2024年4月7日礼拝 説教「さまようヤコブを導く神様」

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礼拝式順

前 奏  Prelude

神の招き Call to Worship

開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌254番「主イエスの恵みと御栄とを」

開会の祈り Opening Prayer

罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書Isaiah 55章6〜7節

罪の告白の祈り Common Prayer of Confession

個人的な告白( 黙祷のうちに ) Private Prayer of Confession

赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇 Psalm 32篇1〜2節

平和のあいさつ Passing the Peace

賛美 Praise 教会福音讃美歌316番「御前に立つとき」

教会学校教師就職式 Sunday School Teacher Installation Service

みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word

聖書朗読            創世記28章1~22節

聖書の話          「さまようヤコブを導く神様」      マーク・ボカネグラ牧師

説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌407番 「主よみもとに近づかん」

聖晩餐式 Communion                                    マーク・ボカネグラ牧師

献 金 Offering

報 告 Announcements

頌  栄 Doxology 教教会福音讃美歌269番「たたえよ、主の民」

祝 祷 Benediction                                             マーク・ボカネグラ牧師

後 奏 Amen  讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

最近イーロン・マスクという人の伝記とSFの小説にハマってますが、宇宙がどれほど広いところなのか、どれほど人間がちっぽけな存在なのかに圧倒されました。みなさん、月までどれくらい時間がかかると思いますか?4万キロまで飛ばすことができる宇宙船に乗るとー銃の弾の16倍の速さー三日間かかるらしいです。イーロン・マスクという人は人類を火星に送りたいと言う夢を持っているんですが、みんなは、火星がどれくらい遠いと思いますか?地球から月までの距離の140倍で、約1年かかるらしいです。しかし、光と同じ速さで走れる宇宙船を開発できたら、月まで1.2秒、火星まで3分。では、地球から宇宙の端っこまでどれくらい遠いと思いますか?観測可能な宇宙を球体に例えるなら、光が中央から端っこまでたどり着くまで930億年かかるらしいです。では、子供たちに質問があります。ここから天国までどれぐらいかかると思いますか?難しいですよね。このように考えてみてください。テレビゲームに入っているマリオを想像してみてください。平たいスクリーンの上、下、右、左へ動けますよね?しかし、マリオが930億年をかけて光と同じスピードで一つの方向へ走っても、テレビから飛び出して、あなたのいる3Dの世界に入ることはできませんよね?それが私たちと天国の差とも言えます。

 

今日の聖書箇所に、ヤコブという人が出て来ます。彼はいろんな人をだまして、神様の御心を無視して、天国へ入ろうとするのです。しかし、ヤコブは大失敗してしまいました。そして、そのとき、自分の力で天国に入るのが不可能だと認めたとき、神様が天国に届くはしごをヤコブに差し伸べたのです。この話はキリスト教の救いを現わしているのです。本日の箇所の流れを見ながら、三つのポイントを見ていきたいと思います。①罪の性質、②真の悔い改めと偽りの悔い改めの違い、③救いのあり方。

 

創世記は、神様がある家族を無条件に選ばれ、その家族に一方的に「天の恵み」を約束される話です。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハムとサラの間に生まれる子によって、彼らを①王家にすること、アブラハム家を②世界を治める王国にすること、そして③彼らに永遠の約束の地を与えることでした。そして、アブラハムが100歳、サラが90歳になってから、奇跡的にイサクという息子が与えられ、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り、息絶え」ました(25:7)。

 

残念ながら、アブラハムとサラは、「約束のものを手に入れることはありませんでした」が、「はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」とへブル11章13節に書いてあります。彼らは、この地上での「カナンの地」をもとめてはいませんでした。「彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。」(ヘブル書11:16)つまり、アブラハムとサラは、約束されていた「地上の祝福」を手に入れることができなくても、ー新約聖書の言葉で言い換えると、「神の御国」での永遠のいのちーを引き継ぐことを信じていたのです。神様の「恵みの約束」を信じることが、キリスト教の「信仰」の本質とも言えます。聖書がいう「信仰」は、神様が無条件に約束された「天の恵み」が与えられることを信じ、待ち望むことです。

 

その信仰は、アブラハムとサラの息子であるイサクに継承されました。そして、それゆえにイサクは同じ信仰を持っているリベカと結婚し、カナンの地で「天の恵み」を待ち望みました。イサクとリベカに双子の男の子ー長男のエサウ、次男のヤコブーが生まれ、息子たちにも信仰を継承しようとしました。つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは3世代の「クリスチャンファミリー」なのです。

 

