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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌 454番「私のいのち」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 コリント人への手紙第一 1 Corinthians 6:9-20
聖書の話 「からだをもって神の栄光を現す」 百瀬ジョザイア牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」
聖晩餐式 Communion 百瀬ジョザイア牧師
[制定のことば] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式 辞][祈 り][分 餐]
配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教会福音讃美歌272番 「みつにましてひとつの神」
祝 祷 百瀬ジョザイア牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
皆さんにからだがありますね。私たちは互いのことを見たり、聞いたりすることができます。小さな子なら抱っこできます。神様からの贈り物です。霊だけでなくからだもある人間は、特別な存在です。
でも、特別だからこそ、大切に用いる必要もあります。守る必要があります。第6戒のように、人のからだに害を与えることは禁じられています。では、神様がどのように用いてほしいと考えておられるのでしょうか。性的な面から、パウロは今日の箇所で取り扱います。
先月お話しした第一コリント6章9〜11節は、今日の箇所のテーマの頭出しをしているので、今日、前置きとして朗読されました。9節に、色々な性的罪の中を歩み続けている人は神の国を相続できないと忠告しますが、11節はそのような罪から洗い清められた人は神に歓迎され、永遠の幸せを神様の前で経験できると言います。これを念頭に置きながら、12節から見ましょう。
そして、もう一つの前置きですが、この箇所に性的な罪以外のどの罪にも関係する大切な原則が書いてあるのです。私たちは皆、異なった形でここにある教えに背くことがあります。からだをもって神の栄光を現すか、自分勝手に生きるか、とも言えます。
パウロは最初に、コリントで流行っていたと思われる主張を持ち出します。そして、からだとその行いは神の前でそもそも重要であることを指摘します。ちなみに、当時のギリシャ語には括弧マークがありませんでした。だから、全体の論理の筋を追って、どこが引用かを推測します。新改訳は12〜13節に二つの引用があるとして、カギ括弧を付けて後に「と言いますが」と書き加えて示しています。
1)12節前半と後半に2回、「すべてのことが私には許されている」という同じ主張、スローガンが出ます。コリント人クリスチャンたちは自分たちが自由だと言って、何の律法にも縛られないと理解していたように聞こえます。パウロは2回、反論します。まず、「すべてが益になるわけではありません」と注意します。益でない事をすべきではないのです。私たちが好きなことは良い意義のあることでしょうか。次にパウロは「私はどんなことにも支配されはしません」と、私が自制できないことを避けるべきと指摘します。要するに、クリスチャンに与えられた自由は神様と与えられた素晴らしい関係において、用いるべきです。
2)新改訳では、13節にある二つ目の引用は「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」で終わります。ところが、その続き「神は、そのどちらも滅ぼされます」もそうであると考えます。なぜかと言うと、この続きも丁度、コリント人たちが主張していることの論理に合うからです。「腹」は食物のためにあると言うのは、好きなように食べて良いという意味でしょう。コリント人たちは「すべてのことが私には許されている」をこのように適用して言っていたでしょう。そして、新改訳は13節で「神は、そのどちらも滅ぼされます〈無にされます〉」はパウロのことばとされていますが、これもコリント人たちが言っていたと理解しています。「からだは滅ぼされるから、このからだで何をしても神には関係ないでしょう!」ということです。
パウロはコリント人たちのスローガンの表現を借りて、反論します。「からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。」(13節後半)要するに、「腹もからだも、霊なる神様と無関係ではない!」と言います。からだで性的に淫らな事をするのは、「主のために」存在するからだを悪用することです。むしろ、主なる神様は実際、からだのことを気にされ、その「ためにおられる」神様です。
ここはキリスト教の独特な点の一つです。多神教や先祖崇拝を始め、多くの宗教の神々や霊の身近さが強調されます。人間のような感情や物質的な欲求を持つように描かれます。先祖にお供え物を出すことや古事記で女神が踊る話もそうです。これらの宗教では、神の力はとても小さいです。得意分野(安産、合格祈願、商売繁盛など)があり、力の及ぶ地域も限られていますので、何があっても神が救ってくださるという確信がありません。
もう一方で、一神教のイスラム教、あるいは多くの哲学は神(理性、魂など)の超越性を強調します。神は全知全能ですが、神や人の魂は物質的な事と関われないと考えられます。むしろ、物質が弱さや汚れを帯びるとされます。そうだと、人間と神は互いに近づけないという問題が残ります。
宗教学者の島田裕巳先生はこれを指摘して、一神教の信徒はよく、身近な神を持ちたい気持ちから、聖人など、超越の神を物質と弱さの人間に繋げる存在を求めざるを得ないと主張します(『日本人の神はどこにいるか』)。カトリック教徒などでは確かにそういう傾向は強いかもしれませんが、聖書は、身近で物質や欲求に限られる神でもなく、超越しておられて物質を軽視する神でもない神の自己啓示です。無限、永遠、不変の子なる神様は肉の身体と人間の理性ある魂をお取りになり、実際の人間にもなられたからです(ウ小教理問答問22参照)。だからこそ、私たちに同情して、人間の身代わりとして罪のために死ぬことも可能となりました(ヘブル2:14-18、ヨハネ1:14)。これが、クリスチャンがクリスマスの時期に祝う受肉の素晴らしい知らせです!
