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聖書の話(説教)
職場あるいは家庭で、人を育てようとした経験がありますか。日本の幼稚園生でも感心しましたが、年長さんは年少さんのお手伝いをします。小学校でもそうだと聞いています。そのために、先生たちは年上の子供たちを先に育てました。役目を与えて、励ましのことばをかけて上げたと思います。けれども、ときには、部下や子を育てようとするときに、私たちは失敗もします。「何で早くできるようにならないの」や「こう説明したのにまだ分からないの」と思ったり、言ったりすることがあります。
けれども、よく育てるために、相手を想って、理解して、応じる必要があります。大切にする必要があります。言うなら、隣人を愛する必要があります。今日、短い箇所ですが、これについて考えたいと思います。
8章1節は「次に、偶像に献げた肉についてですが」と始めます。この8章全体および10章の後半にも出てくる、偶像礼拝とそれと関連する食べ物とクリスチャンとの関係を取り上げます。パウロは1節の間中で、コリントのクリスチャンたちのある者が唱えていたそうのスローガンを引用して、それをあるところまで同意します。
「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。
「私たち…みな…」は、コリント人クリスチャンたちあるいはその中のある人たちが自分を指して言っていました。「知識」は良いことのように聞こえるかもしれませんが、コリント人たちは「知識」を、優れた人のための知識という意味合いで使っていたと考えられます。また、4節以降から読み取れるように、それは真の神がおひとりだけであり、偶像に実態はない事実を含むことです。本当に正しい、「正統」な内容であり、クリスチャンなら皆信じているでしょう。周りの社会からすればそれは知識でないかもしれませんが、教会の中では確かに正しかったです。
ただ、自分がこの「知識」をよく理解していると自負する人たちのグループは、理解できていないと思って、あるクリスチャンを見下していたように思われます。「私たちのように『知識』あるクリスチャンなら、偶像崇拝の場にあった食べ物を食べても平気でしょう」と思っていました。(次回、より深く見ていきたいと思います。)
しかし、神はおひとりだけだと信じても、食べ物の扱い方について、どう見做したら良いか葛藤している人のグループもありました。最初のグループ、つまり「私たちはみな知識を持っている」と訴えた人のグループは二つ目のグループを見下しました。それで、パウロは1節の終わりで言い返します。
知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。
「高ぶらせ」という語は第一コリント以外で、聖書に一度だけ使われ、第一コリントで7回使われるキーワードです。コリント人たちの高ぶりは大問題でした。
こういう知識を持つ人は、水で膨らむ河豚(フグ)のように想像できます。河豚は怖くなると素早く、水や空気で体を大きく、丸くします。抜けば、元の小さな姿に戻ります。筋肉や骨でなく、すぐに消える建前で大きくしていただけです。
知識そのものは悪くありません。パウロは単純に「知識Vs.愛」だと言っているのではありません。勉強を否定している訳ではありません。けれども、知識を得て威張るのは、水や空気で膨らむ河豚の行為に似ています。その水や空気で敵を遠ざけることはできても、実態と異なります。
私たちは「中立」の者として、知識を、たとえ良いことの知識でも、扱えるように造られていません。私たち人間は創造主なる神様のご意志に従って知ったことを用いるか、背いてそれを用いるかの2択だけあります。私たちは罪の性質を持つので、残念ながら神に背いて知識を扱うことがよくあります。知ったことを使って人を助けることもできますが、そうしないこともよくあります。例えば、勉強上手な人は知っていることを威張りや高ぶりの材料にして、頭でっかちになりやすいです。
知識を一瞬の見せびらかせに役立たせても、そのような知識では人を育てられません。コリントで「私たちはみな知識を持っている」と威張る人はそう言っても、自分にも他のクリスチャンにも助けになりません。
もう一方で、「愛は人を育てます。」「育て」るのは、何かの方向へ強くする、堅める、建設することです。数箇所では、霊的な建物のように教会を「築き上げ〈られ〉る」と訳されます(使徒9:31、第一ペテロ2:5。第一コリント14:4・17、使徒20:32参照)。愛は知識の「材料」をとって、長く使えるものにします。
知識を高ぶっているなら、相手を愛することはできません。神を慕い、愛することもできません。見下してしまうからです。見下されていると感じたことがありますか。誰かに邪魔と思われていると感じ取ったことがありますか。相手がどんなに素晴らしい知識を持っても、その人から学びたいと思えませんね。優しい態度、成功してほしい態度が感じられたら、その人に育てられたくなります。これは、学校や塾、家庭や会社、教会でも当てはまるでしょう。
