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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | 詩篇 Psalm 103篇8-11節 |
さ ん び | Opening Praise | 「ハレルヤ神の聖所で」(詩篇150:1-2) |
さ ん び | Praise | 「おどろくばかりの〜罪とがを自由にされて Amazing Grace (My chains are gone)」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌 242番「ほめ歌え 主の御名を」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 列王記第二 II Kings 2章19-25節 |
聖書の話 | Sermon | 「熊ののろいと十字架の祝福」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌 301番「千歳の岩よ」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇23編より from Psalm 23
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | デイビッド・キム宣教師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
きょうの話の23〜25節は、牧師資格の試験を授ける委員会に、説教するように指定された箇所です。課題を受けた時、苦笑いをしました。評判の良くない話だろうと思います。この箇所を聞いて、キリスト教は暴力的で残虐だ、と感じられるかもしれません。クリスチャンであっても、違和感いっぱいで読み流したいかもしれません。「イエス・キリストはここの旧約聖書の神と違う神なのか」と思われるかもしれません。あるいは、ここの厳しい罰を聞いて「自分の苦しみは神からの罰なのか。今までの罪(反抗)は神様に赦して頂けないのか」とも、感じられるかもしれません。
子どもにとったら、きょうの話はもちろん怖い話です。可愛い熊でなく、怖い熊が登場しました。けれども、この話は「良い子にしないと、ベテルの子供みたいに、熊に食われるよ」と怖い思いをさせるためには書かれていないのです。
実は、きょう、この箇所に基づいてお伝えしたいのは、神様がいつも正しいことをしてくださる、しかし恵みをも与えてくださる、ということです。確かに怖いことが起きました。しかし、聖書はここで私たちに祝福、恵みをも教えています。今日の話の熊は、実は十字架と繋がっています。
1)エリコ
特に難しい23〜24節に注目したいですが、そこにあるベテルの住民と対照の町であるエリコにも触れるべきだと思います。エリシャはこの2章の前半で偉大な預言者エリヤより、神様に従って語る責任を受け継いでから、最初の公の働きをここで行いました。彼はヨルダン側近くのエリコの町に居ました。
この町の人々はエリシャに言った。「あなた様もご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産を引き起こします。」(2:19)
「流産」と訳されている表現は子が取り去られる話でも使われます。エリコはとても悲しい問題で悩んでいました。実は、のろいを受けた町でした。イスラエルがカナンの地を征服したとき、最初に敵対して主なる神に服さなかった町でした。町をついに滅ぼした将軍ヨシュアはこのように「誓った。『この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。』」(ヨシュア6:26)
そしてそれは、成就されました。第一列王記にこう書いてあります。
ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えたとき長子アビラムを失い、門を建てたとき末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。(第一列王記16:34)
エリコは再建されてから、衛生面で汚染されたのか、とにかく水が悪く、生き物は繁殖できずに死んでいくような、虚しさと悲しみの場所でした。しかし、紀元前約800年代半ば頃の第二列王記2章で、住民は神のことばを携える預言者エリシャに助けを求めました。そうすると、エリシャは不思議なことをして、神の祝福を宣言しました。
エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」(21節)
そして著者は22節でコメントします。「こうして水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。」のろわれた町が祝福され、命ある所となりました。災いと悲しみの多い町が、人が住みたがる所に変わりました。これは神の憐れみのゆえでした。
2)ベテル
23・24節のエピソードは違います。場所が変わって、「エリシャはそこからベテルへ上って行った。」(23節)このエピソードを正しく理解するには、登場人物をそれぞれ知る必要があると思います。①ベテルの少年たち、②エリシャ、③ヤハウェ(主なる神)とはだれかを確かめた上で、熊と聖書の良い知らせと言える十字架の関係に進みたいと思います。
- ベテルの少年たち
