2024年7月28日礼拝 説教「私自身もこの方を知りませんでした」

説教の音源の34分以降に雑音が入っております。お聞き苦しいかと思いますが、ご了承ください。

 

礼拝参加方法を知りたい方は、どうぞお問い合わせください。

For English sermon summaries or other support to participate, please contact us.

 

礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship ヨハネの黙示録5章6節、9-10節
さ ん び Opening Praise 見上げよう神の御座 ~Behold Our God~
さ ん び Praise キリストが全て ~All I Have Is Christ~
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌45番「神の子羊」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書1章29-34節
聖書の話 Sermon 「私自身もこの方を知りませんでした」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌335番「はるかにあおぎ見る」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

子供たちに聞きますが、自分が必要とする助けと、神様がくださる「救い」は、ギャップが大きすぎると感じた事がありますか?例えば、100点満点とれるような助けが欲しいのに、神様は「罪のゆるし!」をくださいますと、おっしゃいます。風邪が治るようにと祈っているのに、神様は「死からの復活!」とおっしゃいます。そんなに、大きな事を願っていないのに、なぜ神様の「救い」は信じられないくらい大きすぎると感じるのでしょうか?

 

「ナルニア国物語」を書いたCSルイスはこのような例えを引用していました(マーク風に少し変えました)。

私たちの人生が一軒の生きている「家」だと想像してみてください。神様が送ってくださった大工「ミタマさん」が玄関に来て、「神様があなたの家を建て直したいとおっしゃったので、来ました!」と言います。そして、ミタマさんは、さっそく家のリフォームを始めます。ミタマさんが、始めてくれる様々なリフォームについて、多分最初は理解できるでしょう。割れた窓の破片を掃除してくれたり、壊れているお風呂を直してくれたり、屋根の雨漏りをとめてくれたり。それを見れば「どっちみちやらなければならなかったから、ありがたい」と思うかもしれませんね。しかし、ミタマさんがでっかいハンマーで、激しく、乱暴に、汚くしているけれど自分が愛用している部屋を壊し始めたら、「いったい何をするんですか!そんなリフォーム頼んでないですよ!」と言ってしまうと思います。ミタマさんいわく、「神様は、あなたの家を大豪邸に建て直してくださるから、新しい部屋、新しいキッチン、新しい階段、新しい庭、新しい棟などを造るために、古びたところを壊さないといけません。」要するに、神様は私たちが考えていたのとは全く違った家を建てておられるのです。私たちは、今の家をちょっとリフォームする程度のことを考えていたのですが、神様は私たちの想像を超えるほどの大豪邸に建て直そうとしておられるのです。

 

バプテスマのヨハネも同じように、イエス様の救いに驚いていました。バプテスマのヨハネは神様の「救い」を持ち望んでいたのですが、「神の子羊による罪のゆるし」と「聖霊様がもたらす復活」を聞いた時、「あなたは本当に私たちが待ち望んでいる救い主ですか?」「私自身もイエスが救い主であること知りませんでした」と疑ってしまったのです。しかし、バプテスマのヨハネは、疑ったとしても、イエス様の救いは、自分に必要な救いであることを受け入れて、信じたのです。今日はなぜバプテスマのヨハネがイエス様の救いを疑ったのかを見ていきたいと思います。

 

「ヨハネの福音書」をはじめて読まれる方もいらっしゃるかもしれないので、簡単に紹介します。ヨハネの福音書は、他の歴史の記録と同じように、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録していますが、同時に主観的な「目的」もあります。キリスト教だけではなく、科学、法廷、政治、ビジネスでも同じ事をします。客観的な「データ」、「証拠」、「歴史」、「結果」を差し出し、ある主観的な目的をもって、相手を説得することは、社会の根本的な仕組みとも言えます。ヨハネの福音書も、客観的な「歴史」をもって、二つのことを私たちに説得しようとしています。一つは、「イエス様が『神の子』であり、救い主である。」ということ。もう一つは「イエス様を信じるだけで、永遠のいのちが与えられる。」ということです。では、ヨハネの福音書という「歴史」の中の「客観的な証拠」は何でしょうか?それは「証人」です。多くの場合、私たちが法廷で、ある人を有罪か無罪かに決めるとき、「証人」の「証言」をもって決めます。それと同じように、ヨハネの福音書は、いくつかの証人の証言とイエス様ご自身の証言が並べてある書物です。そして、話を聞く私たちには、それを信じるか、信じないか、話を聞き続けるかどうかという選択肢があるのです。

