2023年9月17日礼拝「家族に置かれ、教会に囲まれ、神の恵みに生きる」

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

礼拝式順

前   奏 Prelude  
招きの言葉 Call to Worship エペソ人への手紙 Ephesians 5章1-2節
さ ん び Opening Praise 「詩篇73:21-24」
さ ん び Praise 「御手の中で In His Time」
開会の祈り Opening Prayer  
主の祈り Lord’s Prayer  
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 184番「朝日が昇り」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 I Corinthians 7章8-24節
聖書の話 Sermon 「家族に置かれ、教会に囲まれ、神の恵みに生きる」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 454番「私のいのち」
献金と祈り Offering & Prayer  
報   告 Announcements  
とりなしの祈り Pastoral Prayer エペソ人への手紙 Ephesians 5章1-2節より

百瀬ジョザイア伝道師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction デイビッド・キム宣教師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

だれでも、「幸せな家庭」を望んだことがあると思います。望むあり方は違うかもしれませんが、愛し合うこと、共に幸せ暮らすことを求めます。けれども、家族でいっぱい愛を受けても、傷つくことがあります。安定した家庭であっても、いろいろな自己中心や冷たさが心から出て来てしまいます。私たち人類は、創造主に反抗して罪を犯した結果、幸せな家庭を求めても、落胆と悩みにあいます。

昔からもそうでした。神様は約3,000年前にアブラハムの家族を通して世界に祝福を約束してくださいましたが、アブラハムとその子孫にも多くの家族問題がありました。けれども、神様は恵みを示してくださり、アブラハムにも私たちにも家族をくださいました。クリスチャンにはこの希望があります。

今年、クリスチャンライフの学びでも「信仰と結婚」をマーク牧師が取り上げましたが、結婚以外でも家族や他の人との関係で悩みと課題があります。今日と明日の修養会で「家族に置かれ、教会に囲まれ、神の恵みに生きる」ことを一緒に考えたいと思います。

今朝、読まれた聖書箇所より、使徒パウロが様々な家庭事情を持つ人への勧めから、私たちも適用できる原則を学びたいと思います。午後のセッションと明日の午前のセッションでもこれらの原則をもっと掘り下げて、話し合いの中で具体的な必要を分かち合えることを願っています。

1.自分が置かれた家族を愛する

今日の箇所でパウロは、家族の諸事情のそれぞれにふさわしい愛し方を教えます。まず、色々な状況を想定することが興味深いです。

① 8-9節 未婚者(結婚相手を、死や離婚で失った人も?)

>未婚のままがよい人

>結婚がよい人

② 10節 既婚者(クリスチャン同士)

③ 11節 結婚してから離婚・離別した人

④ 12節 未信者と結婚していて、相手が離婚を求めないという人

⑤ 14節 子どもたちがいる人

⑥ 15節 未信者と結婚していて、相手が離婚を求めるという人

また、18節以降でも、奴隷制度のことや社会の関係にも多様な立場があることが書かれています(割礼の有無、奴隷か自由人かなど)。

私たちは皆、異なった状況に置かれています。パウロが書いた事例が全てではありません。結婚を念頭に書いていますし、未成年や結婚しにくい状況に置かれている人もこの箇所で具体的に書かれていません。しかし、この事例から、神様は私たちの現実を示しておられます。すなわち、私たちは複雑な世界に生きています。そして、願わない関係に置かれる場合もよくあります。

家族が望むようにはならないことは多々あります。子として、親として、兄弟姉妹として、独身者また伴侶として、色々な落胆や裏切り、痛みを経験するかもしれません。まず、これを神様に対して祈って、嘆いて良いです。

私たちの罪からくる状況もありますが、私たちのせいでない場合もよくあります。パウロは特に問題の原因に触れず、特にだれをも責めません。ただ、一人一人が今持っている関係において、相手を思って愛することを前提に対応を教えてくれます。

① 未婚者は、その状態でいるのは意義がある、「良いのです」と言います(8節)。なぜなら、神をひたすら愛して、「主のことに心を配ります」から(32節)。しかし、結婚すると良いと判断した人は結婚相手を愛し仕えるべきと指示します(2-5節、33-34節参照)。

