2024年1月14日礼拝 説教「結婚の意味と優先順位」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship 歴代誌第一 1 Chronicles 16章31〜34節
さ ん び Opening Praise 「聞け我らの賛美 Hear Our Praises」
さ ん び Praise 「御手の中で In His Time」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌122番 「主イエスの死なれた」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 1 Corinthians 7章1〜7節
聖書の話 Sermon 「結婚の意味と優先順位」

百瀬ジョザイア牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌359番 「私の望みは主イエスだけにある」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇23篇より

百瀬ジョザイア伝道師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 百瀬ジョザイア牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

創造主なる神様が男性と女性に結婚という特別な関係をくださいました。旧約聖書創世記2章24節で早速、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と書かれています。神はその関係を大切にします。ただし、結婚していてもしていなくても、もっと大切な関係は神様との関係です。パウロは今日の箇所及び続く7章でこれを含め、色々な事情を考慮しながら、独身と結婚に関する心構えについて教えてくれます。

ちなみに、第一コリントの以前の箇所と比べて、7章から10章まででは、パウロはより複雑な課題を取り扱っていきます。そのため、一つの絶対的な決まりを出すより原則を伝え、各クリスチャンが判断すべき事があると記します。

今日は結婚の話がよく出ますが、結婚されていない方にでもとても意義あることが書いてある都思います。クリスチャンでなくても、神様が教えておられる原則を学び、適用してみることをお勧めします。しかし、最終的に私たちはイエス・キリストが必要であることに辿り着きます。最後に、それにも触れたいと思います。

背景になりますが、第一コリント6章後半を以前に取り上げた際にもお伝えしましたが、多くのコリント人たちは、からだはいつか滅びるものとして使い方自由で、遊女に通うのもクリスチャンの勝手だと主張していたそうです。クリスチャンの間違った、こういった極端な「自由」に対してパウロがすでに反論しました。

もう一方で、哲学者プラトンのような人の影響で、霊魂と理性が崇高で優れていて、からだと体験が卑しく劣っていると考える「二元論」はもう一つの極端としてクリスチャンの禁欲主義をも産んだ可能性があります。からだの用い方を同様に軽視するこの立場は、からだの行いが汚れていて避けるべきだと言うものでした。だからコリント人たちが「男が女に触れないのは良いこと」ではないでしょうか、とパウロに相談したそうです。

返事としてパウロはまず、7章1〜5節で幾つかかの心構えを教えます。ここの原則をまとめて言うなら、神様が考えて人間に与えてくださった結婚は、夫婦が一つとなることを意味します。

1-2節 さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。

「女に触れない」ことは性的関係を持たないということですが、パウロの答えは「はい、ただし…」です。結婚外では、人が性関係を持つのは神様の前で罪であり「男が女に触れないのは良い」が…と続けます。

ところで、その続きは私たちからすれば驚かないとしても、当時、驚くべきものでした。紀元1世紀頃のローマ帝国の人の多勢は、結婚の主要な目的は家の相続や地位のために、子孫(男子)を設けるためだと思いました。当然例外はあったでしょうが、結婚関係の中に楽しみや愛情は別にないのは普通でした。そしで男尊女卑の風習の中で、自由人の男性は世継ぎを得るために妻が固く貞操を守ることを要求できましたが、妻以外の人との関係で快楽を求めて当然のような社会でした。遊女や奴隷と性的関係を持つことを社会全般はあまり「罪」と見なしませんでした。これらの全ての前提に対して、2〜4節の答えは革命的と言って良いでしょう。

2節 淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。

結婚は、一人の男性と一人の女性の間のものです。創世記2章24節の教えが今まで効力があります。これは神様が考えてくださった、人の益のための結婚のあり方です。結婚外で「淫らな行い」があるのをパウロは承知しています。当時も今も、結婚外で性的関係を含め、結婚の親密さを求める誘惑がとても多くて、強いです。そして、破壊的です(6:18、箴言6:27-29など)。結婚の外での方法で夫婦の親密さの代わりとなる経験を求めるよりも、結婚することが良い、とパウロは結婚を消極的な「性的罪対策」の側面から勧めます。

ただし、結婚は「仕方ない」必要悪では決してありません。ここでも、聖書は結婚を肯定しています。

3-4節 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。

パウロは性を一方で(6章のように)乱用、もう一方で(7章1節のように)否定するローマ人的文化にある教会に対して述べています。夫にも妻にも、良い「義務」が与えられています。補足する、大切な心構えは5節の初めにあります。「互いに相手を拒んではいけません。」言い換えると、拒まれてはいけない願いがそもそもあるでしょう。夫婦が互いに、求めてくる楽しみがあります。神様が望んでおられる結婚関係は、二人ともが心身ともに、仕え合う関係です。