この話に登場する数十人の「子どもたち」について疑問があるかもしれません。何歳ぐらいだったのか。彼らのしたことは本当に、熊に引き裂かれるに値することではあったのだろうか。なぜこんなに大勢がいたのか。
背景ですが、ベテルという町は大昔、紀元前約2000年にイスラエルの父祖ヤコブが夢の中で主なる神の恵みの約束を受けた場所でした。歴史的に祝福の町だった訳です。しかし、この話の数十年前の紀元前930年頃に、イスラエルの王ヤロブアムがその町に金の子牛の像と祭壇を築き、真の神ヤハウェをエルサレムで正しく礼拝することがない様にしました。ベテルはヤハウェに背く道を選びました。すでに読んだ通り、ベテル出身の人がエリコを再建して、神ののろいの結果、自分の子どもを失いました。
ベテルの町全体はこうして、神様に反対する町でした。住民のほとんどは偽の神々を拝み、真の神とその御教え及び預言者を軽蔑する人に満ち溢れていました。それは、町の次世代の対応から分かります。42人より多い群衆が町から出て来ました(第二列王記2:24節)。新改訳が23節で「小さい子どもたち」、24節で「子どもたち」と訳していることばは、年齢の幅が広いものです。「青年」とも「少年」とも訳せます。そして彼らの言動からすると、幼稚園生の年の子どもだったとは考えにくいです。彼らは何十人もの群で町から出て行き、通りかかるエリシャを追い払おうとしました。10歳前後の少年だったと考えられます。
2章の前半で読める様に、預言者エリヤはここのエリシャと共にベテルを通りかかってから奇跡的に、そこから天へ引き上げられました。ベテルの住民たちにエリヤが「上って行った」ことが噂されていたか知りませんが、ベテル人の少年たちが「からかい、『上って来い…』と言った」のは、「はげ頭」と呼ぶことより深刻な失礼を表しました(23節)。「天に上るのを見せてみろ」という挑発か、あるいは川の谷間から登って来たエリシャはもっと標高の高い地域の「あっちへ行け」と意図して、拒絶する声のどちらかでしょう。どちらにしても、ベテルの少年たちは神の預言者を実に憎んでいました。
皮肉な対照に、以前、のろわれたエリコの人々がエリシャに懇願した結果、神は町の災いを奇跡的に取り除いてくださいました。ベテルは逆の方向で、過去の霊的遺産を捨てて、神の使いエリシャを嘲って、その報酬としてのろいを受ける町となりました。「すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、子どもたちのうち四十二人をかき裂いた」という結果でした(24節)。とても悲しい、怖い悲劇でした。
②エリシャ
さて、エリシャはどういう人だったのでしょうか。意地悪い、あるいは恨み深い人でしょうか。神に従っていた、または、いなかった人でしょうか。
エリシャの心の想いは書かれていません。けれども、神様が彼を選んでくださって、神のみことばに反抗的なイスラエル人の同胞に警告と励ましを伝える使命を受けた人、預言者でした。預言者エリヤに忠実について行った人でした。そして第二列王記2章の前半で、神の霊を豊かに頂けるように頼み、働きを受け継いだ人でした(2:1-10)。罪人だったに違いありませんが、神様と親しい関係を持つ人だったと言えます。
エリシャは神が告げられ、モーセなどの預言者たちに書かれた聖書の内容を知っていたでしょう。熊の事件は彼にとって、警告なしの全く突如の事ではなかったかもしれません。旧約聖書のレビ記26章のことを、知っていたでしょう(少なくとも、神様はご存知でした!)。それはイスラエルがもし預言者モーセを通して与えられたシナイ山契約を破り神に背くなら、刑罰を受ける、という厳かな警告です。のろいの警告とも言えます。その22節でこう警告されていました。「わたしはまた、あなたがたの間に野の獣を放つ。これはあなたがたから子を奪い、家畜を絶えさせ、あなたがたの数を減らす。」
エリシャが振り向いて見つめて、「主の名によって彼らをのろった」とありますが、主の御教えどおりに告げただけでした。エリシャによる気まぐれな、残酷な虐殺ではありませんでした。エリシャの態度に罪が全くなかったかどうかは断言できません。しかし、彼ののろいのことばは、ヤハウェ、主の御名においてのものでした。そして主が契約どおりに制裁を下されました。
25節はエリシャの道のりの続きを教えます。「こうして彼は、そこからカルメル山に行き、そこからさらに、サマリアに帰った。」
(地図スライド)
エリヤが神様の奇跡を示した場所である、イスラエル北方のカルメル山まで行ってからまた南へ下り、神に対して反抗的なヨラム王の都サマリアに行きました。神様が次にどのような預言を下さっても、忠実に伝えるために構えました。エリシャは重い責任を受けて、忠実に歩もうとしました。
③主なる神(ヤハウェ)
ところが、もっと大切なのは、エリシャがどうかと言うより、彼が仕えた神様はどういう方でどのように働かれるかです。主人公なる主とはどういうお方かを再確認したいと思います。その有名な自己啓示の宣言が出エジプト記34章にあり、基本的な姿勢を示します。
「主〔ヤハウェ〕、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジプト34:6-7)
神様は冷たいお方ではありません。むしろ、被造物を熱心に愛されます。そして被造物に一心の、真心の愛を要求する、きよいねたみを抱かれます(出エジプト34:14)。お造りになった人間と契約の関係を下さいました。私たち人間は契約どおりの祝福ものろいも主から受けます。そして神様は正しい事を愛し、悪を憎む方であるからこそ、正しい報酬を私たちにお与えになります。聖なる愛で私たちを求め、私たちからの聖なる愛を求めておられます。
