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礼拝式順
前 奏 | Prelude | |
招きの言葉 | Call to Worship | ローマ人への手紙 Romans 11章33節〜12章2節 |
さ ん び | Opening Praise | 「見上げよう神の御座 Behold Our God」 |
さ ん び | Praise | 「主よ愛します Be Exalted, O God」 (詩篇57:9-11) |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌303番「かいぬし我が主よ」 |
執事就職式 | Deaconess Installation | 百瀬ジョザイア牧師 |
聖書朗読 | Scripture Reading | コリント人への手紙第一1 Corinthians 7章25〜40節 |
聖書の話 | Sermon | 「パウロの独身・結婚相談室」
百瀬ジョザイア牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer | 主の祈りより From the Lord’s Prayer
百瀬ジョザイア牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | 百瀬ジョザイア牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
家族や友達に何かを相談したことがありますか。あるいは、相談を受けたことがありますか。相手の状況が分かれば分かるほど細かい答えは出るかもしれませんが、曖昧にしか分からなかったら「この状況ならこれ、あの状況ならあれ、が良いです」という答えが出るかもしれません。これは、他の人の知恵の限りを認めて、判断すべき本人に助言を与えながら判断を任せるカウンセリングと言えましょう。
使徒パウロは今日の箇所で、幾つかの状況を想定して、独身と結婚のいわゆる「相談室」を開きます。7章初めからそうでしたが、前回特に7節までで結婚の場合を取り上げて、幾つかの教えあるいは原則を学びました。前回お分かちした神の教えの最後の二つを復習します。
・一人ひとりと神様との関係は夫婦関係よりもさらに大切です(5-6節)。
・独身と結婚の間には、優れた方と劣った方はありません。神様がお一人おひとりのクリスチャンに下さる関係は「賜物」です。(7節)
パウロはこれらの変わらない原則を今度、現段階で結婚関係にいない方に焦点を当てて、状況別の助言を与えます。大まかにここの助言を分けると
25〜35節で「結婚の是非を考える独身者への助言」、
36〜38節で「結婚の是非を考える婚約者への助言」、
39〜40節で「結婚の是非を考える、伴侶と死別した人への助言」の話があります。
どれも、前回7章の最初の7節で見た原則が続けて当てはまります。
そして、繰り返しになりますが、パウロは神様からの変わらない原則に基づいて教えますが、カウンセラーらしく、考慮すべき事情を認めて、状況によって判断するように勧めています。
読み解きにくい時代背景などの部分もありますが、原則に集中して、聖霊様と私たち自身が私たちの状況に当てはめてくださることを願います。また、イエスを信じていらっしゃらない方であっても、パウロが述べる価値観と原則は同じです。本当の幸せは第一に、私たち皆を造られた神様と平和を持って、神様に心を向けることにあります。
一
まず、「結婚の是非を考える独身者への助言」があります。「この相談コーナー」は一番長いです。
25節の「私は主の命令を受けてはいませんが…」は、神様からでなくパウロの個人的意見だということではないと思います。「主」イエスが教えられたことの中に直接当てはまる教えは持っていないという意味でしょう(12節参照)。この助言は神の権威の下で言っていない、という意味ではありません。40節のとおりにパウロは聖霊に導かれながら、神によって信頼されて、よい使徒として、結婚していないクリスチャンについて「意見を述べます。」
26節 差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。
29節でも関連することが書いてあります。「危機」は圧力をかけ、不快にさせる何かです。もし「危機」がイエスの再臨であれば、再臨が今日でもまだだからパウロは誤解していた、と言う人もいます。しかし、これが「最後の日」だけを指すとは限りません。再臨直前の危機だけでなく、その前の色々な危機をもパウロが考えているかもしれません。日常的に、危機があると、私たちは通常の行動ができない場合もありますね。色々大変な状況があるのをわきまえて、結婚の是非をそれぞれの人に決めてほしいとパウロは言っています。
27-28節 あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。
パウロは「そのままの状態」を解説します。状況によって判断が変わります。結婚していれば、原則として離婚しません(39節参照)。結婚していなければ、わざわざ結婚する必要はありません。そして結婚を続けることは決して神の律法に反しないので、「罪」ではありません。けれども、以前7章の初めでお話したように、パウロは絶対のルールを与えません。
28節の「結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう」というのは、パウロの注意です。29節の初めで「時は短くなって〈別訳:限られて〉います」というのは、「時間」が少ないという意味でなく、現在私たちがまだ生きている「終わりの時」(ヘブル1:2参照)はイエス様の再臨までであり、時間が短いあるいは限定されているから、この人生の用い方をよく考えてほしいということです。
