praise | 新しい命 |
さ ん び | Praise | 驚くなかりの~罪とがを自由にされて
Amazing Grace (My chains are gone) |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 303番「かいぬしわが主よ」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 1 Corinthians 3章18-23節 |
聖書の話 | Sermon | 「十二分の恵み」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美322番 「こひつじ主イェスの」1-4番 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇23篇より
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | デイビッド・キム宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
想像してみてください。友だちと一緒にパーティーをしています。そして一つのケーキが出て来ます。皆がそれを狙って、喧嘩をし始めます。子どもだったら「僕は年上で大きいから、大きいのを頂戴!」「私の誕生日だからここがいい!」などと言い合うかもしれません。なぜ自分がもっと食べるべきかを、自慢して主張しながら争います。大人は、食事会でさすがに「私は他の人よりもっといい成果を出しているからお肉の大半をよこせ!」と声に出せないと思いますが、心の中で、職場の競争相手や近所の人に対して似たような思いはあったかもしれません。
あるいは、聖書の最初の罪を思い出してください。アダムとエバはエデンの園で、禁じられた一つの木の実を食べようと思いました。正しいことと悪いことを自分で決めようと思って、神に逆らいました。蛇が彼らに誘惑を仕掛けた時、こう誘惑しましたね。「神様はあなたたちを、そこまで愛していない。良いものを与えたくないから、ケチってこの木を禁じたよ。」そういう疑いを投げかけると、エバもアダムも食べてしまいました。
パーティーとエデンの園の二つのエピソードでは、同じ問題があります。人は、相手が与えてくれるものは足りない、また相手が十分にくれないと思い込みます。不足があると考えます。したがって、自分で手に入れないといけないと思ってしまい、奪い取ろうとして、問題が起きます。しかし、その考え方は、聖書の神様を根本的に見間違えています。今日の聖書箇所で、神から来る贈り物のすばらしさを考えたいと思います。今日の箇所の結論は真ん中にある「ですから、だれも人間を誇ってはいけません」(21節)ですが、これを支えるためにパウロは二つのことを指摘してくれます。これを見て、自分たちにも適用してみたいと思います。
パウロは第一コリント1章10節から続けて、4章終わりまでコリント人クリスチャンたちに教会内の分裂の愚かさについて気づかせようとしてきました。今回は、ここまでの主張のまとめとクライマックスと言えます。
18節でやや突然、接続詞なしで以前の話から切り替わります。以前は、教会の牧会者に焦点を当てましたが、パウロは今度、全ての聞く人に注意を呼びかけます。「だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。」逆説です。コリントの教会の中に、自分は他の人に教えられるほどに成長した、優しく、顔が広いなどと自負する人がいたそうです。パウロ、アポロ、ケファなどと優れた指導者につくと主張して、影響力を増したと高慢になっていました。教師になりたがる人もいた可能性もあります。しかし、パウロが言います。本当に知恵を持つ者はまず、自分が無知だ、何かを誇る資格はない、と認める必要があります。
現代のクリスチャンも、これに気を付ける必要があります。クリスチャンでない方を見下せば、私たちは神からいただいた知恵に背いています。他のクリスチャンは聖書の知識や神学の理解が自分より浅いと見下して、愛さないなら、私たちが教会として名乗って、知っているはずの「めぐみ」に背いています。
ソクラテスなど、哲学者は「知恵のある者となるために愚かになりなさい」と似たことを言うことがあります。しかし、パウロが書く「知恵のある者となるために愚かになりなさい」は文脈が特別です。19節がはっきりと、知恵は聖書の神の前で、神との関係において求めなければならないものだからです。「なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。」クリスチャンになる前の人は、神との関係を中心にしないため、世の知恵で十分だと考えます。世の常識によって「評判」や「成功」を作りあげて、他の人に教えて影響を及ぼせるなら誇ることができます。しかし、神は単独のそういう「知恵」を愚かさと見なされます。
