2023年12月10日礼拝 説教「私は【主】を待ち望みます」

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礼拝式順

前   奏 Prelude  
招きの言葉 Call to Worship 詩篇 Psalm 30篇1〜5節
さ ん び Opening Praise 「愛するわが主 I Love You, Lord」
さ ん び Praise 「インマヌエル麗しい御名」
開会の祈り Opening Prayer  
主の祈り Lord’s Prayer  
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 59番「久しく待ちにし」
聖書朗読 Scripture Reading 詩篇 Psalm 130篇1〜8節
聖書の話 Sermon 「私は【主】を待ち望みます」

百瀬ジョザイア牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 438番「川のような平安が」
献金と祈り Offering & Prayer  
報   告 Announcements  
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇23篇より

百瀬ジョザイア伝道師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 百瀬ジョザイア牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

待つことは試練と言えるでしょう。子ども(大人)は、お誕生日やクリスマスのプレゼントを待って待ちきれないと思ったことがありますか。あるいは、悪いこと、怖いことがいつ終わるのかわからなくて辛いと感じたことがありませんか。今日、アドベントという、神様を待つ時について触れながら、神様を待った人の歌を聞きます。

聖書には、クリスマスやアドベント(待降節、Advent)を守ることや規定はとくにありません。けれども、イスラエルでメシアが来られるのを待った旧約時代の信者たちのように、クリスチャンにもイエス様が来られることを待ち望むことを覚える意味があります。新しい天と地での神の国の完成を思い起こさせて、その完成がまだだと覚えつつ、「御国が来ますように」とそれを待ち望み、しかも嘆いて待ちわびる時があっても良いです。ですから、今日、神様を待つことについて、旧約時代で実際にそうしていた聖徒とともに学びたいと思います。

聖書は良い知らせを伝えるために、まず暗い現実を真っ直ぐに描いて、認める本です。そもそも、圧倒されて、どうしようもないと分かっている人のためにあります。 苦しんでいる人のためです。 改善を待ちたいけど待っても何も変わらないと感じる人のためにもあります。只今、私たちはそう感じていないにしても、苦しい日が来ます。(クリスマスのライトが一層きれいに見えるのは、それが一年んで特に暗い時期であるからです。)ですから、皆様の辛い時が今だろうが過去や未来だろうが、必要なときに神がこの箇所を思い出させてくださるように祈ります。

 

この詩の本文は4つの短い部分(2節ずつ)で出来ています。まず1〜2節では、この人は絶望的な経験の中で、真の神様を叫び求めます。

【主】〈ヤハウェ〉よ 深い淵から私はあなたを呼び求めます。

主よ 私の声を聞いてください。

私の願いの声に耳を傾けてください。

詩を書いた人はまず、深みで溺れるような経験で苦しみを描きます。溺れそうになったことがあるか知りませんが、私たちはそう感じることがありえます。聖書では海はあまり安全というイメージがありません。よく命を奪う、荒れ狂っている深みが強調されます。そういう気持ちになったことがありますか。

この詩篇の書き手は「淵」という表現で何を指すかあまりはっきりしていません。病、虐げ、あるいは罪悪感かもしれません。私たちはどうでしょうか。いじめ。人と仲直りができないこと。何かへの中毒。希望する仕事や学校への道が塞がれること。人間関係の難しさ。病。圧倒的な忙しさ。何かの罪や弱さとずっと続く葛藤。精神的な悩み、恥、また、罪悪感。最後に死もやって来るでしょう。 この詩は曖昧である分、どの状況でも私たちの歌となりえます。

私たちは、自分の外からの助けが必要です。主なる神様だけに確かな助けがあるので、この詩の中で「主よ 私の声を聞いてください。」と必死に呼びます。返事がないので、再び「私の願いの声に耳を傾けてください」と続きます。

聖書はこのような嘆きを駄目だとは言っていません。むしろ、神様は嘆きの祈りを歓迎してくださいます。この詩篇は120〜134篇の「都上りの歌」のシリーズの後半にあって、多くの信徒たちが昔エルサレムでの祭りへの途中と祭りのときに歌ったと考えられます。祭りの礼拝の中、エルサレムに着いた後でも、深みに飲み込まれた気持ちになって礼拝することがありえました。今も、私たちは苦しみや葛藤の気持ち、その本音を神様に投げかけて、神様に答えと助けを求めてもいいのです。

ただし、深みの問題を解決していただく前に、私たちは神様に答えていただける立場にいるのか、という問題を解決しなければいけません。大きな問題に飲み込まれそうになった人はこの詩で、一旦願い事を止めて、3節で振り返ります。

【主】よ あなたがもし 不義に目を留められるなら

主よ だれが御前に立てるでしょう。

私たちの問題は色々、小さいことから大きなことまであります。しかし、だれにとっても最大の必要また目的は創造主なる神様と平和を持ち、神の素晴らしさをたたえて喜ぶことです。それができるかは私たちの立場にかかります。不義なら、主の御前に立つことさえできません。私たちの神に対する反抗、つまり、罪が、私たちにある最大の問題です。

