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礼拝式順
前 奏 | Prelude | 「両手いっぱいの愛」「主とともに」
教会学校有志 |
招きの言葉 | Call to Worship | コリント人への手紙第一15章51〜57 |
さ ん び | Opening Praise | 死を打ち破り |
さ ん び | Praise | その日全世界が |
開会の祈り | Opening Prayer | |
主の祈り | Lord’s Prayer | |
賛 美 | Hymn | 教会福音讃美歌139番「主のよみがえり」 |
聖書朗読 | Scripture Reading | 詩篇16篇1〜11節 |
聖書の話 | Sermon | 「私は揺るがされることがありません」
マーク・ボカネグラ牧師 |
賛 美 | Hymn of Response | 教会福音讃美歌335番「はるかにあおぎ見る」 |
献金と祈り | Offering & Prayer | |
報 告 | Announcements | |
とりなしの祈り | Pastoral Prayer |
マーク・ボカネグラ牧師 |
頌 栄 | Doxology | 教会福音讃美歌271番 「父・子・聖霊の」 |
祝 祷 | Benediction | マーク・ボカネグラ牧師 |
後 奏 | Amen | 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」 |
聖書の話(説教)
子供たちに質問ですが、もし世界で一番強い王様がいたら、その王様は神様に祈る必要があると思いますか?必要ないんじゃないかと、ふつう思いますよね。しかし、死から復活されたイエス様、サタンを打ち破られたイエス様、いのちと死の鍵を持っておられるイエス様、‐つまり、天と地で最も強い存在‐が神様に常に祈られたのです。先ほど読んだ詩篇16篇は、実は、イエス様のお祈りです。実は、イエス様が16篇を祈られたゆえに、父なる神様が、その祈りの答えとして、イエス様を蘇らせ、イエス様を天にまで上らせ、天の右の座に座らせ、神の栄光をイエス様にお与えになったのです。もし、「祈りには力がない」と思っているなら、祈りの力によって蘇られたイエス様はどうおっしゃると思いますか?祈りによって蘇りが与えられたことをぜひ思い出してください!
この話を聞くと、聖書をよく読んでいる方は混乱されると思います。なぜかというと、詩篇16篇は、イエス様がお生まれになった日の何百年も前に書かれた箇所だからです。この詩篇には、メシヤの預言もなく、イエス様の復活の詳細についても書いてありません。そして、筆者もイエス様ではないのです。ダビデという王様が、神様に助けを求める一般的な祈りです。では、なぜ詩篇16篇が「イエス様の祈り」である、どうして言えるのでしょうか?「それは間違った解釈じゃないですか?もうすこし、文字通りに読んだほうがいいんじゃないですか」と思う人がいるかもしれません。実は、私もそう思っていましたが、ある二人の有名な牧師さん達が、この詩篇16篇がイエス様の祈りであると結論づけて、説教されました。
その、牧師さんたちの名前は、使徒ペテロ先生と使徒パウロ先生です。
ペテロはペンテコステの説教で、詩篇16篇を引用して、こう解釈されたのです。
「それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。」
パウロは同じ箇所を引用して、こう解釈しました。
「ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。」(使徒13:36-37)
つまり、使徒ペテロと使徒パウロは、詩篇16篇は、ダビデが自分のことについて書いたのではなく、これから来られ、復活される「キリスト」の祈りであることを予見していたと、宣言したのです。ですから、私も詩篇16篇をそのように読み、本日のイースター礼拝で、復活されたイエス様のお祈りを見ていきたいと思います。三つの質問に沿って、考えていきましょう。①イエス様はなぜ祈られたのか?②イエス様は何を祈り求められたのか?③イエス様の祈りがなぜ聞かれたのか?