私たちが今過ごす期間は危機的な、重要な時です。クリスチャンにまだなっていなくても、当然、どう生きるかが大切です。そこで、パウロは結婚した人にとって大きくなる責任や経験を五つ挙げて、それは過剰評価しないで相対的に捉えるように勧めます。29〜31節にある五つの立場の人「妻のいる人…泣いている人…喜んでいる人…買う人…世と関わる〈世を活用する〉人」は、当時のローマの社会で、結婚する二人に向けられる期待か要望でした。夫婦はそれぞれの家族に対する責任や社会責任が生じました。家族と一緒に嘆くこと、喜ぶこと、家族の生活に必要な物を揃えて、収入を安定させて暮らすこともありました。クリスチャンの伴侶でも、確かにそのように暮らすかもしれませんが、そういうことを重視し過ぎないようにパウロが勧めます。3節によると「この世の有様は過ぎ去るからです。」
33〜34節でパウロはさらに、クリスチャンが神と関係を世界また伴侶と持つとどうなるかを解説します。人は伴侶を喜ばせようとするはずです。独身のクリスチャンは、比較的に簡単に「どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配」ることができます(33節)。言い換えると「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられていることを行えるかもしれません(マタイ22:37-38参照)。
ところが、結婚すると関係が複雑にやります。結婚関係の中で30・31節のような家族関係、所有物などで「世のことに心配り」ます(34節)。そうすると、確かに神を慕い愛することはできますが、集中しにくくなりがちです。結婚しているとできないわけではありません。神様に仕えることはできます。けれども、二人ともクリスチャンであっても意図的に支え合って神に仕える必要はありますし、お一人だけクリスチャンであると遥かに難しくなることを、皆様がご存知かと思います。
35節でパウロはカウンセラーらしく、牧会者として語ります。
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。
ここでも、パウロはクリスチャンに対して、神様にはっきり言われていないことについて個人判断の自由と責任はあることを認めます。「ひたすら主に奉仕」することの価値を忘れてはいけません。今でも、宣教など、色々な状況で神様はこの生き方を7章7節の「賜物」として下さるかもしれません。結婚してもいいですが、その中で神様に集中し続けて歩めるかという考慮が必要です。
二
36〜38節は「結婚の是非を考える婚約者への助言」です。ここの相談コーナーは一番馴染み薄いところかもしれません。昔、多くの人は大人になる前に、親の判断で婚約されました。また、ローマの文化などでは、男性がある程度、7章31節の話のように家庭を支える経済力を得てから、比較的に若い女性と結婚することがよくありました。ところが、ローマ文化ではいいなずけ(婚約)まで進んでも、結婚にならないことも結構あったそうです。日本の現在の状況でいうと、婚約者あるいはまだ婚約前で付き合っている二人のことについて当てはまるかもしれません。
新改訳聖書から分かりますように、この箇所でパウロが想定する状況について解釈が別れます。主語が「ある人が」としかなく、はっきり書かれていません。大まかにいうと二つの捉え方があります。①婚約者同士の二人がいる状況かもしれません。②新改訳第3版の訳であり、2017年版で註に移されている訳し方は、未婚の女性の父親(あるいは親権のある人)、若い女性、そして婚約した相手の3人がいる状況も可能です。
現在、前者は多分正解とされますが、どちらであってもパウロは、私たちが現代の個人の状況に当てはめるときに考慮すべき原則を教えます。
① まず、「自分の婚約者に対して品位を欠いたふるまいをしている」かどうか。はおそらく、家族などから結婚する圧力があるかどうかです。
② 「婚約者が婚期を過ぎようとしている」かどうか。婚約者が若いうちに結婚したいという熱望があるなら、それも考慮します。
これらの二つが揃えば、結婚しても良いということです。
③ 「結婚すべきだと思う」かどうか。判断するべきです。「望んでいる」かどうかとパウロが問います。もし結婚をすべきだと思い、望んでいるなら、「罪を犯すわけではありません。」
ところが、パウロは独身でい続ける選択肢を、四つの要件をクリアした人に勧めます。その考慮点を37・38節で見ましょう。
① 「心のうちに固く決意」するなら、
② 品位を欠いていると思う周りの人から「強いられてではな」いなら、
③ 「自分の思いを制して」いるなら、
④ 「婚約者をそのままにしておこうと自分の心で決意するなら」
それでは結婚しないで「立派」とパウロは言います。結構高いハードルだと思いますが、それは「立派」です。38節で結婚に進むことも「良いこと」であり「立派」と同じことばですが、「結婚しない人はもっと良いことをしている」と終わります。
三
さて、今日の三つ目の箇所は「結婚の是非を考える、伴侶と死別した人への助言」です。ここの相談は、結婚がいつまで続くか、そして再婚をどうするかについて原則を適用します。
39節によると、結婚は原則として、夫婦が生きている限り、続きます。
妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。
夫についても、同じです。
