2024年3月10日礼拝 説教「栄冠を目指して生きる」

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礼拝式順

前   奏 Prelude  
招きの言葉 Call to Worship ヘブル人への手紙 Hebrews 12章1〜3節
さ ん び Opening Praise 「見上げよう神の御座 Behold Our God」
さ ん び Praise 「詩篇73:21-24」
開会の祈り Opening Prayer  
主の祈り Lord’s Prayer  
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌346番「信仰の創始者」14
聖書朗読 Scripture Reading コリント人への手紙第一 1 Corinthians                    9章19〜27節
聖書の話 Sermon 「栄冠を目指して生きる」

百瀬ジョザイア牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」
献金と祈り Offering & Prayer  
報   告 Announcements  
とりなしの祈り Pastoral Prayer 詩篇23篇より

百瀬ジョザイア牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌271番 「「父・子・聖霊の」
祝   祷 Benediction 百瀬ジョザイア牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

子どもには本当に辛いニュースかもしれませんが、人生で嬉しいことを経験するために、我慢したり辛いときにも頑張ったりする必要がときにあります。皆さんは、今までどんなことを耐え忍んで、我慢して、何を目指して来られましたか。例えば、高い点数を取るために勉強したり、家族を喜ばすために努力したり、激しい運動をしたりするのは、楽しくないこともあります。けれども、嬉しい結果、楽しい思い出、競技の勝利などを目指していると、それは耐え忍べられます。我慢できます。

パウロは我慢強い人でしたが、ただ辛いことが好きだったわけではありません。私たちのように、ゴールがありました。9章では、コリントの教会から謝儀を求めてこなかったことの説明をしていますが、その分副業で稼ぐ大変さがあっても、イエス様についての知らせを無償で伝えたいと決心していました。18節までその気持ちを伝えましたが、今日もその続きです。パウロはとにかく、一つの目的を目指しながら、誰にでもイエス様を伝えられるように努力していました。大変であっても、彼は素晴らしい勝利、冠を目指して生きていました。私たちは彼から何が学べるのでしょうか。

今日の箇所は二つに分けられます。23節までで、パウロは自分の人生の使命を果たすためにどの手段を取るかを説明します。24節からで、なぜそこまでする覚悟をしているかを説明します。

まず、19節でローマ市民権を持つ自由人のパウロは「だれに対しても自由」ですが、しもべ、また奴隷の態度で「より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました」と言います。具体的に、20節から例を挙げます。

20節の「ユダヤ人」と「律法の下にある人たち」は同じグループです。「律法」は旧約聖書のシナイ山契約の律法を指します。パウロは彼ら同胞に余計な嫌がらせなどがないように振る舞って、福音宣教をしたかったのです。但し書きとして、「私自身は律法の下にはいませんが」と付け加えます。モーセの律法には、キリストにあって成就されて完了した儀式や社会秩序のルールがあり、それを守る義務がなくなったと承知の上で、その律法に則って生活してもよいと認めます。使徒21章でもパウロはそうしました。ユダヤ人にも異邦人をも救う力がある福音を伝える際に余計な邪魔がないように、「律法の下にある人たちを獲得するために」、です(ローマ1:16参照)。

もう一方で、21節によると、ユダヤ人のパウロは異邦人のコリント人にも行って「律法を持たない者のようになりました。」ユダヤ人でない人と接する中で、ユダヤの儀式や社会のルールに縛られずに適応します。但し、「私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが」と加えます。神の道徳の律法は変わらず、それはイエス・キリストによってよりはっきりと啓示されているもので、それにはいつまでも服従したかったのです。そうしながら、異邦人に福音を伝えて、彼らを「獲得」しようとしました。

そして22節前半でパウロは遂に、8章で取り上げていた「弱い人たち」をも獲得したいと言います。ここまで聞いていた、「強い」と自負していたクリスチャンのグループは、8章の「弱い」と見下されるクリスチャンたちの気持ちを気にせず、むしろ神学を武器にして勝手にしていました。パウロは、自分はとにかく弱い人をも得たいと言います。

これまで「人たちを獲得する」と聞くと、クリスチャンでない方は「自分は獲物なのか」と嫌に感じられる可能性はあります。ところが、パウロはこの箇所で「獲得する」を「救う」また「福音の恵みをともに受ける者となる」ことと並行で表します。

