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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ミカ書 Micah 6章6-8節 |
さ ん び | Opening Praise | 「私たちのこの口は」 |
さ ん び | Praise | 「私の願い Lord I give you my heart」 |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌番32番 「聖なる神」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一 1 Corinthians 6章1-11節 |
聖書の話 | Sermon | 「奪うか相続するか」
百瀬ジョザイア伝道師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌319番「主イェスのみ声は罪ある者を」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 詩篇Psalm 23篇より
百瀬ジョザイア伝道師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | 百瀬ジョザイア伝道師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
何か欲しい物を巡って喧嘩する子を見たことがありますか。あるいは、そういう子であったことがありますか。時々、一人だけが意地悪で自分の力を使って相手から何かを奪おうとしたかもしれません。兄弟喧嘩でもよくあることです。けれども、大体、隣で見ている大人、あるいは他の子どもが見ると、突っ込みたくなると思います。「あなたはすでにおもちゃを、両手でも持てないぐらい持っているじゃん!なんで弟からそれも取るの」などなど、言いたいかもしれません。
パウロは今日の箇所で、争っている子どもたちのような会衆に対して、どんどん突っ込みを入れます。クリスチャン同士の恨み、争い、奪い合いは可愛い問題ではありません。けれども、その根っこにある罪が私たちの心にもあるかもしれないと知って、その醜さと酷さを理解すれば、神様の恵みをもっと味わうことができると思います。
まず、パウロは1節で状況を述べます。「あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。」そんなことをする度胸があるのかとパウロが呆れています。1〜4章に見たように、コリント人クリスチャンたちの間に、立場を有利にする影響力を求めて、競い合う考えが強かったそうです。そして学者が指摘するように、ローマ帝国の民事裁判では、賄賂や裁判官あるいは陪審員とのコネを使って公義を曲げることが可能でした。招きのことばにあった教えのように、古代イスラエル、また古代ローマで「公正を行い、誠実を愛」する以外の歩みがクリスチャンの間でも起こりうる問題でした。
さて、2節から突っ込みが具体的に始まります。
1)2節 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
パウロはもしかしたら、コリント人たちの主張を皮肉に使っているかもしれません。4章8節では、彼らは自分が神の王国の始まりをすでに経験して、治めているかのように振る舞っていました。「聖徒たちが世界をさばく」は彼らの主張かもしれません。将来、イエスの民である「聖徒たち」は確かにさばくことにおいて、イエス・キリストの働きに賛同する面が確かにあります(ダニエル7:22参照)。しかし、パウロがここで最後の裁きについて神学を述べるよりも、コリント人たちが「世界」の未信者たちの審判を自分たちの間での議論と和解より大切にすることを暴く皮肉を用いています。だから「ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか」と聞きます。
2)3・4節 あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。
また、「知らないのですか」と始めます。2節でクリスチャンたちがさばく側に立つことをさらに詳しく言って、天使たちでさえもクリスチャンたちに審判されるとパウロはコメントして、だから「日常の事柄は言うまでもないではありませんか」と指摘します。ところが、コリント人の教会では、逆に「軽んじられている人たち」、つまり、神の法律を尊ばない世の人たちが、クリスチャン同士の間に入って仲裁するように選ばれる現状はおかしい、とパウロが突っ込みます。
3)5・6節 私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。
旧約時代のイスラエルでは、モーセが同胞の間の小さめの争いを公平に審判できる人を立てて、必要なら上訴できる仕組みを採用しました(出エジプト18:13-26)。問題を解決できるほどの知恵を持つ人を、神様が民に置いてくださる訳です。ところが、ここの三つ目の突っ込みは、パウロが1章ですでに指摘したことを取り入れます。「兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか」は、人間中心の「知恵」で教会の間で差をつけようとして争っていたコリント人たちの自己欺瞞を再度、つつきます。賢い人がいると言うのに、教会の中に、争っている兄弟姉妹を公正な和解へ導く能力をだれも持っていないなら、「賢い人」はいないじゃないか、とパウロは言っています。