「3世代クリスチャンファミリー」と聞くと、きよくて寛容で、愛に満ちた、信仰深い、謙遜な家族が思い浮かびますが、27章では、その正反対の様子が描かれています。27章は、イサク家の家族が崩壊する場面とも言えます。神様がイサクの後継者を次男のヤコブにすると定められたのに、イサクは、自分の欲を満たすために、ひそかに、お気に入りの信仰を持っていなかった長男エサウを相続人に定めようとしました。しかし、イサクの計画に気づいたイサクの妻リベカは、自分のお気に入りの次男ヤコブに相続権を与えるために、偽りの手段で強引に相続権を奪い取ろうとしたのです。次男のヤコブは、自分の母親から「父親にオレオレ詐欺を行う」という酷い計画を聞きましたが、何の躊躇もせずにそれを実行したのです。ヤコブがイサクをだまして相続権を奪ったとき、長男エサウは、よく弟ヤコブに責任転嫁をし、復讐心をもってヤコブを殺すことを企みました。これが聖書にある「3世代クリスチャンファミリー」です。そんな最悪な家族関係にもかかわらず、神様はこの家族に永遠の「天の恵み」を約束されたのです。信じられないですよね?!これもキリスト教の神様の最もユニークなところだと思います。神様は、あえて罪人を選ばれ、罪人が罪を犯しているただ中で、「天の恵み」を無条件に与えられるのです。

 

今日の箇所は、イサク家の家族が崩壊する場面の続きです。そして、創世記の主人公がイサクからヤコブに移り替わります。そして、今日の聖書箇所の流れを見る中で、三つのポイントを見ていきたいと思います。

 

一つ目のポイントは、罪とは、「悪いもの」を求めることではなく、「良いもの」を、御心を無視して、強引に、自分に都合のいいように追い求めることです。これが私たちの罪の性質です。

 

創世記をはじめて読む方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単にヤコブについて紹介します。ヤコブという名前は、「兄弟を出し抜く人」または「だます人」という意味です。ヤコブは生まれたときから、そのような性格でした。ヤコブとエサウは双子でしたが、兄エサウが生まれた後に来たヤコブは、その手にエサウのかかとをつかんで生まれて来ました。「俺がどんなに不利な立場におかれても、どんな汚い手を使ってでも、兄だろうが父だろうが出し抜いて、絶対に勝つ!」という強い願望を生まれたときから持っていたのです。弱肉強食な世界でも、イキイキと生き残れるタイプの人だと思います。私のイメージでは、自分の益のためなら、お客さんからできるだけ利益を絞りとって、冷酷に一瞬で店員をクビにできるような、非常に成功はしているけど、「ブラック」なビジネスマンと言う感じでしょうか。27章でも、ヤコブのそのような一面が見えましたね。母リベカに、父イサクと兄エサウから「天の恵み」の相続権を奪う計画を聞いたとき、何のためらいもありませんでした。少し躊躇した理由は、①計画の詰めが甘かったことと、②自分のすべてが失われるリスクがあったからなのです。ですから、母リベカがより良い計画を立てて、すべての責任を負うことを聞いたとき、一瞬で「よし、のった!」と冷酷なビジネスマンのように、家族の関係を踏み潰してでも獣のように自分の利益を追いかけたのです。

 

ヤコブの意欲、努力、野心は本質的には罪深いものではありませんが、他者を思いやる事もなく、自己中心的に猪突猛進に追い求めることが問題なのです。ヤコブが追い求めていたものは、「天の恵み」「永遠のいのち」「神の御国」、つまり、聖書においては最高のものでした。しかしヤコブの追い求める仕方は、神様の御心を無視して、人に害を与えながら、自分の知性と力で勝ち取ろうとするような手段でした。これがヤコブの罪の性質でもありますし、私たちの罪の性質でもあります。ヤコブのようなわかりやすい形ではないかもしれませんが、私たちにもヤコブと同じように、ある「良いもの」を、曲がった自己中心的なやり方で、猪突猛進に追い求めていることはないでしょうか?

 

そのような手段で始めは成功をしたとしても、最終的には自滅してしまいます。ヤコブは、長年様々な人達を巧妙にだまし続け、出し抜き、成功し続けて来たのですが、自分の力と知恵の限界に達したとき、予想外のことが起こりました。長男のエサウの怒りが想像以上に爆発し、ヤコブを殺すことを企んだので、ヤコブは自分が相続したかった「約束の地」から離れる羽目になってしまいます。父イサクと母リベカは、ヤコブの身を守るために、ヤコブをリベカの兄であるラバンがいる約750キロ離れた「パダン・アラム」(2節)に送らなければなりませんでした。つまり、21世紀の例えで言い換えれば、発展途上国から移民してきたアブラハム家が3世代にわたってコツコツと築き上げてきたファミリービジネスを、3代目の社長のヤコブが、「ブラック」な運営とハイリスクハイリターンの膨大な借金によって倒産してしまい、その罰として、ヤコブが住んだこともない祖父アブラハムの母国に送り返される羽目になったと言うような事です。しかし、これはヤコブが蒔いた罪のためなので、自業自得とも言えます。ヤコブの道のりは、ある意味、私たちの道のりだとも言えるのです。私たちが蒔いた罪の種はいつか実り、私たちはその現実と向き合わなければなりません。これは他人ごとではありません。すべての罪人の道のりなのです。