② 既婚者(クリスチャン)は、結婚の誓約を守るべきです(10-11節)。

③ 離婚・離別した人は、またともに暮らせるように求めるか、ただ結婚しないでおくことで愛のうちに歩みなさいと命じられます(11節)。

④ 未信者と結婚していて、相手が離婚を求めないというクリスチャン伴侶には、パウロは愛のうちに結婚関係を続けるように教えます(12-13節)。パウロが次の励ましを与えます。信じない伴侶は信じる伴侶の影響により、「聖なるものとされているからです」。必ずキリストを信じて天国に入るとは限りませんが、信じる伴侶の祈りや歩みの影響によって、神様に近づける聖なる立場に置かれていると言えます。そして、信仰の経験者とともに生活する中で神の働きを体験できます。ですから、クリスチャンの伴侶は離婚を原則、自ら求めないように教えられます。(参照:マタイ書19章9節)

⑤ 14節で、クリスチャンの親のいる子どもは、先ほどの伴侶同様、神の恵みによって影響を受けて、聖め別たれた者だという励ましを受けます。

⑥ 未信者の結婚相手が離婚を要求するなら、クリスチャンは無理に止めるより、「離れて行かせなさい。」その理由には「神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです」とあります(15節)。離婚は痛みを伴いますが、神様はその中でも平和を用意してくださるという励ましです。この状況の中では、相手を愛し続けつつ、手放しても良いということです。

16節には、ノンクリスチャンの伴侶のおられるクリスチャンへのもう一つのことばがあります。「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」曖昧な問いかけです。もしこれが12から14節までを裏付けるなら、クリスチャンは信じない伴侶を救いに導けるかもしれないから離婚を求めてはいけない、という意味合いを持ちます。あるいは、直前の15節を裏付けるなら、信じない伴侶を救いに導ける保証はないから、離婚を要求されたら手放しても良いよ、という意味合いを持ちます。個人的に、16節がどちらをも裏付けると考えます。と言うのは、16節はどちらにしても、クリスチャンの家族の未来は分かりません。神様に委ねながら、相手にとって最善のことを求めます。

パウロはこの原則をさらに7章17、20、24節で繰り返します。

17  ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。

20  それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。

24  兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

具体例として、18と19節では民族がどうであれ、21と22節では社会的地位がどうであれ、今あるままで大丈夫です、とパウロは教えます。しかし、17・20・24節が強調するのは、私たちは今生きている状況の中で、神様が見ておられることを意識して「神の御前に」歩むことです。19節は「重要なのは神の命令を守ることです」というように私たちの責任を伝えます。では、その命令とは何でしょうか。ことばとしてここに出なくても、結婚関係での事例からして、神の前で最善であることを求める「愛」が命令されています。ローマ人への手紙13章8〜9節にあるように、

8  他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。 9 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。

それぞれの家族に置かれた私たちは、愛することが大事です。

少し脱線のように聞こえるかもしれませんが、置かれた家族の未来と私たちの今の愛の責任に関して、私たちに分からない「主の御心」があります。神が永遠に定めておられるご計画を、私たちには推測する能力も、その必要もありません。どの場合も、結果を神様に委ねる必要があります。

しかし、神様は別の「主の御心」を聖書のみことばで教えてくださいました。これによって私たちは7章19節の「神の命令」を知り、神の恵みを知ります。

ですから、神を愛して人を愛するという大命令(マタイ22:35-40)は、どうなるか分からなくても、従うべきです。未来のことを神に信頼して相手の隠されていることは、私たちの神、【ヤハウェ】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(申命記29:29)

ためとなることを求めます。

信者でない家族がいれば、彼らをイエス様のもとへ連れて行こうとする形で仕えて、機会あるときに語れます。

信者の家族なら、彼らがこれからもみことばに養われ、信仰と悔い改めの中で成長して、ますますイエスの似姿に変えられることを求められます。

兄弟が平和のうちに生きること(詩篇133:1-3)、子が親に従うこと(エペソ6:1-3)など、示された神の御心を知り得ます。そして、知り得ない神の「隠されている」御心を神にお委ねすることができます。

2.教会に囲まれて家族を愛する

これまで、私たちが置かれた家族を愛するべきだと確認しましたが、家族を愛するために神がくださった二つの助けを、第一コリントの他の箇所からも考えたいと思います。一つ目は、12章に見られる教会という別の「家族」です。

