2024年2月25日礼拝 説教「兄弟のために」

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礼拝式順

前   奏 Prelude
招きの言葉 Call to Worship コロサイ人への手紙 Colossians 3章16~17節
さ ん び Opening Praise 「揺るぎない土台 ~Firm foundation~」
さ ん び Praise 「栄光から栄光へと」
開会の祈り Opening Prayer
主の祈り Lord’s Prayer
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌 1番「聖なる聖なる聖なるかな」
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 1 Corinthians 8章4~13節
聖書の話 Sermon 「兄弟のために」

百瀬ジョザイア牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌 114番「わがため傷つき」
献金と祈り Offering & Prayer
報   告 Announcements
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

百瀬ジョザイア牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 百瀬ジョザイア牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

あなたは、自分の近くにいるだれかのために大変なことをしたことがありますか。例えば、美味しいお食事を作ったり、楽しい遊びや旅行を考えたり、教えたり、手伝ったりしますか。きっと、すると思います。だれのために、そうしたことがありますか。よく、家族のためにしておられると思います。幼稚園、学校、会社でもしておられると思いますが、やはり家族のために私たちはたくさんのことをします。

でも、家族であっても、時々、相手のためにしたくないと思うことがありますね。面倒臭い、自分の好きなことができなくなる、などと思うかもしれません。「なんでそんな事で悩んでいるの。早く、一緒に楽しいことしよう」と面倒くさがるときがあるかもしれません。相手の弱さを受け止めて、応じて、手伝うかどうかは、特に親、上司、先生、先輩の悩みです。

けれども、今日の箇所でパウロは面倒くさそうな、複雑な問題にいるクリスチャンたちに声をかけて、愛することを求めます。コリントの町のクリスチャンたちの間で問題となっていた争点を取り上げます。そして、最初にクリスチャンの神論を認めつつも、次に信仰の「後輩」の悩みを認めて、最後に知識を乱用する「強い」人に愛のなさを指摘します。さらに、イエス様と自分がどう見てくださるかも教えてくれます。

一 8:4-6 神と偶像の正統な理解

パウロは4節で、1節で頭出しした本題に戻ります。古代コリントの町に「偶像に献げた肉」がよく市場に出してありました。詳細は知りませんが、少なくとも偶像礼拝と関連する食べ物の事です。当時、都市の一般人の食生活は質素でした。肉は特別な、贅沢な食べ物でした。まず肉がお店にあるとすれば、それは神殿のいけにえで使われた動物の肉の可能性が高かったです。それをどう見て、食べるか食べないかで、クリスチャンになったコリント人たちが別れていました。食べてもよいと思ういわゆる「強い」人も、食べることに違和感を感じるいわゆる「弱い」人もいました。

今度、4〜6節でパウロは自分やコリントのクリスチャンたちの共通の神学立場を復習します。

4節 さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。

当時、コリントの社会は日本の伝統的な社会によく似て、様々な神々が祀られていました。ギリシャの神々とローマの神々が融合されていましたし、「新興宗教」もありました。日本のお盆や初詣でのように、だれでも、熱心にでなくても慣習として普通にすることでした。5節のとおり、「多くの神々や多くの主があるとされている」状況でした。しかし、「唯一の神以外には神は存在しない」とパウロは「強い」クリスチャンと「弱い」クリスチャンと共に告白します。

これはとても正統な信仰告白です。

6節  私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで

この背後に、旧約聖書申命記6章4節「主は私たちの神。主は唯一である」があります。創造主なる、真の神はおひとりだけです。ただ、聖書の教えにいわゆる三位一体の理解もあるように、三つの人格(位格)があります。父なる神と子なる神、つまり「主」イエスがおられます。さらに、神様が全てを造られ、全てを最後の目的へ向かわせてくださるという意味で「この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至る」のです。ローマ書11章36節に似たことが書かれています。これは教会が共同体として「私たちには」と告白することです。

それから、6節最後は5節の世の中の主張と違って「」もおひとりだけだと言います。

また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。

当時ローマ帝国で流通した硬貨で「主」と書かれていても、皇帝は本当の「主」ではありませんでした。アメリカの大統領、日本の天皇、会社の上司、家族の長でもありません。イエス・キリストだけが、最高権威を持たれる王、「唯一の主」です。創造主であられますから「この主によってすべてのものは存在し」ます。しかも、「この主によって私たちも存在する」と強調されます。要するに、神の民の者は被造物全体以上に特別な意味でイエス様を通して生きて、神様と関係を持つようにされています。何という特権でしょう!