まず、イエス様はなぜ祈られたのでしょうか。イエス様は、神様に見捨てられないように、また、「よみの穴」に捨て置かれないように、熱心に祈られました。
イエス様は、1-2節でこう祈られました。
「神よ 私をお守りください。 私はあなたに身を避けています。」
私は主に申し上げます。 「あなたこそ 私の主。 私の幸いは あなたのほかにはありません。」
この祈りの言葉の背景について、何も知らなかったとしたら、この祈りは、暖かくて耳にやさしい言葉に聞こえるかもしれません。しかし、イエス様の状況を想像してみてください。イエス様が裏切り者のユダに笑顔であいさつし、口づけされたとき。イエス様が鞭で打たれる度に、エルサレムの権力者たちがあざ笑うとき。怒り狂った群衆がイエス様を見て、ゆかいそうに「十字架につけろ!」と叫んでいたとき。十字架の上で窒息しそうなイエス様を前に、見向きもせずにローマ兵が楽しくくじで遊んでいたとき。パニックで茫然自失となった弟子たちと家族が、いのちの恩人であり、師匠でもあるイエス様を置き去りにしたとき。その一瞬、一瞬に、イエス様は「私は主に申し上げます。 あなたこそ 私の主。 私の幸いは あなたのほかにはありません。」と祈られたのです。
裸で十字架にかけられたイエス様がそのように祈られたら、この世の人達の目にはどのように映るでしょう。「真っ裸で完全に無防備で、何の力もなく、守りもないなんて、全く愚かなことだ」と思うでしょう。私たちも様々な試練の中で神様に同じように祈る時、この世の目からそのように見られていることにお気づきでしょうか。しかし、イエス様は、神様ご自身こそが、ご自分の「守り」であり、どのような苦しみがあっても、神様ご自身から離れることがないようにと、祈られたのです。「あなたご自身が私の拠り所。どのような苦しみがあっても、あなたの御胸から離れたくありません。どうかあなたの御翼から離れないように。どうか私にあなたの御顔を照らし続けてください。どのような苦しみがあっても、神様ご自身だけが私の守りです。」なぜそのように祈ることができたのでしょうか。
その鍵は、イエス様が最も恐れていたことにあります。それは10節に書いてあります。
あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず
あなたにある敬虔な者に
滅びの穴(直訳)をお見せにならないからです。
聖書では、神様に身を避けないものは、神様に見捨てられるのです。旧約聖書では、神様が神様により頼まない者を捨て置く「場所」が、よく、「よみ」として描かれています。詩篇16篇によると、この「よみ」、この「滅びの穴」は、喜びがなく悲しみしかないところだそうです。そして、いのちではなく、滅びと苦しみしかなく、幸いと祝福の代わりに、呪いとさばきしかないところなのです。イエス様はこの「よみ」の「滅びの穴」を最も恐れていたのです。
ですから、イエス様は十字架上で苦しまれながらも、自分の魂の永遠の行き先について考えるより、一瞬で消えてしまうような中途半端なハイな気持ちに酔いしれる方を選ぶ人々を憐れんでおられるのです。ご自分のみじめな状態よりも、自分を苦しめている罪人たちをかわいそうに思われたのです。4節で、聖書の神様を選ばない者の痛み、悲しみ、苦しみは増し加わると、イエス様は祈られました。苦しめられ、痛めつけられ、辱められた、「悲しみの人」であるイエス様がこの世の権力、富み、栄光、喜び、安定を楽しんでいる人々に、「私は幸いです。あの人たちみたいに、私は悲しみたくない。」と確信して祈られたのです。
詩篇16篇は「確信の祈り」の詩篇だとよく言われますが、イエス様が何の問題もなく、何の疑問もなく確信されたわけではありません。十字架の受難のただ中で、イエス様が確信して祈る根拠がことごとく引き裂かれたときに、イエス様はこの祈りを捧げられたのです。自分の手足が引きちぎられたかのように、イエス様を支えてくれるものを失い、涙を流し、恐れと孤独と戦いながら、「あなたこそ 私の主。 私の幸いは あなたのほかにはありません。」と力強く祈られたのです。イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たちと同じように誘惑され、同じように痛みを感じ、同じように苦しみを耐えなければなりませんでした。
