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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ヘブル人への手紙 Hebrews 4章13〜16節 |
さ ん び | Opening Praise | 「詩篇73:21-24」 |
さ ん び | Praise | 「キリストが全て All I Have Is Christ」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌344番「神はわが砦」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 4章1〜5節 |
聖書の話 | Sermon | 「私をさばく方は主です」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 主の祈りより
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | クレイグ・ポール宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
数年前、日本育ちだがアメリカ人の私にとって衝撃的な場面がありました。家の近くの公園で息子と一緒に遊んでいたとき、保育園の先生と子どもたちがやって来ました。先生が、公園遊びの約束を子どもたちに説明している間、ある男の子がちょっとふざけていました。先生は静かに諭す代わりに、「だれが聞いていないの!?」と、半分怒鳴るように言いました。それがその先生の教育方法でした。「だれ?」と叫んで、周りの子どもたちみんなの目が、その一人の子に注がれるように仕向けた訳ですね。「迷惑」をかける一人を孤立させ、同級生の仲間外れだと意識させて、その恐れの中で静かにさせようとしていたのではないでしょうか。グループで人をさばいて、従順な反応を求めました。このようなことを経験したことがありますか。そのとき私は、日本の同調圧力の教育の一部を見たように思いました。
私が見て聞いたのは例外ではなかったように感じます。たとえ、日本人でなくても、私たち人間は人の目を恐れることがあります。日本のような文化では特にそうです。気づかないうちに、人の目を気にする恐れを身に付けます。そして、私たちの集団の約束や「暗黙の了解」を基準にして、集団に忠実で真面目かどうかで「良い子」「良い人」かどうかを決めつけがちです。その結果として、とても礼儀正しい、綺麗好きな文化がここにあります。確かに、良いこともそこにあります。
ただし、究極のところ、だれが私たちの生きる基準を定めて、実行させて、良し悪しを宣告するのでしょうか。私たちの人間関係でしょうか。今日の箇所は特に牧会者、いわゆる「働き人」について語っていますが、同時にあらゆるクリスチャンへの知らせでもあります。だれの目を気にしているかを考え直す機会です。
今日の箇所から、パウロや他の牧会者の立場を1・2節で見て、誰の「さばき」に対して責任を負うかを3・4節で確認して、最後に私たちがどのように究極の「さばき」を待つべきかを5節で見ましょう。
1)まず、1節を見ましょう。「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。」「私たち」は1章また3章に出る教会の牧会者を指しています。「働き人」とでも呼べます。ですから、この箇所でパウロは自分の職務、または立場を確認しています。パウロ、アポロ、ケファという代表的な名前が1章12節や3章22節に出てきました。以前お話ししたように、 パウロは、コリント人クリスチャンの教会を開拓した宣教師でした。アポロは後から来て、たくさんの働きをした教師でした。コリント人クリスチャンたちは、彼らのような牧会者から一番好きな人を勝手に選び、囲み、派閥を作り、互いに争っていました。そのため、パウロはこの手紙のこのような内容を送りました。
パウロは、働き人について二つの興味深い描写をします。まず、牧会者は「キリストのしもべ」です。「しもべ」とは、助け手、主人や師匠に従って行動する人です。キリストに服従する人です。
コリントのような繁栄の都市では、気取り上手でことば上手な演説者はもてはやされ、しかも裕福な人から後援を受けて暮らすことができました。しかし、その場合、後援者の機嫌を損ねないように注意して、その人の「しもべ」という立場になってしまいます。それは、パウロが1章以降で指摘してきた偽物の「知恵」を持つ考え方でした。コリント人クリスチャンも「自分はパウロにつく」などと言って、パウロを自分のために利用したかったのですが、パウロはバッサリと断ります。牧会者はキリストのしもべです。
二つ目の描写として、牧会者は「神の奥義の管理者」です。神の「奥義」は、2章7節で出てきたとき、それは神が永遠に計画され、御心の時に教えてくださった真理のことでした。 具体的には、イエス・キリストがへりくだって十字架にかかり、神に反抗する人の罪の代償を払われた後によみがえられたこと。そして、永遠の神を信じる者たちが、互いにもつ平和と愛が「神の奥義」の真髄と言えます。この真理を、聖書の中で神から託されて、忠実に扱って、広めていく責任を持つのは特に「管理者」としての牧会者です。
