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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人への手紙第一 I Corinthians 15章56-58節 |
さ ん び | Opening Praise | 「死を打ち破り」 |
さ ん び | Praise | 「御名を掲げて Lord, I Lift Your Name on High」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 454番「私のいのち」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 I Corinthians 4章6-21節 |
聖書の話 | Sermon | 「世の栄光か十字架の栄光か」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 158番「子羊をばほめたたえよ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 主の祈りより
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | クレイグ・ポール宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
「やったことが無駄だった。」そう思ったことがありますか。砂浜、あるいはレゴで立派なお城を作ったが、波、あるいは弟・妹がやって来て、それを壊してしまった。勉強したが、勉強の内容が試験に出なかったり、職場で活用できなかったりした。寂しそうな人、または必要のある人に声をかけてみたが、跳ね返された。そういうことを経験したことがありますか。
私たちは成功が好きです。人間関係、健康、家計、また信仰生活で順調なときに人に認めてもらいたいですし、自分にも「良くやった」と言いたいです。実用的な成功を大切にします。成功と栄光のあることを喜びます。成功できそうなことが水の泡になると、とても悲しいです。
けれども、もし私たちがこの世のことに注目すれば、本当に実用的で栄光あることを見失ってしまいます。特に、人を愛そうとしても愛が返って来ないときに、無駄だと思って、諦めたくなります。世の成功と栄光のあり方に心が奪われると、そうなりやすいです。けれども、私たちが世の中で教えられる実用的で栄光ある成功と全く異なった、神の国の、十字架の栄光があります。今日、それを見る中で、私たちの信仰生活で無駄に感じる歩みや苦労に何の意味があるのかを、ともに思い出したいと思います。
今日の箇所は三つの部分からなっています。まず、6〜7節でパウロはここまでの話をまたまとめます。8〜13節でコリント人たちの考えがクリスチャン人生の今の現実からかけ離れていることを指摘します。14〜21節でコリント人たちがへりくだって、与えられた模範に倣って歩むように求める、1章からここまでのセクションの締めくくりとなります。
1章12節の「あなたがたはそれぞれ、『私はパウロにつく』『私はアポロに』…と言っている」ことに戻り、パウロは6節でこう書きます。「兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。」パウロがここまで3章ほどにわたって「述べてき」たことの目的です。「それは、私たちの例から、『書かれていることを越えない』ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです」と書いているからです。「書かれていること」が何であるかにも議論がありますが、パウロがここまで引用してきた聖書のみことばを指すでしょう。第1章から3章まで、旧約聖書からの引用は、神が人間中心のいわゆる知恵を覆して、また超えて、自ら人を救ってくださると教えました。したがって、人間の力を心の拠り所と誇りにして派閥を作り、「思い上がること」は間違っています。
7節でパウロは強く問いかけます。
いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
コリントの都市の繁盛と競争によって生きてきたクリスチャンたちは影響力を求めて、誇りにすることを求めていましたが、皆は神の前で誇れることが一つもありません。頭が良くても、スキルがあっても、友だちや付き従う人が多くいても、それらはそもそも、努力する体力と気力と機会が神から与えられたからです。自慢できる栄光ではありません。
しかし、実は、私たちは実際に「思い上がって」しまいます。6節にあったその単語は新約聖書に7回出てきます。その内の3回はこの章にあります。コリント人たちの大きな問題でした。私たちにも、同じ問題があるかもしれません。体力、格好良さ、綺麗さ、健康、賢さ、人気、宗教的霊的進歩などなどで自慢して、自分は優れた人だと思いたいかもしれません。その反対に見える自己憐憫や自己嫌悪でも、持っていないことについての思い上がりが含まれるかもしれません。つまり、自分はもっと良いことに値するのに…という悔しがる思いの中にも思い上がりがあり得ます。
パウロは8節から13節まで、長い、皮肉に満ちた指摘をします。まずコリント人たちの表面の態度を表して、それが神学的にどの問題が裏にあるかを見せます。
あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。いっそのこと、本当に王様になっていたらよかったのです。そうすれば、私たちもあなたがたとともに、王様になれたでしょうに。(8節)