パウロは2と3節で威張る知識と愛を比べ続けます。本当に知る人は誰なのか。知っていると思う人か、愛する人か。一人目は2節に警告されます。
自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
自分がもう分かった、と自負するのは危険です。東洋で孔子、西洋でソクラテスも似たことを言いました。知らないことを認めないといけません。確かに知っている事があるかもしれません。しかし、知識だけで完成したとは言えません。
第一コリントのシリーズの初めの方でもお話ししましたが、パウロはこの手紙の中でよく、「強い」人と「弱い」人を対比します。コリントの町の繁盛と格差の中で、社会の中の成功へ導く鍵は影響力、説得力、金、コネのようなものでした。威張って大袈裟に話すことが有利でした。裕福で影響力ある人を周りに置くと自分も有利でした。教会の中でも、自分は自由で説得力があるなどと威張る人たちについてパウロは心配して、この手紙の幾つかの課題をすでに取り上げました。例えば、4章6〜8節で自分はもう天の祝福を地上で経験していると自負する人たちがいました。そこでパウロは皮肉っぽく注意しました。
…思い上がることのないように…。いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。すでに豊かになっています。私たち抜きで王様になっています。
今日の8章でも、パウロは高ぶる人に注意を与えます。高ぶって頭でっかちになっていた彼らは、自分はもうすでに、知るべき大切なことをまだ知らないかのように生きていました。知るようになったことを神から頂いた恵みとして認めるより、誇っていました。クリスチャンですから、神学的な知識は大体問題なかったかもしれません。真の創造主なる神を信じていました。それはそれとして、とても良いことです。日本で用いられる宗教名、つまりキリスト「教」のとおり、「教え」が大切です。ある真理を知って、それに同意して、信頼するように求められます。
ローマ10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ただし、ただ知って、告白しただけで生き方が変わらなければ、まだ問題があります。本当に信じているか疑われる場合もありえます。使徒の働きによると、昔キリスト教は「道」とも呼ばれました(24:14)。キリスト教とは、生き方と心の全てに関わります。
8章3節でこれはよりはっきり見えます。ここでパウロは本当に求めるべきことを教えます。
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。
これは2節との対照として書かれています。もし私たちが愛するなら、パウロが求める意味で「知るべきほど」に知っていて(8:2)、「知られています。」そもそも、聖書で言う「知る」ことはよく、親さを意味します。親しく「知る」のは、「愛する」こととほぼ同じです。
8章3節で、知ることと愛することは対立関係でなく相互関係にあります。要するに、互いを愛する関係では、深く、正しく知るのです。知識を持つことは愛することと密接に繋がっています。パウロはこれを訴えてから、後の箇所で具体的な課題をこの視点から説明します。
愛することは、「知るべきほどのこと」を知ることです(2節)。知識伝達や議論に勝つこと以上に、愛して知ることが求められます。これは神との関係から始まって、人間同士、クリスチャン同士でも健全な知り合い方です。
さて、今日の箇所が教えている二つのことを考えたいと思います。
1)教会の一つの目的は、お互いを「育てる」愛を抱くことです。
8章1節のとおり、「愛は人を育てます。」これは明らかに、パウロが目的として掲げていることです。神様の家族と呼ばれる教会の中では、全ての会員は互いの成長に励むように教えられています。
ヘブル10:24-25 …愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。
互いが神様の教えに従って「愛と善行」において成長するように、育てようとするのです。これは公の礼拝、セルグループ、個人的な交わりなどを通して進められます。牧師の使命も、偉い専門家として情報を伝達することではありません。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げる」ことです(エペソ4:12)。要するに、一人一人がより深く神を信じて慕って、喜びをもって人に仕えることができるように励まし、訓練して、育ててあげることが私たち教会の目的です。
こうして、今日の箇所は、人を育てる愛を求めます。そのために教えは必要ですが、人を育てる知識はあくまでも、愛のある知識なのです。