夫婦のどちらかの死で結婚が終わるのが基本的な姿勢です。それでクリスチャンの結婚式の誓約で「いのちの限り彼女(彼)を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前に誓いますか」と聞かれます(ローマ7:1-3、マルコ10:6-9参照)。7章10節は原則離婚しないように教え、15節で、もし信じない伴侶がクリスチャンの伴侶から離れたいなら仕方なく手放すが、原則として離婚しないことを教えています。
ちなみに、イエスは、不倫によって結婚が似たように破壊されたら離婚は選択肢としてあると教えましたが、その場合にでも離婚しなさいとも命じられませんでした(マタイ19:9)。神様は関係を修復することができるほどに力強いお方です。
ところが、パウロは第一コリント7章39節で「妻は、…夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります」と言います。死によって結婚関係が終わるので、新たに結婚相手を見つけることが許されます。16節で、離婚された人でも再婚できるか、クリスチャンたちは議論しますが、パウロがこの章で示しているように、原則に基づいて、状況を吟味して考えて決めるべきでしょう。
次に、大切な補足があります。「ただし、主にある結婚に限ります。」「主にある結婚」の「主にある」という表現が新約聖書に50回近くも出てきて、関連する「キリストにあって」も75回ほどです。使い方は色々ありますが、ここで用いられている大まかなニュアンスは「主と結び合わされた者として」あるいは「主との繋がり故に」とまとめられます。再婚する者は、主イエス・キリストと結び合わされた、第一に32〜34節のように「主のことに心を配」るか考える必要があります。神様のこと、聖書が示す「神の国と神の義」を求めているか(マタイ6:33)考えます。再婚すれば、新しい結婚相手と主の両方に心を配るようになります。そして、パウロは40節前半ですぐに、自分の意見として「そのまま〈独身〉にしていられるなら、そのほうがもっと幸いです」と主にもっと集中して神を喜ばせる生活の利点を念押しで言います。
40節の最後にパウロは、これまでの「意見」の重さを伝えます「私も神の御霊をいただいていると思います。」神様に導かれていることを述べます。
さて、パウロの「独身・結婚相談室」から何が学べるでしょうか。7章初めのようにパウロは結婚を良いことだと認めますが必須ではない、むしろ、「差し迫っている危機」のような状況によって独身がより良いかもしれない、と助言を与えました。これまで一生涯の独身者、すでに婚約している人、また結婚相手を亡くした人についてケーススタディ(相談)に応じて、助言をしてくれました。しかし、結論としては、状況によります。誰にでも当てはまる原則もありました。初めにお分かちした二つの原則と一緒に、今日の箇所がはっきりさせるもう一つの原則を覚えたいと思います。
・一人ひとりと神様との関係は夫婦関係よりもさらに大切です(5-6節)。
・独身と結婚の間には、優れた方と劣った方はありません。神様がお一人おひとりのクリスチャンに下さる関係は「賜物」です。(7節)
*クリスチャンは難しい時代に生きていて、その中でも神様が愛されることを第一に求め、愛するのは難しいです。結婚すると、神様に集中する難しさが増します(26-35節)。
私たちはカウンセラーのパウロに自分の状況について相談してみたら、どんな質問で彼は私たちの状況と心を探るのでしょうか。私たちは結婚していなくてもしていても、神様を第一に愛して求めているでしょうか。今の状態を最善に用いて、神様の栄光のために生きようとしているでしょうか。あるいは、世や人間関係を愛し過ぎて、神を第2の優先、第3の優先にしているのでしょうか。
私たちは神の知恵と愛を疑って、今の関係や情熱にまず目を向けがちです。結婚したくて神様の教えを無視するか、神様に不平不満を抱くか、結婚に満足して神様を無視するか、色々な形で私たちは神様から離れてしまう危険があります。
けれども、神様は、その無限・永遠・不変の知恵のゆえに、永遠に賛美されるに値するお方です。ローマ書はそれを述べてから、12章1〜2節でこう述べます。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
この世の調子と合わせた考え方で結婚と独身を考えてはいけません。私たちの人生の全ては「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として」生きるように求められています。なぜなら「神のあわれみ」があるからです。イエス様が教会の私たちを愛して、唯一の完全な花婿として私たちをきよめてくださるからです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25-27)
これは、クリスチャンが結婚しているかどうかと関係ない、良い知らせです。初めにも言いましたが、本当の幸せは、私たち皆を造られた神様と平和を持って、神様に心を向けることにあります。私たちはこれができないのです。結婚と独身について悩むときにもそれが見えます。しかし、イエス・キリストが汚れた罪人を愛し、綺麗な「花嫁」にするために「ご自分を献げられた」のです。霊的な意味で、私たちの隣に今も立たせてくださって、日々「みことばにより」私たちの日々の罪から清めてくださいます。
今後状況は変わるかもしれません。まず、私たちの心が日々、イエス様の恵みによって憩い、神のことに心を配ることができますように。教会に入れられた私たちがイエス・キリストに喜んで服従して、自分の独身や結婚を神のご計画に委ねる気持ちを抱けますよう、祈り求めたいと思います。