22・23節 …獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

聖書が説明する「救い」とは、イエス・キリストにより頼んで真の神に立ち返って、いつまでも神、そして神の家族と愛の関係に入れられることです。人間が神様に反抗する心、逆らう思いと行動と言葉の罪について裁きと刑罰を受けるはずのところ、神様が用意してくださった赦しと平和を受けるようになることです。

そして23節でパウロはこれが共同生活だと言います。「福音の恵みをともに受ける者」は「交わり」(ギリシャ語:コイノニア)を含めた言葉です。また言い換えると、人を獲得し、神の力によって救うのは、「福音を共有し合う、交わりの仲間となる」こと、パウロの目的です。自分だけでなく、教会全体の救いを視野に入れて、多様な人に伝道するのです。

相手を知って、寄り添って、福音を届けるために、現代教会で言う文脈化を実践しました。生き方や話しによって、相手に福音の変わらない真実が伝わるようにパウロは気を配りました。ただ、この課題は簡単ではありません!へりくだって、耳を傾ける必要があります。イエスが言われた「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」の実践(マタイ7:12)です。自分の好きなことをただそのまま相手にすることではなく、相手とはどんな人か知った上で、経験してほしい喜びを相手に分かるようにパウロは努力したのです。

ちなみに、宣教師かつ使徒であったパウロにとって、このような文脈化した福音伝道は常に念頭にあったかもしれません。他のクリスチャンの使命はちょっとずつ変わるでしょう。家族に集中して仕えて福音を伝えるクリスチャンもいますし、皆がパウロほど幅広くなる必要は普段ないかもしれません。けれども、「福音の恵みをともに受ける者」を求めることは同じ願いでしょう。

24節以降でさらに、パウロがどこまで福音を伝えるために覚悟しているかが分かります。パウロだけの覚悟でなく、クリスチャン全体の覚悟だとも言えます。彼はまず、24・25節でクリスチャンたちをスポーツ大会に臨む選手と比較します。

24節 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。

手を繋いで一緒に走る「競走」もありますが、ギリシャの大会では違いました。現代のオリンピックのように、一人一人は全力で先に走り切ろうとしました。これはコリント人たちにとって非常に現実味のあるものでした。コリントは当時のギリシャの2番目に大きなスポーツ大会を2年おきに開催していました。各競技で一人だけは「賞を受ける」のでした。

パウロはクリスチャン同士が互いと競争するとは言っていません。この喩えの接点は、競技の選手もクリスチャンも賞を目指して集中する点です。25節はこの二人の違いを教えます。

競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうする…

食べ物、飲み物、遊びなど、別に悪くないことまでも減らす、あるいは厳選します。金メダルを目指すオリンピック選手のようです。コリントでは、その「冠」は松の葉などからよくできていたそうです。いつか枯れてしまう栄冠でした。クリスチャンでなくても、人間に栄光への憧れはあります。けれども栄光を真の神様から切り離せば、それは「朽ちる」栄光に過ぎません。パウロが25節で、クリスチャンの希望の偉大さを語ります。

私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

パウロは何回か他の手紙でも、神様の最終的な裁きを受ける際に「義の冠」を受けると期待していました(第二テモテ4:8)「天に宝を蓄え」て、それが永遠に続くことを望んでいました(マタイ6:20)。

ですから、私たちクリスチャンは、スポーツ選手より遥かに素晴らしい冠のために、「あらゆることについて節制します。」重いですね!全てのキリスト者は、イエス様を救い主として信頼して主として従おうとして、パウロと同じ栄光の希望を持って、同じような訓練に召されています。生半可な出場に召されていません。一人一人に与えられた賜物と能力に応じて、優先順位をはっきりさせて神様の栄光を目指します。

そこで、26・27節でパウロはこの原則を自分に当てはめます。書いてきたことを、どのような覚悟で生きるかを描きます。

ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

オリンピックランナーはまさか、コースとゴール地点を確かめずに、ゆったりと走って勝つつもりはないでしょう。ボクサーはまさか、練習試合気分で拳闘の本番に臨むはずがありません。受験生は受験本番へ向かって、「今日も模試だ」と言いません。コリントのいわゆる「強い」クリスチャンたちは呑気に、自分勝手に生きていましたが、パウロは福音を伝え、クリスチャンを建て上げるという目標をはっきりさせて、本気で生きていました。