神の定義からすると、チャットGPTは情報を検索し編集する優れたシステムかもしれませんが、知恵があるとは言えません。新聞、テレビやインターネットも豊富な情報源かもしれませんが、そこに潜む偏見や主張に知恵があるかは別問題です。学生でも知識人でなくても…知っていることの知識が沢山あるだけで、知恵があるのではありません。知恵は、知識や問題解決を神との関係の中で整理できるかに懸かっています。人間関係の問題や社会問題を解決する発想や、芸術の美には、ある種の英知はあるかもしれませんが、神様抜きで、それによって自分は知恵があると言えるとは限りません。逆に、神様の助けが必要と認めながら、聖書の原則で人間関係や他の問題、課題と向き合うなら、本当に神が認める知恵を受けられます。日常の課題について、聖書が教える原則をへりくだって当てはめてみることをお勧めします。
と言うのも、パウロは旧約聖書の二箇所を引用して、世の知恵の深刻な問題をはっきりさせます。19節の「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」は、知恵の書物ヨブ記5章13節から来ます。自己中心の目的で悪巧みを企てても、拠り所にしても、神様はそれを覆してしまいます。
20節は「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」という詩篇94篇11節を引用します。人間が作り出したり、発見してきた文明の英知、芸術、技術、医療、アルゴリズムは、最も重要な定義、つまり神様の定義によると、空虚なものです。究極のところ、全く意味はありません。神を拒む「世間」からすれば、神の教えは古く、自分とは無縁な愚かなものだと言われます。しかし、それは本当に最高の権威でしょうか。最高の権威が神であるなら、神のお考えこそが高く、深く、意義あるものです。
神が人間の知恵のむなしさを指摘した18〜20節を踏まえて、パウロはこう言います。「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。」(21節)1章30〜31節でもパウロは同じことを、逆の言い方で言いました。
30 キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。 31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
人間が誇る知恵は自分を欺くものです。しかし、自分の誇りを捨ててイエスを心の拠り所と誇りにする、つまり信じるなら、イエスは私たちが神様に歓迎される資格の義と聖と贖いの源となって下さいます。人間でなく主イエスを誇りとするなら、イエスの十字架を誇ることになります。そうならば、もちろん、自分に知恵や力があると誇ることはできません。1章20〜25節、2章2〜9節によると、十字架は人間の無力と無知を露わにします。イエス・キリストがそこまで苦しまなければ、私たちは罪の刑罰から贖われないほどに、望みのない者だからです。十字架は、人間の知恵と力が、神との関係のために役に立たないことを世に示す反面で、一方的にその関係を築く力ある土台です。
18〜20節をまとめますと、コリント人たちの自慢、つまり神に頼らない世の態度に対して、神はそれを愚かなものとして扱われるとパウロが指摘します。十字架で死なれたイエスによって、私たちの誇りを全て取り払い、へりくだるように招いてくださいます。人間を誇らないように、ただ神様のあわれみによって平安を持つように招かれます。
世の評価によって知恵を誇ろうとしないように、パウロは21節後半以降、もう一つの指摘をしてくれます。
21 すべては、あなたがたのものです。 22 パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、 23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。
以前にも触れましたが、コリントはとても繁栄しているが、格差の大きな都市社会でした。彼らは資源が不十分の中で、自分の受ける分を広げようとすることを当然と思いました。教会にこの考えを持ち込むと、神の知恵と助けは大小の部分に分けられ、それを取り合う競争社会が必然と思っていました。パウロかアポロかケファか、自分たちの好きな指導者の名を掲げて影響力を大きくしようとしていました。
しかし、その根底には不信仰と恐れがありました。要するに、コリント人クリスチャンたちは、神様が十分に豊かな恵みを用意していないから、それぞれ取れるだけ取って競い合う教会を想像して作っていました。神の愛は当てにならず、自分で祝福への道を切り開くしかないという態度を、意識していなくても取っていました。
しかし、パウロは言います。「すべては、あなたがたのものです。」キリストにあって、すべてのクリスチャンは神の豊かな恵みを全て受けています。そして仮に「パウロ…アポロ…ケファ」を通して得られる教えが少しずつ特色があっても、それは全部、クリスチャン全員に与えられています。同じ福音であれば、それを教える人で分ける必要がありません。