例えば、格好いい車のエンジンが致命的に壊れていると知ったならば、その車のクッションの取り替えやペンキ塗り替えにお金や時間をかけません。 一番重要なところが駄目ですから、もう仕方がない、と諦めるはずですね。 万一、この車体が使いたいとすれば、エンジンをまず直さなければなりません。神様との関係が私たちの存在にとってのエンジンのようなものです。第一の問題がそこにあり、他の問題があっても、これらを解決する神様と敵対していれば助けていただく立場にいません。

自分の全てを尽くして神様を愛することと、隣り人を自分のように愛することが神様の戒めです。これらに背けば、私たちは聖書が言う「罪」を犯しています。政府や集団に対する「罪」ではなく、第一に自分を造られた神様に対する反抗の罪です。 そうであれば、過去の1週間で、私たちは何度も罪を犯してきたでしょう。 そもそも赦しがなければ、神から何の助けも見込めないでしょう。

神との和解、神から「義」というおことばと歓迎が必要です。一方的に、それが与えられると信徒が覚えて、4節を書きました。

しかし あなたが赦してくださるゆえに

あなたは人に恐れられます。

「しかし」!「赦してくださる」!神様は、人間が犯した罪に対する代価である「死」を報わず、ご自分でその代価を被って負う、ということです。詩篇32篇によると、神様は罪を隠さず、助けを求める人に赦しを下さいます。神様の恵みによって、詩篇130篇を最初に歌った人も私たちも、最大の問題の解決を経験することができます。

また、赦された人は甘ったれた、呑気な態度ではなく、感謝と恐れの思いを持つようになります。赦しがある結果として、人が神を畏敬の念で恐れるのです。

そこで、この詩の後半は適用に切り替わります。まず5、6節において、著者はすぐ前のメッセージを自分に当てはめます。

私は【主】を待ち望みます。

私のたましいは待ち望みます。

主のみことばを私は待ちます。

私のたましいは 夜回りが夜明けを

まことに 夜回りが夜明けを待つのにまさって

主を待ちます。

この人は未だ、取り巻く状況から助け出されていません。 むしろ、深みと淵に加えて、夜の闇の別の比較をも使って、問題が残ると示唆します。罪の赦しの約束しかいただいていませんが、それで十分です。苦しみや悩みが続いても、神様を待ち続けることができます。具体的に、神様の「みことば」、簡単に言うと聖書の教えに信頼が置けます。そこに深みで立つための土台、闇で照らす光があります。

夜回りは警備員や兵隊の見張り番のような人です。エルサレムのような城壁ある古代の町には、強盗や敵の兵隊がいつ来るかわかりません。レーダーやALSOKがありません。常に見張る人が必要でした。夜も、一晩中、暗闇の中で目を覚まして、また、耳をすましていなければいけません。 敵の的になってしまうかもしれません。夜が明けたら、休憩する時間が近づき、また、より安全に見張りができます。 だから、いつ夜明けが来るのかなぁ、と思いながら夜回りは見張ったのでしょう。

130篇を唄った人は、その様な夜回りの気持ちに勝る程にドキドキしながら、主なる神を待ち望みます。

最後に、唄い手は自分の経験を他の人に当てはめて、適用を広げます。

イスラエルよ 【主】を待て。

〈なぜなら〉【主】には恵みがあり

豊かな贖いがある。

主は すべての不義から

イスラエルを贖い出される。

イスラエルの民は色々な状況の中でこの詩を歌ったことでしょう。ソロモンの輝かしい神殿の前で礼拝したとき。バビロニアで神殿の廃墟を憶えて都へ上れなかったとき。バビロニア捕囚から帰って、神殿の再建に取り掛かろうと意気込んだとき。その物足りなく感じる再建の神殿をみたとき。イスラエルの民の不忠実のため国が何百年も栄えず、ソロモン王の大国の再興の夢が霧のように薄れたとき。ヘロデ王という異邦人とその背後のローマ人の圧政によって苦しみながら、かろうじて礼拝をし続けたとき。この歌は彼ら皆を支えました。「豊かな贖い」は主が民を圧政から救い出し、ご自分のものとされる約束でした。そして多くの人は物質的国民的な再興という意味で捉えたかもしれませんが、歌は最後に、同じ「贖い」は「すべての不義から」の贖いであるとほのめかします。

詩篇130篇のような約束のゆえ、神の民は待ち続けるように励まされて歩み続けました。自分を待ち望むのではなく、また、絶望するのではありません。 皆さんがどうか分かりませんが、私はよく自分の力に頼って、淵や闇のような苦しい状況から抜け出そうとしがちです。そして、自分にとってこれは無理だと分かってきても、神様に祈る代わりに、「もう駄目だ」と自分に目を向けたまま、絶望してしまいがちです。 実際、詩篇130篇を唄った作者を始め歌った人の多くは、贖いの夜明けの兆しを見ないまま亡くなりました。しかし、救ってくださる神様を待ち望みなさい、とこの詩は励まし続けました。私たちも、抱くすべての悩みと願い事がこの生涯のうちに解決されるとは限りませんが、信じ続ける意味がまだあります。