二 8:7-8 偶像崇拝関連の食べ物に対する、個人の感覚と現実

しかし、パウロは以上の素晴らしい、正統な真理を述べてから、7節で複雑な現実に移ります。

7節 しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

1節で誇っていた人々が「私たちはみな知識を持っている」と言いましたが、パウロは同意しますが、彼らが使う「みな」の範囲がより広いです。それで、「すべての人にこの知識があるわけではありません」と反論します。いわゆる強い人の間で「みな」が知っていたことであっても、同じ信仰を持つクリスチャンの中に、一神教の真理を実生活に当てはめる段階で悩む、もう一つのグループがありました。真の神がおひとりだけである真理を消化しきれないまま生きていました。そして、誇っているクリスチャンたちの行動を見て、困惑していた、いわゆる神学的な「弟妹」か「後輩」がいました。

偶像礼拝に対する反発は良い反応です。10章でパウロは、偶像に実態がないにしても、それらは実在する悪魔の仕業と繋がることを伝えます(10:19-20)。だから偶像礼拝の場で用いられたと考えられる食べ物についてためらう人がいても不思議ではありません。そして「今まで偶像になじんできた」ので、偶像を連想させる食べ物が出されたら、それを食べることは真の神に背くことだと理解した可能性が十分にあります。

それでそのような、信仰による兄弟姉妹の「弱い良心が汚されてしまいます。」その良心は絶対的な基準で判断する能力というより、単純に個人が良し悪しを判断する際に用いる「意識」とも言えますが、あるクリスチャンは自分が偶像崇拝で手を染めたと意識して、動揺してしまう訳です。周りで「知識」を誇っているクリスチャンたちはもっと教育を受けて社会の中で尊敬される「強い」人たちである可能性が高いです。でも「弱い良心」を持つ自分たちは、肉を食べたくても心の中で引っかかる一方で、おそらく教育の面、社会の中の立場の面で弱かったでしょう。自分の判断を疑って、揺らいだことには無理がありません。

ちなみに、10章14〜22節に書いてあることを照らし合わせると、実際に偶像礼拝で偶像礼拝の儀式として何かを食べたりすることは真の「主のねたみを引き起こす」ことである、と注意しています(10:22)。ですから、8章また10章の最後が想定している状況は違います。自分や他の人の家で、偶像の神殿で屠られたかもしれない肉のような食べ物についてどう思うかが今日の箇所が想定する状況です。

8節でパウロはまた、正論に戻ります。

しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。

「御前に立たせる」のニュアンスは神に裁かれる理由にはならない、それとも神の御前に出る資格を与えない、という意味でしょう。これはコリント人のいわゆる強い人の主張でもあったかもしれませんが、その場合でも、パウロはこれを正論として認めます。確かに、神様からすれば「食べなくても損にならないし、食べても得になりません。」食べ物自体が問題ではありません。ただ、正論で食べると損だと感じる人に食べるプレッシャーを与えるのは問題です。9節以降にあるパウロの結論を見ましょう。

三 8:9-13 パウロの注意

9節でパウロがコリントのいわゆる「強い」人に警告します。

ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。

歩道に大きな箱あるいは石が置いてあれば、歩こうとするとつまずいてしまいやすいです。「あなたがた」といういわゆる「強い」クリスチャンたちは、神学的な正論からの結論として、肉を食べる「権利」があると理解していたが、それをもって高ぶっていました(8:1)。他のクリスチャンの歩みの邪魔、良心の中で転んでしまうような困惑、「つまずき」を与えていないかを反省するようにパウロが注意します。

8章1節で「愛は育てます」とパウロは言ったが、10節で皮肉な育て方を描きます。

知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

後押しされて」と訳されていることばは8章1節と同じ原語です。「育てられて」、「建てられて」ということです。理解が未熟なクリスチャンは周りのいわゆる「強い」クリスチャンの自由な食べ方を見て、「偶像崇拝をしてはいけないけど、兄弟が食べている…偶像礼拝をしているじゃないか…どうしよう…近所の方がわざわざ私にも肉を差し出した。肉を食べる機会がめったにない…兄弟と違う行動をとったらクリスチャンとしてどう思われるんだろう…自分もしようか…」というふうに導かれて、悪いと思うことを仕方なくするかもしれません。「神様に背くのは仕方ないか…いいや、食べよう」と、気が進まないことをしてしまうように思いを仕向けられてしまいました。それで、間違った理解で「後押しされて」しまいました。

離乳食を食べ始めた赤ちゃんに無理やりお寿司やステーキを食べさせたら、もしかしたら飲み込めるかもしれません。けれども、体によくないです。多分、危険でしょう。パウロは、クリスチャンがなぜ肉を食べても良いか分かる前に食べさせるのは、理解の面でまだ小さな子に無理ある食事をさせることだと言っています。