 

次のポイントは、悔い改めというのは、自分の失敗と罪の結果を受け入れ、神様の約束を信じて、険しい荒野のような「義の道」を歩み始めることです。

 

ヤコブのような状況の中で、イサクはこのようにヤコブを力づけます。

「全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。 神はアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫に与え、神がアブラハムに下さった地、おまえが今寄留しているこの地を継がせてくださるように。」

ヤコブがどんな大失敗や罪を犯しても、神様の約束により頼む限り、神様の約束がヤコブを通して実現されると、イサクは確信していました。なぜ、イサクはそのように断言できたと思いますか?それは、アブラハムやイサクも、ヤコブと同じように、自分たちの嘘と欲による大失敗を犯してしまい、それにもかかわらず、神様が恵みを力強く注ぎ続けて下さったことを経験していたからです。つまり、ヤコブの罪の堕落が、神様の約束の力強さを「出し抜く」とか、「圧倒する」ことなど不可能だと言うことを、イサクは信じていたからです。

 

イサクはヤコブの信仰を試し、悔い改めるチャンスを与えます。

「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。 さあ立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。」(28:1-2)

神様の約束を実現するために、ヤコブには妻が必要でした。しかし、先ほど説明したように、妻という「良いもの」であっても、神様の御心を無視して自分に都合のいい手段を選ぶことは「罪」なのです。神様の御心は、アブラハム家が同じ信仰を持っている人と結婚し、子供たちにその信仰を継承させることでした。ですから、イサクはヤコブに、異教の「カナンの娘たち」と結婚してはならないと命じ、神様が奇跡的にすべて備えてくださると言うことを信じながら、同じ信仰を持っていた自分の結婚相手(リベカ)を見つけた地へ行きなさい、と息子に勧めました。息子のヤコブは、この時点で、過去の「悪だくみ」や、御心を無視するような「抜け道」を探すのをやめました。そして、生きて帰ってこられる保証も手段もない、750キロも離れた町に、同じ信仰を持つ花嫁を探しに行くために、「ベエル・シェバを出て、ハランへと向かった」(28:10)のです。父イサクと同じ信仰をもって、父イサクに「聞き従い」(28:7)、神様がすべて備えてくださることを信じました。悔い改めたヤコブは、今までと違って、自分の知恵により頼まず、主の御心を出し抜こうともせず、主の約束により頼んだのです。

 

それと対比して、エサウの生き方が28章6-9節に描写されています。信仰は、「天の恵み」の存在を信じるだけではなく、「天の恵み」の価値をも信じることです。残念ながら、エサウは、イサクと同じ信仰を持っていませんでした。アブラハム家の「天の恵み」の存在は信じていましたが、なんとも思っておらず、エサウは「一杯の食物と引き替えに」天の恵みをヤコブに売ってしまったのです。先ほどの例えを使うと、エサウが相続したアブラハム家の会社の株を、400円の牛丼で売ってしまうようなことです。エサウは信仰がなかったゆえに、アブラハム家と違う信仰をもったヒッタイト人と結婚してしまい、イサクとリベカにとって「悩みの種」(創世記26:35)となったのです。

 

しかし、エサウが両親のイサクとリベカがヒッタイト人の妻たちを「気に入っていないこと」(28:7)を知ったので、「イシュマエルのところに行き、今いる妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻として迎えた」のです。イシュマエルは、アブラハムの子であるイサクの異母兄弟の弟ですが、神様の恵の約束をあざけ笑った人でもあります。ですから、今の時代で言うと、信仰深い親を喜ばせるためにエサウがとった手段は、クリスチャンファミリーに生まれ、教会で育ちながらも信仰を捨てた女性と結婚するようなことでした。エサウも悔い改めたい気持ちはあったようですが、神様の御心を無視して、自分の好き勝手な生活を維持するために都合のいい手段をとっただけだとも言えます。エサウにとっては、「悔い改め」のつもりだったかもしれませんが、神様からみると、偽りの悔い改めだったとも言えます。

 

しかし、ヤコブは真の悔い改めの道を選びましたが、滑らかな道ではありませんでした。28章11節は、信仰の道の険しさを描いているとも言えます。

「彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。」(創世記28:11)