27節でパウロは、絶対に落ちないように「自分のからだを打ちたたいて服従させ」るほどの勢いで、挑戦します。パウロは本当に神から賞を受けたい者でした。そして、「自分自身が失格者にならないように」と思って、注意もしていました。「失格者」は地獄行きと言う意味ではないでしょうが、3章11〜15節の警告のように、自分の人生が自分の教えと合わず、ほとんど台無しになる結果を意味するでしょう。栄冠を期待していたパウロは、栄光のために何の努力も辛さをも惜しまない意気込みで人生を送りました。

以上、こうしてパウロは9章で自分がなぜここまで自由(1・19節)と権利(2-14節)を犠牲にしたかを説明しました。三つのことを考慮して、パウロが自由と権利を捨てました。

①人々が神様の教えを聞く妨げとならないように(12節)、

②恵み豊かな福音を人に惜しげもなく恵み豊かに提供して(15-18節)、

③柔軟に相手のために適応して福音を伝えてきた(19-23節)かを言いました。

24・25節でパウロは自己犠牲の先に栄光の喜びがあると教えて、26・27節でそのような訓練を覚悟しました。「自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続け」ていました(ヘブル12:1)。

さて、適用として三つの質問を、今日の箇所をもとに分かち合います。

1)私たちは誰にまで福音宣教をしたいでしょうか。

19〜23節は私たちの心を探ります。私たちはパウロほど幅広い伝道に導かれていないかもしれませんが、神様が前に置いてくださっている人に対して、私たちは愛を持って寄り添って、機会ある時に福音を共有する人となることを求めるでしょうか。伝道する相手の立場や聖書の理解がどうであれ、相手に近づいて、「福音の恵みをともに受ける者」として一緒に歩めることを求めますか。私たちは、パウロと似た気持ちで私たちの教会の成長を願っているでしょうか。

2)私たちはどこまで犠牲を払って福音宣教をしたいでしょうか。

24〜27節はパウロの真剣な覚悟を描いて、私たちにも覚悟を求めます。私たちはどこまで心地よさを手放して、人生という競技で天に宝を蓄えて神から冠を得ようとして生きる覚悟をしているでしょうか。今年最初の主日礼拝でも似たことを言いましたが、私たちは「旅人、寄留者なのですから」自分の罪の性質や、神に反対する世の中によって、心地悪さを覚えてクリスチャン人生を歩まないといけません(第一ペテロ2:11-12)。「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」生きるように求められています(ヘブル12:1)。そうする覚悟がありますか。

これまでの二つの質問に「はい」と答えて、本当にそのように歩むためには、私たちは自分の知恵と力と愛に頼れません。それなら福音でなく、ただの律法です。この箇所にある福音の良い知らせを、三つ目の質問で確認したいと思います。

3)私たちはどんな福音、どんな約束を信じているでしょうか。

パウロは、9章に書いてきたとおりに生きて、どういう栄冠の約束を期待していたでしょうか。よく働いた分、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)という賞賛を願ったかもしれません。人生を生き抜くクリスチャンは確かに、同じ期待を持って、今苦労しながら「天に宝を蓄え」ます(マタイ6:20)。クリスチャンは、本気で神様から受ける賞賛を求めるように招かれ、また忠告されています。

しかし、パウロはこの冠を受ける前提として、素晴らしい努力したのではありません。素晴らしい約束を受けていたから、努力したことを覚えていただきたいです。彼は本気で宣教師としての使命を果たそうとする前に、神様が本気で天の栄光を彼に与える約束を下さっていました。人生の終わりを迎えたパウロは、こう書きました。

第二テモテ4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

私たちは自己中心で、神様に背く不義のゆえ、神様に「義」「聖なる」と認められて、天国と新しい天と地に歓迎される特権を獲得できません。ただ、イエス・キリストが十字架で自分の罪の刑罰を受ける身代わりとして死んでよみがえって、再び「現れ」てくださることに希望を抱くどの人も、「義の栄冠」の約束を受けます。この約束を踏まえて、生半可な生き方を悔い改めて、競技に出る意気込みで人生を生きられます。

イエスを信じて、「主の現れを慕い求めている」兄弟姉妹、パウロと同じ「義の冠」を受ける日を待ち望みましょう。私たちは神と人より自分を愛し、中途半端な走りを見せるとき、躓く時、這うことしかできない時もあるでしょう。その時にも、私たちの義がキリストから転嫁される、朽ちない義だと覚えましょう。イエスを見上げましょう。

ヘブル12:1-2 私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

十字架をも忍ぶ覚悟で義の人生を完走して、今永遠の救いを下さる主イエスを仰ぎつつ進みましょう。イエス様から頂く栄冠を目掛けて、生きたいと思います。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church