2024年4月21日礼拝 説教「イエスは何者であり、何者ではないのか」

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礼拝式順

前   奏 Prelude  
招きの言葉 Call to Worship 詩篇29篇1-11節
さ ん び Opening Praise 「聞け我らの賛美」
さ ん び Praise 「山々が生まれる前から」
開会の祈り Opening Prayer  
主の祈り Lord’s Prayer  
賛   美 Hymn 教会福音讃美歌46番「初めにおられた神のみことば」
聖書朗読 Scripture Reading ヨハネの福音書1章1-2節
聖書の話 Sermon 「イエスは何者であり、何者ではないのか」

マーク・ボカネグラ牧師

賛   美 Hymn of Response 教会福音讃美歌391番「主と主のことばに」
献金と祈り Offering & Prayer  
報   告 Announcements  
とりなしの祈り Pastoral Prayer  

マーク・ボカネグラ牧師

頌   栄 Doxology 教会福音讃美歌269番 「たたえよ、主の民」
祝   祷 Benediction マーク・ボカネグラ牧師
後   奏 Amen 讃美歌 567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」

聖書の話(説教)

わたしは小さいころから、大人になるまでよくこのような例えを耳にしました。「この世界には様々な宗教や世界観があります。そして、よく宗教や哲学、世界観がぶつかって争います。でも、私たちは同じ山に登っていて、同じ山のてっぺんを目指しているんです。ただ、道が違うだけなのです。ですから、お互いを尊重し合って、人生という山登りをしましょう。」というような話ですが、皆さんも聞いたことがあるでしょうか?私がクリスチャンになるまでは、それが私の考えで、私の世界観でした。そして、考えが狭いキリスト教は本当に面倒くさいな、と思っていました。

私が大学一年生のころ、ティモシー・ケラーという牧師先生が私の大学でセミナーを開き、クリスチャンの友人に誘われ、ケラー先生の話を聞きに行きました。先生は山の例えを引用して、21世紀によくある世界観を描写されました。「あ、それ私の考え」と私は心の中で激しくうなずきました。そして、先生は優しくほほえみながらこのように言いました。「もしすべての人が同じように山をさまよっているなら、なぜ私たちは同じ方向へ向かっていると言い切れるのでしょうか。もちろん、私にもわかりません。みんなが同じ方向へ向かっていると言い切れる人は、①山のてっぺんまで上って、②山のてっぺんから全ての道を把握していて、④さまよっている私たちの様子が見える人だけだと思います。もしそうであれば、私自身は山に上ったことがありませんが、皆さんは山のてっぺんまで上ったことはありますか?もし登ったことがないのなら、この例えを信じることは、少なくともクリスチャンの信仰と同レベルとも言えますね。」そう謙虚に説明して下さいました。私はいつも他の人の信仰を批判していましたが、その時まで「すべての道が山のてっぺんに通じる」というような「信仰」をあまり意識していませんでした。なぜ私達は世界の多様な宗教をこのような例えにまとめてしまうのでしょうか?シンプルに言うと、そのような「信仰」から来た者の1人として言えるのは、それぞれの宗教の違いをよく理解していなかったからだと思います。

私はあるとき、アメリカでこんな質問をされました。「あなたは日本に住んだことあるんですね。中国語が話せますか?」「いいえ、日本は日本語を話すので、私は日本語なら話せます」と答えました。すると、彼はこのように言い訳をしました。「あ、すみません!中国と日本は近いので、同じだと思っていました!」アメリカ人にとっては小さなミスだと感じたとしても、アジア人としては冒涜ですよね!同じアジア人でも、モンゴル、日本、韓国、中国、台湾、ベトナム、タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシア、インド、パキスタンなどの文化を知れば知るほど、どれほどアジアが多様なのかがわかります。もちろん、似ている部分はありますが、同じ「民族」ではありません。いろんな宗教や哲学には似ている部分はありますが、知れば知るほど、本質的な違いが見えてくると思います。

ヨハネの福音書を読みながら、イエス様を信じている方もそうでない方も、ぜひキリスト教の「独特さ」を知っていただきたいです。「イエス」という人物について書かれていますが、イエス様について知れば知るほど、「イエス」がどれほどユニークな人物で、キリスト教がどれほど他の価値観と違うのかがわかると思います。

ヨハネの福音書の内容に入る前に、まずヨハネの福音書という書物を紹介したいです。キリスト教は、抽象的な「教え」に基づいているのではなく、具体的な「歴史」に基づいています。その歴史の一つが、「ヨハネの福音書」なのです。歴史を読まれる方はよくご存じだと思いますが、「客観的」な歴史の記録には、いつも「主観的な」目的があります。例えば、中学校の教科書の「1603年に徳川家康が将軍として江戸幕府を開いた」という歴史の記録には、「日本人としての自分のアイデンティティーを理解させる」目的があるかもしれません。「主観的な目的」があるからと言って、歴史の記録の客観性と信憑性が劣るものではありません。しかし、歴史の記録にはいつも、私たちに何かを説得させると言う目的があります。私たちが歴史を紐(ひも)解く時、三つの選択肢があります。説得されるか、説得されないか、もう少し話を聞くか。私たちはそれを忘れてはいけません。