今日の聖書箇所も、まことの神様はからだの事も大切にされると教え、さらに私たちがからだとその欲求を持って何をするかをも気にされることを教えます。14節はさらにはっきりと指摘します。「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。」父なる神様は人間となられた「主」イエス・キリストのからだを復活させてくださいました。そして将来、全人類をも「よみがえらせてくださいます」。パウロはこれを15章で詳しく取り上げます。コリント人たちは神の国では、からだとその行為がどうでもよいと思って「神は、そのどちらも滅ぼされます」と言ったかもしれませんが、パウロはここの14節で「いいえ、そのからだはよみがえらされて、存続し続けるから、それで何をするかは重要です」と反論する訳です。コリント人クリスチャンたちの一つの問題である性的罪に対して、これはパウロの一つ目の指摘です。
それから、パウロは三つの観点から性的罪がクリスチャンにとって危険であることを説明します。第一に、クリスチャンとキリスト及びそのからだである教会との関係の観点から取り上げます。まず15節を読みます。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
ここに二つの前提があります。①クリスチャンは全部、神様のものです。霊だけでなくからだもそうです。そして、②クリスチャンの共同体である教会はキリストのからだとして描かれます。イエス・キリストが実際に物質的なからだを持っておられますが、聖霊様によってイエス様はクリスチャンと霊的に結び合わされて、クリスチャンそれぞれのからだは教会として、キリストと繋がっています。
「からだの一部」は諸々の部分を指します。臓器、肢体など、ひとりの人をなす物質的な部分です。イエス様と霊的に繋がった人は、他の信者とお互いに、そしてイエス様と、一つのからだのように密接に繋がります。(パウロはこのテーマを、12章でより深く取り上げます。)
以上の前提を踏まえて、パウロは突っ込みます。性的な罪を犯すことは、「キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とする」こと同然の、あり得ないことです!16・17節でパウロは、聖書の始まりに記された原則に基づいてこの主張の根拠を与えます。
それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。
創世記2章24節を引用して、結婚で「一体となる」ことは性的行為全般に当てはまるとパウロは言います。一心同体になります。だから、浮気は本来あるべきことの破壊です。「あなたのことをずっと思っていたよ、だけど違う人と一体となった」は矛盾です。同じように、霊的にイエス様と繋がっている、「主と交わる者」だと言いながら、身体的に結婚相手以外の人と「一つのからだにな〈る〉」ことも矛盾であるとパウロが言っています。「一つの霊」は神秘的に主イエスと人間が融合することの意味ではありません。それぞれは個別の人格を持ち続けます。しかし、一つとされます。
だから、身体的な不誠実は霊的な不誠実をも意味します。キリストのからだまた花嫁、教会に対する裏切りでも、キリストご自身に対する裏切りでもあります。性的罪を犯すことは、クリスチャンが持つ、キリストの花嫁の部分としてのアイデンティティーを否定することです。
18節初めにパウロは単純に「淫らな行いを避けなさい」と警告します。これはあらゆる性的罪を含めます。イエス様が教えられたように、行動でなくても、思いの中で浮気を慕ったり、ポルノ類を用いたりすれば、それは姦淫の行為同然です(マタイ5:27-28)。
次に、第二の観点からしても、性的罪はクリスチャン自身に傷を付ける観点からも、問題です。18節の真ん中「人が犯す罪はすべて、からだの外のものです」の捉え方ですが、一方で、これもコリント人の流行りの主張の可能性があります。そうであれば、13節のように物質的なからだの罪を気にしなくても良いという主張であり、パウロは続けて「しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです」と反論しています。もう一方で、パウロ自身は18節の真ん中をも自分の主張としているかもしれません。要するに、他の罪も同じほどに悪いですが、性的罪は自分をも直接破壊してしまうという警告かもしれません。箴言でも似た警告がたくさんあります(2:16-19、5章など)。どちらの捉え方にしても、パウロは性的罪を犯す人は自分を裏切り、傷つけているのだと指摘します。
19〜20節は三つ目の観点から性的罪を扱います。それは、キリストとそのからだである教会に対する罪、自分自身に対する罪に加え、聖霊なる神に対する罪、三位一体の神に対する罪でもあるということです。
19節前半 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、…。
「宮」は神殿の内側を指します。異教では神の像(偶像)が置かれる(鎮座する)場所でした。人間のからだが「神から受けた聖霊」を宿す「宮」であると言うのはつまり、クリスチャンのからだはまことの神の神聖なお住まいである訳です。クリスチャンが聖なるものとされたのは1章2節でも、5章11節でも書かれています。子なる神のきよめにより、父なる神から御霊を受けています。