偶像礼拝と肉以外に、似た葛藤があるかもしれません。もちろん、日本の色々な慣習には、コリントの状況に近いことがあります。偶像礼拝から離れたクリスチャンも色々な日本の慣習の背景に偶像崇拝があると知ったなら、悩むことはよくあるかもしれません。だから、丁寧に考える必要があります。たとえ直接、真の神以外の存在への祈りや崇拝が込められていなくても、そのように受け止めるクリスチャンにとっては「つまずき」となりやすいです。

パウロは11〜12節で、権利を振るって兄弟たちを悪い方向へ育てているクリスチャンたちにその過ちを突き付けます。まず、こう言います。

つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。

永遠の裁きに会うという意味で「滅びる」のではないでしょう。「滅びる」は育てられ、建てられることと逆の効果を意味します。神と偶像の関係をまだよく分かっていない人がいわゆる「強い」人の優れたはずの「知識」に「後押しされて」、皮肉なことに取り壊されてしまいます。混乱して、滅びのような経験をしてしまいます。

さらにパウロは、「強い」人たちが忘れていた別の真理を述べます。

11節後半-12節 この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

神はおひとりだけだという、一つの真理を愛なしに好き勝手に利用して、肉を食べていると、救い主イエス・キリストが罪人のために「死んでくださった」もう一つの真理を、受け入れていないことになります。なぜなら、イエス・キリストが「この兄弟のために」も死んでくださいました。過去の、実際の偶像礼拝の罪のためにも、イエスは身代わりとして神の罰を受けてくださいました。それほど愛されている兄弟に傷つけて良いのか、とパウロが聞きます。

もし私たちが自分の身勝手な行動で、神学をそこまで意識していないクリスチャンを困惑させて良心の判断を乱すなら、私たちは大きな罪を犯すことになります。イエス様がいのちまで捨てて、買い出してくださった人に滅びのような思いをさせていいのですか、ということです(マタイ18:6-7・10参照)。

パウロは13節で結論を言います。

ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

 パウロの態度はまさに、エペソ人への手紙4章15節の適用です。「愛をもって真理を語り」、あるいは真理を生きることは、このように真理をはっきりと持って、しかし相手のために生きて、自分の快楽やいわゆる自由を捨てることです。9章でパウロはさらにこの熱意を表現します。

さて、パウロは最後の決心の熱意はどこから学んだのでしょうか。

元々、パウロは自分の神学を受け入れない人々を激しく迫害した人でした。ユダヤ教を曲げていると思った練習を逮捕して、処刑するように働きかけました。どうして、愛をもって真理を語るように変わったのでしょうか。私たちをも「兄弟のために」自分の権利を手放せるようにするのは何でしょうか。パウロは、自分のために死んでくださったイエス様に出会ったのです。

神学的に揺らいでしまうクリスチャン「兄弟のために」も、高ぶって権利主張して、兄弟に傷つける、いわゆる強い先輩クリスチャンの「兄弟のために」も、イエスは身代わりとして神の罰を受けてくださいました。まだ兄弟になっていない、今まで抵抗もなく形ある偶像または形ない偶像のために生きてきた方のためにも、イエスは死んでくださいました。

私たちみなに、自分で拭いきれない罪悪感、消し去れない恐怖はあるでしょう。唯一の創造主なる神によって造られ、大切にされつつも、反抗して、刑罰に値するからです。神様を無視して偉くなって、影響力や能力があっても、ただ他の人に足を引っ張られると感じます。喜びと平安を持つことができません。しかし、私たちの刑罰を受けて、替わりにご自分の喜びと平安を下さるのはイエス・キリストだけです。イエスは、愛したゆえに、裁きを受けるべき人間の罪をご自身で受けて、替わりにあらゆる種類の人を神の子となる「義」の資格をくださいます。

私たちは同じように自分を捨てて、人のために何かをできるでしょうか。お互いについてこれを認めて、神の家族の兄弟姉妹のために、真理を、互いの気持ちと理解に敏感に、愛を持って伝えられるでしょうか。面倒臭いと考えずに、惜しまずに愛して、ゆっくりと共に歩めるでしょうか。

このように育って、育て合う愛を育むには時間がかかります。まだまだ失敗するかもしれませんが、神様が助けてくださることによって、できるようになります。イエス様が愛してくださり、兄弟姉妹のために死んでくださいました。兄弟姉妹のためによみがえり、とりなしてくださり、また来てくださいます。それに希望を置いて、それに習って、愛そうではありませんか。私たちの動機づけは強く偉くなるため、ではありません。神様がまず先に私たちをそのように、忍耐深く、熱心に愛してくださったから、兄弟姉妹のためにそうします。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:10)

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church