4)7節 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
パウロは次に、キリスト者の価値観の観点から突っ込みます。クリスチャンは罪人のまま、神様に受け入れられ、変えられていくのです。この地上を歩む間、私たちは傷つけ合ってしまう者です。偽善者です。けれども、イエス様が教え、実践されたのは、罪を犯す人を赦し、その霊的な益を求め、祈ることでした(ルカ23:34・第一ペテロ2:23)。不正な裁判の果てに侮られて頬を打たれても、殴り返しませんでした(マルコ14:65)。自分の時間や体力を守るために跳ね返す代わりに、憐れんで、教えてまた養ってくださいました(マルコ6:29-45)。有名なことばに次のものがあります。
…あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません。(ルカ6:28-30)
ここでイエスとパウロは虐待などについて何もしないでとは言っていません。実際に刑事問題を取り上げるべきケースが教会の中でも起こりえます。しかし、パウロが強調しているように、「ごく小さな事件」(2節)、「日常の事柄」(3・4節)は教会の関係者で解決できるはずです。自分たちで平和を作って収まるはずの問題を広げてしまうことを指摘しています。まず個人で取り扱えるならそうして、まだこじれるなら信頼できる証人と一緒に言って和解をもう一度求めて、最後に教会全体の審判で問題を解決することもできるでしょう(マタイ18:15-17参照)。しかし、コリントでは、あるクリスチャンは小さなことでも赦さず、信じない人たちの力を振るって、何か利益を得ようとしていました。それは次の突っ込みからも分かります。
5)8節 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
クリスチャン同士の問題を告訴していた教会員たちは裁判を利用して、他の教会員から何かを奪おうとしていました。何か口実を見つけて、民事裁判で訴えて、賠償させていたように思います。これによって「自身が不正を行い、だまし取っています」。そこで、パウロは彼らが赦せていない罪どころか、積極的に欲張って盗んでいるのだ、と突っ込みます。
もちろん、不正を正すことは大切です。けれども、私たちは不正なことをされると、仕返しをして、もっと得られる場合もあります。コリントの民事裁判で有利なクリスチャンが立場の弱いクリスチャンを訴えて、ミカ6章8節に反して、「公正を行い、誠実を愛し、/へりくだって、/あなたの神とともに歩むこと」をせず、「不正を行い」、誠実を踏みにじり、神とともに歩むと言いながら思い上がっていたそうです(第一コリント6:8)。
6)9-10節 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
9・10節は突っ込みの最後であり最も深く心に刺さるべきです。なぜなら、その罪が人の永遠の行き先をも決定づけると言っています。一つ注意したいことは、喜びに満ちて全ての罪や惨めさから解放された新しい創造である「神の国」は「奪う」ものではなく「相続」するものであることです。限られた資源を争って強い人が多めに取るものでもありません。相続は基本的に、だれかの好意や愛によって一方的に与えられるものです。恵みによります。
二つ目に注意が必要ですが、ここに10の罪人が書かれていますが、その罪を一度でも犯してしまった場合には神の国を相続できない、とパウロは言っていません。このような罪を堂々と、継続して、歩みが変わらずに続ける人を指しています。5章の10、11節に似たリストがありました。ガラテヤ人への手紙でも似た罪のリストを挙げてからパウロは「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」と警告しますが、「する者」と「している者たち」は要するに、神に反抗した生き方が一貫して続いていることを意味します。ただし、今日の箇所でパウロはコリントのクリスチャンが裁判で何かを互いから取り上げようとする時に「盗む者…貪欲な者…そしる者…奪い取る者」、神の国を相続できない人でないか心配している様です。逆に、神の国を相続すると約束されている人は、ここにある罪を捨てたいと思うはずだとパウロが考えたのでしょう。
ここの10種の罪人を深く見ると長くなりますが、これは例えば十戒を網羅しているというより、ここのほとんどの罪は、コリント人への手紙に登場します。その町で特に問題となっていたかもしれません。前半の五つのうち四つは性的な罪(十戒で言うと第7戒関連)、後半の五つのうち四つは貪欲関連の罪(十戒で言うと第8・10戒)が入っています。残る「偶像を拝む者」と「そしる者」は第1戒と第9戒の問題です。今日の箇所が特に見ているのは、貪欲関連の罪です。