ヨハネの福音書の一人目の「証人」は、「バプテスマのヨハネ」という人です。バプテスマのヨハネは、筆者とは違う「ヨハネ」です。「バプテスマ」という意味は「洗礼」です。ですから、「洗礼を授ける」ヨハネという意味です。では、この人はどういう人でしょうか?前回の説教で学びましたが、多くのイスラエル人がバプテスマのヨハネのところへ行きました。なぜなら、多くの人が彼を神様が遣わされた預言者だと信じ、神様がくださる「救い」がどういうものなのかを聞きたがったからです。「あなたは私たちの敵を圧倒するキリストですか?」「あなたはこの壊れた世界を立て直してくれるエリヤですか?」「あなたは自由をくださるモーセですか?」と色々質問したのですが、バプテスマのヨハネは「違います」ときっぱり答え、「私の後にくる方は、もっとすごい方なのです!」と宣言するのです。しかし、そう聞いたイスラエル人は首をかしげて、「うーん、それは、どういう人なのかな。。。」と思って帰ったと思います。皆さんも、先週の話を聞いてそう感じたかもしれません。しかし、ヨハネもその方に会ったことがなかったので、どうしようもありませんでした。

 

本日の箇所はその続きです。その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1:29) これが証人であるバプテスマのヨハネの最初のポイントです。「来られる救い主は、世の罪を取り除く神の子羊」だということです。

「救い主は、子羊」だと聞いても、ピンとこないかもしれません。ユダヤ人にはなんとなく意味は伝わりますが、かなりの変化球だと思います。旧約聖書を信じるイスラエル人にとっては、「神様の救い」と聞くと、「出エジプト」(Exodus)という歴史がすぐに思い浮かびます。モーセという預言者を通して、神様が十の災いを引き起こし、海を割って、エジプトの奴隷であったイスラエル人をエジプトの圧制から救い、イスラエル人に自由をお与えになったのです。この救いの歴史は、イスラエル人としてのアイデンティティーの揺るがない土台だと言えます。そして、この救いの歴史がなければ、イスラエルは存在しなかったとも言えると思います。しかし、バプテスマのヨハネは、イエス様のことを「見よ、イスラエルを救う新しいモーセだ!」とは言いませんでした。「見よ、神の子羊だ!」と言ったのです。なぜでしょうか?それは、出エジプトの歴史に答えがあります。

 

九つの災いのあとでも、イスラエル人を解放しなかったエジプト人に対して、神様は最後の一撃を用意されました。最後の災いは、「過ぎ越し」と言いますが、その災いには「子羊」が現れます。どういう災いだったでしょうか?それは、もしエジプトがイスラエル人を解放しなかったら、エジプトにいるすべての長男を裁くという災いでした。しかし、神様が何回も忠告したのにもかかわらず、頑ななエジプトは、敗北を認めませんでした。ですから、神様は、最後の災いをエジプトに放つ前に、エジプトに住んでいるイスラエル人に忠告されたのです。「もしイスラエルの神様を信じるなら、私に聞き従いなさい。傷のない一歳の雄の子羊を屠り、 その血を取り、その子羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。 あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。 主が送られるさばき主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、あなたたちをさばく者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。」(出エジプト12章参照)と。

当時、それを聞いたイスラエル人は驚いたと思います。最初の九つの災いは、イスラエル人を打つことはなく、エジプト人だけに害がありました。しかし、最後の災いの裁きは、もし子羊の血を自分の家の門柱と鴨居に塗らなかったら、エジプト人と同じように、イスラエル人も裁かれるのです。そこに示唆されていることは、聖書の神様を信じている人、聖書の神様を信じていない人も、同じように罪深く、同じように神様の裁きに値する者だということです。 そして、屠られた一歳の雄の「子羊」は、その家の長男の身代わりになることによって、神様の裁きが「過ぎ越される」というのです。神様が「裁きの霊」を送られたとき、子羊の血によって、イスラエル人は裁きから守られ、エジプト人は裁かれました。そして、この最後の災いによってイスラエル人は救われたのです。

それでは、バプテスマのヨハネが言った、「イエス様は世の罪を取り除く神の子羊」とは、どういう意味でしょうか?それは、イエス様が私たちの「過ぎ越しで屠られた子羊」だ、ということです。神様は、私たちの罪を清める力のない子羊の血ではなく、ご自分の長男であるイエス様を、十字架の上で屠り、罪深い私たちを清め救われる、とヨハネが証言しているのです。そして、イスラエル人だけに限らず、どの民族の人でも、「神の子羊」であるイエス様の血潮により頼み、自分の魂の「門柱と鴨居」に、その血を塗るのであれば、神様の裁きが私たちを「過ぎ越される」と言うのです。つまり、バプテスマのヨハネは、この時点でもうすでに、イエス様の十字架の死を予告しているのです。

なぜこれがイスラエル人にとって、また、私たちにとって、「変化球」なのでしょうか?私たちが「救い」を求めるとき、その問題が、自分の身の回りにある「敵」だと思い、その「敵」を倒すか、その「敵」から離れることが「救われること」だと思ってしまいます。しかし、「救い主は神の子羊です」と言うたったの一言で、その問題の根源は、自分にあるということがはっきりと宣言されるのです。つまり、「あなたの敵は神様の裁きに値しますが、あなたも同じ裁きの対象ですよ」と神様に言われているのです。日本人クリスチャンの多くの人が、この3節がきっかけでクリスチャンになったとお聞きします。

