2024年3月30日受難日礼拝 説教「イエスの屈辱」

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礼拝式順

前 奏
招きのことば ピリピ2:8ー10
教会福音讃美歌 129番
聖書朗読 マタイ27:33-44
説 教 「イエスの苦しみとは」
教会福音讃美歌 130番
献 金
頌 栄  271番
祝 祷
後 奏 567番

聖書の話(説教)

受難礼拝のために準備するとき、私はいつも「十字架刑」の残酷さを思い出します。顔に唾をかけられたあと。鞭で打たれたあと。血まみれにされ、裸にされたイエス様。イエス様の手に打ち込まれた太く、冷たい鉄の釘。十字架にかけられて、何時間も窒息しそうになるイエス様の姿。受難週のクライマックスといえば、「十字架刑」というイメージがあります。

しかし、マタイの福音書をよく読んで、イエス様の「受難」の描写の仕方を吟味してみると、イエス様の「受難」は、十字架で受けられた苦しみだけではないことが、すぐにわかります。今日の聖書箇所の最初の3節から、それがよく伝わります。

ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。(マタイ27:33‐35)

イエス様が十字架にかけられた瞬間は、原語をみると、たった一つの言葉で表されています。そして、イエス様が十字架につけられる様子は、ローマ兵たちの様子を描写するために、マタイは言及しているのです。マタイの福音書を1つの「舞台」に例えるなら、イエス様の十字架刑は一つの「背景」または「小道具」とも言えます。

受難礼拝を何度も経験されている方でも、また、初めての方でも、御言葉に照らし合わせながら、イエス様の受難の意味を確認しなければなりません。マタイの福音書を通して、三つのポイントを見ていきたいと思います。この箇所をゆっくりみて、①イエス様が受けられた「苦しみの本質」を見ていきたいと思います。そして、短く、私たちの適応として、②その「苦しみの原因」と③イエス様の苦しみを受けるべき「本来の対象」について考えていきたいと思います。

まず、一点目。イエス様が受けられた「苦しみの本質」

それは、私たちの罪深い振る舞いが、イエス様の苦しみになったということです。

私たちが「罪を犯す」と言う事を考えるとき、私たちは、それが人格も感情もいのちも権利もなく、抽象的で非人間的なルールを破ることだと考えてしまいます。つまり、「神様の律法」は天からくだって来た「書物」か「機械」みたいな物で、「律法」を破ったり無視したりしても、なぜかあまり罪悪感を感じないかもしれません。スポーツで例えると、「イエローカード」や「レッドカード」をもらったら、残念だとは思いますが、罪悪感もなければ、誰かが苦しむこともありません。

しかし、聖書の律法は、「王の御心」なのです。ですから、律法を無視することは、王様が最も望んでおられることに対してなんとも思わないことになります。そして、律法を軽んじることは、王様の「御心」を見下し、あざけることになるのです。律法を守らないことは、王様ご自身を裏切り、違う王様についていくことなのです。つまり、私たちが律法を破ることは、王様を苦しめることになるのです。

イエス様が宣教を始められた時、語られたメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。これは、「神の王国」(御国)が近づいていて、あなたたちは今までその王国の王様ーつまり、聖書の神様ーを無視して生きてきた。しかし、今こそ悔い改めて、御国の王にまた従いなさい!」という意味なのです。聖書を何百年も読んで、従い続けてきたイスラエルは、この王様ー「メシア」または「キリスト」とよく呼ばれていましたがーを迎えるのを待っていました。ローマ帝国に圧制されていたイスラエルは、メシアが神の民を救い出し、ローマ帝国を圧倒し、イスラエルを勝利、祝福、栄光へ導くことを待ち望んでいたのです。イエス様は、ご自分がこの王であることを宣言されました。そして、イエス様が語られた「福音」をイスラエルは全く否定しませんでした。むしろ、救いを期待していたのです。

しかし、年月が経つにつれ、イスラエル人の心に、どんどんイエス様のメッセージが気に食わなくなってきて、イエス様の「御心」を否定し始めるようになりました。イエス様を否定した1つ目の理由は、イエス様が求められた「きよさ」がイスラエル人にとって、気に食わなかったからです。