私たちも同じように祈れるでしょうか?私たちに自信、力、安定、心地よさを与えてくれるようなものをすべて失っても、この世に裸で愚かなものだと見られても、「神よ 私をお守りください。 この世の拠り所ではなく、私はあなたご自身に私のすべてを避けています。」と確信して祈れるでしょうか。
私たちの意志と頑張りでは、不可能です。ですから、次のポイント、「イエス様が何を祈り求められたか」を見ていきたいと思います。これを理解すれば、私たちも同じ確信の祈りができると思います。
イエス様が祈り求められたのは、「神様と神の民との永遠のいのち」です。
「永遠のいのち」については、クリスチャンの中でも、非常に誤解しやすいことです。そのため、イエス様の復活と蘇りについて、あまり関心がない人も多いと思います。「永遠のいのち」はただ「長く、永遠に生きる」と考えてしまう人も多いと思いますが、それは不完全な理解だと思います。例えば、「あなたは今の配偶者や家族と永遠に過ごしたいですか?」と聞かれたら、ある人は、「もちろんです」と答えるかもしれませんが、ある人は「絶対にいやです」と答えるかもしれません。ですから、「永遠のいのち」と言う言葉についてだけを考えるのではなく、誰と「永遠のいのち」を過ごすのかが一番重要なことなのです。
詩篇16:5-10では、イエス様がどのような「永遠のいのち」を祈り求められているかがはっきり理解できます。まず5-6節を読みましょう。
「主は私への割り当て分 また杯。 あなたは 私の受ける分を堅く保たれます。
割り当ての地は定まりました。私の好む所に。 実にすばらしい 私へのゆずりの地です。」
イエス様にとって、最高の天国、最高の喜び、最高の安らぎは、自分の好みや自分の好きな人が集まっている遊園地ではありません。イエス様の最高の「ゆずりの地」、最高の「割り当ての地」とは、天国という場所でもないのです。それは、神様ご自身なのです。神様を愛することが、イエス様にとって最高の喜びです。
私は、最近、エンドレスリピートで最近の日本のラブソングを聞いているのですが、この詩篇の内容がラブソングの歌詞に似ていると感じるようになりました。最高の相手と恋をすると、最高の喜びを知って、それをいつまでも味わいたい。残念ながら、相手を知れば知るほど、失望してしまうか、味気なくなってあきてしまうか、いつも見続けていたい夢から突然目覚めてしまうか。ラブソングは大体そのような内容ですよね。私が最近ハマってしまっている「ラブソング」(怪獣の歌)によると、私たちは恋という「鮮明な歌」と感じるために、私たちはラブソングをエンドレスに歌い続けたいのです。夢のような現実を永遠に味わうために、懲りずに眠れない夜にその夢に手を伸ばし、眠らない夜にまた伸ばして。。。もし実際に恋に落ちたら眠くならないように、恋という「まだ消えない夢」を、全力で、無我夢中に、「怪獣のように」歌い続けようとするのです。恋に限らず、これが私たちの人生のあり方とも言えるかもしれません。
しかし、イエス様は消えていく夢や、過ぎ去って行く一瞬の喜びを追いかけてはおられません。神様は実際におられ、生きておられ、永遠におられます。そして、神様は、知恵、力、きよさ、義、やさしさ、真実、愛において、無限、永遠、不変なのです。神様と過ごすたびに、わくわくして、「神様は本当にすごい!」と歌い叫びたくなります(7節)。神様と会話すると、自分がどういうものなのかがもっと深く理解できます(7節)。神様といると、自分の胸が喜びであふれ(9節)、神様を前にすると、「自分は絶対に揺るがない!」と安心して毎日過ごせます(8節)。神様が自分の右におられると感じるとき、全身全霊が異次元の喜びと平安で満ちるのです(9節)。永遠で、限界のない神様なので、知れば知るほど、あきないのです。むしろ、もっと知りたくなり、もっと時間を過ごしたくなるのです。ですから、イエス様にとって、「永遠のいのち」は、この世でのいのちを永遠に経験し続けることではありません。この世で経験した「消えてしまった夢」「物足りなかった楽しみ」「期待はずれの喜び」の完成形として、神様との関係の中で、失望せず、完全に、永遠に、全身全霊で経験することなのです。それが「永遠のいのち」とも言えるのです。