パウロが手紙を送った当時、「管理者」は裕福な家の財産などを、主人の指示に従って忠実に投資して、管理する人でした。霊的なことに当てはめると、パウロなどの働き人はキリストに関する「奥義」を守って伝えていき、それが広まるように「投資する」責任を受けているのです。パウロは後輩牧会者のテモテに次のようにこの責任を書きました。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(第二テモテ4:2)
実は、第一テモテ3章15節によると教会全体がこの真理を守る「真理の柱と土台」であると書かれています。私たちは皆、聖書とここに書いてある奥義を学んで、丁寧に扱って、またこれを必要とする人に伝える特権を受けていますが、牧会者はその責任をさらに受けているのです(ヤコブ3:1-2参照)。
第一コリント4章2節で但し書として、管理者の大前提を示します。「管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。」華やかに演じる必要などはありません。ただ、主人に対して忠実に働くべきです。キリストのしもべとして、託された真理を守って、いつでも教える重大な責任を持っています。
パウロは1、2節で自分の主人をはっきりさせた上で、3、4節で書きます。
3 しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。 4 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
忠実なしもべとなるには、だれの目を気にするべきかを、さらにはっきりさせます。
この2節で数回も「さばく」ということばが出ます。調べて、吟味して、良いか悪いか判別することを意味します。当然、私たち人間に見えることもあり、毎日判断して「さばく」べきことはありますが、だれが究極的に人を正当にさばくことができるかとパウロは候補者を見渡します。
牧会者をさばくのは、まず教会の会衆ですか。コリント人教会はそう考えていました。牧会者派閥を勝手に作りました。しかし、パウロは彼らに媚びるつもりはありません。教会の長老たち、あるいは教会内の先輩の方々、それとも次世代の「希望の星」の目を恐れるべきでもありません。
社会、例えば市町村やローマ帝国全体の「人間の法廷」のさばきが良いと思うことをすれば良いでしょうか。パウロはそれもつまらない、「非常に小さな」判決としか思いません。
では、パウロが自分は忠実かどうかと思うのは一番大事なさばきでしょうか。4節でパウロは「私には、やましいことは少しもありませんが」と断るので、自分について吟味をしている訳です。ところが、自分がイエスのしもべとして忠実であるかどうかを、心の中を見つめて心配はしません。自分に対する自分の「さばき」も、つまらないものです。
究極的に言うと、忠実なしもべかどうか以上に、パウロは義人なのか、という問題になります。そして、それは彼の精神状態に拠らないとはっきり言います。「だからといって、それで義と認められているわけではありません。」ここは、永遠のいのちか永遠のさばきかを出す「義認」でなく、より限定された「良いか悪いか」の意味合いはあるかもしれませんが、どちらにしても、さばき主は同じです。教会でも社会でも自分でも、教会の働き人をこのようにさばくことができません。
ようやく、究極のさばき主の答えが出ます。「私をさばく方は主です。」主イエス・キリストのみがさばかれる、とパウロは指摘します。実は、これは牧会者に限らず、すべての人について言えることです。パウロは人の指摘を逃れようとして、モラハラする上司のように「お前には批判する立場がない」と言っているのではありません。だれよりも厳しく、公平にさばかれる神の前で受け入れられる、また正しいかどうか言えるのは神ご自身、イエスご自身だけです。神の目には、私たちはどうなのか…これが問題です。
私たちはもしかしたら、「主、我を愛す」と歌って、穏やかに愛のイエスを思い描いて、神のさばきを考えたくないかもしれません。しかし、実際、イエスは審判をなさいます。完全な義の基準で正しくさばかれます。パウロもアポロも、コリント人クリスチャンも現代の牧会者、そして信者も、同じ義の基準でさばかれます。私たちが自分の歩みは良いと思ったとしても、「だからといって、それで義と認められているわけではありません」とパウロは言います。人間の調査や審判で分からない状況や心の奥まで見通されるのは神のみです。招きのことばのように、「神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」(ヘブル4:13)
ところで、パウロがローマ人への手紙3章23〜26節で書いた事実をも思い出す必要があります。これは牧会者の行動の良し悪しの判断以上に、牧会者および他のあらゆる人の判決について書かれています。
23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。… 26 …ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。
神に義あると認められるために自分は何もできないと、パウロは確信していました。自分で分かる範囲内で「やましいこと」に心当たりがなくても、不十分です。しかし、イエスを自分の「血による宥めのささげ物」として信頼しました。自分がイエスと結び合わされて、「罪の宥め」が終わり、神の義は自分に転嫁されると信じて、神は自分を受け入れると確信しました。もし第一コリントで特定の牧会の行いだけの良し悪しを考えていたとしても、それらはこの義認に含まれます。それで、だれが何を言おうが、パウロは神により義と認められた以上、安心できました。