最も熱心な信者でも守れないような歩みを、イエス様は人々に求められました。例えば、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。…『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」 (マタイ 5:21-22) 「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」 (マタイ 5:27-28) イエス様は、民を苦しめるために厳しい規定を押し付けようとされたのではありません。ご自分の民により祝福された歩みを差し出そうとされたのです。「神の国の民として、このような歩み方を私は最も望んでいる。それは、みなに最高の喜びを与えるためなのだ。」イエス様は、そうおっしゃったのに、プライドを傷つけられた宗教的リーダー達は、「それは、興味深い。律法に書いてある通りですね。考えておきます。」と言いながら、悔い改めもせず、イエス様を殺すことをたくらみました。また、自分たちの自己中心さに溺れていた群衆は、肩をすくめて、自分の生活を何一つ変えることもなく過ごしました。つまり、民は自分たちの王の「御心」に対してなんとも思わなかったのです。

イエス様が否定された二つ目の理由は、イエス様が、最も汚れている人、最も罪深い人、最も嫌われている人に「神の王国」の赦し、救い、恵みを差し出されたからです。ツァラアトに冒されて汚れていた人。社会から否定された中風の人や盲人。敵であったローマ帝国の百人隊長。母国を裏切った取税人。偶像礼拝によって悪霊に支配された人。夫婦関係や家庭を破壊する遊女。イエス様は、イスラエルの宗教的エリート達にではなく、そのような人たちに「救い」を差し出されたのです。その上、イエス様は、イスラエルの祭司長たち、長老たちにこう注意されました。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」 (マタイ21:31-32) イスラエルはメシヤであるイエス様の「御心」を聞いて、「なぜ、このような汚れた、問題を起こす、汚らわしい、神を憎む罪人を神の御前に行かせるのか?歴史と伝統を無視する王様なんて、とんでもない。これは冒涜だ。」と決めつけ、イエス様ご自身が差し出そうとされた「恵み」を否定し、見下し、ののしったのです。

イエス様が否定された三つ目の理由は、イスラエルの民が、イエス様の差し出された救いは「愚か」だと思ったからです。将軍でもなく、政治家でもない、「王」にはほど遠い田舎者のイエス様ご自身が、「イスラエルの救い主」、「メシア」「神の子」「イスラエルの王」であると、宣言されたのです。大軍でローマ帝国を倒す将軍として神の民を救うのではなく、無名の12人の弟子達に、変わった教えを教える無資格の「先生」として救おうとしたのです。しかも、イスラエルの首都であるエルサレムではなく、主に田舎のガリラヤ湖周辺で働きをされました。イエス様が首都エルサレムに向かおうと決心されたとき、弟子たちもイエス様がイスラエルの王座に就くことを期待していましたが、イエス様は弟子達に、このように救いを勝ち取るとおっしゃいました。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(マタイ20:18-19) 弟子たちだけではなく、祭司長たち、イスラエルの長老たち、イスラエルの人々も、イエス様の十字架と蘇りの救いは、あまりにも空想的で、私生活とは無関係で、何の価値もない「救い」だとみなしたのです。彼らは現実的で、目に見える救いーローマ帝国からの解放ーを求めていたので、現実離れしているイエス様を最終的に否定し、イエスという「人」を裏切り、違う王様を選んだのです。

私たちも同じように、自分の罪深い振る舞いによって、王であるイエス様を苦しめたことがないでしょうか?私たちは傍観者ではありません。神の民の一人なのです。そして、十字架の苦しみは、私たちがもたらしたイエス様の苦しみを一番はっきりと表しています。

私たちは、イエス様を裏切り、違う王様を選び、自分たちの王様を十字架にかけたのです。イエス様の罪状書きには、なんと書いてありますか?「これはユダヤ人の王イエスである」と書いてあります。しかし、これは誰の判決でしょう?はっきりいえるのは、ローマ帝国の判決ではないという事です。もし、イエス様がイスラエルの革命を引き起こす王だったら、兵士たちは、イエス様をあざけって、くじを引いて彼の服を分けながら、十字架を見張るような事はしなかったと思います。罪状書きの訴えはイスラエルの訴えなのです。「この王様が差し出した救いは、奇妙な奇跡、意味のわからない教え、空想的な罪の赦し、私たちの日々の生活になんの関係もない復活、そんな救いだったら、神の国よりもローマ帝国のほうがマシだ!」と決めつけたのです。私たちも、実は、日々同じようなことをしているのを自覚しているでしょうか。