ここでは団体、組織としての「教会」のことを言っていません。ダイナミックな関係のうちに神に従って人を愛するように促し合う共同体としての「教会」を言っています。それは時には、セルグループのように小さな部分だけで共有されているかもしれませんが、同じことが言えます。12章26節でこのように描きます。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」お互いの家族の関係で苦しみや喜びがあれば、それを分かち合うのです。

ヘブル人への手紙10章24節と25節は次のように言います。

また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。 25  ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。…

クリスチャン同士が家族を愛するように励まし合うのは簡単とは限りません。ここにも私たちの愛の不足が現れてしまうかもしれません。ともに嘆き、愛しにくい家族メンバーについて神に愛を求める前に、助けを求めて、また耳を傾ける必要があります。

もし助けが必要なら、抱え込むとプライドが保てますが、助けは来ません。もし助けを必要とする人に気がつかないのであれば、手伝う手間がありません。しかし、ペテロやヘブル人に向けて書いた著者は、私たちが熱心に互いのことを気に掛けるように促しmています。

午後と明日のセッションで分かち合いを予定していて、その時間を特に楽しみにしています。心奥の深い悩みを全部出し合わなくても大丈夫です。ご安心ください。けれども、少しでも打ち明ける機会になればと願っています。家族について喜びや悲しみがあるとき、ともに泣く仲間と、教会のセルグループや礼拝前後に話している方が多いと思いますが、それがさらに深まるようにも願っています(ローマ12:15参照)。

3.恵みの神に頼って、家族を愛する

ただ、教会の中の愛をうけて支えられても、私たちは、それぞれの複雑な状況の家族を見て、彼らを愛しつづけることは難しいかもしれません。何年も何十年も祈って、試行錯誤していくのはよくあるかもしれません。しかし、助けが必要だと認めると、神の恵みに生きることができます。

神が、私たちに私たちの家族関係をくださいました。どのような事情の中でこれらに生まれ、結婚したりして家族となったかと関係なく、神様は治めておられ、用いてくださっています。そして恵みによって、私たちの家族の中で私たちが祝福となるために、私たちを変え続けてくださいます。隠された御心は見えなくても、神様はみ恵みを啓示して、保証してくださっています。

その啓示と保証は、イエスの愛にあります。神様はまず私たちを愛してくださいました(第一ヨハネ4:19)。私たちに到達できない、完全な模範、そして私たちに向けられた愛とは、第一コリント13章4〜7節に書かれています。

愛は寛容であり、愛は親切です。

また人をねたみません。

愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、

自分の利益を求めず、

苛立たず、人がした悪を心に留めず、

不正を喜ばずに、真理を喜びます。

すべてを耐え、すべてを信じ、

すべてを望み、すべてを忍びます。

「愛」に自分の名前を差し替えて、自分の親、兄弟姉妹、あるいは伴侶、子どもを愛していると言える人はいるでしょうか。神の愛の基準と照らし合わせれば、私たちの愛の弱さが見えてくると思います。

しかし、イエスが完全に「神の命令」を守られるお方です。言い換えると、イエスが完全に愛してくださいます。

多くの場合、寛容でなく、不親切で、ねたみ、自慢して高慢になり、礼儀に反して、自分の利益を求め、苛立ち、悪を心に留めて、不正を喜び、真理を軽視し、人の問題を耐え忍ぶ思いがなく、信じることも望むことも危うい私たちを、イエス様は寛容で親切に、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀に反せず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜び、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍び、十字架の上で新しい家族を買い取ってくださいました。それを通して私たちを家族としてくださり、愛してくださいます(エペソ1:4-5参照)。

何があっても、神様はその子どもを忘れません。

15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。

自分の胎の子をあわれまないだろうか。

たとえ女たちが忘れても、

このわたしは、あなたを忘れない。

16  見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:15-16)

パウロは、第一コリント7章23節で「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と言います。ご自分の手のひらに釘で私たちを刻んでくださったイエス・キリストが、その代価を十字架の上で払ってくださいました。イエス・キリストにより頼む人はだれでも、神の家族に入る資格を受けています。愛のなさを嘆いて、神に助けを求めると、助けを受けられます。神の恵みに生きてこそ、教会に支えられながら家族を愛そうとするのです。思うような結果が見えなくても、神様は愛し続けておられます。

今までの愛のなさを悔い改めつつも、神様からの恵みに生きて、教会に囲まれ励まし合いながら、置かれた家族を愛することがますますできるよう、お祈りしましょう。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church