ヨハネの福音書も同じです。筆者のヨハネは、イエスという人物の客観的な「歴史」を記録しているのですが、同時に主観的な「目的」があり、私たちを説得しようとしているのです。福音書の終わりに、ヨハネの目的が書き記されています。

20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

この福音書の目的は、読者が二つの質問に答えることです。最初の質問は、「イエスは何者なのか?」ヨハネの答えは、「イエスは『神の子』であり、救い主である」ということです。そして、二つ目の質問は、「イエスはどのような救い主なのか。」です。ヨハネの答えは、「イエスは、イエスを信じるだけであなたに永遠のいのちを与える救い主です。」この答えが真実であることを証明するために、「歴史」を書き記し、私たちを説得しようとしているのです(ヨハネ21:45参照)。

ヨハネの福音書は非常にわかりやすい本なので、よく伝道のために使われますが、忘れてはいけないのは、ヨハネは、未信者を説得するために書いたのではないと言う事です。主にクリスチャン達を説得し、励まし、信仰を力づけるためにこの福音書を書いたのです。なぜなら、クリスチャン達は自分たちの歴史を忘れ、自分の救いを疑いがちなので、イエス様が神の子であることと、イエス様の救いが確実であることを常に確認しないといけないからです。

 

本日読んだ箇所は、ヨハネの福音書の序論ですが、ヨハネの福音書の「予告編」でもあります。ここは、ヨハネの福音書の21章分の内容をぎゅっと数節に要約している箇所なのです。この序論から「イエスは何者であり、何者ではないのか」の質問に答えていきたいと思います。

イエス様は非常に有名な方なので、皆さんの中にはいろんな「イメージ」があるかもしれません。1世紀当時のローマ人、ユダヤ人、ギリシャ人も「イエス」についていろんな「イメージ」を持っていましたし、現代のクリスチャンとノンクリスチャンの間にもいろんなイメージもあります。しかし、多くの場合、私たちの「イメージ」は、「聖書」と歴史の記録と矛盾していることがあります。その矛盾の原因は、冒頭の例えと同じように、実際に聖書を読んだことがないか、イエス様のことをよく知らないからかもしれません。今日は、1章1-2節を通して、イエスが何者であり、何者ではないのかについて、三点話したいと思います。でも、一つ注意すべき事があります。色々な例えを使って三位一体について話しますが、ある神学校の教師が言うように「三位一体を何かに例えると、いつも異端に陥ってしまう」と言う可能性もあるかもしれません。ですから、私の例えに限界がある事を頭に置きながら、聞いて下さい。

またヨハネ1章1-2節だけをお読みいたします。

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。

この2節から覚えていただきたいことは、「イエス様は、初めにおられた神のことば」だという事です。その一文だけで、イエス様が何者かといろいろ言えると思いますが、強調したいことは三つです。

 

最初に強調したいことはこれです。イエス様は神のことばを届ける「メッセンジャー」や「預言者」ではなく神だということです。イスラム教のムハンマド、ユダヤ教のモーセの位置付けは「預言者」です。どんな宗教でも非常に大事で欠かせない役割です。そして、神のメッセンジャーである預言者は「神」と「神のことば」に仕える存在です。ですから「神」の御心に従わない預言者や偽りの「神のことば」を言うような預言者は、裁かれるのです。しかし、イエスという人物は、「預言者」ではなく、預言者の上に立つ「神のことば」なのです。

こう想像してみてください。ある王様があなたに公式な手紙を書き、家来にその手紙を持たせて、あなたにその手紙を渡しました。この場合、家来と王様の手紙のどちらに権力がありますか?もちろん、王様の手紙です。なぜなら、王様がその場にいなくても、王様のことばは、王様ご自身を現しており、権力と栄光においては、家来とは程遠いからです。つまり、「神」と「神のことば」は、力と栄光において等しいと言えるのです(小教理問答 問6)。ヨハネの言葉を借りると、イエスは人ではなく、「ことばは神」なのです。

2番目に強調したいことは、イエス様は、「神」ではなく、全く別の存在である「神のことば」であると言うことです。「ちょっと待って、さっきヨハネは「ことばは神」だと言ったじゃないですか?」と思ったかもしれません。実は、ヨハネ1章1節の原語には面白いヒントがあるのですが、日本語で伝わりにくいので、英語を混じえながら日本語の訳を変えてみます。

