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礼拝式順
前奏 Prelude
神の招き Call to Worship
開会の賛美 Opening Praise 教会福音讃美歌30番「御前にひれ伏し」1‐2、4‐5番
開会の祈り Opening Prayer
罪の告白の招き Call to Confession of Sin イザヤ書Isaiah55章6〜7節
罪の告白の祈り Common Prayer of Confession
個人的な告白(黙祷のうちに)Private Prayer of Confession
赦しの確証 Assurance of Pardon 詩篇Psalm 32篇1〜2節
平和のあいさつ Passing the Peace
賛美 Praise 教会福音讃美歌400番「主よ、御手もて」
みことばの宣教 Reading and Proclamation of the Word
聖書朗読 創世記29篇1-30節
聖書の話「自分の未熟さと向き合うヤコブ」マーク・ボカネグラ牧師
説教応答の賛美 Response of Praise 教会福音讃美歌322番「子羊主イエスの」1~4番
聖晩餐式 Communion
献金 Offering
報告 Announcements
頌栄 Doxology 教教会福音讃美歌271番「父・子・聖霊の」
祝祷 Benediction
後奏 Amen 讃美歌567番[V]「アーメン・アーメン・アーメン」
聖書の話(説教)
子供たちに言っておきます。今日の聖書箇所は悲しいラブストーリーなのです。簡単に言うと、ヤコブという問題児の青年がいたのですが、自分の罪を認めて、神様を信じて、クリスチャンになりました。そして、神様に従おうとして、クリスチャンのお嫁さんを遠い国まで探しに行きました。ヤコブは前からせっかちで、見えないものよりも見えるものが好きな人だったので、遠い国に着いてすぐにあるクリスチャンの女性ーラケルーという女性を好きになりました。しかし、クリスチャンになったばかりのヤコブは、自分の目では見えないラケルの信仰よりも、自分の目に見えるラケルの美しさに惹かれました。そして、よく考えもしないで先に進もうとしたので、優しそうに見えたラケルのお父さんラバンが、実はとても意地悪な人だということに全く気がつきませんでした。ラバンは、もし、ヤコブが大変な仕事を7年間やったら、一人の娘と結婚させようと約束しました。しかし、ヤコブはラバンの罠にはまってしまい、ラケルではなく、ラバンのもう一人の娘で、あまり美しくないラケルの姉レアと結婚することになりました。本当に悲しいラブストーリーですが、ヤコブはいろんな間違いを犯しながらも、神様の約束を信じ続けて、悔い改めながら前に進んだのです。私たちも、ヤコブのようによく考えずに突っ走ってしまう時があります。そういう時は、自分の間違いを認めて、神様が助けてくださることを信じましょう。
しかし、もう一つ忘れていけないことがあります。イエス様が私たちのヤコブなのです。それはどういう意味でしょうか?つまり、イエス様が私たちを花嫁にするために、いろいろ大変なことを経験してくださった方だということです。イエス様が天という遠い国から来られ、いじわるなサタンから将来の花嫁を救い出そうとしているのです。私たちがラケルのように美しくなくても、イエス様は、ヤコブと違って、いやいやではなく、罪深い私たちと喜んで結婚してくださいました。イエス様にとっては気の毒な話かもしれませんが、私たちにとっては大変うれしい話なのです。これが本日の話のメインポイントですが、もう少しこのお話の流れを見ながら、覚えていただきたいことを最後に言いたいと思います。
創世記29章をはじめて読む方もいらっしゃるかも知れませんので、簡単にこの箇所の背景を紹介します。創世記は紀元前2000年ぐらいの人物について書かれている書物です。当時(そして、今も)、人類は、自分たちの行いやきよさによっては天の祝福を得ることができませんでした。それゆえに、神様は、アブラハムとサラという夫婦に「恵みの約束」をお与えになりました。創世記12章で、神様は、アブラハムとサラに突然現れ、三つのことを約束されました。アブラハム家に約束されたのは、究極的に言えば、①天の王家に入れられ、②天の王国(御国)の民として数えられ、③天の約束の地(天国)を相続すると言うことです。それは当時の信仰でもあり、21世紀にいるクリスチャンの信仰の本質でもあります。