イスラエルの民がローマ帝国を選んだゆえに、ローマ帝国は、民に裏切られた王をあざけり、彼の屈辱に満ちた敗北を喜びました。

総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。 (マタイ27:27‐30)

私たちの罪は、イエス様の屈辱と敗北を引き起こした裏切り行為なのです。

私たちは、イエス様が十字架上で差し出そうとされた「恵み」を見下し、イエス様の「恵みによる救い」もののしったのです。イエス様は、罪人を救おうとされたのです。しかし、イエス様は、その左右を他の罪人に挟まれ、罪人として十字架にかけられました。そして、その様子を見た通りすがりの人たちは、頭を振りながら、このようにののしったのです。 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 言い換えると、「あんたは、今までの私たちの宗教観、伝統、儀式、常識を覆して、『罪人』たちを救おうとしたけど。。。全くバカバカしい。十字架から降りてみろ。「主の恵み」を唱えながら、罪人に囲まれて、罪人として処刑されてるじゃないか。いったい、何を考えているんだ。本当に情けない。みじめすぎて見てらんない。。。」とイエス様をののしったのです。

私たちも、イエス様の恵みの救いを受け入れようとしない時、私たちも十字架にかけられたイエス様の様子を見ながらも首をかしげて通り過ぎて、小声で(または心の中で)、同じように恵の救いをののしっているのです。

そして、私たちも、イエス様がご自身の歩みを通して表された「神のきよさ」、イスラエルに求められていた「きよさ」を、十字架を見ながらもあざ笑ったのです。イスラエルの宗教的エリート達も同じようにイエス様の恵みの救いをののしりました。そして、もう一言付け加えました。

「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」 (マタイ27:42‐43)

一見、イスラエルの民と同じような嘲笑のように聞こえますが、これは、皮肉に満ちた、極めて嫌味と憎悪に染まった侮辱の言葉なのです。実は、イスラエルの宗教的エリートは、ここで有名な詩編22篇を引用しているのです。詩篇22篇は、正しく、きよく、神様により頼みながらも、想像を絶する苦しみを受けられる王様を描写している箇所です。その詩篇の中で、この王様を苦しませている敵が、「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。 主に救い出してもらえ。 彼のお気に入りなのだから。」とあざけります。しかし、詩篇22篇の結論は、王が正しく歩んだので、最終的に神様が王を救い出され、王を愛されたのです。

なぜ、イスラエルの宗教的エリートがこの箇所を引用したのでしょうか?イエス様をこのようにののしりました。「イエス、お前はいつも私たちを見下していた。誰も果たせないきよい、正しい基準をもって、私たちを戒め、私たちに恥をかかせてきた。お前はこの22篇の「正しく、きよく苦しみを受ける王」、神から送られた正義の殉教者(じゅんきょうしゃ)だと勝手に思い、傲慢にふるまった。もし、神が、お前が言う「きよさと正しさ」をそれ程までに認めておられるなら、十字架からおりてみろ。神がお前を愛してるんだろ?わはは。なにカッコつけて、無駄に死んでるんだよ。」と嘲笑したのです。もしイエス様が歩まれた道、イエス様が教えられたきよい基準を無視しているならば、私たちも十字架へ向かわれたイエス様の道が全く無駄で、何の価値もないと思っているのです。つまり、イエス様という王様の歩み方を見て、イエス様の「御心」を無視し、「そんなバカバカしい歩み方をしたくない」と心の中でイエス様をあざけ笑うことなのです。

マタイ27章の十字架の描写の仕方を見ると、私たちの罪深い振る舞いが、イエス様の苦しみになったということがわかります。この箇所の残酷さから、私たちは何を学ぶべきでしょうか?次の2点目と3点目で、短くお話ししたいと思います。

2点目は、「苦しみの原因」とは?イエス様がここまで苦しめられた原因、私たちがここまでイエス様をののしった原因とは何でしょうか?それは、非常にシンプルな理由です。それは、神の民が神様の御力、救い、栄光が、十字架の弱さ、苦しみ、屈辱、敗北と絶対に相反するものだと頑固に信じ続けたからです。単刀直入にいうと、カッコ悪いからイエス様の十字架を受け入れなかったのです。