パウロは、コリントの自惚れたクリスチャンたちに媚びる必要はありません。社会の反キリスト的な要望に応える必要はありません。自分の中に安心する根拠を求める必要もありません。ただ、自分をさばかれる方が、自分に義の言い渡しをしてくださったと確信して、神との関係のうちに感謝していました。その上で、ただ忠実なしもべとして従おうとして、福音の奥義を管理していくだけで良かったのです。
3)今回の箇所の結論である5節を読みましょう。私たちはどのようにさばきを待てばよいかを学べます。
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
「先走って」は「時が来る前」とも訳せます。3章13節を引用すると、主イエスは再び来られる「時」に「闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます」(3:13。1:8参照)。その「時」の前に、人間の理解でさばくのは早まっていて、人間にとってはそもそも不可能なことです。イエス様だけが正しくさばかれます。
パウロは自分について、また他の信者について、イエスの審判の結果を確信しています。「神からそれぞれの人に称賛が与えられる」と4章5節で言いますし、手紙の序論の1章8節でこう言いました。「主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。」パウロが働き人として神から称賛を受けると安心できます。なぜなら、神は全てのクリスチャンを、キリストの義を身に纏っている者として扱ってくださるからです。日々の、一つ一つの行いについても、キリストが行った完全な行いとして「称賛」をいただけます。クリスチャンになった後でも、私たちはイエス様の義だけによって歓迎されています(第一ペテロ2:5、ウェストミンスター信仰告白16:4-6参照)。
牧会者でなくても、私たち皆だれでもが罪を認めて、自分の身代わりとしてイエスが死んでくださったと信じ、それを土台に生きようと決心すると、パウロと同じように安心できます。
ここで少し質問をさせてください。あなたは今、だれの意見を一番大事にしますか。だれの称賛を受けたら一番嬉しいですか。また、別の観点から聞きます。だれに見下されたり嫌われたりするのを一番恐れますか。
本当は、神様の思いを一番大事にして、神に拒まれるのを一番恐れ、神の称賛を受けることを一番喜ぶべきですね。でも毎日、葛藤がありますね。この根本的なところで失敗しがちな私たちには、福音の良い知らせが必要です。もう一つの箇所、ローマ8章33、34節から、福音のすばらしい結果を読みます。
33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
本来、私たちを訴えて、さばくことのできる唯一の方、神ご自身が、義と認めます。私たちを義と認められるために、キリスト・イエスが罪の罰を受ける身代わりとして死なれ、さらによみえがえられたのです!私たちは信仰によってイエスと一つとなり、「キリストとともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:3)のですから、キリストの死が私たちの罪のための死となり、刑罰は残りません。パウロはこの真理に立って、自由に伝道と訓練の牧会に取り掛かれました。恐れずに、コリント人クリスチャンを諭すこともできました。私たちも同じ自由を経験することができます。
初めの同調圧力の話に少し戻ります。あなたはだれの目を気にしますか。人の目ですか。イエスを信じる者は、人の目に怯える必要がありません。自分をさばくのは神です。しかし、神ご自身がイエスの「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれています(ヨハネ3:16)。イエス様は十字架にかかって死なれるまで、義の人生を完全に歩まれました。復活なさった主イエスは御霊をお遣わしになり、恐れに支配された人に信仰の目を与えてくださり、人の目、また自分の自己批判からも自由にしてくださいます。
ですから、覚えていただきたいことは二つあります。一つ目は、福音に立って、まず、キリストを通して神の目で受け入れられる恵みを確信しましょう。そして人の目から自由になっていることを味わいましょう。天におられるキリストを見上げましょう。集団がさばいても、極端的に言うとそれは「非常に小さなことです」(第一コリント4:3)。人の目を恐れる必要がありません。
二つ目は、義と認められ、恐れから自由になる者として、牧会者、また他の隣人を人間的な基準でさばかないように努めましょう。もちろん、牧会者が忠実な「しもべ」であるように祈ってください。しかし、牧会者であれ他のだれであれ、私たちは第一に神に対して責任を負いますので、神の基準で見ましょう。その基準は完全な義の律法であり、確かにそれには達し得ない私たちです。しかし、神の目には恵みが牧会者に、そして教会全体に対して、溢れます。
多くの恵みを受けた者として、互いにも愛を抱けるよう、また、イエスにあって義と認められた感謝で、大胆に歩めるようお祈りしましょう。