しかも、結婚の中における「義務」と「権利」は夫と妻に平等に与えられていることも注意に値する心構えです。夫婦のそれぞれに、「自分のからだについて権利」が相手にあります。相手に強要できる訳ではありませんが、7章33節に書かれているように「結婚した男〈34節:女〉は、どうすれば妻〈34節:夫〉に喜ばれるかと世のことに心を配」るのです。二人ともは、互いに仕え合うように教えられます。

パウロがここで示唆する相互的な仕え合いは、極端の性的自由および極端な禁欲の間にあった、当時のギリシャ・ローマ人にしても革命的な反論でした。結婚した夫も妻も、身体的な親密さを求めて良いです。夫婦はコミュニケーションを取り合って、自分たちだけの関係を楽しむようにパウロが言います。これは「淫らな行いを避ける」にも効果がありますが、神様が造ってくださった結婚は、男一人と女一人の親密で相互的な、優先させるべき、良い関係であるのは確かです。こうして結婚の中で旧約聖書レビ記19章18節のとおりに「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の戒めが活きます。

さて、5節の終わりから7節までは、結婚している人にとって結婚が重要であっても、絶対ではないことを教えます

5節後半 ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

結婚の性的親密さに勝る一つの例外は、「祈り」です。結婚関係は、それを持つ人にとって優先ですが、その中の性的関係を一旦休んで、神様との関係において交わりを守ることはさらに重要だとパウロは述べます。機械が少なく、肉体労働に従事する奴隷も多かった時代です。今のような「ゆとり」のない初代の教会の中に、仕事を終えて、疲れた夫婦が限られた時間を二人での親密な時間にしようともちろん思ったでしょう。けれども、ときには、それより祈りに集中するべきと判断しても良い、とパウロは言います。結婚の夫婦関係にも勝って、神との交わりが優先です。

ただし、これも状況によって判断すべき例外です。結婚相手に「私は霊的なクリスチャンだからずっと祈っています。一緒になれません」とは言えません。長く「祈りのため」に夫婦が互いから離れ、サタン(悪魔)の誘惑によって祈りから気が散ったり、性的罪を犯したりする前に、「再び一緒になる」のです。言い換えると、神との関係が最優先だから特別な祈りは認められますが、神様はご自分が教えておられる夫婦同士の関係および純潔を大切にする故、夫婦関係の親密な関わりも優先です。

パウロは6節でこう言います。

以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。

要するに、5節の例外は夫婦の関係のあり方に関する絶対的な律法ではありません。パウロの言い方もそうです。彼は心構えと原則を与えますが、詳細の判断を個人や夫婦に任せます。信じる個人また夫婦は神様に知恵を求めてつつ、聖書の教えに準じて、神様の栄光および隣人の益となりそうな生き方を決めることができます。もちろん、クリスチャンの配偶者がもしクリスチャンでなければ複雑になります。けれども、神様はそこでの知恵と恵みを賜われます(ヤコブ1:5参照)。

7節でパウロは付け加えます。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。

これは昨年の修養会で取り扱った8〜24節にも繋がりますが、7節だけを見ても、パウロ自身は独身者として満足して歩み、感謝していました。古代の世界や現代のある社会では、ほぼ全ての人が結婚するべきであり、結婚できない(あるいは子が与えられない)人は不幸だという考えはありました。けれども、パウロは結婚を幸せの必須条件と見做しません。むしろ、独身の生活を神からの「賜物」として受け止めます。独身者としても神様を喜び、神様に喜ばれることを知りました(イザヤ54:1-8、56:3-5参照)。

ところが、パウロは自分が特別とも言わず独身者に限らず「一人ひとり神から与えられた自分の賜物がある」と言います。独身者も既婚者も、神様から恵みを受けています。

聖書で「賜物」と聞くと、得意分野かを浮かべやすいかもしれません。しかし、聖書的に言うと神様からの「賜物」は「楽」なものとは限りません。パウロは後輩テモテに次のように指示しました。

第二テモテ1:6 私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。(第一テモテ4:14-15参照)