神様の約束の実現、アブラハム家の信仰の継承、3世代も待ち望んでいた「天の恵み」の全てが、追放され、荒野で獣に囲まれながら石を枕にしていた罪人、ヤコブにかかっていたのです。この時点で、アブラハム家3世代目の唯一の信仰者であったヤコブは、その夜、どのような気持ちだったのでしょうか。罪悪感と絶望感。情けなさと孤独。無力さと混乱。「本当に天の恵みをいただくことができるのか」という素朴な疑問。そんな気持ちだったかもしれません。私たちが悔い改めの道を選ぶとき、私たちも同じ思いがあるかもしれません。

 

ここで最後のポイントを紹介したいと思います。悔い改めた人の救いは、自分の悔い改めによって、どれほど天に近づくことができるかにかかっているのではないのです。どん底にいる罪人であった私たちに、どれほど神様が近づいてくださったかにかかっているのです。

 

ヤコブが悔い改めの道の暗闇の中でさまよっている中、突然、神様がヤコブの夢に現れます。

「すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。」

創世記を読む人にとって、これは印象深いイメージです。創世記の初めから、人間は「天の恵み」を追いかけているのですが、神様の御心を無視し、自分の都合のいい手段で、強引に奪い取ろうとします。善悪の知識の木の実を奪ったアダムとエバ。ノアの時代に神様になろうとした王様たち。天の王座と恵みを奪い取ろうとし、バベルの塔を建てようとした人たち。どんな手段を使ってでも周りの人を出し抜いて、天の恵みを勝ち取ろうとしたヤコブ。クリスチャンも含め、すべての人は、自分たちの知恵や力、宗教的きよさによって、天に上ろうとします。それは、一匹のミミズが宇宙の端っこまで飛びたいと願うような、人類の虚しい望みのあり方です。

 

しかし、神様の夢では、悔い改めたヤコブに確実な希望を与えます。神様が天まで届くエレベーターのようなはしごを、悔い改めたヤコブに一方的にお与えになったのです。ヤコブはこのはしごを見たとき、カナンという約束の地が「天の門だ!」(28:17)と解釈しました。つまり、自分の祖父アブラハム、自分の父イサクが待ち望んでいた「天の故郷」の入口が、この約束の地であると確信できたのです。そして、自分があせって天まで上る必要もなく、神様ご自身がヤコブがいる場所に来てくださり、救ってくださるということです。それだけではなく、ヤコブが約束の地という「天の門」から750キロも離れた所にいても、神様がこのように約束されました。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:15) 要するに、もし地上と天国の差が100キロであれば、私たちが天に行くために、神様が私たちの方に90キロくだられ、残りの10キロを私たちが自力で上ったと言うことではないのです。私たちが天から逆の方向に100キロ離れたとしても、神様は、私たちが天に行けるように200キロのギャップを埋めるためにへり下って私たちの所にまで来てくださるのです。もう一度言いますが、悔い改めた人の救いは、自分の悔い改めによって、どれほど天に近づくことができるかにかかっているのではないのです。どん底にいる罪人であった私たちに、どれほど神様が近づいてくださったかにかかっているのです。

 

では、このはしごは、具体的に何だったのでしょうか。神殿だったのでしょうか?霊的な比喩だったのでしょうか?約2000年後に、ヤコブが寝そべっていた同じカナンの地で、イエスという「人の子」が生まれ、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であったイエスがこのように預言されました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」(ヨハネ1:51)

神様がヤコブに与えられた「はしご」は「人の子」ーつまり、ある王様ーだったのです。この王様が天から下られ、人として生まれ、ヤコブや私たちのような、どん底にいた罪深いものを救い出され、私たちを天という「神の家」「天の故郷「まで連れて行ってくださるということです。もし、私達がイエス様という「天の門」「天へ届くはしご」により頼まないなら、自分達の力で天まで上る必要があります。ですから、天までの階段を自分の力で登る自信のない方は、イエス様というエレベーターをお使いください!

 

この想像を絶する恵に気づいたとき、ヤコブはどのように応答したでしょうか?

「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、 無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

つまり、主の恵み深さに驚いたヤコブは、リラックスしてこのあと何もしなかったということではありません。その正反対です。正式に信仰告白をして、神様に献身し、険しい道を歩むことを決心したのです。その上に、十分の一をささげて感謝を主に現わしたのです。あの守銭奴だったヤコブが十分の一献金をするのです!なぜそれができたのでしょうか?へブル13章5-6節は本日の聖書箇所を引用して、このように結論づけます。

「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。 ですから、私たちは確信をもって言います。 「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか。」

ヤコブと同じように、イエス様がくださる天の恵みに満足し、御父が決して私たちを見放されないことを確信して、金銭を手放し、助け主である主をほめたたえることができるように、悔い改めながら「義の道」歩みましょう。お祈りします。

 

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church