それだけでなく、クリスチャンの所属も変わっていることをパウロは言います。
19節後半〜20節前半 あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
コリント人たちは自由だと自負して「すべてのことが私には許されている」と主張していたかもしれませんが(13節)、実は、私たちは個人として完全に自由ではありえません。キリストのからだの臓器、肢体のような部分であるばかりではありません。悪魔と罪の奴隷でなくなった時に私たちは別の主人によって「代価を払って買い取られたのです。」黙示録5章で、私たちがどなたによって、何の代価を払って買い取られたかが歌われます。イエス・キリスト、「子羊の前にひれ伏した」者たちが歌います(5:8)。
「あなたは、巻物を受け取り、 封印を解くのにふさわしい方です。
あなたは屠られて、 すべての部族、言語、民族、国民の中から、
あなたの血によって人々を神のために贖い〈原文:買い取られた、と同じ〉、
私たちの神のために、彼らを王国とし、 祭司とされました。…」(黙示録5:9-10)
クリスチャンはイエス様の尊い血潮で買い取られ贖われました。6章11節にあるように、「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、…洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」イエスがキリスト者の個人的な主そして救い主となってくださいました。
ですから、聖霊様が住まわれ、イエス様が買い取られた者なら、明らかに、20節後半でパウロが締めくくる結論は相応しいです。「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」要するに、性的なことを含め、私たちは自分の存在のすべてをひとり個人で好きに始末できることではありません。神様が私たちの思いも言葉も行動も、霊もからだも、大切にされます。私たちが与えられたいのちで、聖なる者とされ神の所有として買い取られた者としてどう生きるかを問われます。神の栄光を、性的な思いと言葉でもあらわしていますか。
ちなみに、私たちの「おもな目的」が「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」ことであれば(ウェストミンスター小教理問答問1)、神様を慕って従うことで栄光をあらわすと同時に、神を喜ぶことができるはずです。性に関する罪の考え、ことば、行為はその時に楽しく感じても、本当の喜びではありません。クリスチャンを買い取って、聖なるところとしてくださり、キリストの花嫁なる教会のからだに加えられた特権を思えば、これに勝る喜びがあり得ません。
今日、からだを使っての罪は本当に神様の気になさることだと見ました。性的な罪に限らず言えることですが、これは特にコリントで課題だったかもしれません。神様は、すべての人のからだを、復活させるほどに私たちの存在にとって大切で良いものと見なしてくださいます。からだと霊は切り離して扱えません。
ですから、今日三つの観点から性的な罪を考えました。①私たちはその罪によって教会を裏切りキリストを裏切ってしまう。②私たちはその罪で自身を傷つけてしまう。③私たちはその罪で三位一体の神様とその成してくださった贖いを否定してしまう。
第二コリント5章10節にこう書いてあります。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体〈=からだ〉においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
そこで、質問です。クリスチャンであれノンクリスチャンであれ、私たちはみなよみがえらされ、キリストの審判に出ますが、その時にあなたはどうしますか。「私は大抵良いことをしました」や「行動に移さず、心で相手に対して情熱を抱いただけです」、「一回だけしてしまいました」では済みません。しかし、パウロがこの箇所で持ち出してきた主張に立ち、自分の生き方からキリストに信頼を移しているなら、大丈夫です。
「私に受け入れられる資格がありません。指摘された罪は全て、私の責任です。けれども、『主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、…洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』イエスが私の罪を償って、私に必要な義の資格を下さいます。イエス様ご自身が私を聖なるものとしてくださいました。」
そう告白できる人は皆、完成された新しい天と地に歓迎されます。キリストのからだの一部として、主と交わり続ける者として、買い取られて永遠に神の所有とされた者として、私たち信じる者は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜べます。からだも心も大切にされる神が私たちを完全に救い、完全な者にしてくださると信じて、「からだをもって神の栄光を現し」たいと思います。