本日の箇所は、アブラハムの孫であるヤコブについての話です。ヤコブは神様の約束を信じていましたが、問題児でした。ヤコブと言う名前は、「兄弟を出し抜く人」または「だます人」という意味です。つまり、神様が恵みを与えるタイミングを待たずに、いつも強引な方法で自分のために祝福を奪い取ろうとする人なのです。しかし、28章で、ヤコブは自分が蒔いた種によって、神様がくださる約束の地から追い出される羽目になってしまいました。そこでヤコブは「いろんな策略や抜け道を使って時間稼ぎはできるけど、自分の限界と自分の罪から逃げることはできない。」という事に気がつき、それを認め、自分の罪の結果と罰を受け入れ、約束の地を出たのです。
28章で、ヤコブの父イサクは、ヤコブに難しいミッションを与えました。一人で750キロ離れている町へ行って、誰の助けも借りずに、同じ信仰をもつ、伴侶となる女性を見つけることでした。それは、ヤコブが同じ信仰を持つ人と結婚する事が神様の御心だったからです。父イサクは、異教の地カナンよりも、ヤコブの母の兄の所の方が可能性が高いと考えてヤコブにこのミッションを与えました。外に出て危険な荒野で狩りをするよりも、安全なテントの中で、心地よく母と一緒に料理するのが好きなヤコブにとって、それは、かなりハードルの高いミッションです。この前、家族と一緒に『はじめてのおつかい』を見ましたが、アウトドアが嫌いなヤコブにとって、これはスパルタクリスチャン版の『はじめてのおつかい』とも言えますね。しかし、なよなよしているヤコブでしたが、めげないで、両親をだまさず逃げずにまっすぐに生きることを決心して、750キロ離れた母リベカの兄である叔父ラバンのところへ行きました。
本日の箇所、29章は、ヤコブがラバンおじさんのところへ着いたときの様子です。以前のヤコブと29章のヤコブは、別人のようです。長旅のあとでも、ヤコブは神様とイサクから与えられたミッションに忠実です。すぐに、井戸の周りに集まっている羊飼いたちに「兄弟たちよ、あなたがたはどこの方ですか」「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」「その人は元気ですか。」とマシンガンのように尋ねます。また、ヤコブが自己中心的に考えるのではなく、隣人のために積極的に行動しようとしていることもわかります。
ヤコブは井戸の口をふさいでいる大きな石を、どかそうともせずにだらだらと集まっている羊飼い達を見ました。そして、「なんで仕事しないんだい!」と間接的に注意しながら、あのなよなよしていたヤコブが、長旅で鍛えられた筋肉でその大きな石をどかして、叔父ラバンの羊たちに水を飲ませました。その後のヤコブは、人をだまして強引に神の恵みを奪い取るよりも、まっすぐに生きることを選んで歩んだとはっきり言えます。ラケルと結婚することを決めたとき、27章のような複雑な詐欺計画を実行することもなく叔父ラバンに、7年間の労働を捧げる事をまっすぐに告げました。ヤコブは、本当に変わったのです。
しかし、もうすでにお気づきかと思いますが、ヤコブの古い罪の傾向と未熟さはかなり残っていました。29章の流れは、24章の流れとよく似ていますが、比較するとヤコブの未熟さがよくわかります。24章は、ヤコブの祖父アブラハムのしもべが、ヤコブの父イサクの花嫁を探しにいく話です。このしもべは同じように、イサクの嫁探しのために、アブラハムの義兄のラバンのところへ送られました。ハランに着いたとき、同じように、まず井戸にたどり着きました。しかし、すぐに行動してしまうヤコブと違って、信仰の大先輩であるアブラハムのしもべは、まずこのように祈ります。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。」そのあと、しもべが何をしたか覚えていますか?マシンガンのように町の人に質問をして、ラバンへの最速の道を探して、ラケルの美しさに一目惚れしたヤコブのようだったでしょうか?とんでもないです。アブラハムのしもべは、目に見える美しさではなく、もっとも優れた品性を持っている花嫁を探していたので、しもべの十頭のらくだのために、進んで水を組んでくれる女性が現れるのを待ったのです。つまり、しもべは、何も妥協せず、焦らず、すぐに見える美しさではなく、すぐには見えない本当に優れた品性を持っている花嫁を第一に探し求めていたのです。