ベテルでの出来事は、神様が冷たく残酷になさったことではありません。私たちはこの怖い話を完全に理解できず整理できないかもしれません。しかし、大切なのは、私たちがそれでもなお神をまだ信頼できるかどうかです。
新約時代での展開
きょうの話では、二つの町は異なった経験をしました。その中で、神様が憐れみ深いことも、厳格な正義を行われることも知りました。特にベテルの少年たちと熊の話は私たちと私たちの神、そして私たちに必要な福音について教えます。
私たちはベテルの少年たちのように、聖書の中に嫌なメッセージに出会うと、その教えやそれを告げる人を上から目線で批判することがあるかもしれません。私たちも刑罰とのろいに値する者です。そして、新約聖書が描く神ときょうの話の神とは異なり過ぎる、と感じやすいかもしれません。イエス・キリストの復活以来の新しい契約の時代にクリスチャンはきょうの話の恐ろしい結果をどう理解しましょうか。神様は人間に向けられる優しさと厳しさを変えましたか。
確かに、新しい契約の時代では、神様がその子供たちに恵みと愛を絶えず注いでくださいます。私たちをのろわれません。エリコも、きょうの話でこの恵みを新たに体験しました。しかし、それはなぜかと言うと、エリシャが雛型として暗示していた、究極の預言者イエス・キリストが世に私たちに与えられたのです。神様は最初から、裁きだけでなく憐れみをも下さるお方です。信仰によってイエスと結び合わされる人は皆、次の確証を受けます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)クリスチャンには、のろいは来ません。
ところが、同時に神は正義を過去と同じ基準で保たれます。罪を裁かれることに変わりはありません。イエス様は憐れみ深いお方ですが、虐殺された同胞に関するニュースを聞かれた時、話して来た人々に「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と警告なさいました(ルカ13:3)。キリストご自身は将来、神の国を完成させるためにエリヤと逆方向で、降りて来られます。熊ではなくご自分の舌で、ことばで敵を罰せられます(黙示録19:11-15)。ですから今でも、神は完全な義を要求され、義を持たない人を罰されます。
ただし、イエス・キリストにより頼む者にとっては、神様の変わらない正義と罪に対するのろいが完全に、確実に取り扱い済みだということが決定的な違いです。十字架の上で、旧約時代から変わらない裁きがなされました。だから最終的に、神様はイエス様にあってのろいでなく恵みを下さいます。
ベテルの事件とイエスの十字架を比較するとどうでしょうか。十字架の前で、少年たちでなく、教養のある成人たちもイエスを「からかい」ました。最も祝福されたはずの都、エルサレムの住民は、町を出て彼をののしりました。彼らはベテル人と逆の要求で同じように嘲りました。「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)
イエスはそこで、のろっても良いのに、エリシャと違って、「父よ、彼らを赦しください」と祈り、のろいをその身に受けてくださいました(ルカ23:34)。シナイ山契約にあった、野獣ののろいの他にあった申命記21章の警告がイエスの十字架で成就されました。ガラテヤ人への手紙3章13節が解説します。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
だからこそ、私たちの罪はベテルの少年たちと同じような刑罰を受け、神が完全な正義を保たれたと同時に、私たちは信仰によってイエスのきよさを持つ者として扱っていただき、きょうも神の愛を受けられる者です。神様の厳しい正義は、ベテルの少年たちとエリシャの時代の後に変わっていません。しかし、イエス様の犠牲によってそののろいが全て注がれ尽くされ、吸収されました。イエスが、信じる者を囲み、守り、きよめてくださるのです。十字架での出来事のゆえに、イエスに信頼する者はのろいを受けずに、神の偉大な愛と祝福を受けています。
最後に、念のため伝えたいことがあります。私たちの人生の苦しみは、なぜあるか分からないことがあります。人生の悩みについて明白な説明を受けないでしょう。私たちの人生に神様からの懲らしめはありえます。そして、私たちのせいでない苦しみもありえます。けれども、エリコやベテルの話を思い出して「この苦しみは神からののろいかな、罰かな」と恐れていただきたくありません。父なる神は子なる神を与えるほどに罪人を愛し、罪人の刑罰を取り扱って、イエスに信頼する私たちを義のある者として扱ってくださいます(ローマ8:31-32)。
天が地上はるかに高いように
御恵みは 主を恐れる者の上に大きい。(詩篇103:11)
私たちは苦しみに会います。ベテルの熊の事件のように整理しづらいこともあるかもしれません。しかし、イエスにあって、私たちは父なる神に愛されています。イエスが再び来られるさばきの日にも、同じように安心できます。イエスに抱かれて囲まれて、のろいでなく祝福を受けるからです。
ベテルの少年たちを思い出す時、自分に来るはずだった、あれ以上ののろいがキリストによって取り扱われ済みだと思い出してください。エリコを思い出す時、イエス様に行く祝福が、イエスにより頼む私たちにも分け与えられる、とも思い出してください。熊ののろいでなく十字架の祝福を受ける者として、神様の愛の内に祈って歩みたいと思います。