2023年10月22日礼拝 説教「種なしパンの教会」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ペテロへの手紙第一 1Peter 2章9節
さ ん び Opening Praise 「感謝と喜びを」
さ ん び Praise 「見上げよう神の御座 Behold our God」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 230番「確かなもとい ただ主に置き」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 1 Corinthians 5章1-13節
聖書の話 Sermon 「種なしパンの教会」

百瀬ジョザイア伝道師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌45番「神の子羊」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer エペソ人への手紙 Ephesians 5章25-27節より

百瀬ジョザイア伝道師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction クレイグ・ポール宣教師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

 カレー屋さんのナンを食べたことがありますか。西洋風のふっくらした、イースト入りパンと違う形をしていますね。でも少しふくらみます。ほとんどふくらまないパンもあります。イーストや発酵なしの、種なしパンです。これは聖書によく出てくるものですが、地味な、平べったいパンです。も、パウロは今日の箇所で、教会は種なしパンだと書いています。ふっくらして、美味しそうだけど、毒の入ったパンより、平べったくちょっと硬め、だけど体に良いパンのほうが良いように、パウロは教会が<健康で>あるように願って、この箇所を書きました。

 前回まで、パウロは大きなテーマとして、自分の内に何か誇りを持とうとして競い合うコリント人クリスチャンたちに、争うことを止めるように教えましたが、この手紙の56章では、同じ前提を持ちながら別の課題に目を向けます。その前提とは、教会生活はイエスの十字架によって形作られ、交わる共同体の生活だという前提です。そう考えると、今日の箇所のとおりに、教会員の罪は教会の健全さに関わる大きな課題だということになります。

この箇所は、実は二つの罪<問題>を取り扱っています。一つは、教会の共同体に属する、ある一人の罪です。

 「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり…」、具体的に、「父の妻を妻にしている者がいる」のです(1節)。「妻にしている」と言っても、これは「持っている」という意味で、正式に入籍などしていないかもしれません。しかし、結婚しているかのように生活していました。

 近親相姦は十戒の第7戒、「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)を破り、さらに、レビ記188節で具体的に禁じられたことでした。申命記2720節でこの形の罪はのろわれるとも書かれました。しかも、これはローマ帝国の法律でも禁じられたことでしたから、パウロは「異邦人の間にもないほどの淫らな行い」と書いています(1節)。

 推測に過ぎませんが、コリント教会のある男性クリスチャンの父親が再婚して、その後亡くなったか離婚したかの後に、男性クリスチャンは父親の元妻が気に入って、同棲など結婚のような関係を始めたということでしょう。

 でも、パウロは詳細に触れる必要を感じません。むしろ、この大問題を1節で取り上げてから、二つ目の問題へ進み、13節まで続けます。セクションに分けると、2から5節までは二つ目の問題とパウロの指示、6から8節まではパウロの指示の根拠と再確認、9から13節までは補足と最後にもう一度指示があります。二つ目の問題とは、教会の共同体全体が一人の罪を軽々しく扱って、純潔を損ねる罪です。

それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。(2節)

 身近な一人が明らかに罪の生活をしていることに気づいたコリント人たちは、嘆き悲しむべきなのに、のほほんとしていました。その理由と補足は、6節以降で見ますが、ひとまずパウロは、コリント人クリスチャンたちの教会が4章と同じ罪を犯して「思い上がっています」と言います。彼らは、男性の罪を少し自慢していた可能性があります。

 手紙の数箇所に「自由」に関する課題が(612節、8章、9章など)出るので、コリント人たちはクリスチャンになった人は過去の律法や社会の決まりから自由になって、好きなことを何でもして良いのだと少し誇っていた可能性があります。「今までの社会で悪いと見なされた、親近相姦の関係を持つ兄弟がうちにいるよ。俺らコリントのクリスチャンは本当に自由だ」と「思い上がって」いたのかもしれません。

ですから、35節でパウロははっきりした指示を述べます。遠くからでも、パウロは3節で「霊において」(聖霊様によって、とも訳せます)コリント人の教会とともにいると強調して、指示します。

4  あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、 5  そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(4-5節)

 要するに、パウロはこう言っています。イエス・キリストの名によって霊的に教会と一緒になって、イエスが働かれると確信して、1節の罪を犯している人を教会の守りと交わりから除外します、と。その結果、「肉が滅ぼされる」と期待しています。ここの「肉」は身体という可能性もありますが、それより、ローマ人への手紙8章5節以降で見られるように、神に敵対する心でしょう。「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。」(ローマ8:6-7)最終的に、パウロはその人の「霊が主の日に救われる」のを願い求めてこの対応を取ると言います。教会の共同体が、一人のその頑なな罪のために、悪魔(サタン)がその人を懲らしめるままにするように言われています。その人が心砕かれて神に立ち返って救われるかもしれない、とパウロは願います。