ちなみに、私は長老教会の聖書信仰と理解を、大切な、聖書に忠実な、素晴らしい遺産だと思います。海浜幕張めぐみ教会の共同体は素晴らしいと思います。しかし、他の教派、教師、クリスチャンから学べることが何もないはずはありません。人の言うことが聖書全体に合致するか、パウロのようにキリスト中心であるか(第一コリント2:2・3:11参照)を吟味すれば、見習えることがあるかもしれません。また、他のクリスチャンから見たり聞いたりすることの中で気になることがあれば、遠慮なく私にご質問ください。一緒に考えてみることができます。
「また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ…」すなわち世界何事でも…生死の全部…歴史の終わりまでも、教会は神との交わりをいただいています。新しい天と地、神の国の相続の約束をいただいています。神がともにおられ、イエスの似姿に益々変えてくださる約束は、どの状況でも成し遂げられます。貧富の格差もあり、同調圧力の日本社会でも、神様はクリスチャンを子として愛して、必要なことをくださいます(第二ペテロ1:3参照)。
さらに、23節では、コリント人クリスチャンたちは自分自身のものでなく、イエス・キリストの所有です。キリストも父なる神「のもの」と言います。子なる神が、父なる神によって創られたのではありません。しかし、子が父に従順である、とイエスがヨハネ5章などで宣言したように、キリストが父なる神に従って十字架に行き、さらに神の王国を父の下で治めてくださいます。
第一コリント3章のこの締めくくりによって、パウロが聞き手に神中心、キリスト中心の知恵を思い出させます。1章では、世が、神の知恵を愚かで弱いものとしておとしめますが、神の知恵である「十字架につけられたキリスト」(1:23)は、人間の知恵の弱さと愚かさを明らかにしました。
今日の箇所の二つ目の指摘は、神の溢れるばかりの祝福から来ます。この豊かな備えの中で、教会の中で霊的に自慢し合って、立場や祝福を獲得することが無意味です。皆が共有するからです。
説教の一番最初のたとえでは、子どもたちがケーキ争奪戦に陥っている最中、お母さんが台所から入って来て、こう言ったと想像しましょう。「あら、何してるの。そのケーキの他にケーキが沢山あるよ!皆の分を作ってあげないと、私が愛していないと思ったの?」神様がアダムとエバに会われ、問いただしたとき、どう思ったのでしょうか。神をケチと決めつけて、禁断の実を食べてしまった二人はどんなに恥ずかしかったことでしょう。私たちの表面の罪の奥には、神の恵み豊かさへの疑い、もっと言うなら神の善意と力と知恵のご性質そのものへの疑いが潜んでいることがよくあります。
パウロは、人間の知恵を拠り所と誇りとする者は空虚なものに頼ってしまうから、へりくだって、神の恵みをいっぱいに受けることを勧めます。ノンクリスチャンでもクリスチャンも、自分の知恵に頼ってしまうと、幸せに限りがあって勝ち取らなければ幸せになれないと思ってしまいます。教会の内外問わず、私たちが生活の中で争って物を得ようとするのは、神が私たちに豊かな祝福をくださらないという疑いが根元にあります。たかぶるのは、神が私たちに栄光と平安を下さらないという恐れによります。けれども、パウロが教えるように、あらゆる必要が満たされています。
パウロはこれをローマ人への手紙8章32節でこのように表現しました。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
神が、イエスを惜しまずに十字架で神の王国に入る資格の義・聖・贖い(第一コリント1:30)を買い取ってくださいました!恵みは必ず十分、十二分にあります。
クリスチャンでない方なら、乏しさを感じますか。世の中の弱肉強食と格差の社会で、成功したと感じても、落ちこぼれたと感じても、神を無視した生活はむなしく、乏しく、本当の知恵がありません。しかし、神様からの豊かな、完全な赦しと聖めを受けられます。イエス様が全て、十字架で備えてくださいました。神の国に入れられた教会は「私は乏しいことがありません」と告白します(詩篇23:1)。ともに告白しませんか。
私たちは「人間を誇ってはいけません」と学びました。神様だけで満足でき、平安を持つことができます。主イエスを誇ると、他は全て整えられます。まず神の力、知恵、愛を信じて、神が十字架で私たちの豊かな贖いを完全に備えてくださったことを信じましょう。私たちの疑いさえも十字架で明らかにされ、そして償われたと信じましょう。溢れる恵みです。安心しましょう。「ケーキ」は余るほどにあります。エデンの園の「いのちの木」は黙示録で現れる際、12本もあります(黙示録22:2)。人間を誇る必要も恐れる必要もありません。神が十二分の恵みをもって、私たちの全ての必要を満たしてくださいます。