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礼拝式順
前 奏 Prelude
神の招き Call to Worship
司会者 主イエス・キリストの恵みがあなたがたすべてとともにありますように。
会衆 主の恵みがありますように。
司会者 さあ、主に向かって喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
会衆 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
一同 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌18番「つくられしものよ」1・5-7番
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書 Isaiah 55:6~7
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
会衆 あわれみ深い神よ。私たちはあなたに対して罪を犯したことを告白します。思いと言葉と行いにおいて、禁じられたことを行い、すべきことを怠りました。私たちは心と知性と力を尽くしてあなたを愛しませんでした。自分自身のように隣人を愛することもできませんでした。あわれみのゆえに、これまでの私たちをお赦しください。今ある私たちを造り変え、私たちのこれからの歩みを導いてください。そうすれば、あなたのみ心を喜び、あなたの道を歩むことができます。あなたの聖なる御名の栄光が現われますように。
アーメン。
個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32:1~2
会衆 アーメン。
平和のあいさつ Passing the Peace
司会者 神はキリストによって私たちを赦してくださいましたから、私たちも互いに赦しの恵みを分かち合いましょう。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平和があなた方の上にありますように。
会衆 主の平和が、あなたとともにありますように。
賛美 Praise 教会福音讃美歌359番「私の望みは主イエスだけにある」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 コリント人への手紙第一 1 Corinthians 9章13〜18節
聖書の話 「続・パウロの決心 しもべの態度」 百瀬ジョザイア牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌319番 「主イェスのみ声は罪ある者を」
聖晩餐式 Communion 百瀬ジョザイア牧師
[制定のことばInstitution] コリント人への手紙第一 I Corinthians 11:23~29
[式辞 Fencing][祈り Prayer][分餐 Distribution]
配餐者 青木宏太長老 大場清文長老 那須宗泰長老
一同 私たちの贖い主イエス・キリストの父なる神よ。私たちは、主の聖晩餐にあずかることができた恵みを心から感謝いたします。この主との親しい交わりにおいて与えられた祝福によって、神の子、光の子らしく歩む誓いに生き、各々の十字架を負いつつ御国で祝うその日まで、この聖礼典を重んじ、守らせてくださいますように。
私たちの贖い主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
献 金 Offering
報 告 Announcements
頌 栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」
祝 祷 Benediction 百瀬ジョザイア牧師
後 奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
火災の現場に駆けつけて、火を消して、人を助け出す高校生がいたら、格好良い!素晴らしい!と私たちは思うでしょう。そのような人は表彰状をもらって、ニュースに載るでしょう。
では、同じ行動をする消防士さんを想像してみてください。彼らはもちろん感謝されるし、ニュースに載るかもしれません。けれども、本人にとったら日常茶飯事です。本人は誇りを持つかもしれませんが、基本的に、責務を果たしただけだと思うでしょう。「仕事だから当たり前」でということです。病院の緊急処置に当たる看護師などもそうでしょう。責務を果たしている「だけ」だと言うかもしれません。
使徒パウロは自分の使命を似たように考えました。人々がイエス・キリストに出会って、創造主なる神様のすばらしさを永遠に楽しめるためにローマ帝国の中を、命懸けで駆け巡って、苦労しました。でも、彼は謙遜な態度を示しました。責務をただ果たし、人を喜ばせたいしもべの態度でした。
前回の第一コリント9章1〜12節で、パウロが一つ目に使徒として、教会の牧会者として持つ権利を確認しました。教会のために労苦する使徒などは、教会から物質的な支えを受けるのが神様の教えであると主張しました。しかし、二つ目にパウロは権利を放棄すると言って、期待を裏切りました。断固として、「キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます」と12節で言いました。
続きである今日の箇所は、権利をなぜ放棄するかをより深く掘り下げます。パウロは自分が英雄だとか殉教者だとは決して思っていません。自分の誇りがどこにあるかをわきまえて、神を愛し仕えたい態度から権利を用いなかったことが分かります。
パウロはまず、13・14節で再度、持っている権利を確認します。
13節 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。