聖書は欲張り、貪欲をとても厳しく扱っています。貪欲は、言い換えると、神様がすでに下さったものに満足せず、自分を満たすために何かが必要と思って、必要以上にまたは他の人のものまで欲することです。コリントのクリスチャンたちの中で、何か嫌なことをされて、それを口実として民事訴訟を起こしていた訳です。子どもの喧嘩の言い訳を聞くと、「彼が僕よりおもちゃが多いから取って良いでしょう!」とか「私のほうがよい子なのに、なんで彼女がもっといい物を持っているの?」などと聞こえるかもしれません。大人になっても、私たちも言い訳を使って、神様に感謝せず、不平不満を抱きながら欲するものに手を伸ばしているかもしれません。その欲張りな姿勢が可愛く見えるときでも、罪が心を支配して、惨めな喧嘩を生み出すことがあります。神の慈しみと備えを疑うゆえ、私たちはそうなってしまいます。
貪欲に限らず、もし私たちがクリスチャンだと言いながら、聖書で神様に教えられたことに平気でずっと反抗し、罪を犯すなら、神を本当に愛しているかどうか吟味するべきです(第二コリント13:5)。ただし、何かの罪に縛られているように感じる人に希望がない訳ではありません。何かの罪への「中毒」があるかもしれません。実際、私たちは皆、だれでも、何かの罪に何度も戻ってしまい、中毒のように続けてしまいます。神の国を相続する者かどうかは、私たちの行いに基づきません。もし行いに基づいたとすれば、絶対に神様の正しさと誠実さの基準に達しないと聖書は教えます。(真摯に十戒を学んでみた方ならお分かりだと思います!)私たち人間は、神の国を自分の行いで決して獲得できません。罪によって、すでに失格者です。
だから、パウロはこの箇所で、コリントのクリスチャンたちと私たちに11節をも残しました。最後の11節は悪いことを指摘する突っ込みではありませんが、今までの突っ込みに対する唯一の希望を伝える良い知らせです。
あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。
パウロは別の箇所で違う罪のリストを使って、自分の過去を振り返りました。「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(第一テモテ1:13)私たちも皆、クリスチャンなら、「私は以前には…だった」と思い返せるでしょう。パウロが9と10節で挙げた罪に、かつて該当した「ある人たち」はパウロの手紙を聞きました。そこに書かれていない罪を犯す人ももちろんいました。けれども、パウロはそれが過去の状態であったと言っています。キリスト者は新たにされています。
しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
原文では三つの動詞が強調されていて、全ては過去に完了したことを意味します。「しかし、あなたがたは洗われ、しかし、聖なる者とされ、しかし、義と認められたのです」。これらは、罪深い人の罪を神様が取り扱ってくださったお陰です。
人が変えられる根拠は「主イエス・キリストの御名…によって」です。要するに、イエスが自分の主であり救い主(キリスト)であると心から告白する者はこのように変えられます。イエスと結び合わされて、ここにある三つの出来事を受けて、過去の歩みと決定的に縁を切りました。
そして、イエスに信頼したことでさえも、私たちの力に依りません。書いてある「私たちの神の御霊によって」、これがなされます。聖霊様(御霊)が人を罪の報酬としての死から離れさせて、永遠のいのちを下さる時、ここにある三つのことがなされます。
①「洗われ」ました。クリスチャンたちが「イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた」とペテロが書きます(第一ペテロ1:2)。
②「聖なる者とされ」ました。聖なる者は、聖なる、聖くてまた特別に他のものから別たれた神様に近づいてよいとされています。聖なるイエス様が十字架の上で罪人の身代わりとなり、父なる神から、罪でけがれた者として扱われたゆえ、私たちはイエスの聖なる兄弟姉妹として扱っていただけます。
③「義と認められ」ました。義という言い渡しによって、聖なる者と同じように正しく聖い神様に近づき、要するに「義の宿る新しい天と新しい地」を相続することが本当にできます(第二ペテロ3:13)。
だからこそ、私たちは気落ちしません。民事裁判にまで訴訟しなくても、私たちも神様が下さらなかったものを欲して、他の人から何かの方法で奪おうとするかもしれません。けれども、自分の力で戦っても神の国を獲得できません。相続できる根拠は、私たちを貪欲な者から造り変えてくださる神の御業のみによります。
さて、皆様は今日の箇所にあった「貪欲」や「争い」についてパウロのことばで突っ込まれたと感じるでしょうか。神様が下さっていないことに対する不満や人が持っているものに対する妬みがありますか。そのために、人を攻めたくなりますか。喧嘩してしまいますか。私たちは神様の愛を疑うからこそ、そうしてしまいます。
けれども、ともに覚えたいと思います。「公正を行い、誠実を愛」されたイエス・キリストの名によって、そして神の御霊によって、私たちは奪いも獲得もできない神の国を相続できるものとされます。これ以上の愛があるでしょうか。これ以上に何を貪れますか。他のことを貪る必要はありません。神様が私たちを歓迎するために、洗い清め、聖なる者として取り分けてくださり、義ある者として扱ってくださいます。これをまだ受けていない方は今日から、「私は以前はそうでした。しかし、私も洗われ、聖なる者とされ、義とされました」と言えます。すでにこれが言える人は、毎日言えます。どの罪で悩んでいるとしても、今週どんなに罪に悩まされても、この罪を神に告白して、イエス様の十字架での犠牲を感謝していきたいと思います。