コリント人たちは「自分の労苦はもう完了した」というような「満ち足りて」「王様になった」態度を取りました。しかしパウロは突っ込みます。「言い換えると、神の王国が完成され、罪が完全に打ち砕かれて、自分が世界を治める時が来たと思っているのか。」コリント人たちは「いやいや、そういうことでないです」と言っても、彼らの態度は実際にそういう神学、終末論の誤解を物語っていました。結果として、気づかなくても、コリント人たちはパウロと同労者「私たち」の満ち足りない様子を見下している、と思っていました。
9節でパウロが意外な方法で反論します。「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、最後の出場者として引き出されました。」ローマ帝国の感覚からすると、教会の基礎作りをなす使徒たちは、惨めに死ぬ奴隷の剣闘士のように最低の地位の人間だということです。イエス・キリストに選ばれた牧会者なのに、「見せ物になりました」と言います。
一方、10節でコリント人たちは「キリストにあって賢い者…強い…尊ばれています」。皮肉なことに、彼らは1章26〜28節で神が蔑ろにされる人間的な誇り(「知恵ある者」27節「強い者」27節「有るもの」28節)を、誇らしげに抱いていました。キリスト信徒なのに思い上がって、世の基準で言うと実用的で輝かしいと思われることを誇りにしていました。
他方、使徒たちは「キリストのために愚かな者…弱い…卑しめられています。」11節から、パウロはコリント人たちとの比較をやめて、ただ使徒たちの歩みが世の憧れと誉れと栄えからどんなにかけ離れたかを教えます。
11 今この時に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、ひどい扱いを受け、住む所もなく、 12 労苦して自分の手で働いています。ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 13 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。今もそうです。(11-13節)
パウロが11節・13節と2回も「今」と言うのは、コリント人たちの神学の誤解への反論です。最後の日がまだ来ていない「今」、自分たちは未だに、コリント人たちの態度が示すような栄光を持っていません。むしろ、使徒たちは立場と生活がとても低いです。現代の日本と異なる古代都市の不便と汚さの中、当時の偉い人が絶対にやらない職人の手作業で食を得ています。迫害と非難を受けても愛と忍耐を抱き続けます。「この世の屑、…かす」と言われる立場の者でした。
コリントのクリスチャンたちはパウロのコリントでの生活を思い出し、確かに栄光を受けずに労苦していたことを思い出したでしょう。自分たちが使徒たちを飛び越して、成功した生き方を自慢することは誤りでした。「今」、彼らも謙遜に、神に頼って愛のある生活を送るべきでした。
しかし、14節でパウロはここまでの口調を切り替えて、優しさを含めた厳しさで迫りつづけます。「私がこれらのことを書くのは、あなたがたに恥ずかしい思いをさせるためではなく、私の愛する子どもとして諭すためです。」5章以降の課題に移る前、1章からの課題である、争いの根っこにあるたかぶりを指摘した上でもっと親身なアピールをします。
他のクリスチャン指導者たちもコリントのクリスチャンたちに教えて来たかもしれないが、その中で特に自分が親身に、最初から関わっていることを15節で思い出させます。なぜなら、「この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」罪人は福音によって、「キリスト・イエスにあって」こそ、キリスト者として誕生します。16節でパウロは、「私に倣う者となってください」と訴えて、17節に倣う者の模範として、「主にあって忠実な子」テモテを指します。テモテがコリント人たちに、「キリスト・イエスにある私〔パウロ〕の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう」と言います(17節)。
しかし、残念ながら、パウロはコリント人クリスチャンたちのたかぶりを耳にしています。18節「あなたがたのところに私が行くことはないだろうと考えて、思い上がっている人たちがいます。」コリント人たちは6節から13節までの指摘のとおり、教会の指導者も自分たちも栄光を浴びて良いと思っています。ですから、パウロはいつでも、機会があれば彼らに直接訴えに行くと伝えます。「思い上がっている人たちの、ことばではなく力を見せてもらいましょう」と言います(19節)。世間やお互いに褒められることばでなく、本当に実用的な、意義ある結果はあるのかを確かめようとパウロが言います。なぜなら、「神の国は、ことばではなく力にある」と20節で続けます。格好良いことばや世間の常識に沿った成功でもなく、神様が本当に人を変られる「神の国」が問題です。神様と永遠を過ごせるいのちへの効果があるかないか、それこそを気にするべきです。私たちは世の実用的な学問や仕事、社会貢献、家族育成を大切にするべきです。しかし、その分野の成功で満足また自慢するのは本当に無駄です。今、神様は使徒だけでなく私たちの労苦についても益をもたらされるのです。
21節でパウロはここまでの忠告を閉じます。「柔和な心で」再会したいが、もしコリント人たちの思いが変わらなければ、「むち」で迫って行き、愛する子どもたちを霊的な懲らしめで導くつもりです。牧会者の愛、そして全てのクリスチャンの愛は、そこまでする必要がある場合があります。厳しいことを言うのが怖いクリスチャンも、正しいからと思って冷たく言ってしまうクリスチャンもいますが、エペソ人への手紙4章の15節の有名な理想を思い出しましょう。「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」パウロはこの難しいバランスを保とうとして、忠告で終えます。