ユダヤ人の礼拝でもギリシャ・ローマの献げ物の儀式でも、祭司たちはいけにえの動物の肉一部を受けることができました。例えば、旧約聖書民数記で主なる神がアロンの家の祭司には広い領土を与えないが、他のイスラエル人から「奉納物」(民数記18:8)及び収穫などの「十分の一」(18:21)を受ける権利を与えると伝え、それによって生活するように命じられました。
パウロは続けます。
14節 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。
「主」はイエスのことです。確かにイエス様はマタイの福音書10章10節によると、「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」と教えられ、「定めておられ」るのです。
ですから、パウロは自分に権利があることを認識しました。ところが、続けます。
15節 私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。
なぜ、持っている権利を捨てるのでしょうか。何の「誇り」を守りたいのでしょうか。パウロは今まで、「誇ること」について結構悲観的でした…。
第一コリント1:28-29 無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
3:21 だれも人間を誇ってはいけません。
これらは人間中心の誇りへの警告です。しかし、パウロは別の「誇り」がない訳ではありません。誇りは心の拠り所、希望、宝とも言えるでしょう。袴田康裕という牧師が言う通りだと思います。すなわち、「パウロは自らの誇りをとても大切にした人です。…人が何を誇りにして生きているか、それがその人自身を表す、その人自身を定義すると言ってもよいでしょう。」何を誇りとするかが問題です。誇りの対象が安定していると自分も安定して、それが崩れたら自分も崩れます。
9章16節も読みましょう。
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
福音宣教をすること自体を、パウロは誇れません。純粋に、神様からの召しを中心にして考えているので、ここで言っている「誇り」は自分中心のものとは考えにくいです。第一コリント1章31節のように、パウロは「誇る者は主を誇」っていました。つまり、自分の王であるイエス様に幸せ、誇りがありました。
しかし、イエスを中心にする福音を宣べ伝えること自体はパウロの誇りではなかったのです。消防士以上の辛い目にあって迫害され、旅の道中で強盗にあい、難船にあい、苦しみに耐えて福音宣教をしても、です。むしろ、伝えないと惨めで「わざわい」だと告白します。またまた驚かされる態度です。
17〜18節でパウロは別の観点から、福音を伝えること自体を誇れないことを伝えます。
17節 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
「自発的に」福音宣教をするとすれば、まるで雇用契約をした人が対等の相手に見返りを求めて契約を結ぶ状況かのようでしょう。「報酬は…当然支払われるべきもの」になります(ローマ4:4)。そうすることで「報いがあります。」(第一コリント9:17)「給与」になります。
もう一方で、ギリシャ・ローマの文化に奴隷制度というもう一つの「雇用形態」もありました。さらに、奴隷の中で特に信頼される人は、管理の責任(第一コリント4:1参照)とも言える「務め」を受けることがありました。そのような場合に、例えば裕福な家の全体の家計を守って管理する務めを委ねられました。尊敬される立場でしたが、同時にキリストは次のように、神様のしもべの謙遜な態度を教えられました。
ルカ17:9-10 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
パウロは自分が「取るに足りないしもべ」だと心得ていました。今日の箇所で、自分は得たい賃金で報酬を求めて、「自発的にする」自由人の立場になく、ただ神様に委ねられた「務め」を果たすべきしもべの立場にあると言います。福音を隠さないで、曲げないで、忠実に宣教という形で投資して管理する務めを果たしても、別に偉い、誇れることではありません。
だからこそ、18節でパウロはそれ以上の「報い」を得る手段をこう説明します。
18節 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。
パウロは15・16節の「誇り」に戻ります。パウロはそこで「誇り」を守ろうとして、17・18節で「報い」を求めています。彼は同じ根本的な課題を扱っているので、これらは似た意味を持つと言えるでしょう。
パウロはしもべとして、委ねられた福音宣教を管理しても、必要最低限をしているに過ぎません。だから、誇れる「報い」は、それ以外に提供できることだけです。パウロがまるで次のように考えたそうです。「イエス様の良い知らせを、イエス様に似た形で提供しよう。私の喜びと宝であるキリストのように、支えを要求しないで、無条件に福音を差し伸べよう。」それは「福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない」(9:18)という決心でした。自分の自己犠牲的な宣教によってでさえも、自分を誇る訳には行きません。パウロはイエス様の無条件の恵みを、自分の生き方で描く画家だったと言えます。
さて、今日の箇所の適用に移りますが、「パウロのように無償で働きなさい」は今日の適用になりません。もし私がパウロのものすごい自己犠牲的な生き方の模範にただ注目しよう、と結論したら、パウロの意図と反対のことをしてしまいます。ということで、覚えて共に実践していただきたい適用①は、「改めて、究極の英雄イエス・キリストにある福音を思い出して、信じましょう」です。