ことばは [the 神]とともにあった。ことばは[神]であった。

「The」は定冠詞で、定まったものに使います。つまり、1章1節の最初の「the 神」は、定まった「神」を指しているのです。キリスト教でいうと、「御父」を指しています。そして、1章1節の終わりにある「神」は、一つの「神」に定まっておらず、「神」という「名」を意味しているのです。要するに、「神のことば」(イェス)は「神」(御父)とともにあり、神のことば(イェス)も、「神」と見なされたという意味です。

先ほどの例えの中の「王様」と「手紙」で考えると、もう少し分かりやすいかもしれません。「手紙を書いた王様」と「王様の手紙」は、同じものでしょうか?とんでもないです。王様は人を指していて、手紙は王様のことばが記された紙を指しています。しかし、先ほど説明したように、「王様」と「王様の手紙」が違う存在であっても、その力と栄光は等しく、どちらも王様ご自身を現わしていると私たちは結論付けました。

しかし、その例えには限界があります。最後に強調したいポイントは、「神のことば」は神様の創造されたものではないという事です。「神のことば」は、「神」とともに永遠の初めから存在されていたからなのです。

創造されたものは、存在しなかったときがあります。先ほどの例を使うなら、もし王様が手紙を書いたのであれば、書く前には手紙は存在しなかった、と言えます。もしそうであれば、神様が「ことば」を語られたのなら、「ことば」を語られる前には、イエス様は存在されなかったと考える人もいます。同じように、もし御子が神の子であれば、「御子が存在しなかったときもあった」と、4世紀のギリシャ人の牧師アリアンが結論づけました。教会の中で大きな議論になったのですが、最終的には、これはキリスト教ではなく、「異端」だと初代教会は結論付けました。つまり、永遠の初めから「神のことば」は存在し、存在しなかったときはありませんでした。

分かりづらいかもしれませんので、王様と王様の手紙の例えにもどってみましょう。手紙を書き終えた王様が、のび太くんという家来を王室に呼びました。のび太君がドアを開けると、王様のテーブルの上に手紙があります。「王様はいつこの手紙を書いたんだろう」と思ったのび太くんは「ちょっと待ってください」と言いました。そして、家に帰って、ドラえもんのタイムマシーンを借りて、過去の王室に入ろうとしました。しかし、不思議なことに、1時間、1年、1千億年、宇宙の始まりにまで戻っても、王様と王様の手紙は、そこにあるのです(CSルイスの例え参照)。もちろん、王様が先で、王様の手紙が次にくるという順序は自然にわかりますが、不思議なことに、王様と王様の手紙はどちらも永遠に存在していて、同じように永遠、無限、不変の神であるということなのです。これが「神」と「神のことば」、「御父」と「御子」の不思議な関係です。

シンプルですが、非常にミステリアスで、奥深い内容について話しましたが、ここで一週間皆さんに考えていただきたいことが、二つあります。

一つ目は、これです。ヨハネの福音書の最初の2節だけをみると、キリスト教は、世界の中でもっとも常識外れの「信仰」のようです。

ヨハネの福音書という「歴史」が、「イエス」という人物は「はじめにおられた神のことば」であると、私たちを説得しようとしています。この内容を知れば知るほど、この福音書が私たちを説得しようとする事実が、どれほど常識外れで信じがたく、耳を疑うようなことなのかがわかります。

一神教のなかでも、キリスト教は常識外れです。なぜなら、このたった2節で、ユダヤ教とイスラム教にとって神の冒涜となるからです。英語では、“Nails on a Chalkboard”という表現がありますが、黒板に爪を立てると背筋がぞっとする不快な音という意味です。今日の説教はユダヤ人とイスラム教徒にとってまさしくその音なのです。仏教とヒンドゥー教では、「はじめ」と「おわり」もなく、「永遠」もありません。仏教では、すべてのものは等しく、区別もなく、一神教にある聖別された「神様」は存在しません。日本の神道も似ている部分もあります。ですから、「はじめに神のことばがおられた」という考えはちんぷんかんぷんとも言えます。科学で研究できる物質的なものしか存在しないと信じる「物質主義者」にとって、ビッグバンの前に存在する「神」と「神のことば」を信じることは空想的な神話を信じるに過ぎないのです。自分の喜びにつながるものしか価値がないと思う「快楽主義者」には、「神のことば」の存在は、石ころと同じように、全く価値のないものなのです。キリスト教は世界一ユニークな宗教で、他の宗教の教えと混合してしまうと、「キリスト教」という性質がなくなってしまいます。なぜなら、キリスト教は「具体的過ぎて」一か所変えたら、キリスト教ではなくなってしまいます。私たちはクリスチャンとして、自分たちが信じているものの「独特さ」を受け入れているのでしょうか。