しかし、私たちがいつも忘れがちなのは、イエス様が神様との「永遠のいのち」だけではなく、「聖徒たち」との永遠のいのちも、3節で祈り求められたという事です。
「地にある聖徒たちには威厳があり 私の喜びはすべて 彼らの中にあります。」
人間は神様と人を愛し、その関係を楽しむために造られたのです。誰もいなくて、神様しか愛することが出来ないような場所は、天国ではありません。逆を言うと、この世で私たちが人間関係を通して味わえた喜びを天国で失うわけではありません。むしろ、今まで以上に、より深く、より鮮やかに、人間関係を永遠に楽しむことができるのです。
天国では、神様の似姿に作られた人間は、神様の知恵、力、きよさ、義、やさしさ、真実、愛をいただいていて、欠けも罪もない「聖徒」になります。ですから、私たちがこの世で味わった、人間関係がもたらす涙、傷、疲れ、孤独、悲しみ、苦しみなどはすべて取り除かれ、恐れも恥も不安もなく、お互いを楽しめるようになるのです。それゆえ、人間となられたイエス様は、この世で経験することができない人間関係‐すなわち、「聖徒たちとの永遠のいのち」‐をご自分のために祈り求められたのです。人に罪がなく、お互いを愛することも、お互いを楽しむことも、神様の似姿に造られた人としての存在意義とも言えるのです。
イエス様が祈り求められた「永遠のいのち」を誤解してしまうと、「私には必要ありません。結構です。」とすぐに思ってしまうかもしれませんが、この「永遠のいのち」の本質をより深く理解すると、あることに気がつきます。自分が一生涯探し求めていたこと‐自分のすべてを受け入れ、自分を認めてくれる存在。絶対に裏切らない忠実で信頼できる存在。知れば知るほど、わくわくしてお互いを楽しむことができる存在。恐れたり疲れたりせずに、喜びや平安、確信や希望や力などをくださる存在。「もしこの人といれば、私は揺るがされることはない」と思えるような存在‐イエス様ご自身がその存在を見つけられたのです。「あ、それって。。。私は学校や職場で、また家族や夫婦、恋愛や友人関係の中で、探し求めていたかも。。。」と気づき始めるきっかけになるかもしれあません。いかがでしょうか?そのような存在を探していますか?もしそうであれば、それが「永遠のいのち」なのです。
それでは、私たちはどうすればこの「永遠のいのち」をいただくことができるのでしょうか。それを理解するためには、「イエス様の祈りがなぜ聞かれたのか」を知る必要があります。これが本日の最後のポイントです。
神様はどのような祈りを聞いてくださると思いますか?ヨハネ9:31にこう書いてあります。
「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。」(ヨハネ9:31)
いかがでしょうか。神様が私たちの祈りを聞いてくださるという自信がありますか?神様はご自分の民にこうおっしゃいました。
「彼らは心を金剛石のようにし、万軍の主がその御霊によって先の預言者たちを通して送られた、みおしえとみことばを聞き入れなかった。そのため、万軍の主から大きな御怒りが下った。 「彼らは呼ばれても聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない──万軍の主は言われる──。」(ゼカリヤ 7:12-13)
神様は私たちに、何千年も一つのことを教え続けてくださいました。人間としての最高の喜びは、心を尽くし、いのちをつくし、知性を尽くして神様を愛し、人を自分自身のように愛することです。そこに「永遠のいのち」があるということです。しかし、私たちの心は、何千年も「金剛石」(ダイヤモンド)のように頑なになり、その教えを拒みつづけ、違うものに喜びを探し続けました。そのため、神様はこうおっしゃいます。
「あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、 わたしはあなたがたから目をそらす。 どんなに祈りを多くしても聞くことはない。 あなたがたの手は血まみれだ。 洗え。身を清めよ。 わたしの目の前から、 あなたがたの悪い行いを取り除け。 悪事を働くのをやめよ。」(イザヤ1:15-16)
つまり、神様が差し出してくださった「永遠のいのち」を、私たちが拒否し続けたゆえに、神様は私たちの祈りを聞かれず、私たちに永遠のいのちをお与えにならなかったのです。人類の中で誰一人として、祈りを聞いて頂ける権利をもっていません。
しかし、イエス様はどうでしょう。イエス様は最後の最後まで詩篇16篇を祈られました。神の民に残酷な方法で裏切られ酷くあざけられても。神様に十字架という試練を与えられても。イエス様は、神様と神の民との永遠のいのちを祈り求められたのです。
イエス様が「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。 私を救わず 遠く離れておられるのですか。 私のうめきのことばにもかかわらず。」と祈られましたが、イエス様はその孤独と苦しみの中で、16篇10‐11節を祈られました。
「あなたは 私のたましいをよみに捨て置かず あなたにある敬虔な者に 滅びをお見せにならないからです。 あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。 満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。」 (16:10-11)
イエス様は、死なれるまで、 それも十字架の死に至るまで、神様が差し出された「永遠のいのち」を、ひるむことなく、きよい心から全身全霊で祈り求められたので、神様はイエス様に答えてくださいました。
その結果、イエス様は十字架の上で死なれましたが、三日後に、御父はイエス様の祈りにこたえられました。イエス様を蘇らせ、「よみに捨て置かず」、 敬虔なイエス様に「滅びの穴」をお見せにならなかったのです。しかし、「永遠のいのち」は、死から蘇ることだけではありません。詩篇16篇11節に書いてあるように、御父はイエス様に「いのちの道」をも知らせてくださいました。そのいのちの道とは、どのような道なのでしょうか?それは、神様の御下へとつづく道です。それゆえ、御父はイエス様に、ご自身の下への道を見せられ、イエス様は人間として天に上られ、神様の「御下」に行かれました。つまり、「永遠のいのち」は死からの蘇りではなく、永遠に御父の御下で、「満ち足りた喜び」を「とこしえに」楽しむことなのです(16:11)。
しかし、イエス様が祈り求められた「永遠のいのち」はそれだけでしょうか。イエス様は、ご自身と神の民との「永遠のいのち」をも祈り求められました。つまり、私たちが頑なに罪を選んでしまったとしても、私たちがイエス様を軽んじ、辱め、裏切ったとしても、イエス様はご自分の民と永遠に過ごされたかったのです。けれども、私たちには神様の御前に行く権利はありません。しかし、イエス様の尊い祈りのゆえに、イエス様が御父に完全に従われたゆえに、また、変わらない愛で、私たちを熱く愛してくださったゆえに、御父はイエス様の祈りを実現されたのです。完全な祈りで勝ち取った「永遠のいのち」をイエス様に与えるために、御父は、「永遠のいのち」をもらう資格もなく、神様に祈る資格さえない罪人の私たちにも「永遠のいのち」を与えて下さったのです。私たちの「永遠のいのち」は完全にイエス様の祈りによるものなのです。
イースターは、御父がイエス様の詩篇16篇の祈りにこたえて下さった日です。イエス様が祈り求められた、神様ご自身と永遠に過ごす喜びを勝ち取られた日でもあり、罪人である私たちとともに、神様ご自身を楽しむ喜びを勝ち取られた日でもあります。私たちにとって、想像を絶する日なのです。詩篇16篇を祈られ、復活されたイエス様に心から感謝しつつ、イエス様との「永遠に過ごすいのち」を楽しみにしましょう。お祈りします。