では、2000年近く前にパウロが送ったこの忠告が、現代の私たちに教えることは何でしょうか。カーソンと言う聖書学者は、とても現実的に今日の箇所の8〜13節から、教会指導者たちも一般信徒もたくさんの苦しみを通ると指摘します。コリント人たちは勘違いして、思い上がっていました。パウロもテモテも、苦しみを経て神の国の力を経験し、神の国の完成を待ち望むことを心得た模範でした。
教会で奉仕するだれにも、今、大した栄光はないでしょう。信じない方から見れば、本当に格好悪い、実用的でない、無駄なことにも見えるかもしれません。全てのクリスチャンも自分の奉仕をそう見ることがあるかもしれません。「自分はいなくてもこの教会は回っていける」とか「満足感を得られる作業はないじゃないか」と思うかもしれません。パウロは私たちに「ただやりなさい」と言っているのでしょうか。今は虚しく苦しんで、天国に行くのを待つだけでしょうか。
そうではありません。神様が私たちの信仰の中の苦しみ、また人目に付かない奉仕を大切にしておられます。そして、それが神様のご計画どおりの道でもあります。それは、カーソン先生が指摘するもう一つのことに基づきます。霊的な父であり模範であるパウロの模範は、イエス・キリストなのです。
4章11〜13節は、だれよりもイエスについて当てはまるみことばです。これがパウロの模範、私たちの模範です。
「飢え」…40日夜の断食で、人前の言葉のパフォーマンスでなく実際に悪魔の最高レベルの誘惑に打ち勝つ力(マタイ4:2)。
「渇き」…十字架上で神の怒りと人の蔑みを受けつつ、「わたしは渇く」と一言(ヨハネ19:28)。
「着る物もなく、ひどい扱いを受け」…十字架上で裸(ヨハネ19:23-24)。拷問のような殺され方の処刑。
「住む所もなく」…「人の子〔キリスト〕には枕するところもありません。」(ルカ9:58)
「労苦して自分の手で働いています。」…「この人は大工の息子ではないか。」(マタイ13:55)
「ののしられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 中傷されては、優しいことばをかけています。私たちはこの世の屑、あらゆるものの、かすになりました。」…神を不平不満でののしり、愛がないと中傷する私たちに対して、ペテロも書きました。
21 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。
22 キリストは罪を犯したことがなく、
その口には欺きもなかった。
23 ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、脅すことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになった。(第一ペテロ2:21-23)
罪人の救い主は何という、逆説に満ちたお方なのだろうか。永遠の賛美に値する模範イエス様です。他のどの人間よりも深い苦しみを受けても、神様への信頼一筋を貫かれた模範であられます。私たちはキリストの足跡に従って迫害されても赦すとき、変化が見られない人間関係で愛し続けるとき、イエスにあって神に喜んでいただいています。
しかし、それだけではありません。もしイエスがただの模範であれば、私たちはまだ絶望してしまいます。パウロもコリント人クリスチャンたちも、イエスの模範と神の基準に達し得ませんでした。私たちもそうです。だからペテロの続きの言葉が私たちに福音の希望を思い起こさせてくれます。
キリストは自ら十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(第一ペテロ2:24)
群衆からの人気を失っても、何の結果も出なさそうな十字架の死で最大のことを成し遂げてくださいました。究極の無駄に見えても、イエスが「私たちの罪をその身に負われた」。十字架の上で神の怒りを代わりに受け、私たちに神の愛が向けられるようにしてくださいました。さらに、神の聖霊様によって私たちを内側の罪から、例えば思い上がりやたかぶる心から救ってくださいます。謙遜な、安心する信仰の心に変えてくださるのです。だからこそ、「私たちが罪を離れ、/義のために生きる」ことが可能です。これこそ、神の国の力の栄光、また十字架の栄光です。
コリント人クリスチャンたちの争いに対して、私は諦めたくなったかもしれませんが、パウロは諦めません。なぜなら、イエスが諦めません。思い上がってしまう人、私のような人のためにイエスが「世の屑、あらゆるものの、かす」かのような扱いを受けてくださいました。私たちは、たかぶることができません。もしクリスチャン同志で争って、赦し合えていないのであれば、福音のここを忘れた思い上がりがあるかもしれません。
しかし、それをも神がご存知の上でイエスを私たちに与えてくださいました。私たちは恵みによって救われました。今、持っている全てのことを恵みとして受け入れましょう。すぐに実りが見えなくても、感謝しましょう。誇りは「十字架につけられたキリスト」(第一コリント1:23)だけです。主イエスが私たちの栄光です。
イエスが私たちを見捨てないで、救うために実用的でなさそうなことをしてくださいました。私たちを、思い上がって、競い合う心から救われるためにそうしてくださいました。だから、私たちは感謝によってキリストの足跡に従って、無駄に感じる今の時でも、謙遜な愛の生活を歩めるよう、お祈りしましょう。
私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。(第一コリント15:58)