29章のヤコブはラバンのところに一カ月も滞在してラバンのもてなしを楽しみました。しかし、24章でラバンがしもべをもてなそうとしたとき、しもべは、「私の用件を話すまでは、いただきません」と言って、ラバンのもてなしを断りました。29章で、ヤコブはラバンに何を、どこまで説明したか全くわかりません。「ヤコブはラバンに事の次第をすべて話した。」(29:13)というすごく曖昧で、短い文しか書かれていませんし、ヤコブの神様への感謝は、ひとことも書かれていませんでした。しかし、24章では、しもべは、15節にもおよぶ長いスピーチですべての出来事をことごとく説明し、神様の御力と恵みだけを褒めたたえています。29章のヤコブはラケルの信仰のあり方を問わず、自分の7年間分の労働でラバンを説得しようとしたのです。しかし、24章のしもべは、神様がアブラハムに与えた「恵の約束」についてだけを説明し、ラバンとリベカに信仰の応答をすぐに求めました。そして、リベカが「恵の約束」を信じたとき、しもべは、ラバンのところで長々と滞在せずに、次の朝、リベカをイサクの下へ連れて帰りました。つまり、ヤコブとアブラハムのしもべの最も大きな違いは、信仰の深さです。アブラハムのしもべはただただ神様が自分に先立って、全てを備えてくださることを固く信じ、周りの人に惑わされることなく、あせらず、神様の約束だけをみて、まっすぐに祈り進みます。しかし、ヤコブは、神様に積極的に従おうとしているように見えますが、まだ自分の知恵、自分の行動力と積極性、自分の判断力で乗り切ろうとしています。しかも、優先順位や価値観はまだ以前のヤコブのなごりがあります。その未熟さのせいで、ラバンの罠にはまってしまいました。
それは、ヤコブ自身の責任でもありますが、ラバンの詐欺の巧みさもありました。ラバンは、完全にこの話の悪役ですが、13-14節だけを読むと、ぱっと見、非常に優しく、愛にあふれたおじさんにも見えます。しかし、創世記を読んだことがある人は、ラバンがお金好きな、策略者であることも知っていると思います。24章のアブラハムのしもべが、ラバンの妹リベカをイサクの花嫁として約束の地に連れて行こうとしたとき、ラバンが自分の妹を送り出した理由は何だったでしょうか?ラバンは、妹がもらった「飾り輪」と「腕輪」(24:30)、十頭のラクダ分の「貴重な」贈り物(24:53)を常にジーっと見ていました。やはり人は何を言うかよりも、その人の目が心の声をよく表すものですよね。
ヤコブはアブラハムのしもべと違って、ラクダ十頭分の贈り物を持っては来ませんでした。そして今回のラバンは違うものを見ていました。29:9には、ラケルが羊飼いとして働いていた事が書かれています。羊を飼うことは大変な労働なので、女性が羊飼いとして働くのは非常に稀なケースでした。そのため、ラバンは若い男性の羊飼いを必要としていたので、大きな石を動かせる筋肉モリモリのヤコブを上手く釣ろうと計画を立てました。そして、ヤコブを一カ月間、温かくもてなしました。その間、ヤコブは美しいラケルの「姿」と「顔立ち」(29:17)を、常にじーっと見ていたと思います。そんなヤコブにラバンはさりげなくこう問いかけました。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」(29:15)ラケルに夢中なヤコブは、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」(29:18)と言って、すんなりラバンの罠にはまってしまいました。ラバンはヤコブのただ働きを7年間も確保したのです。
そして、ラバンは次の罠の用意をしました。ラバンは、目が弱くて、当時の社会では価値が低いと見なされていた長女レアのために結婚相手を探さなければなりませんでした。ラバンは人を将棋のコマのように扱います。自分の次女をエサのように利用し、目がハートになって猪突猛進しているヤコブの勢いを上手く誘導し、強制的に長女と結婚させたのです。計画としては、ファインプレーなのですが、人間的には最悪だと言えます。ラバンのあり方は、この世の悪のあり方とも言えます。最も冷酷な「悪」は、わかりやすい敵ではありません。私たちを圧制する悪は、まず私たちを温かく迎え、私たちとの信頼関係を築き、私たちの心をつかむのです。そして、私たちの心を支配しながら、自分の思うままに私たちをコントロールし、自己利益のために私たちを冷酷に利用するのです。それがこの世にある最も冷酷な「悪」の存在なのです。