神様からの「賜物」が常に楽で楽しいと限りません。有益だけど神の栄光のために培う労力も必要です。用いないとその「炎」が弱まります。結婚でも独身でも、「賜物」として常に楽な訳ではありません。二つにも難しさはあります(9節にある未婚者の葛藤、10~15・32-35節にある既婚者の葛藤)。大事なことは、私たちが与えられた人生にある「賜物」について、神様にあって喜んで、従えるかどうか、です。

どの状況にいても神様が私たちの必要を満たしてくださると信じて、神様に満足できるかが問われます(ピリピ4:11-13参照)。例えば、独身者は結婚に深く憧れる間でも、今独身者として与えられた使命があります。あるいは、既婚者は「独身時代が楽だったな」と思うことはあるかもしれませんが、結婚している者として、今どう歩むかが大切です。後の17〜24節でパウロは、クリスチャンは置かれたところで、与えられた関係のままで満足することを教えます。

17節 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

独身者が結婚するのは良いことですが、絶対ではありません。神様がその時に与えられる賜物によります。今、「神の御前にい」て(24節)、神様が良いものを下さると信じて「神の命令を守ること」が大事です(19節)。

 

さて、パウロは1〜7節で、結婚について幾つかの大切な心構えを教えました。それぞれに色々な適用もあるでしょうが、幾つかにまとめて、適用の提案をします。

①神は性的な純潔を命じられていて、結婚は多くの人にとって、そのために意味があります(1-5節)。

・思いとことばと行動において、純潔をどう求められるか。何を避けて、何にもっと集中すれば良いか。

②結婚とは、夫婦は楽しみを分かち合いながら仕え合う、楽しみある義務の関係です(2-5節)。

・夫婦関係を優先させるために何ができるか。例えば、もし今夫婦関係が健全でないと感じられたら、打ち明ける相手はいるか。また、転勤や単身赴任の指示が夫か妻に出されたら、夫婦関係と家族の関係をどう守れば良いか。

③人ひとりと神様との関係は夫婦関係よりもさらに大切です(5-6節)。

・既婚者なら、結婚相手がクリスチャンであるかどうか関係なく、どのように「まず神の国と神の義を求め」られるか(マタイ6:33)。

④独身と結婚の間には、優れた方と劣った方はありません。神様から与えられた関係は「賜物」です。(7節)

・神様ら割り当てられた現在の状態(独身か結婚)を受け入れて、それを最善に活かせる方法は何だろうか。

とても難しい、個人的な判断と課題があるかもしれません。6節のように、聖書は個人的な指示を一人一人に出す代わりに、全員に当てはまる原則を与えることがよくあります。その全ては、神を誰よりも何よりも慕い愛し、隣人を愛することであるべきです。

パウロのように、私はここで以上の質問について、全員に対して鉄則を出せません。説教で取り扱えない、とてもセンシティブで個人的な質問が絡むかもしれません。話し合って祈り合うと良いことです。問題を抱え込まないで、信頼できるクリスチャンに打ち明けてください。

今日、困難な箇所で困難な判断がたくさん出てくる箇所を見ました。同時に、今日の箇所の原則は、神様が超越して計画されていることや熱心に聖なる生き方を求めることを示しました。「私は全てのことを正しくできている」と言える人は一人もいません。神様に背いて罪を犯した・犯している・犯そうとしている、という心当たりはあるかもしれません。今の人生の困難を神様のせいにしたり不満に思ったりすることがあるかもしれません。神様優先と言い、人を蔑ろにする、あるいは家族大事だからと言って神様を蔑ろにすることがあるかもしれません。

私たちは皆、罪を犯す者です。だから、聖い神様に近づくための「私〈たち〉の望みは主イェスだけにある」のです。独身者の賜物を持って歩まれたイエス・キリストは、神にある最高の満足と喜びを抱いて、一度も性的な罪の思いも抱かれませんでした。既婚者、未亡人、子ども、全ての人を清く、尊く扱ってくださいました。必ず神のために祈る時間を割き、近寄る群衆の必要にも応えて時間を割きました。そして、完全に祝福されて当然のこの方が、十字架で身代わりとして、ご自分により頼む人の罪を背負いました。さらに、神の家族に招き入れてくださいます。神の家族として教会は今も、イエス様によって罪から清めていただいて、判断する力をいただいて、最高の愛を経験できます。

判断の難しさ、誘惑、罪悪感、孤独感など、色々な気持ちが私たちの思いを横切り、心を鈍らせようとするときにも、主イエスだけが望みです。主イェスにより頼んで、独身と既婚のクリスチャンの共同体として祈りたいと思います。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church