 パウロはここで愛をもって、真理を語ります。はっきりと真理を語って、罪を指摘します。一人に対しても、教会全体に対しても、罪はあると言います。同時に、パウロは愛を持って、訓戒を命じています。と言うのは、4節でこれはイエス様が望まれて、聖霊様によって臨在してくださり、力を与えてまた働かせて、実行なさると書いています。さらに、5節で希望があって訓戒を命じます。罪を犯してきた人が罪ある「肉」と戦って神に立ち返る望みを持って、辛い処方箋を出します。

 パウロは6節でコリント人教会の態度を諭します。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。」それから、68節で訓戒の意義を伝えます。

 まず「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。」と言います。ここは旧約時代のイスラエルの文化背景と宗教背景を用いてい<る主張で>す。古代のパンはお店で買えるイーストでなく、自然発酵によってパンをふくらませる製法を用いました。<パン作りを>効率よくするために、パンを作るたび、こねた粉の塊を少し取り残して<置くと>、それが次回までに発酵しました。次のパン粉をふくらませるために、それを用いました。そういうパン種はたくさんの小麦粉をふくらませて、形を変えることができました。イエス様は同じパン種を用いて、神の国の広がりを描写しました(マタイ13:33)。そして、パウロが今回のたとえを用いて、一人のクリスチャンが平気で罪を犯し続けて、教会が見て見ぬふりをすると、教会である「こねた粉全体」が悪い方向へふくらんでしまうと注意します。<実際、もしあの残したパン種に最近が入れば、それを次とその次とさらにその後のパンにも入れてふくらませるリスクもありました。ですから、>5節までの劇的な対応は、教会を守るためです。

 7節でパウロは続けて、さらに聖書的、神学的な別の理由を伝えます。まず、命令です。「新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。」イスラエル人は過越の祭りの前、パン種を家から一掃して、1週間持たないように命じられ、今日でもこの命令を守ります(出エジプト12:18-19参照)。過越の祭りで、パンがふくらむのも待てないほど早くエジプトから追い出してくださったことを覚えて、主なる神がどんなに素早く彼らを奴隷と虐待の生活から贖い出されたかを記念しました。<そこで、新しい食材のみの入ったパン種なしのパンと、屠られた子羊の肉を食べました。>

 パウロは過越の祭りのあり方を使って、パン種のない「新しいこねた粉」として教会が歩めるように、罪の「種」である古い考え方や罪そのものを取り除こうとする必要がある、と言っています。

 教会は決して、クリスチャン同士が常に互いの罪を指摘し合う、批判の場であってはいけません。決して安易に訓戒に踏み出すべきではありません。しかし、罪と戦うように励まし、もし罪が深刻な状態に進めば、はっきりと愛をもって真理を語る必要はあります(エペソ4:15)。

12  兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。 13  「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(ヘブル3:12-13

 7節の真ん中に、先の命令に続く根拠があります。それは励ましとなる真理です。「あなたがたは種なしパンなのですから。」教会は、<罪と戦う必要はあるが>きよめられたパンの塊です。海浜幕張めぐみ教会も、「種なしパン」です。この手紙の初めですでに確認されたように「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された」者たちです(1:2)。だから、その幸いな聖さを保つ意味があります。

 さらに、教会訓戒の根拠として7節の最後もあります。原文にある接続詞をはっきりさせれば、「あなたがたは種なしパンなのですから。〈なぜなら〉私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」と書けます。十字架でイエスが究極の過越の子羊として、罪の裁きの身代わりとして死なれ、信頼を置く私たちの救いを獲得されました。罪に対する奴隷の生活を決定的に断ち切る力を十字架で発揮されました。<だから私たちが種なしパンのように新しいものとされました。>

 だとすれば、ふくらんでしまって教会の愛と純潔を脅かす罪を残す訳には行きません。それでパウロは8節でまとめます。「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」「古いパン種」は罪、つまり古い、自己中心の生き方あるいは「肉」からの影響全般と言えます。「悪意と邪悪」が含まれます。パウロは肯定的に、それらを捨てて、教会生活を楽しむように促します。

 パウロは5章の終わりで教会による訓戒の方法を補足します。9節「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。」第一コリントの前に、聖書のために残されなかった、パウロからコリント人宛の手紙があったそうです。パウロは実際にあった誤解を正すため、あるいはあるかもしれない誤解を未然に防ぐために、1011節を書きます。二つの補足に分けることができます。

 一つ目に、だれに対して訓戒を行うかを明確にします。10節では、神様を認めない人のことは当然訓戒しない、と言います。彼らと関係を持って問題はない、とパウロは説明します。しかし、自分はクリスチャンだと言いながら罪を習慣としている人が対象です。「私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら…。」ここは現在進行形の述語で、「〜者」という名詞で書かれていて、貪欲などがその人の特徴だというふうに書かれていますから、数回「つまづいて」罪を犯すことより深刻な、継続した生き方を指しています。

 罪を平気で犯したり、あるいはむしろそれが自分だから良いのだという態度を取ったりする自称クリスチャンがいれば、教会はその信仰の告白を疑って、訓戒を行うべきだとパウロは言います。