朝になって、ヤコブはラバンの詐欺に気づき、「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」 と裏切られた気持ちをラバンにぶつけました。皮肉なことに、2章前に、息子ヤコブの詐欺によって裏切られた父イサクが、似たような悲しみの言葉をうめき叫びました(創世記27:33)。ある意味、ヤコブは、自分よりも上手な詐欺師であるラバンからしっぺ返しを食らったのです。皆さんもそのような事を経験した事があるかもしれませんね。そして、ラバンは最後の一撃の言葉をヤコブに言います。
「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」
この答えはラバンの本性を表しています。ヤコブはラバンに、どこまで説明したかはわかりませんが、少なくとも神様が父イサクを通して、長男エサウではなく、次男ヤコブに相続権を与えられた事を話したと思います。ラバンは微笑みながらヤコブの話を聞いていたかもしれませんが、先ほどのひとことでラバンの本性が明らかになります。私のことばで言い換えると、「ヤコブよ、そんな「恵み」の話は存在しない。もう少し現実的に考えろ。お前は神様の世界に住んではいない。お前はわれわれのところに住んでいるんだ。強いものが生き残り、上のものが権力をもつ世界だ。そして、お前は俺に負けた。俺はお前に勝ったんだからやりたいようにする。上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしない。そんな甘い世界じゃないぞ。お前もビジネスマンだろ。ただで信仰のみで相続するなんて本当に笑える話だ。ラケルがほしいなら、もう7年間働け。」
ヤコブは完敗ですね。しかし、ここでヤコブの成長が見えます。負けず嫌いな、常に上の人をだまし、出し抜こうとするヤコブが、負けを認め、すんなり条件を飲みます。イエス様の表現を借りると、ヤコブは「悪い者に手向かわず」、自分の「右の頬を打つ者」には「左の頬」も向けたのです(マタイ5:39)。なぜそれができたのでしょうか?ヤコブはきっと、神様の約束を思い出したのだと思います。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ですから、ヤコブは希望と信仰をもって、14年間もラバンの支配を忍耐できたのだと思います。
このような悲しい聖書箇所から、私たちの信仰の歩みのために何を学んだらいいでしょうか。いくつかありますが、三つに絞ってみます。
一つ目に覚えていただきたいことは、クリスチャンになることは人生の方向を変えることですが、神様は私たちの古い罪の傾向を取り除かれないと言うことです。
私たちも、ヤコブと全く同じです。クリスチャンになって、私たちの人生は180度変わりました。私たちは確実に成長してきたし、今も確実に成長しています。しかし、クリスチャンになったからと言って、私たちの「古い罪の傾向」や「古い自分」がすべて取り除かれた訳ではありません。むしろ、かなり強い「なごり」が残っています。でも、クリスチャンの歩みのあり方を受け入れることができるなら、励まされることが二つあります。まず言えるのは、自分が180度変わったとしても、自分の今の信仰深さに満足しないでいただきたいという事です。さらに信仰深く、さらに成熟した自分に成長できるからです。次に言えるのは、ヤコブのように「古い罪」に戻ってしまったとしても、過度に落ち込む必要はないということです。なぜなら、ヤコブと同じようにいろんな罪が残っているとしても、自分が方向転換したことには変わりないですし、成長していることも変わりないからです。どうぞ、安心してください。
二つ目に覚えていただきたいことは、神様が私たちを私たちの罪とこの世に潜んでいる「悪」に引き渡される理由は、私たちがますます神様の必要性を感じさせ、神様により頼むことができるためだと言うことです。