クリスチャンではない人として、世界の多様な考えの中で、キリスト教を尊重したいのなら、まず、キリスト教の歴史の記録を読んで、三つの選択肢から1つ選ばなければなりません。①説得されるか、②説得されないか、③もう少し話を聞くか。たとえ、ある人が説得されなかったとしても、私たちは残念に思いますが、まったく不愉快には思いません。むしろ、私たちの考え方を変えようとせずに、真摯に私たちの立場を理解してくださったと私たちは思うのです。そして、私たちも同じようにその方と接します。相手の「信仰」をよく理解した上で、説得されるか、説得されないか、もう少し話を聞くかを選びます。しかし、よく相手の話を聞いたうえでも、相手の価値観に対して、自分も信じる事が出来るような真実ではないという結論にいたることもあります。それでも、私たちは、その方を自分自身のように隣人として愛することもできます。これが、クリスチャンとは異なる価値観をもっている人々との共存の仕方です。私たちは、世界の中でもっとも常識外れの世界観、最も信じがたい、耳を疑うような歴史を信じている者達であることを受け入れて、誤解されたり、変に見られたり、私たちが信じていることに対して敵対する人を、隣人として愛する覚悟があるでしょうか。

最後に覚えていただきたいのはこれです。イエス様が「はじめにおられる神のことば」であられるということは、私たちにとって、大きな恵であり、究極の決断であるということです。

実は、私はクリスチャンになってからも、冒頭に分かち合った山の例えをまだ信じています。しかし、ちょっとだけ付け加えます。全ての人は人生という「山」の中でさまよっています。人生というのは楽しく、気持ちいいハイキングではなく、生きるか死ぬかのサバイバルです。毎日が必死です。しかも、誰も100%精密な地図を持っている訳でもないし、誰も山のてっぺんまで登ったこともないと思います。

そのような状況の中では、人それぞれ、誰もが自分が歩んでいる道がベストなんだと思っています。しかし、それがベストな道なのかどうかは誰も証明できません。ですから、誰もが無意識のうちに、「信仰」を持っているのだと思います。ユダヤ教徒、イスラム教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、スピリチュアルティを信じる人、無神論者、物質主義者、快楽主義者、共産主義者、社会主義者、フェミニスト、保守主義者、資本主義者、自由主義者も自分たちが信じている「世界観」「歴史」または「信仰」を持っているのです。現代に生きている人たちにとって一番人気な信仰は、私が以前信じていたような無宗教でもあるような「DIY教」だと思います。つまり、自分の世界観を自分で造るということです。誰かより上とか下という事ではなく、私たちの現状を言っているだけです。しかし、忘れていけないのは、自分以外の人がさまよっているだけではなく、自分もさまよっていて、山のてっぺんがどこにあるか、どの道が安全で、みんなが辿っている道はどこで、自分にとって一番いい道は何なのか、自分一人で決められないことを認める必要があります。予測はできるけど、確実なことは何も言えません。これがキリスト教のスタート地点です。

しかし、イエス様は私たちと同じようにさまよってはおられません。イエス様は「私は初めからいた神のことばである。私は真理そのものであり、山のてっぺんに立つもので、山、そのものを造った神である。私はあなたがたを憐れむ。あなたがたに「永遠のいのち」への道ーつまり、山のてっぺんへの道ーを教えよう」と私たちにおっしゃいました。これがイエス様の救いの本質なのです。世界にとって空想的な救いかもしれませんが、もしイエス様が本当に山のてっぺんまでの道を教えてくださるなら、さまよっている人にとっては、イエス様は恵み深い救い主です。

しかし、イエス様を自分の救い主として信じることは、究極の決断です。自分たちの知恵に頼らず、さまよっている人類の知恵に頼らず、道であり、真理であり、いのちである「神のことば」に完全に頼ることを決断しなければなりません。例えば、ここにさまよっている人々がそれぞれ自分で描いた「地図」があるとします。そして、山のてっぺんにいるイエス様が私たちに渡してくださった精度100%の地図もあります。私たちはどうすればいいでしょうか?全人類が描いた地図とイエス様のくださった地図の間をとって、その中間にある地図でその道を進みますか?そんな事をする登山家はいません。精度100%の地図一枚で十分です。むしろ、曖昧な中間の道を選ぶことは、非常に危ないことです。私たちは、いろんな「信仰」または「地図」を吟味して判断しなければません。さまよっている人類に頼るか、初めにおられた神のことばに頼るか。そして、イエス様を選ぶとき、私たちは覚悟しないといけません。私たちが大半の人と反対方向に進むとき、多くの人は私たちの決断が理解できないかもしれません。人が作り出した地図を使うことを拒否したら、多くの人は不愉快に思い、私たちを憎む人も必ずいると思います。それでは、なぜそのように見られても、私たちは進むのでしょうか?それは、イエス様がはじめからおられた「神のことば」だからです。お

海浜幕張めぐみ教会 - Kaihin Makuhari Grace Church