皆さんも、ご存じのように、イエス様は、罪、死、サタンを打ち破り、三日後に蘇られました。イエス様を殺したイスラエルのエリート達や、ローマ帝国のリーダーたちは、自分たちの目でその現実を見ました。サタンも、サタンの配下にいる悪霊たちも、その現実を見ました。しかし、彼らはイエス様を自分の王として受け入れましたか?むしろ、敵対し続け、イエス様が復活されたことを隠ぺいしようとしたのです。それはなぜでしょうか?十字架につけられた「王」ーつまり、最悪の苦しみ、屈辱、敗北を受けられた王ーは、ユダヤ人にとってはつまずき、ローマ人にとっては愚かな事だったからです。イエス様を受け入れなかった人たちー特に、詩篇22:8を引用したイスラエルのエリート達ーは、もし救い主がいて、、神に愛され、正しく生きる者がいるなら、?その?祝福された人は苦しみも屈辱も受けず、弱さも敗北も経験しないはずだ、と頑固に信じ続けました。十字架上の苦しみのなしで、力強く、カッコよく、スマートに救いを決めるほうが、「神の子に」ふさわしいと、強く信じていたのです。皆さんの心の中にも、そのような願望がないでしょうか?すべての人にその願望はあります。イスラエルのリーダー達や12人の弟子達から、現代の私たちに至るまで。

ですから、十字架にかけられたイエス様を信じることは、究極的に言えば、論理的、科学的、哲学的、感情的、宗教的などの問題ではありません。イエス様を信じることは、自分の自己中心的な願望を認めて、それを手放す決心をすることです。神様の救いは、イエス様が弱さ、苦しみ、屈辱、敗北のただ中で勝ち取られた恵みであることを信じることです。カッコよくない救い主についていくことです。そして、イエス様という王様に従う者として、イエス様が歩まれたカッコよくない、みじめな道を辿って歩む覚悟があるかどうか、ということです。もし、自分が握りしめている物を手放すことができないのであれば、自分の罪深い振る舞いによって、イエス様を苦しめ続けることになるのです。

では、私たちは「見栄えのいい」救いに対する願望をどうしたら手放すことができるのでしょうか?最後のポイントがその鍵です。イエス様の苦しみを受けるべき「本来の対象」は誰かと言うことを、思い出すことです。

十字架刑は、王様を裏切った者の処刑法です。十字架刑の本来の目的は、その裏切者を殺すことではなく、裏切者を苦しめ、辱め、ののしるためなのです。それはなぜでしょうか?なぜなら、裏切者が、感謝すべき、愛すべき、従うべき「王様」を、苦しめ、辱め、ののしったからです。

ですから、正義を果たすために、王様の名誉を汚し、王様の恵みと愛を蔑んだ者への罰として、十字架刑はふさわしい罰であると考えられていたのです。もしそうであれば、王であるイエス様を裏切って、ののしり、殺そうとした神の民がその罰を受けるべきなのです。つまり、私たちのような罪人こそが、十字架の弱さ、苦しみ、屈辱、敗北の対象であり、十字架から逃れるべきではないのです。私たちがその刑から逃れられないゆえに、苦しみと屈辱のない救いは存在しないのです。

しかし、イエス様の十字架の意味は、私たちの王が、私たちの代わりにその罰を受けられたという事です。たとえ、私たちが神様の御心をなんとも思わず、イエス様を無視したとしても。イエス様が差し出された恵の救いをののしって、嘲笑ったとしても。イエス様の現実離れした救いを聞いて、イエス様を裏切り、違う王様を選んだとしても。その同じイエス様が、私たちをご覧になり、十字架の上でこのように祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです。十字架で流される血は、多くの人のために、そして、罪の赦しのために流されるわたしの契約の血です。わたしの正しく、きよい苦しみを受け入れて下さい。そのことのゆえに、私と私の民をお救い下さい。」そして、詩篇22篇に預言された通りに、神様はこうおっしゃって、約束して下さいました?「あなたは私により頼みながら、正しく、きよく苦しみを受けた王だから、あなたは私のお気に入りなのだ。あなたを救い出し、あなたが救い出したいと思っている罪人も救おう。イエス様の苦しみを仰ぎみて、感謝しましょう。そして、自分たちが頑なにしがみついている願望を手放していきましょう。お祈りします。

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church