なぜ神様は、ヤコブを自分の未熟なミスや罪の傾向に引き渡されたのでしょうか?なぜラバンという悪質な人に引き渡されたのでしょうか?ヤコブが20年も、ラバンの罠にはまる前に、なぜ神様は止めようとされなかったのでしょうか?しかし、ここで私たちが自分に問うべきことがあります。もし神さまが私たちを、罪と試練に引き渡されなかったら、罪の傾向はどのようになるのでしょう。自然に無くなったり、成長すると思いますか?罪を取り除くことは、悪性の病気を自分の体から取り出すようなことです。痛みのない道はありません。そして、私たちもヤコブのように、神様のメスを信頼しないといけないのです。
中毒の患者さんに特化したクリスチャンカウンセラーが、このようなことを言っていました。「中毒と戦う人は、『どうかこの中毒を取り除いてください』と最初に祈るのですが、中毒に陥ると神様に対して怒るのです。単刀直入に言えば、初段階の祈りは、ただ自分の罪と向き合いたくなく、責任転嫁をしたいだけです。しかし、神様は良いお父さまなので、私たちに罪の根深い根っこ(プライド)を取り除くために、多くの場合、そのような祈りにはお答えになりません。なぜなら、すぐに私たちの罪を取り除かれたら、私たちの品性が精練されないからです。神様は私たちを成熟させるために、私たちが選んだ罪に私たちを引き渡されます。中毒の人が自分の罪によって苦しめられると、その人の祈りは変えられていきます。『主よ、どうか私が中毒に陥るとき、自分の弱さを受け入れ、罪を告白する勇気をお与えください。』『主よ、どうか私に必要な謙遜さを与え、自分の弱さを隠さず、神様と周りの人を頼れるように助けてください。』私たちが罪と戦い続けていると、私たちの品性は著しく精練されていくのです。」と彼は言います。中毒に限らず、どんな罪でも同じだと思います。神様が私たちが選んだ罪や悪質な存在に引き渡される理由は、自分の罪や悪質な存在よりも、神様のほうが信頼できる、愛に満ちた存在であるとさらに信じさせるためなのです。
三つ目のポイントは、私たちがこのように自分たちの荒野を乗り越えることができなくても、イエス様が私たちのために荒野での試練を乗り越え、私たちを約束の地へ連れていく花婿であることを忘れないでいただきたいという事です。
私たちはヤコブのように自分の罪と試練に向き合う必要があります。しかし、ヤコブも私たちも、完璧には出来ませんし、常に神様により頼むことも出来ません。それでは、試練を乗り越えられると言う希望はどこにあるでしょう?ヤコブは、実は、イエス様のひな形なのです。イエス様の地上での宣教がはじまったとき、イエス様もヤコブと同じように、ご自分の父(神様)からミッションをいただきました。それは「荒野」でさまようことでした。しかし、ラバン以上に悪質な存在の悪だくみや罠と、常に戦う必要がありました。「お腹すいただろう?この石をパンに変えればいいじゃない?」「あなたは神の子でしょ?あなたがどれだけ強いのか見せて下さいよ?」「十字架のようなひどい死に方は嫌でしょ?私に従えば、あなたが望む王国を与えるから、そのほうが楽じゃない?」というような、サタンの甘い毒のようなささやきを、イエス様は、敵に歯向うことなく、左と右の頬を向け続けながら拒み続けました。24章のアブラハムのしもべ以上に、イエス様は常に神様の約束により頼み続け、荒野で試練に向き合われ、サタンを倒されました。
しかし、何のためにイエス様はこのような試練を受けられたのでしょうか?もちろん、罪の傾向を取り除くためではありません。ヤコブのように、イエス様も花嫁探しのためにこの地上という荒野に来られたのです。それは、御父が与えてくださった花嫁ーつまり、教会ーを永遠の約束の地へ連れていくためでした。私たちはヤコブではありません。私たちは究極のヤコブの花嫁です。教会は、ラケルのような美しい花嫁ではありませんし、レアのようなかわいそうな花嫁ではありません。教会は、イエス様を霊的に裏切ってしまうような自己中心でひどい花嫁です。しかし、イエス様は、究極のヤコブとして、いやいや私たちと結婚してくださるのではなく、私たちを喜んで受け入れ、サタンという支配から私たちを救い出し、天の約束の地へ連れて行ってくださいます。イエス様があなたの究極のヤコブであることを忘れないでください。感謝しましょう。お祈りします。