二つ目の補足は、会衆が具体的にどう訓戒に賛同するかの説明です。「そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」「付き合う」という動詞は、「入り混じる」というニュアンスがあります。はっきりと教会内外の線を引くべきところに引いて「この生き方を特徴として持ち続ける人は、教会に入っていると思いにくい」と示す必要があります。愛し続けます。祈り続けます。嘆き悲しみます。しかし、クリスチャンかのような親しい交わりを持たないで、線引きをします。

 パウロは12節・13節前半でこの段落の前半のことを説明する原則を伝えます。

12  外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。 13  外部の人たちは神がおさばきになります。

 日本に生きる私たちにとって、「内」と「外」は意識しやすいです。幼稚園、学校で友だちにいじめられるのは悲しいです。会社の部署、近所付き合いで「仲間外れ」にされたくありません。だからこれはきつく聞こえるかもしれません。ところが、パウロはこの手紙で愛を説いていき、有名な13章で神の愛をうたいますが、2週間前に熊と十字架の話でしたように、神様の愛は聖なるねたみを抱く愛です。

 「私は聖書の神様の子どもだ」とその神に応答して信仰告白して洗礼を受けたなら、神様が聖めた共同体の一員の責任を負います。罪との戦いに、だれもこの生涯のうちで打ち勝てる訳ではありません。けれども、教会は教会の内で、自分の罪に甘い態度を取り続ける告白上の兄弟姉妹を見て、その人の「肉が滅ぼされるように」、「彼の霊が主の日に救われるため」に、深刻な警告として一旦交わりらしい関係を断ち、「外」扱いをする必要が時にはあります。

 パウロは最後に、申命記177節から引用します。申命記17章の文脈は、一つの町に偶像を礼拝しようとそそのかす人がいれば、その悪い影響を徹底的に取り除く必要が説明されます。パウロはコリントの教会の状況は同じと思って、「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」と注意して、締めくくります。

こうして、第一コリント第5章が終わります。重い話ですが、二つのことをぜひ覚えていただきたいと思います。

まず、前提として、福音を覚えましょう。イエス様の犠牲の大きさを覚えていただきたいと思います。それがこの箇所の根拠であり、希望でもあります。7節、8節のとおり、イエス・キリストが十字架で罪の代価を払ってくださったゆえ、私たちは難しい罪との戦いを続ける力を聖霊様から受けるだけでなく、すでに聖い者とされた者です。キリストの花嫁としてきよめられた教会です。エジプトでの奴隷生活から買い出され、贖い出されたイスラエルの国民が屠られた子羊を覚え感謝した以上に、罪の奴隷生活から贖い出された今の神の民は、子羊イエスの死と復活を覚え、感謝することができます。

 もしあなたがクリスチャンでなければ、<聖書から聞いてきたことを考えていただきたいと思います。>イエス様が十字架で死なれて復活された意味を思い返し、クリスチャンの友人と話してみてください。ご自分に罪があると認められるなら、それをイエス様が取り除く力があると信じて、過去の毒入りの「パン種」から自由になりたいと思いませんか。

 二つ目に、イエス様の犠牲の結果として、個人クリスチャン、そして教会として、内にある罪と戦う重要さを覚えていただきたいです。

 7節「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られた」ことは、1節の男性が一刻も早く悔い改める動機づけとなりえました。私たちも自分の罪を軽く見てはいけません。どの罪でもその「報酬は死です」、とローマ書623節が告げます。イエス様は、いのちを捨ててその報酬をその身に受けて罪人をきよめて、変えるために来られました。変えられるように求めたい罪は何ですか。一緒に祈り求めるクリスチャンのどなたかにぜひ、声をかけてみてください。

 パウロは個人クリスチャンだけでなく、彼の罪を見過ごしてきた教会全体にも悔い改め、さらに訓戒とへと呼びかけました。私たちも、イエス・キリストの犠牲のゆえ「種なしパンなのですから」、「古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで」歩みましょう(78節)。罪を悔い改めずに、まるで未信者かのように生きている兄弟姉妹に声をかけて、涙をもって懇願して、もしも必要ならさらに交わりを一旦断つことがあるかもしれません。これは教会全体のきよさのためです。そのお一人のためでもある愛なのです。

そういう場合、私たちの模範と希望はいつもキリストです。私たちは皆、肉に従って永遠の裁きを受けるに値するものです。しかし、イエス様は復活され、私たちを変えて支えて励ますために聖霊様を遣わしてくださいました。イエスは私たちをただ赦して「白紙」にして、それから放って置きはなさいません。キリストはご自分の花嫁を変革することもはっきりと計画しておられる、私たちの過越の子羊です。罪を嘆き悲しみ、自分と兄弟姉妹の中でそれと戦うのは至難の業ですが、神様の助けを期待しましょう。イエスが流された血をもって、教会をきよめられました。主の教会として、感謝して祝いましょう。「ですから、…誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church