この短い箇所に時間を割いて説明するのは、これが(私を含め)多くの人の課題だからかもしれないと思うからです。日本の勉強熱心な国民、あるいはこの国に住むほどに勉強熱心な方は、大切なことを知っておけば十分と思いがちかもしれません。受験の作戦を磨いて、試験に受かって志望校に入ることは一つのスキルかもしれません。けれども、人を愛しているかは別問題です。
部下や子ども、あるいはクリスチャン同士を育てようとするなら、上から目線になりやすいものですが、相手の成長を求めて愛するのはとても難しいです。私たちは自分の力で、できません。まず神の愛がないといけません。
2)より広い意味で、教会のもう一つの目的は、愛の内に共に生活ことです。
3節にあるように人が「愛するなら」、知ることは良い結果をもたらせます。パウロはコリント人への手紙第一の続きで愛を教会員の幾つかの課題に当てはめていきます。8〜10章では偶像崇拝から抜け出して生きるクリスチャンたちの「知識」に、11章前半では礼拝での格好に、11章後半では主の聖晩餐と教会の交わりに、12〜14章では教会の礼拝において聖霊様から与えられた賜物を用いることに当てはめます。その最中、13章の有名な「愛の讃歌」が挟んであります。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません〈8:1と同じ語、別訳「思い上がりません」〉。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
パウロは、このような愛を求めてほしかったです。それは神様が求めることです。人は「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という、「重要な第一の戒め」を受けています。ですから、知性と真理を知ることも大切ですが、心も体力(いのち)も全部を尽くして神を愛するように教えられます。そしてその必然的な続きとして、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」も神の戒めです(マタイ22:37-38)。
もし私たちが神様の教えを正しく知っているなら、神に親しく「知られ」、神の愛に頼りながら、愛の目的でこの知識を用いるはずです(第一コリント8:3)。
皆さんの中に、知識を持って頭でっかちなクリスチャンに見下されて傷つけられたこともあるかもしれません。あの方が唱えた神学は正統な事実だったかもしれません。けれども愛がなかったかもしれません。 また、私たちは被害者として傷つけられただけでなく、知識を持って他の人を見下して、傷つけた加害者になったこともあるかもしれません。私も良い神学の「正論」を守りつつも、人を見下す罪を犯したことがあります。
繰り返しになりますが、知識が悪いとは決して限りません。良い知識は成功や確信をもたらし、悪い知識は失敗やもどかしさをもたらします。私は長老教会の神学に惹かれて加わった者ですし、神学はとても大切だと信じています。けれども、そもそもそう思えたきっかけは、神様が実際に教える真理は自分の心の状態と思いを変える力があると経験した時でした。神の愛を味わったときでした。
今日の箇所は、神学にしても他の知識にしても、私たちがそれで互いを愛するかどうかを考えてみる機会を与えます。知識だけでも、人は神に受け入れられません。第一コリント13章3節、すばらしい能力としての霊的賜物を持って、素晴らしい行動ができても、「愛がなければ、何の役にも立ちません。」
ですから、神の愛がまず必要です。「知られている」ことを知る必要があります。私たちは愛された被造物なのに、神の愛に背を向け、自分を高ぶらせる「知識」を求めてきました。しかし、神はすでにこれをご存知なのに、家族に入れようと思った者を、イエス・キリストと結び合わされる者として「選び…自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」育ててあげると選んでくださいました。そして、受け入れられるに必要な「聖なる、傷のない者」にしてくださいました。私たちの知識と関係なく、私たちの愛の深さと関係なく、神がその民を愛してくださいました(エペソ1:4-5)。知ってくださいました。十字架で私たちの罪の償いをして、そのご生涯で聖なる歩みと愛を生きたイエス様が私たちの代表です。
私たちは互いを育てる知識、神学を身につけるのはとても大切です。けれども、それだけでは足りません。私たちは愛を持てば良いです。けれども、それは私たちが作れるものではありません。まず先に、永遠の昔から、イエス・キリストにあって受け入れられていることを信じる必要があります。神様は私たちをイエス様との繋がりによって、私たちを喜んで知られ、愛されます。この真理を知って、神を知ることから、私たちが知られているのが分かります(ローマ5:5参照)。この確信から、人を育てる愛を抱けるようになります。神様の恵み深い愛に頼って、互いを愛し育て合う教会として歩めますように。