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある【丸太】には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:1-3)

つまり、私たちの第一の問題は、自分たちは神様に裁かれないと思ってしまうことなのです。もし自分は裁かれないと思っているなら、「神の子羊」はいらないと思ってしまい、最終的に、神様に裁かれてしまいます。毎回言っていますが、ヨハネの福音書は、おもにクリスチャンのために書かれています。いかがでしょうか?イエス様は、自分にとって「神の子羊」ですか?少し生々しく聞こえるかもしれませんが、十字架で屠られたイエス様の血潮なしに、神様からのさばきを免れると思いますか?それが自分に必要な救いであると信じているでしょうか?

 

バプテスマのヨハネは、続けて、イエス様について証しをします。

そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』(1:32-33)

つまり、イエス様は「神様が御霊を注がれたお方であり、その聖霊を私たちにも授けてくださるお方である」とバプテスマのヨハネが証しします。これが二つ目のポイントです。

 

これも、21世紀の日本にいる私たちには、またまた、あまりピンと来ないかもしれません。しかし、これも旧約聖書を信じているイスラエル人にとっては「変化球」だったと思います。なぜかというと、旧約聖書では、「聖霊」「御霊」は現れましたが、あまり表には出なかったので、「聖霊」「御霊」という存在も不確かな存在だったからだと思います。聖霊様は、「父、子、聖霊」の神様の三番目の位格です。つまり、イエス様と同じように、御父の神様と別の存在で、別の「位格」(person)なのです。では、聖霊様とは、具体的にどういうお方で、何をなされるのでしょうか?

聖霊様がはじめて聖書に現れるのは、創世記1章です。「はじめに神が天と地を創造された。 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」(創世記1:1-2) つまり、神様が天地を創造される前から、イエス様と同じように、御霊は存在されていたということです。そして、神様が天と地を創造されたとき、御父が「光、あれ!」ということばを語られ、聖霊様が宇宙の「光」を造られたのです。要するに、聖霊様は、三位一体の神様のご意思を形にするお方なのです。

旧約聖書の中で御父が民を救われるときに、聖霊様は神様の救いを形にされるお方です。神様のご意思通りに、荒野でさまよっていたイスラエル人を守り、約束の地へ導かれた「栄光の雲」とは、聖霊様のことでした(ネヘミヤ9:19-20)。神の民が罪から悔い改めるように、また、神様の約束を信じるように、聖霊様は「神の霊に注がれた」預言者をおくり、救いの神のことばを民に届けたのです(ネヘミヤ9:30;エゼキエル11:5, 37:1参照)。そして、神の民が敵に支配されてしまったとき、聖霊様は、「神の霊に注がれた」しもべ(英雄、王様、戦人)を送られ、力強い救いをもたらします(士師3:23参照)。要するに、旧約聖書では、神様の救いを見える形にされるお方が聖霊様なのです。

 

旧約聖書の中で、聖霊様がもたらす様々な「小さな」救いはありましたが、同時に、聖霊様がもたらす「究極の救い」も預言されています。イザヤ書の後半にはその究極の救いについてこのように書いています。

「神である主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、 われらの神の復讐の日を告げ、 すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。」(イザヤ 61:1-2)

つまり、神様が「究極のしもべ」の上に聖霊様を注がれ、聖霊様の導きによって、神様の救いが形にされるのです。聖霊様はこの選ばれたしもべを通して、創世記1章と同じように、三位一体の神様のご意思通りに、新しくすべてを造られると、イザヤ65:17-19に約束されています。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。 先のことは思い出されず、心に上ることもない。 だから、わたしが創造するものを、 いついつまでも楽しみ喜べ。 見よ。わたしはエルサレム(=神の都)を創造して喜びとし、 その民を楽しみとする。 わたしはエルサレムを喜び、 わたしの民を楽しむ。 そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。」 (イザヤ65:17-19)

要するに、三位一体の神様の究極の「救い」は、この壊れた世界を、泣き声も叫び声もない世界に新しく造りかえるということなのです。聖霊様が神様の「新しい創造」を形にされるのです。

 

先ほどの旧約聖書の背景を考慮しながら、バプテスマのヨハネの証言にもどりましょう。

『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』

つまり、聖霊様がイエス様に降ってとどまられた意味は、イエス様が「御霊が注がれたしもべ」であり、神様の「究極の救い」をもたらす救い主であられるということなのです。ノアの箱舟の裁きによって壊れた世界を新しく造られたように、「鳩のように天から」降った聖霊様は、イエス様を通して、新しい創造をもたらすのです。その「新しい創造」の最初の働きは、イエス様により頼む人に「聖霊様を授ける」ということです。要するに、イエス様は、私たちを新しく造り変えてくださるということです。「造り変える」とは何を意味しているのでしょうか?これはイエス様の蘇りと、私たちの蘇りを指しているのです。