別の手紙でイエスがしもべとなられたことを覚えていらっしゃるかもしれません。例えば、
ピリピ2:6-8 キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
キリストは永遠に真の神であられるのに、神としての威厳を隠して、「しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。」(ピリピ2:7)全宇宙の主が…しもべとなってくださいました。貧しく暮らして、転々と移動しながら「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という福音を宣べ伝えました(マルコ1:14-15)。神の国の王だが、相手の悔い改めと信仰以外に何も要求せずに、ご自分をささげてくださいました。
人間は生まれつき、自分を誇って、神に対して不遜に権利を主張したがる人、つまり罪人ばかりです。要するに、神の教えや愛を疑って、自分に望みと誇りを置いて、自分の幸せ中心に生きようとする、高ぶる者たちです。私たちのような罪人のところまでキリストは「自らを低くして、死にまで、 それも十字架の死にまで」父なる神様に従ってくださいました(ピリピ2:8)。そうすることによって、神が無償で(恵みのみによって)罪人を正しい者として扱って、義と認める根拠を用意してくださいました(ローマ3:21-26、エペソ1:4-8)。つまり、罪人に転嫁される完全な善と義によって生きて、死んで、復活してくださいました(第一コリント1:30、第二コリント5:21参照)。こうして、無数の罪人を代表するイエス・キリストは福音の本質を下さいました(ローマ5:12-19参照)。
ローマ人への手紙でも、パウロは第一コリント9章のように「報い」について語ります。もし人間が正しいことをすることによって真の神に「義」あると認められて歓迎されることができたなら、それは神様からの一方的な恵みに寄らない「報酬」だけです。しかし、パウロが一方的に福音を伝えようとしたように、神様は完全な恵みによって、信仰によって、罪人を義と認めてくださいます。パウロはローマ書4章4〜5節でこう書きます。
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
このように神を信じられますか。イエス様に信頼すれば、毎日、用意された無償の贈り物、神の義を持つものとして神に歓迎されます。イエス様を見上げましょう。
適用②は、先の適用の福音によって、今日の箇所で出てきた、私たちを神様から引き離す問題(罪)を取り扱うことができることです。特にパウロの話から、二つの罪の可能性を見ました。
1)神様以外のことを自分の誇りとした際、福音によって赦しをいただき、神に立ち返ることができます。誰でもが何かを誇りにしていらっしゃいます。パウロの誇りは、イエス・キリストでした。だからイエス様のように、無条件な形でイエスに関する良い知らせを分かち合うことに誇りを覚えました。私なら、説教をうまく伝えられたか、多くの人に声をかけて「目が行き届く牧師」になっているか、よく祈っているかなどを安心するための物差しにしがちです。それで、歩み次第で一喜一憂しがちです。人のために自分を注ぎ出すことは、中々できません。誇り、心の拠り所、希望、宝を自分にしてしまう訳です。
イエス・キリストを信じても、近所付き合い、部活や学校の中の関係、仕事関係など、また自分の中で、色々なことを誇りとしてしまって、平安を失うことが可能です。同時に、それは神様の完全な善意と力と知恵を誇らないで、造られたものを高ぶることとする神に対する冒涜です。しかし、悔い改める機会はあります。
2)福音を人から隠すことがあれば、福音によって赦しをいただき、神に立ち返ることができます。パウロの重たい認識が印象深いです。「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。」私たちは最近、与えられた機会、人間関係の中で、16節の「福音を宣べ伝えないなら」をどう結んでいるでしょうか。「福音を宣べ伝えないなら、仕方ない」ですか。確かに、伝えられない時はよくあるでしょう。「福音を宣べ伝えないなら、他の誰かが伝えるだろう。神様の導きなら」ですか。確かに、神様は私たち以外の誰かを通して人を救えます。「福音を宣べ伝えないなら、相手に嫌われないで済む」ですか。無理に押し付けてはいけないのは確かです。
しかし、継続的に、平気に「福音を宣べ伝えない」生活を送っているクリスチャンがいれば、「私はわざわいです」と続きます。福音を伝えるのは全てのクリスチャンの特権また責務です(第一ペテロ2:9参照)。
ただ、ここで絶対に、罪責感に打ちのめされたままになりたくないし、なってほしくないです。もし聖霊様があなたに愛情深く、しかしはっきりと、人間中心の誇りや福音を宣べ伝えない心を抱いていると示してくだされば、神と平和を持って、立ち返る機会は今日もあります。
繰り返しになりますが、希望はイエス・キリストにあります。私たちの高ぶった誇りや福音を伝えたくない怖がりや生ぬるさなど、どの罪をも取り払って神と平和を作り、私たちの心を変えられるお方です。イエス様は自ら、自由に神を誇りとしながら、無償の恵みをもって、信じる者の身代わりとしてその肩に罪を背負って、十字架にて完全に神のわざわいの刑罰を受け尽くしてくださいました。
燃える家に残された人のために命を捨てて、救難して、「責務を果たしただけです」と言って息を引き取る消防士は英雄です。イエス様は、主のしもべとして責務を果たされて、さらによみがえってくださいました。栄光の英雄、私たちが確かに誇ることのできる救い主です。
私たち教会が受けた「務め」は、信じて、悔い改める生活です。神様と平和を持つ子供たち、義ある者としていただいて生きる恵みは今日も、与えられます。感謝して、キリストのみを誇りにして、宣べ伝える民とますますさせていただけますように。