 

今日の箇所をまとめますと、これを唄った人、そして後世に歌ってきた信徒は、 第1に、大変な状況の中で神様に助けを求めました。 第2に、神様の恵み(即ち、罪の赦し)を思い出しました。そして 第3に応答して、まず個人として神様の助けを待ち続け、さらに神様の恵みを他の人に差し出して、希望を抱くように励ましました。この素晴らしい歌は古代イスラエルで長く歌われ、思い巡らしされたでしょう。

ところが、この詩篇の希望はどうなったのでしょうか。 神様は同時に罪を赦して、正義を行うことは可能でしょうか。古代イスラエルの信徒たちは動物のいけにえを献げて、血が流れるのを見て、罪の赦しを願いましたが、それも完全な解決だったのではありません。ローマ人への手紙3章25節は、神様が「罪を見逃してこられた」と言います。神様も待ってくださいました。決定的に贖うときを。淵で溺れる人の隣に淵の中へ飛び込み、真っ暗闇の中でで死ぬひとりの方を、遣わす時を用意して、待ってくださいました。その時は最初のアドベント(要するに、旧約時代)の終わりに、始まりました。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)

イスラエルの民は、神様の教えを特別に預かった民族です。ところが、聖書によると、イエス・キリストを信じる者はまことのイスラエルに加えられます(詩篇87:4-6、エペソ2:11-19参照)。ですから、ここにあることばはイスラエルの民族を超えて、全てのクリスチャンに当てはまる励ましの言葉です。

【主】には恵みがあり

豊かな贖いがある。

主は すべての不義から

イスラエルを贖い出される。

イエス様のお誕生は闇に光が差し込んだことを意味しました。神が民を罪から贖い出すことを意味しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

そして十字架でこれが成就しました。私たちが叫んで、願いの声に対して憐れみを受けられるために、イエスは孤独に十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)淵の中から救い出すために、イエス様が人間拒絶や苦しみ、悲しみの淵で沈んでくださいました。 不義ある人が神の前に立てるように、イエス様が代わりに人の不義を身代わりとして背負って、倒れてくださいました。神様の恵みの夜明けが私たちに訪れるように、イエス様が他にだれも経験したことのない深い闇を通られ、その中で死んで下さいました。そしてイエス様ご自身が復活を通して、確実な夜明けをもたらしてくださいました。

イエス様に信頼するすべての人に、このような贖いが来ました。淵や闇の中でも、自分の罪を認めて、イエス様に自分の救いを委ねてより頼む人だれにでも、イエス様の贖いが与えられます。

実は、昔のイスラエル人のように、私たちも今も、贖いを待っています。 実に、アドベントは2回起きます。クリスマスは主イエスが人間として来てくださった初めての時に過ぎません。私たちは今も、待たないといけません。

今日、どのような苦しみ悲しみがあるでしょうか。どのような罪で悩んでいますか。これらから贖い出される日はまだ先です。主イエスが再び来られる再臨の時に、不義も苦しみも主の前から排除されます。全ての罪や罪の結果からの贖いがその日に、完全にもたらされます。

「見よ、神の幕屋が人々とともにある。

神は人々とともに住み、人々は神の民となる。

神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。

神は彼らの目から

涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや死はなく、

悲しみも、叫び声も、苦しみもない。

以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

クリスチャンには、過去の恵みに加えて、将来に対するこの喜びの希望があります(ローマ5:2-5参照)。もう一方で、イエス様にある赦しを今受け入れない方への警告もここにあります。

今日の箇所の3節の赦しをまだ受け入れていず、自分で何とか立とうとする方がおられるなら、イエス・キリストが再び来られ第2のアドベントの時に、あなたを創造された神様があなたをも審判なさいます。どんなに家族愛、社会貢献、立派な働きで取り繕ってきたとしても、それは神との関係を蔑ろにすることを償えません。それまでにイエス様を信じて、罪から神様へ立ち返ろうと思わなければ、死、悲しみ、叫び声、苦しみが続きます。だから、今、イエス様を通して神様と和解をするように祈り求めてください。そうすれば、この詩の後半の希望を、今日から受けられます。

 

それでは、私たちは圧倒されるときにどうしましょうか。 最大の問題がイェス様にあって既に解決された、また、今日と明日の罪についてでも解決される、という希望を思い出しましょう。思い出すためには、私たちはお互いクリスチャンの祈りと励ましが必要です。そして希望を持って、待ちましょう。今の人生の内に神様が解決される数々のことを願い求めて、期待しましょう。究極的に、イエスがすべてを新たにされる再臨を待ちましょう(黙示録21:5)。夜回りが夜明けを待つのにまさる期待感で祈り求めましょう。 私たちが生きているこの短くて辛い生涯は、神の素晴らしいご栄光が私たちを完全に照らす暁を待つ夜番に過ぎません。

まことに 御怒りは束の間       いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても        朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church