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:11)

バプテスマのヨハネは、イエス様の十字架の死を証しした後で、イエス様の復活をも証ししたのです。

 

しかし、「究極の救いは、よみがえりです」と言われても、イスラエル人にも、私たちにも、大きすぎて、信じがたく、日常には適用できないような、いらない「救い」だと感じてしまうと思います。それはなぜでしょうか?それは、この救いが、私たちが思い描いていたような救いではなかったからです。「うーん、自分の体重をすこし減らしたり、私の親子関係や夫婦関係をもうすこし良好にしたり、私のちょっとした悪い癖をやめたり、、、そういうことをお願いしたいんですが、『死からの蘇り』なんて全く頼んでいませんよ。話が大きすぎます。」聖霊様がなさろうとした救いの形は、私たちが想像していた救いよりもはるかに良いモノなのに、なぜ私たちは断ってしまうのでしょうか?それは、先ほどのCSルイスの例えのように、神様が私たちの小さくて壊れたマイホームを、大豪邸に造り変えたいと願っておられることに私たちが気づいていないからです。自分たちのマイホームの小ささや古さ加減、リフォーム不可能な状態であることを理解しなければ、イエス様の救いの必要に気がつかなくなるのです。クリスチャンの皆さん、いかがでしょうか?自分の古びたマイホームに満足してしまって、聖霊様がもたらしてくださる「新しい創造」を拒んではいないでしょうか?

 

バプテスマのヨハネはイエス様の死と復活を予告しましたが、私たちと同じように戸惑っていました。

『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。 私自身もこの方を知りませんでした。(1:30-31)

 

私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 」  (1:33)

つまり、バプテスマのヨハネの最後のポイントは、「イエスが救い主であることをヨハネ自身が疑っていた」ということです。前回のメッセージで、バプテスマのヨハネは最高の証人だったと説明しました。熱心にイエス様を待ち望み、忍耐強く、もうすぐ来られるキリストを指し続けました。が、イエス様が実際に目の前に現れたとき、「私自身もこの方を知りませんでした」とバプテスマのヨハネは告白するのです。この箇所に2回も書いてあります!実は、他の福音書では、バプテスマのヨハネがイエス様の御姿と約束された救いに戸惑いすぎて、イエス様にこのような質問をします。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)あのバプテスマのヨハネが、イエス様の存在をこれほどまでに疑ったのです!彼がイエス様を見たとき、「神様、私は命をかけて、来られる救い主のために生きたのですが、この「イエス」という人物があなたが送られた救い主なのですか?もしそうだったら、すごく不安です、、、」とバプテスマのヨハネは心の底からつまづいてしまいました(マタイ11:6参照)。バプテスマのヨハネにとって、イエス様を救い主として信じることは、そんなに都合のいい話ではありません。自分の価値観と宗教観に「合った」話だから、選んだ訳でもありません。また、イエス様と話して、バイブスの合った人だから信じたということでもありません。

 

つまづきと混乱の中にいた、バプテスマのヨハネでしたが、彼はこのように結論付けます。「私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」バプテスマのヨハネにとって、イエス様が差し出された救いが嫌でも、自分の価値観に合わなくても、イエス様の話が理解できなくても、自分の目で見たことは変わらない客観的な事実だということです。神様がイエスという人物を「神の子羊」、「御霊に注がれた救い主」と宣言されたのです。バプテスマのヨハネは、その客観的な事実を私たちに証明したのです。

 

忘れていけないのは、バプテスマのヨハネの疑いが、彼の証言に信憑性を与えている事と、クリスチャンの歩み方を描いているということです。イエス様の救いの話を聞いて戸惑った場。聖書の事実が自分の価値観と合わないと思った場合。他のクリスチャンが言っていることが理解できない場合。そういうときに、覚えていただきたいことがあります。キリスト教は、私たちにとって都合のいい事実ではないということがはっきり言えます。クリスチャンとして聖書を信じることは、非常に不便です。自分がやりたいようにはできませんし、苦しいときもあります。しかし、そうであっても、「都合よく」キリスト教という事実を信じているわけではありません。私たちはなぜイエス様を信じているのでしょうか?バプテスマのヨハネと同じように、自分の目で、自分の耳で、自分の肌で、「神のことば」という客観的な「真実」を体験したからなのです。クリスチャンは、神のことばを通して、イエス様を「見た」人です。その客観的な真実を忘れずに、バプテスマのヨハネのように、イエス様が「神の子である」と証し続けられるように歩みましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church